時計の針は、午後11時を回っていた。
静まり返った甘織家の中で、遥奈の部屋だけが煌々と明かりを灯している。
机の上には、付箋だらけの教科書、計算式で埋まったノート、
そして格闘の跡である消しゴムのカスが散らばっていた。
「……うう、もう一踏ん張り……」
遥奈はこめかみを指で押さえ、睡魔を振り払うように頭を振った。
中学の定期試験。それは遥奈にとって、単なる学力測定以上の意味を持っていた。
隣の部屋からは、かすかに規則正しい寝息が聞こえてくる。姉、れな子だ。
れな子は高校生。成績は「中の下」といったところで、
お世辞にも秀才とは言えない。しかし、それでも高校生である。
本来なら、わからない問題を姉に聞くのがもっとも効率的だ。
「……いや、絶対に無理!
お姉ちゃんに教わるなんて、負けを認めるようなもんだし!」
そう、遥奈の中には、姉に対する抜き差しならないプライドと
少し反抗心が隠れている。れな子が「えー、遥奈、こんなのもわかんないのぉ?」と、
あの独特のふわふわした調子でマウントをとってくる姿を想像するだけで、
遥奈の闘争心に火がつくのだ。
「自力で満点をとって、驚かせてやるんだから……!」
その負けず嫌いな性格こそが、遥奈を机に縛り付けていた。
気づけば、にらめっこを始めてから5時間。集中力は限界に近い。
だが、先ほど難解な数学の応用問題を解き明かしたことで、
脳内にはアドレナリンが駆け巡っていた。
「よし、この勢いで英語も片付ける……!」
そう決意し、シャーペンを握り直した、その時だった。
――ぐぅーぐぅー。
静寂を切り裂く、情けない音が部屋に響いた。
「……っ!」
遥奈は思わずお腹を押さえた。
一度意識してしまうと、空腹感は津波のように押し寄せてくる。
夕食のハンバーグから数時間。
脳が糖分を、身体が塩分を、魂が脂質を求めて叫んでいる。
「(ダメ。今食べたら、これまでの集中が途切れる……)」
遥奈は必死に空腹を無視しようとした。
関係代名詞の例文を無理やり頭に叩き込もうとする。
しかし、視界がチカチカする。
「(でも、お腹が空いて集中できない方が効率悪いよね?
ほら、偉い人も言ってた気がするし……「腹が減っては戦はできぬ」って)」
ついに、遥奈は敗北した。
いや、これは「戦略的補給」だと自分に言い聞かせ、椅子から立ち上がった。
問題は、ここからだ。
もし、キッチンでガサゴソやっているところを、
水を飲みに来たれな子に見つかったら?
遥奈の脳内のれな子が悪魔姿で囁く。
「あらぁ〜遥奈、こんな時間に夜食?太っちゃうよぉ?」とニヤニヤ笑われ、
遥奈は悪魔れな子をパンチして脳内から追い出す。
遥奈はドアをミリ単位で開き、廊下の様子を伺う。
真っ暗だ。両親も寝静まっている。
彼女は「忍者・遥奈」と化し、つま先立ちで階段を降りた。
一歩、一歩、床が軋まない場所を熟知しているのは、
これまでの「深夜の隠密行動」の賜物だろう。
リビングに辿り着き、安堵の息を漏らす。
遥奈はキッチンの棚を慎重に漁った。
理想は、モデルやアイドルが食べるような、ヘルシーな春雨スープやナッツ。
しかし、彼女の指が触れたのは、
カサカサという乾いた音を立てる、あのオレンジ色のパッケージだった。
「……サッポロ一番味噌ラーメン……」
遥奈は硬直した。
これはマズい。女子力という概念から最も遠い場所にある食べ物だ。
しかも、ガッツリとした味噌。
これを深夜に食べる女子中学生なんて、あってはならない。
しかしそこでまたまた悪魔れな子が脳内で囁く。
「お腹空いてるんでしょ~?食べちゃえ♡負けちゃえ負けちゃえ♡」
「(で、でも、お姉ちゃんだって受験生の時、夜食におにぎりバクバク食べてたし!
