昼休みの教室には、授業中とはまったく違う種類のざわめきがあった。
窓の外はよく晴れていた。
春のやわらかい光が斜めに差し込み、
机の上に置かれたお弁当箱のフタや水筒の側面に白く反射している。
風は強くない。校庭の木々も、葉を少し揺らす程度の穏やかさだ。
昼休みとしては、実に平和で、のどかで、何の問題もない、そんな日だった。
――わたしの奥歯が、りんごをかじるまでは。
「ふふ……」
わたし――れな子は紫陽花さんと2人でお昼ごはんを食べていた。
自分のお弁当箱のデザートを見つめながら、思わず笑みをこぼしていた。
大好物のりんご。
「れなちゃん、今日のお弁当おいしそうだね」
紫陽花さんが、わたしのお弁当をちらりと覗き込みながら言った。
「え、うん。普通だよ普通」
慌てて答える。
別に特別なものが入っているわけではない。
……りんご以外は。
「デザートまでちゃんとあるんだ」
「いやいや、これはたまたまだから。別に毎日楽しみにしてるわけじゃないし」
わたしはわざと何でもない顔を作りながら、フォークでりんごを一切れ刺した。
そんなわたしを見て、紫陽花さんは何も言わず、
ただ少しだけ口元をゆるめて微笑んだ。
たぶん、全部ばれている。
昼休みの雑談の中で注目を浴びるのは、できれば避けたい。
こういう時はさっさと食べて話題を流すに限る。
「じゃ、いただきます」
口に運ぶ。
シャクッ、と軽くて気持ちいい音がした。
その直後だった。
「っ……!」
奥歯に、ズキン、と鋭い痛みが走った。
ほんの一瞬、脳が事態を理解できなかった。
何が起きた?
今の何?
りんごを噛んだだけだよね?
なのに、次の瞬間には、痛みがもう一度きた。
ズキン。
続けて、また。
ズキッ。
うわ、痛い。
ちょっと待って、痛い痛い痛い。
思わず息を止め、肩に力が入る。
フォークを持った手が空中で止まり、
噛みかけたりんごをどうすればいいのかわからなくなった。
「れなちゃん?」
紫陽花さんの声がした。
まずい、顔に出た。
慌てて口をもごもごさせて、なんとかりんごを飲み込む。
が、飲み込んだところで痛みは消えなかった。
むしろ噛んだ瞬間を思い出すみたいに、
じわっと奥歯のあたりに嫌な熱っぽさが残っている。
「どうしたの?」
わたしは反射的に笑顔を作った。
「な、なんでもないよ!」
「なんでもない顔じゃないね……?」
うう。
鋭い。
でも今はそれどころじゃない。
奥歯がじくじくする。
りんごの冷たさが触れた瞬間だけじゃない。
なんかもう、そこ一帯が「いる」。存在感を主張してくる。
ふだん意識しない奥歯というパーツが、いま猛烈に自我を持っている。
わたしはそっと舌で痛いあたりに触れてみた。
……あ、だめだ。
触ると余計にわかる。
痛い。
これ、もしかして。
いや、もしかしなくても。
虫歯では?
その考えにたどり着いた瞬間、背中に嫌な汗がにじんだ。
虫歯。
虫歯かぁ……。
いやまあ、虫歯自体は、別に世界の終わりではない。
治療すればいい。歯医者に行けばいい。
大人だって子供だってみんな行く。ごく普通の話だ。うん。理屈ではそうだ。
理屈では。
問題はそこじゃない。
わたしにとっての本当の問題は、
虫歯の先に必ず存在するもの――歯医者、そして、あの先生だった。
初老の男性。
声が低くて、眉間にしわが寄っていて、何をしていても不機嫌そうに見える。
実際、子供の頃のわたしはあの先生に何度も怒られた記憶がある。
『口を開けなさい』
『動かないで』
『いま閉じない』
いや、わかる。たぶん先生からしたら当然なんだと思う。
仕事なんだし、治療のためには必要なんだと思う。
別に理不尽に怒鳴っているわけじゃない。
……いや、ちょっと怒鳴ってた気はするけど。
でも少なくとも向こうには向こうの事情があるのだろう。
ドリルもまだいい。
変な話だけど、ドリルはゲームとかアニメとかでも
機械っぽい演出として目にするから、多少の耐性がある。
もちろん現実で口の中に突っ込まれるのは嫌だけど、
それでもまだ想像の範囲に収められる。
だが、麻酔の注射はだめだ。
注射器という時点で怖いのに、それを歯茎に刺すって何。
意味がわからない。
人体のどこに刺すより嫌なんだけど。
歯茎ってそんな刺していいところなの?
