夏の夜だった。
扇風機が、ぶぉん、ぶぉん、と頼りなく回っている。
風はある。うん、確かにある。
でもその風が快適かと言われると、正直よくわからない。
空気が止まってないだけマシ、くらい。
わたしはベッドの上に座って、コントローラーを両手で持っていた。
テレビの横には、いつものようにわたしの相棒――ファイくん。
「今日は何やろっかなぁ!」
誰に聞かせるでもなく呟く。
でも、そのまま親指がスタートボタンを押すことはなかった。
理由ははっきりしている。
窓の向こうから聞こえる、あの音だ。
ゴロ……
わたしはぴたりと動きを止めた。
数秒後。
ゴロゴロ……
「……あー」
出た。
雷だ。
しかも、遠くの山の向こうで小さく鳴ってる感じじゃない。
確実に近づいてきている。空気の重さと音の響き方でわかる。
あれは来る。こっちに来るやつだ。
わたしはゆっくりと窓のほうを見た。
空は分厚い雲で覆われていて、
夜なのに真っ黒というより灰色がかった不穏な暗さをしている。
雲の向こうが、ときどきぼんやり白く光る。
「……やばい」
ぽつりとそう言ってから、
わたしは自分の肩がじわっと強張っていることに気づいた。
わたしは、雷が苦手だ。
小さい頃からずっとそうだった。
普通は子供のうちに慣れるものらしい。
でもわたしは高校生になっても慣れなかった。
しかも、今は昔と違って別の恐怖もある。
わたしはそろそろと視線をファイくんへ向けた。
「……もし、落ちたら」
嫌な想像が頭をよぎる。
雷。
停電。
電流。
バチン。
そして――ファイくん、死亡。
「ムリムリムリムリムリ!!」
わたしは思わず首をぶんぶん振った。
ダメだダメだダメだ。そんな未来、絶対ダメ。
ファイくんはただの機械じゃない。何百時間も一緒に冒険してきた相棒だ。
強敵に何度も挑んで、やっと倒して、レアアイテムを掘って、
深夜までやって翌朝ちょっと後悔するところまで含めて、
全部一緒に過ごしてきた戦友だ。
それが雷一発で終わりとか、そんなの悲劇すぎる。
「ていうか、今遊ぶの危なくない?いや、でも大丈夫か?
でも落ちたら?え、コンセント抜く?でも今さら?いやでも……」
独り言が増える。よくない兆候だ。
ゴロゴロ……
また鳴った。さっきより大きい。
わたしはファイくんを見つめたまま、じわじわと追い詰められていった。
遊びたい。けど怖い。いや、遊んでる最中に落ちたら立ち直れない。
じゃあ今日はやめる?でも雷が来るたびにやめてたら夏ほとんど遊べなくない?
でもファイくんが死んだら一生遊べなくない?
そこまで考えた瞬間。
ピカッ!!
窓の外が真っ白になった。
わたしは反射的に息を呑む。
そして――
ドォォォォン!!!
「ひぃぃぃぃ!?」
家全体がビリッと震えるくらいの雷鳴が落ちた。
内臓が跳ねた。
本気で三センチくらい浮いた気がする。
わたしはコントローラーを放り出してベッドへ飛び込み、
そのまま布団を頭からかぶった。
「やだやだやだやだ!!こわっ、今の近っ、近い近い近い!!」
布団の中は蒸し暑い。でも外に顔を出す勇気はない。
視界を遮断するとちょっとだけ安心する気がするのだ。気がするだけだけど。
ゴロゴロ……
ドォォン!!
「ひぃっ!」
また鳴った。もうやだ。心臓が休めない。
わたしは布団の中で丸くなった。
こういう時、人間ってなんで小さくなろうとするんだろう。
雷からの被弾面積でも減らそうとしてるのか。
いや意味ないだろ。意味ないけどやっちゃうんだよな。
「むりぃ……一人はムリぃ……」
情けない声が漏れる。
そう、一人は無理だ。
家には家族がいる。
誰かの気配があるだけで、怖さって少し減る。たぶん。
そして、今この状況で一番近いのは――遥奈。
妹だ。
いや、わかってる。あいつは優しくない。
こういう時に限って「は?キモ」とか普通に言ってくる。
でも一人で震えてるよりはマシかもしれない。たぶん。
いや、どうだろう。精神ダメージは増えるかもしれない。
でも雷ダメージよりはマシな気がする。
わたしは意を決して布団から飛び出した。
「遥奈……!」
廊下へ出る。その瞬間、また空が光った気がして、
わたしは「ひぃっ」と情けない声を出した。もうやだ。ほんとやだ。
わたしは半ば駆け込むように遥奈の部屋へ向かった。
ガチャッ!!
