クインテットの日常   作:戦竜

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紗月さんの官能小説

休み時間って、ほんとに好きだ。

 

授業と授業の間の、あの現実がふっと薄まる感じ。

廊下はにぎやかで、誰かが笑ってて、

机の上には購買のパン、スマホの画面が光って、

机を叩く音とか椅子を引く音とか、全部が雑多に混ざってる。

 

でも――その雑多の中で、ひとりだけ、空気の温度が違う人がいる。

 

琴紗月さん。

 

窓際の席。背筋がすっと伸びていて、長い黒髪も鮮やかに靡く。

手元の文庫本をページをめくる音だけが、やけに綺麗に聞こえる。

 

……ああいう人、どういう本を読んでるんだろ。

 

気になったら最後、わたしは放っておけない。

 

「紗月さーん。ねえ、いつも何読んでるの?」

 

わたしはできるだけ明るく、軽く、

いつも通りに話しかけた――つもりだった。

 

紗月さんは、顔を上げないまま言った。

 

「……読書中に話しかけるのは、マナー違反よ」

 

スパッ。

 

音がした。わたしの心が切られた音。

 

「うっ……す、すみません……」

 

反射で謝ったけど、謝った瞬間、わたしの中のテンションが床に落ちた。

いや床どころじゃない。地下。地底。マントル。

 

え、だって、休み時間だよ?

みんな騒いでるし、そもそもこの教室、静寂とか存在しないし……。

 

でも紗月さんに言われると、

なんか、わたしが悪いことをした気になるから不思議だ。

 

わたしは肩を落として、自分の席に戻ろうとした。

 

そのとき。

 

「……待ちなさい」

 

え。

 

振り返ると、紗月さんがようやく顔を上げて、わたしを見ていた。

表情はいつも通り、涼しい。

怒ってるのか、怒ってないのか、わたしには判別不能なタイプの涼しさ。

 

「……特別に。甘織には教えてあげる」

「え、いいんですか……?」

 

紗月さんは本を閉じ、表紙をこちらに向けた。

 

わたしはその瞬間、固まった。

 

表紙――なんか、やたら雰囲気が……濃い。

 

タイトルも、妙に艶っぽい字体で……いや、待って、なんで帯が赤いの?

なんで禁断とか熱とか、そういう単語が目に入るの?

チラッと挿絵も見えたけど、女の子と女の子が濃厚に絡み合ってた。

いやいやいや、まさか――。

 

「こ、これ……」

「ええ」

 

紗月さんは平然と頷いた。

 

「官能小説よ」

「官能小説!?」

 

思わず声が裏返った。周りの視線がちょっと集まる。

 

紗月さんは眉ひとつ動かさず、ひそめた声で続けた。

 

「騒がないで。……ほら、読みなさい。面白いわよ」

「いや、え、ちょ、待って、ちょっと待って!」

 

わたしは慌てて両手をぶんぶん振った。

 

だって、これ、――普通の小説じゃないなんて!

 

紗月さんは、そのわたしの動揺を、まるで観察対象みたいに見ている。

 

「何を怖がっているの。読むだけよ」

「こ、怖がってない!ただ、その……!」

 

わたしの語彙が死んでる。助けて。

こういう時、なんて言えばいいの。いや、言えるわけない。

 

紗月さんは、机の上に本を置いて、わたしの方へ押し出してきた。

逃げ道を塞ぐように。

 

「読みなさい」

 

命令形。強い。

 

わたしは、負けた。

 

「……わ、わかったよ……」

 

しぶしぶ本を持ち上げる。

 

手触りは普通の文庫。

でもわたしの手のひらが変な汗をかくから、やけにぬるっとする。

やめて。恥ずかしい。

 

わたしは周りに聞こえないように、小声で言った。

 

「……紗月さん、スケベ……」

「失礼ね」

 

紗月さんは淡々と言い返す。

 

「これは教養よ」

「教養!?」

 

教養って、こういう帯に熱く、甘く、逃げられないみたいなこと書いてあるやつ!?

教養の定義、今日変わった!?

 

わたしは震える手で、1ページ目を開いた。

 

――そして。

 

一行目。

 

「……っ」

 

ダメだ。

 

わたしの脳が、赤信号を出した。

いや、内容を細かく言うとかじゃない。

ただ、雰囲気が、言葉の温度が、距離感が、近い。近い近い近い。

 

登場人物の息遣いが、文字から伝わってくる気がして、

わたしは即座に本を閉じた。

 

「ム、ムリ……!」

「1ページも持たないなんて」

 

紗月さんは、ため息もつかずに言う。

 

「教養がないわね」

「ぐっ……!」

 

刺さった。

 

教養がない。わたしは教養がない。

知ってるよ!でも!そんな言い方ある!?

 

「……そもそも教養ってそういうのじゃないでしょ!」

「あなたの言う教養は、テストの点を取るためのものよ。

私の言う教養は……人生を豊かにするもの」

「人生、豊かにしてる場合じゃないんですけど!?」

 

紗月さんは肩をすくめた。勝ち誇ってる。絶対勝ち誇ってる。

 

……ちょっとムカついた。

 

こういう時、わたしは妙に意地になる。

 

「……じゃあ、紫陽花さんに読ませてみようよ」

 

言ってから、ちょっと後悔した。

え、紫陽花さん?