わたしが内心で震え上がっていると、紫陽花さんが少し身を乗り出してきた。
「ほんとに大丈夫?さっきから変だよ」
その声音があまりにもまっすぐで、
心配がそのまま形になっているみたいで、わたしはごまかしきれない気がしてきた。
「ちょっと、奥歯が……」
「痛いの?」
小さく頷く。
「もしかして虫歯かも……」
「あー……」
紫陽花さんが納得したように言った。
「それっぽいね」
「いや、そんな即断しないで!?知覚過敏とか、そういう可能性もあるし!」
「りんごでその痛がり方なら、虫歯じゃないかな?」
「うぅ……でもでも……」
「歯医者、行ったほうがいいね」
紫陽花さんが静かに言った。
わたしの肩がびくっと揺れた。
その一言だけで、全身が拒否反応を起こすのがわかったのだから、
我ながらどうかしている。
「……う」
「れなちゃん?」
「その……」
言うか。言うのか。ここで。
高校生にもなって歯医者が怖いなんて、あまりにも情けない気がする。
いや気がするというか、情けない。
どう考えても情けない。小学生じゃないんだぞ。
いや、小学生にだって失礼かもしれない。
いまどきの小学生のほうがわたしよりしっかりしてる可能性すらある。
でも、痛い。
そして怖い。
この二つが同時に来ると、人は案外あっさりプライドを手放す。
「……歯医者、苦手で。それだけじゃなくて……注射も嫌で……」
「ああ」
紫陽花さんが、ごく自然に頷いた。
笑いもしないし、意外そうにも見えない。
ただ、そうだよね、と受け止めるみたいな顔をした。
「歯茎の麻酔、怖いよね」
「……うん」
わたしは小さく答えた。
「私も小さい頃は、あれすごく怖かったよ」
「紫陽花さんでも?」
「うん。弟たちも大騒ぎするし」
そこでわたしは微妙な気持ちになった。
弟たち。
つまり子供。
つまり、わたしはそのカテゴリに片足を突っ込んでいる?
いや、言いたいことはわかる。紫陽花さんは本気で慰めようとしてくれているのだ。
そこに悪意は一ミリもない。むしろ優しさしかない。
でも。
でも、内心としてはこう思ってしまう。
高校生のわたしと、幼い弟くんたちを同列にしないでほしい……!
いや、現状のビビり方を見るに、
同列どころか下手したらわたしのほうがひどいのでは?