「遥奈ぁぁぁぁ!!」
勢いよくドアを開ける。
遥奈はベッドに座ってスマホをいじっていた。
わたしを見るなり、ものすごく嫌そうな顔をした。
「……なに」
冷たい。
声が氷。
「雷!!」
「見りゃわかる」
「怖い!!」
「知らない」
「助けて!!」
「無理」
返しが早い。
そして全部冷たい。
「ウザいんだけど」
「えぇ!?」
わたしは本気で傷ついた。
今、姉が生命の危機を感じて泣きついてるんだけど?
いや、生命の危機は言いすぎかもしれないけど、心の危機ではあるんだけど?
遥奈はそんなわたしを見て、クスクス笑い始めた。
「高校生にもなって雷が怖いとか」
そしてわざとらしく肩を震わせながら、
「プークスクス」
「……」
よし。キレた。
さっきまで雷への恐怖でいっぱいだった頭に、別の熱が一気に入ってくる。
「笑うな!!」
「だってさあ」
遥奈はニヤニヤが止まらない。
「雷こわい〜助けて〜ってお姉ちゃんが泣きついてくるの、普通に面白いんだけど」
「はぁ!?面白くないんだけど!?」
「ダサすぎ。小学生?」
「ちがうし!!」
「え、じゃあ幼稚園?」
「そこまでじゃない!!」
「高校生でこれは逆にすごいよね」
「うるさいうるさいうるさい!!」
近くにあったクッションを掴む。
そして勢いのまま床へ叩きつけた。
ぼすっ!!
「お姉ちゃんをバカにすんな!!」
ぼすっ!!ぼすっ!!
そのままクッションを連打する。
いや相手クッションなんだけど。遥奈じゃないんだけど。
でも気持ちが追いつかない。とにかく何かを殴りたい。
雷でビビって、妹に笑われて、情緒がぐちゃぐちゃなのだ。
遥奈の眉がぴくっと動いた。
「ちょっと」
「なによ!!」
「何あたしのクッション殴ってんの?」
「ムカついたから!!」
「知らないんだけど!?」
わたしはさらにぼこぼこ殴った。
なんかもう、怖いのか怒ってるのか自分でもよくわからない。
人って感情が飽和すると、こう、雑になる。
「いい加減にしろ!!」
次の瞬間、遥奈が飛びかかってきた。
「うわっ!?」
わたしたちはそのまま床に転がった。
取っ組み合いである。
夏の夜、雷鳴の中、姉妹が床でわちゃわちゃ転がるという最悪の絵面。
「やめろ!!」
「お前がやめろ!!」
「クッション返せ!!」
「知らん!!」
わたしは必死に抵抗した。
でも、すぐに悟る。
これ、勝てない。
遥奈、普通に力強い。
というかわたしが弱い。
普段から運動してるわけでもないし、インドア寄りだし、
体力勝負になったら勝てる気がしない。案の定、あっさり押し倒された。
「ぐえっ」
「弱」
「一言多い!!」
「だってほんとに弱いし」
「うるっさ!!」
さらに揉み合っていると、足がラグに引っかかるわ、クッションは飛ぶわ、
ベッドのシーツはずれるわで部屋がめちゃくちゃになっていく。
その時。
ドン!!
廊下の向こうから低くてよく通る声が響いた。
「二人とも!!」
わたしはびくっとした。遥奈も固まる。
母だ。
「夜に何してるの!!」
わたしたちは一瞬で離れ、その場で正座した。反射で。もはや条件反射。
「……」
「……」
そして二人そろって。
「「ごめんなさい」」
母の雷のが怖かった。
怒られたあと、わたしと遥奈は気まずい空気のまま部屋の前に立っていた。
外ではまだ雷が鳴っている。さっきより少し遠くなった気もするけど、
全然安心できるレベルじゃない。
ゴロゴロ……
わたしはその音に肩を震わせた。
遥奈がため息をつく。
「で。まだ帰らないの?」
「……」
帰りたくない。
でもそれをストレートに言うのは悔しい。さっき散々笑われたし。
わたしはもじもじしながら視線を逸らした。
「……あのさ」
「なに」
「……ごめん」
先に謝ることにした。
ここで変に意地を張ると、たぶん本当に追い返される。
遥奈は少しだけ目を丸くして、それからふいっと顔を背けた。
「……こっちも言いすぎた」
お、意外。
こういうところはちゃんとしてるんだよな、こいつ。腹立つけど。
そして、わたしは本題を言う。
「その……怖いから」
「うん」
「一緒に寝ていい?」
遥奈はしばらく黙った。
やばい、断られるかも。
そう思った瞬間、窓の向こうが光った。
ピカッ!!