あの優しくて、ふわふわで、でも芯がある紫陽花さんに、この濃い本を?

 

いやいや、でも!

これで紫陽花さんが赤面してダウンしたら――わたしの勝ちだ。

 

「女子高生にこういうの早いって証明できるし!」

「……面白い提案ね」

 

紗月さんの目が、ほんの少しだけ細くなった。

 

……やばい。これ、わたし、乗せられてる気がする。

 

でももう言ったし!

 

わたしは紫陽花さんを探す。

ちょうど、教室の後ろで友達と話していた。

 

「紫陽花さーん!ちょっとこっち!」

 

手招きすると、紫陽花さんは「なあに?」って顔で、

ふわっと近づいてきた。天使。天使が来た。

 

「どうしたの、れなちゃん」

「えっと……これ、読んでみてほしくて」

 

わたしが言う前に、紗月さんが本を差し出した。

 

まるで献上みたいに。

 

紫陽花さんは素直に受け取って、表紙を見た。

 

「……恋愛小説?」

「ええ」

 

紗月さんは平然としている。

わたしは、紫陽花さんの反応を凝視した。

 

紫陽花さんは、ぱらっとページをめくる。

 

――数秒。

 

……数十秒。

 

その間、紫陽花さんの頬が、みるみるうちに赤くなっていく。

 

えっ、待って、早い早い!

 

耳まで赤い。首まで赤い。なんなら手元も赤い。赤の侵食がすごい。

 

「……っ」

 

紫陽花さんが、喉を小さく鳴らした。

 

わたしは勝利を確信した。

 

「ほらー!やっぱり!こういうの、女子高生には早いんだから!」

 

わたしは指を突きつける勢いで言った。

よし!わたしの勝ち!紗月さん、これで反省し――

 

「……」

 

紫陽花さんは、ページを閉じた。

 

そして、ぼそりと。

 

「……紗月ちゃん。この本、借りてもいい?」

「……え?」

 

わたしの口が、そのまま止まった。

 

いや、今、何て?

 

借りる?

 

借りるって言った?

 

紫陽花さんは赤い顔のまま、

視線だけは真剣で、紗月さんを見ていた。逃げない。逸らさない。

 

紗月さんは、ほんの一瞬だけ、口元を緩めた。

 

――勝ち誇った顔だ。

 

やっぱり勝ち誇ってる!!

 

「いいわよ、瀬名。丁寧に扱いなさいね」

「うん……ありがとう」

 

紫陽花さんは本を胸に抱えた。まるで大事な宝物みたいに。

 

わたしは、脳が停止した。

 

え。えええええ。

 

「紫陽花さん……?」

「な、なに?」

 

紫陽花さんはまだ赤い。

赤いのに、目がキラッとしてる。

いや、キラッとするな。そういう方向でキラッとするな。

 

「それ……読むの……?」

「……れなちゃんには、内緒で……」

 

内緒で!?

内緒でって、今言った!?今教室で言ったよ!?

 

わたしは顔面を押さえた。世界がぐらぐらする。

 

紗月さんは、わたしの横で淡々と宣言した。

 

「これで分かったでしょう。

あなたが早いと言ったものを、受け取れる人もいる」

「……ぐぬぬ」

 

悔しい。悔しいのに、紫陽花さんの赤い顔が可愛すぎて、反論ができない。

 

紫陽花さんは、胸に抱えた本をぎゅっとして、小さく言った。

 

「……勉強、する……」

「何の勉強!?」

 

わたしは思わず突っ込んだ。

紫陽花さんは、赤いまま笑って誤魔化した。

 

「えへへ……」

 

紗月さんは、机に肘をついて、わたしを見下ろすように言う。

 

「あなたも、今度は最後まで読みなさい」

「やです!」

 

即答した。

 

すると紗月さんは、さらりと言った。

 

「じゃあ、代わりに別の教養を教えてあげる」

「別の教養……?」

 

嫌な予感しかしない。

 

紗月さんは、わたしの耳元に少しだけ顔を近づけて、低い声で囁いた。

 

「――読書中に話しかける時は、まず視線よ。言葉より先に」

「……え?」

 

その言い方が、妙にずるい。

急に真面目なこと言うから、わたしの心が変な方向に揺れる。

 

「……分かった?」

 

紗月さんが問う。

わたしは、うまく返事ができなくて、ちょっとだけ頷いた。

その横で、紫陽花さんが本を大事そうにカバンに入れている。

 

……現実感がない。

 

わたしは、今日という日を、たぶん忘れない。

 

休み時間に、教養って言葉の意味が、一段階おかしくなった日。

 

そして――

 

紫陽花さんが、わたしの知らない顔をした日。

 

「……世界って、広いな……」

 

思わず漏れたわたしの独り言に、

 

紗月さんだけが、クールに微笑んだ。




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