そんな自己認識が胸を刺して、余計に何とも言えない気持ちになった。
紫陽花さんはそんなわたしの複雑な内心には気づかず、穏やかな声で続けた。
「でも、放っておくともっと痛くなるから、早めに行ったほうがいいと思う」
正論。
圧倒的正論。
反論の余地がない。
ちょうどそのタイミングで、痛みがまたずきっと走った。
まるで「そうだそうだ」と奥歯自身が主張してくるみたいで、
わたしはぐっと口元を押さえる。
もう、躊躇している場合じゃないのかもしれない。
わたしはおそるおそる紫陽花さんを見た。
「……あの」
「うん?」
「お願いがあるんだけど」
「なに?」
その返事の速さと自然さに、胸が少しだけ軽くなる。
断られるかも、とか、変に思われるかも、とか、そういう不安を抱く隙がない。
だから、わたしはもう一歩踏み込めた。
「情けないんだけど……放課後、その歯医者に……ついてきてもらえませんか」
言ってしまった。
高校生が、友達に、歯医者についてきてほしいと頼む。
字面にするとだいぶ終わっている気がする。
自立しろ。もっと強くなれ。そういう正論が自分の中からも聞こえてきそうだ。
けれど、紫陽花さんは少しも笑わなかった。
「もちろん」
即答だった。
拍子抜けするほど、あっさりと。
「え」
「行こう。ひとりより、そのほうが安心だよ」
わたしは言葉を失った。
そんなに簡単に、そんなに自然に、受け入れてくれるんだ。
紫陽花さんは、ほんの少しだけ目元をやわらげた。
「れなちゃんが困ってるなら、ついていく」
その一言が、じんわり胸の奥に染みた。
ああ、紫陽花さんって本当に優しい。
そんな安心感に包まれつつ、しかし問題はまったく解決していない。
なにせ行く先は歯医者なのだ。恐怖の根本はそのまま残っているのだ。
逃げられない。
いや、逃げようと思えば逃げられる。
放課後になった瞬間に全力で逆方向へ走る、という選択肢は理論上存在する。
だが、その場合、奥歯の痛みも一緒についてくる。
それどころか、夜になってもっと悪化する未来しか見えない。
だから、行くしかない。
行くしかないのだ。
◯
放課後。
わたしの横に紫陽花さんが立って、「行こう」と静かに言った。
その一言に促され、わたしは重たい足を引きずるように学校を出る。
駅へ向かう道の途中に、その歯医者はある。
つまり、歩けば歩くほど、確実に近づいていく。
嫌だ。
近づきたくない。
でも歩かないと着かない。
この理不尽さたるや。
そして歩いて10分、角を曲がった先に見えた。
歯医者の看板。
「ほら」
そう言って、足が動かないわたしに紫陽花さんはわたしの袖を軽く引いた。
自動ドアが開く。
中から、ひやっとした空気と、独特の消毒液の匂いが流れてきた。
ああ、だめだ、この匂い。
記憶が一瞬でよみがえる。
待合室は昔と大きくは変わっていなかった。白い壁。木目調の受付。雑誌ラック。
壁に貼られた「正しい歯みがき」のポスター。
小さなテレビでは、情報番組か何かが音量控えめで流れている。
観葉植物まで置いてあって、客観的に見れば別に怖い空間ではない。
清潔感もあるし、明るいし、むしろ普通に落ち着いた医院だ。
なのに、わたしにとっては十分に怖い。
「こんにちは」
受付の女性が顔を上げる。
わたしはぎこちなく会釈した。声がうまく出ない。
受付もそこそこに、椅子に座る。
待合室の椅子は思ったより柔らかい。
でも、座り心地なんてどうでもいい。
問題は診察室のほうから聞こえてくる音だ。
ウィーン。
キュイーン。
ガリッ。
「ひっ」
肩が跳ねた。
ムリ。
やっぱりムリ。
「れなちゃん、深呼吸」
隣に座った紫陽花さんが、小さく言う。
「すーって吸って、ゆっくり吐いて」
「わ、わかってるけど……音が……」
「じゃあテレビ見る?」
「内容入ってこない……」
「本読む?」
「文字が頭に入らない……」
「スマホ触る?」
「歯医者ってだけで画面の文字全部『死』に見える……」
「そこまで?」
紫陽花さんが少しだけ困ったように笑った。
でも笑い方が優しい。馬鹿にする感じではない。