「ひぃっ!」
わたしは反射的に遥奈の服の袖を掴んだ。
さすがに今のはダサかったかもしれない。
自分でもそう思う。思うけど怖いものは怖い。
遥奈はわたしの手元を見て、またため息をついた。
「……ほんと情けないお姉ちゃん」
「うぅ」
「まあ、いいけど」
「ほんと!?」
「ただし、騒いだら追い出す」
「騒がない!絶対騒がない!」
こうして、わたしは遥奈の部屋に避難することに成功した。
わたしと遥奈は布団に入った。
遥奈は少し距離を空けて横になる。
「……」
「……」
気まずい。
さっきまで取っ組み合ってた相手と同じ布団に入るって、なかなか変な状況だ。
何か話したほうがいいかな、でも何を?謝罪はしたし。
いや、もう一回くらいちゃんと言ったほうがいいか?
そう考えていたら、遥奈のほうが先に口を開いた。
「最近学校どう?」
「急だね」
「いいから」
「えー……普通」
「雑」
「だって普通なんだもん」
「友達とは?」
「それも普通」
「会話つまんな」
「そっちが広げてよ!」
少しだけ笑いが混じる。
その瞬間、自分でも驚くくらい肩の力が抜けた。
ああ、こういうどうでもいいやり取りって、意外と安心するんだなと思う。
雷のことばっかり考えてると、音が鳴るたびに心臓が縮む。
でも会話してると、意識が少し分散される。
遥奈がスマホを見ながら言う。
「最近、推しの実況者できた」
「へえ。誰?」
「この人」
画面を見せられる。
わたしは顔を寄せた。
「へー、なんかサムネ凝ってるね」
「編集うまいんだよね」
「ゲームも上手い?」
「上手い。あと声が聞きやすい」
「それ大事」
わたしはうんうん頷く。
実況って、内容ももちろんだけど声とテンポってかなり重要だ。
無理に叫びすぎないとか、説明がくどくないとか、妙な内輪ノリが長すぎないとか。
「ファイくんのゲームもやってる?」
「やってるよ」
「まじで?」
「前に配信してた」
「なんで教えてくれなかったの!?」
「訊かれてないし」
「くっ……!」
ちょっと悔しい。
でも興味はある。
「あとで教えて」
「覚えてたら」
「覚えといてよ」
そんな風にぽつぽつ会話をしていると、いつの間にか雨の音も強くなってきていた。
屋根を打つ音が規則的に続いて、ざああ、と部屋の外を包んでいる。
その合間に低い雷鳴が混じる。
ゴロ……
わたしはぴくっと肩を跳ねさせた。
「まだ怖いの?」
「怖いよ!」
「ふーん」
遥奈は呆れた顔をしたけど、さっきみたいにあからさまには笑わなかった。
たぶん、少しは本気で怯えてるのが伝わったんだと思う。
わたしは少しだけ安心していた。
このまま、雷が遠ざかってくれればいい。
そう思っていた、その時。
ピカッ!!
部屋全体が真っ白になった。
「っ」
今までで一番近い光。
ほとんど反射で目を閉じる。
次の瞬間。
ドォォォォォン!!!
「ひ――」
わたしが悲鳴を上げようとした、その瞬間だった。
「きゃあああああっ!!」
わたしよりも先に、遥奈が叫んだ。
……え?
わたしはぱちぱちと瞬きをした。
今、叫んだの、遥奈?