それに比べれば、ラーメン一杯くらい可愛いもんよね!)」
謎の理論で自分を正当化すると、遥奈は鍋に火をかけた。
換気扇を回すと音が響くため、あえて回さない。
蒸気と共に広がる味噌の香りが、遥奈の理性を少しずつ溶かしていく。
麺が茹で上がる。
本来なら器に移すべきだが、洗い物を増やすのはリスクだ。音も出る。
遥奈は決断した。
「……鍋のまま、行くよ」
鍋をテーブルに運び、割り箸を割る。
まだ熱い麺をたっぷりと持ち上げ、ふーふーと冷ます余裕もなく口に運んだ。
「――っ!ずるずるずるっ!!」
脳が痺れた。
濃いめの味噌スープが、勉強で疲れ切った身体の隅々にまで染み渡る。
「……おいしい。生きててよかったぁ……」
その時の遥奈の顔は、いつもの面影など微塵もない。
完全に「食」の喜びに魂を売った、とろんとした表情。
まさに「メスの顔」とも言える、本能剥き出しの状態だった。
勢いづいた遥奈の暴走は止まらない。
「どうせ食べるなら、最高の状態で食べなきゃ失礼だよね」
冷蔵庫から卵を取り出し、余熱で半熟にする。
さらに、炊飯器に残っていた冷や飯まで投入。
サッポロ一番味噌ラーメン・おじや仕立て。
炭水化物に炭水化物を重ねるという、背徳のフルコース。
最後の一滴までスープを飲み干した時、遥奈は人生最大の充足感に包まれていた。
◯
自室に戻る途中、念のためれな子の部屋を覗いた。
姉は相変わらず「ぐーすか」という擬音がぴったりの様子で爆睡している。
「(勝った……!誰にも見られず、最高の補給を完了した!)」
遥奈は勝利の余韻に浸りながら机に座った。
「よし、勉強がんばりますか!」
拳を握り、気合を入れる。
だが。
胃袋が満たされ、体温が上がり、
副交感神経がフルスロットルで働き始めた。
勉強再開からわずか10分。
「……ん、……えいご、の……」
まぶたが、鉛のように重い。
先ほどのアドレナリンはどこへやら、猛烈な睡魔が彼女を襲う。
ここで寝たら、あの深夜のラーメンはただの「デブ活」になってしまう。
それは負けだ。姉に、自分に、社会に負けることになる。
「負け……ない……」
そう呟いた瞬間だった。
遥奈の脳内に、またしてもあの悪魔が追い打ちをかけるように現れる。
にやにや笑うれな子が、甘ったるい声で囁いた。
「寝るの気持ちいいよ♡惰眠を貪っちゃえ♡ざぁこざぁこ♡」
「だ、誰がざこよ……」
遥奈は薄れゆく意識の中で、必死に抵抗しようとした。
しかし。
睡魔は、ラーメンと白米という最強コンボによって
すでに圧倒的優勢だった。
教科書の文字がゆっくりと滲み、視界が暗くなる。
次の瞬間。
遥奈の意識は、ぷつりと暗転した。
教科書の上、よだれを垂らしながら突っ伏して眠る彼女の姿は、
ある意味で戦士の休息であった。
数日後。
テストの結果は、幸いにも「良い点数」だった。
集中して解いた前半部分と、しっかり寝たことによる脳の回復が功を奏したらしい。
しかし。
お風呂上がり、何気なく体重計に乗った遥奈の絶叫が脱衣所に響いた。
「に……2キロ!?たった一晩で2キロ増えてる……!!」
遥奈は震える足で体重計を降り、鏡の中の自分を睨みつけた。
昨晩、鍋に残った汁に白米を叩き込んだ自分を殴ってやりたい。
「……次は。次は絶対に、
サッポロ一番に白米を入れるのだけは我慢するんだから……!」
その決意が、極めて限定的で、
かつ、また食べることを前提としてることに、遥奈自身はまだ気づいていなかった。
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