本当に、どうやったら楽になるかな、と考えながらの笑みだった。
棚には子供向けらしい絵本が何冊も並んでいた。
うさぎやくまがにこにこ笑いながら歯みがきをしている表紙なのに、
今のわたしにはまるで「次はお前の番だ」と無言で迫ってくる予告状に見える。
受付の横に置かれた大きな歯の模型まで、妙に生々しく口を開けていて、
安心感どころか恐怖心をじわじわ煽ってきた。
「甘織さん、どうぞー」
そして、名前を呼ばれた瞬間、その安堵が全部吹き飛んだ。
「ひっ」
終わった。
ついに来た。
死刑執行の時である。
「行こう」
紫陽花さんが立ち上がる。
「……うん」
診察室に入る。
明るい照明。器具の並んだトレイ。白い椅子。口をゆすぐ小さなシンク。
これまた見慣れているはずの光景なのに、全部が圧に見える。
そして、いた。
問題の怖い歯科医。
初老の男性歯科医は、以前と同じように白衣を着て、
マスク越しでもわかるむすっとした雰囲気をまとっていた。
眼鏡の奥の目がこちらを見るだけで、ひぇっとなる。
怒っているわけじゃない。たぶんこれが通常モードなのだ。でも、その通常が怖い。
「どうしました」
低い声が飛んでくる。
「お、奥歯が……痛くて……」
「右?左?」
「み、右の奥です……」
「座って」
うう。
命令形が似合いすぎる。
わたしはびくびくしながら椅子に腰かけ、背もたれを倒される。
視界が天井を向く。この時点でもう逃げづらい。体勢からして負けている。
「口開けて」
言われた通りに口を開ける。
先生の顔が近づく。金属の器具が口の中に入ってくる。
冷たい。カン、と歯に当たる。
「ここ?」
「い、ひゃい……」
「ここは?」
「ひゃ……っ」
だめだ。器具でちょんちょん触られるだけで怖い。
先生はしばらく確認した後、あっさり言った。
「虫歯だな。深い」
はい終了。
知ってたけど、改めて宣告されると地味にショック。
「麻酔して削るからね」
その一言で、わたしの全身が硬直した。
来た。
来てしまった。
麻酔。
しかも即決。
いやまあ深いならそうなるよね。わかる。理屈はわかる。だが心がついていかない。
先生が看護師さんに何か指示する。金属の器具の触れ合う音。
トレイの上で何かが準備される気配。
そして、視界の端に、注射器が見えた。
長い。
ムリ。
ムリムリムリムリ。
反射的に、わたしは口を閉じた。
「……」
一瞬の沈黙。
やってしまった。
「開けなさい」
低い声。
怒鳴ってはいない。けれど、静かな圧がすごい。
でも体が動かない。
無理なものは無理だ。
怖い。
針が怖い。
歯茎に刺さるのが怖い。
嫌だ嫌だ嫌だ。
「開けないとできないんだが」
先生の声が少しだけ厳しくなる。
ひっ、となって肩が震えた。目の端が熱くなる。やばい。泣く。これは泣く流れだ。
高校生にもなって歯医者で泣くとか終わってる。でも怖い。どうしようもない。
その時だった。
「すみません」
診察室の入口のほうから、落ち着いた声がした。
紫陽花さんだった。
「この子、歯医者が本当に苦手で……もし大丈夫なら、そばにいてもいいですか」
先生がそちらを見る。
数秒の沈黙のあと、先生は短く言った。
「邪魔をしないなら」
「ありがとうございます」
次の瞬間、視界の横から紫陽花さんがそっと近づいてきた。
「れなちゃん」
その声だけで、胸がぎゅっとなった。
「大丈夫。ここにいるから」
そう言って、台の横に立った紫陽花さんが、わたしの手を握ってくれた。
ちゃんと、包むみたいに、逃げないように支えるみたいに、しっかりと。
温かい。
その温度がじんわり伝わってきて、
さっきまでぐちゃぐちゃだった呼吸が少しずつ整っていく。
「……っ」
「だいじょうぶ」
耳元に近い位置で、やさしく囁かれる。
「すぐ終わるよ。痛かったら、私の手だけ考えてて」
いや、その言い方もだいぶすごいな!?
でも実際、その通りにするしかなかった。
わたしは震えながら、もう一度口を開けた。
「麻酔をする」
宣告。
ううううう。
ムリぃ……!
と心の中で叫んだ、その直後。
ちく。
あれ?