ゆっくり横を見る。
遥奈は布団をぎゅっと掴んだまま固まっていた。
顔が引きつっている。どう見ても今の雷にびびっている。
沈黙。
数秒後、わたしの口元がにやっと歪んだ。
「……おやおやー?」
「なに」
「もしかして、遥奈も雷怖いの?」
遥奈がゆっくりこちらを向く。
目が据わっている。
「……追い出すよ?」
「すみませんでした」
謝罪は秒速だった。
でも、内心ちょっとだけ嬉しい。
なんだ、遥奈も怖いんじゃん。
さっきまで散々わたしのこと笑ってたくせに。
いやまあ、それとこれとは別かもしれないけど。
でもお互い様なら、ちょっと安心する。
そのあと自然と距離は近くなった。
わたしがそっと寄ると、遥奈も露骨には嫌がらない。
というか、自分から少し近づいてきた気がする。
たぶん、さっきの雷で普通に心細くなったのだろう。
外ではまだ雨が降っている。
雷は完全には止んでいないけど、さっきの一発がピークだったのか、
少しずつ間隔が空いていく。
ゴロ……
しばらく静か。
また遠くでゴロ……
わたしは布団の中で深く息を吐いた。
「……ありがと」
「なにが」
「一緒にいてくれて」
遥奈は少し黙った。
それから、ものすごく小さい声で言った。
「……別に」
素直じゃない。
でも、まあ、遥奈はそういうやつだ。
わたしは少し笑って目を閉じた。
隣に誰かいるだけで、こんなに安心するんだなと思う。
さっきまで布団の中で一人で震えてたのが嘘みたいだ。
雨の音。
遠くなる雷。
布団のぬくもり。
隣の気配。
それらがゆっくり混ざって、わたしはそのまま眠りに落ちていった。
――そして、問題はその数時間後に起きた。
「……重い」
誰かの声がする。
「ちょっと、重いんだけど」
んー……。
眠い。
すごく眠い。
なんか首元がもぞもぞする。暑い。けど眠い。
「起きろ」
揺さぶられて、わたしはようやくうっすら目を開けた。
薄暗い。
朝ではない。まだ夜中。
そして、なんだか視界が変な角度だ。
わたしはのろのろ状況を確認した。
……あ。
どうやらわたしは、遥奈にかなりひどい絡み方をしていたらしい。
片足が遥奈の腰のあたりに乗っている。
腕はしっかり首元に絡んでいる。
しかも体の半分くらいを押しつけていた。
完全に拘束である。
わたしは慌てて離れようとした。
でも眠気で動きが鈍い。
「ん……やだ……」
「やだじゃない!!」
遥奈の怒声が飛んだ。
次の瞬間、わたしは布団ごと押しのけられた。
「自分の部屋で寝ろ!」
「えぇぇ……」
「雷もう収まってるでしょ!」
「でも……」
「でもじゃない!!」
反論の余地がない。
確かに、耳を澄ませばもう雷の音はほとんど聞こえなかった。
雨音もかなり弱くなっている。さっきまでの嵐が嘘みたいに静かだ。
結局わたしは、枕を抱えて遥奈の部屋を追い出された。
廊下に立つ。
ドアがぴしゃっと閉まる。
「……ひどい」
ぽつりと呟く。
でも、まあ、仕方ない気もする。
あんな絡みつき方してたら、そりゃ追い出される。
わたしだって逆の立場なら嫌だ。たぶん。
わたしはしょんぼりしながら自分の部屋へ戻った。
ドアを開けると、見慣れた景色が迎えてくれる。薄暗い部屋。
テーブルの上に置きっぱなしのコントローラー。テレビの横のファイくん。
……無事だ。
ワタシはちょっとだけほっとした。
「よかった……」
雷に怯えて飛び出したせいで、さっきからちゃんと確認できていなかったけど、
ファイくんはちゃんとそこにいた。生きてる。
ベッドに倒れ込む。
今度は一人だ。
でも不思議と、もうさっきみたいな怖さはなかった。
雷のピークは過ぎたし、それに何より、
一回誰かと一緒にいたことで心が落ち着いたのだと思う。
枕に顔を埋めながら、わたしは小さく笑った。
「……なんだかんだ、優しいんだよね」
まあ、最終的には追い出されたんだけど。
わたしは一人でくすっと笑った。
夏の夜はまだ蒸し暑い。
扇風機の風は相変わらず頼りない。
でも、さっきまでみたいに布団をかぶって震えるほどじゃない。
わたしは横向きになって、目を閉じた。
怖い夜だった。
情けない夜でもあった。
クッションは殴ったし、取っ組み合いもしたし、
母には怒られたし、最後は追い出された。
それでも。
一人で布団にくるまって震えて終わる夜じゃなくて、よかった。
「……おやすみ、ファイくん、遥奈」
小さくそう呟いて、わたしは今度こそ眠りに落ちた。
翌朝、遥奈の部屋に行ったら、
クッションの綿が少し寄っていて、わたしはこっそり向きを変えておいた。
そのことは、たぶん一生黙っていようと思う。
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