思ったより、痛くない。
もちろんゼロではない。刺された感じはある。嫌な感じもある。
でも、想像していた「地獄の一撃」みたいなものではなかった。
表面麻酔のおかげか、先生の腕がいいのか、
あるいは紫陽花さんの手を握っている効果なのか、
とにかく耐えられないほどではない。
「……あれ?」
うっかり声が漏れた。
紫陽花さんがくすっと小さく笑う。
「でしょ」
その笑い方に、少しだけ肩の力が抜けた。
麻酔が効くまで少し待ってから、治療が始まる。
ウィーン、というドリルの音が近くで鳴った時はさすがに身がすくんだけれど、
痛みはない。振動と音が怖いだけで、実際には平気だ。
怖いけど痛くない。この違いは大きかった。
そして何より、ずっと紫陽花さんがそばにいてくれる。
「だいじょうぶ」
時々そう囁いてくれる。
気づけば、わたしは最初ほど震えていなかった。
しばらくして、先生が手を止めた。
「終わりです」
え。
終わり?
こんなにあっさり?
体感では、長かったような短かったような、不思議な時間だった。
でも時計を見れば、おそらく十五分かそこらだったのだろう。
さっきまで先生が死神みたいに見えていたのに、
いまは不思議とそこまで怖くなかった。
むしろ、思ったより普通の人だ。
わたしがぼんやりしていると、先生がぼそっと言った。
「……よく頑張った」
「え?」
思わず聞き返しそうになるくらい、小さい声だった。
わたしだけじゃなく、紫陽花さんも少し目を丸くしていた。
その時、そばにいた看護師さんがにこっと笑った。
「先生、昔ちょっと怖すぎて、患者さん減っちゃったんですよ」
わたしは思わず先生を見る。
先生は露骨に嫌そうな顔をした。
「余計なこと言わなくていい」
「いま改善中なんです」
「……」
なんだそれ。
いや、でも、すごく納得してしまった。
やっぱり怖かったんじゃん!
わたしの気のせいじゃなかったんだ!
しかも改善中って、本人も自覚あるんだ!
その事実にちょっと安心してしまうあたり、我ながら単純だと思う。
会計を済ませ、外に出る。
「……終わった」
わたしはぽつりと呟いた。
「終わったね」
紫陽花さんが笑う。
「生きてる……」
「大げさ」
「いやでも、本当に、めちゃくちゃ怖かったんだよ……」
「うん。知ってる」
そう言いながら、紫陽花さんは自然な動作でわたしの手を取った。
診察室で握ってくれた時ほど強くではない。
ただ、帰り道を一緒に歩くために、そのまま繋いでくれるみたいな、
そんな穏やかなつなぎ方だった。
駅までの道を、二人で並んで歩く。
「ありがとう」
わたしはそう言ったつもりだった。
でも麻酔がまだ残っているせいで、
「あいがとぉ…」みたいな妙に間の抜けた声になってしまう。
紫陽花さんはそれを聞いて、思わずくすっと小さく笑った。
「ついてきてくれて、ほんと助かった」
「よかった。間に合って」
「間に合ったどころじゃないよ。
紫陽花さんいなかったら、たぶんわたし、口閉じたまま帰ってた」
「でも、最後はちゃんとできたでしょ」
「……まあ」
できた。
できたのだ、なんとか。
自分ひとりだったら絶対無理だったけど。
その事実が、少しだけ嬉しかった。
わたしは紫陽花さんの横顔をちらっと見る。
穏やかで、優しくて、さっきまでの緊張を全部受け止めてくれた人の顔だ。
駅が見えてくる。
手をつないだまま歩くのも、そろそろここまでだろう。
名残惜しい、なんて思ったら、さすがに調子に乗りすぎかもしれない。
けれど、少なくとも今日この帰り道を、わたしはたぶん忘れない。
怖い歯医者に行った日としてじゃなくて。
怖くて情けないわたしの手を、
最後まで離さずにいてくれた紫陽花さんと一緒に歩いた日として。
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