ワイヤレスイヤホンを無くしたのは、ほんの数日前のことだった。
朝の通学路で音楽を聴こうとして、ケースを開けた瞬間に気づいた。
――空。
何度カバンをひっくり返しても、ポケットを探しても、出てこない。
その日は一日中、胸の奥に小さな穴が空いたみたいな気分だった。
だから次の休日、わたしは有線イヤホンを買った。
昔使ってたタイプ。
線があって、少し不便で、でも確実にそこにある感じがするやつ。
今日の休み時間。
教室のざわめきの中で、
わたしはその有線イヤホンを片耳に差して、音楽を聴いていた。
ゲームのBGM。
タイトル画面で流れる、少し切なくて、それでいて前向きになれる曲。
――やっぱり、好きだな。
そんなふうに思いながら、
もう片方の耳は空けたまま、窓の外をぼんやり眺めていた。
「れなちゃん」
ふいに名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「えっ」
慌てて顔を向けると、そこにいたのは紫陽花さんだった。
いつもの、やわらかい笑顔。
でも、距離が――近い。
「あ、ごめんね。聞こえなかった?」
そう言われて、わたしははっとしてイヤホンを外す。
「う、ううん!大丈夫!」
「何を聴いてたの?」
「えっと……ゲームの音楽」
「へえ」
紫陽花さんは少し興味深そうに目を細めた。
「私もゲームはするけど、音楽だけはあんまり聴いたことなくて。
よかったら、聴いてもいい?」
「い、いいよ!」
わたしは反射的に頷いて、イヤホンを差し出した。
――その、つもりだった。
でも。
「せっかくだからさ」
紫陽花さんはそう言って、少し首を傾げる。
「れなちゃんと、共有したいな」
「……きょ、共有?」
「うん。有線だし、ちょうど半分こできるでしょ?」
言われて、わたしはイヤホンの線を見た。
確かに、片耳ずつ。
理屈は合ってる。
でも。
「だって……近くない?」
「近いね」
紫陽花さんはあっさり言って、くすっと笑った。
「でも、もう一緒にお風呂も、一緒に寝るのも済ませたよね?」
「……」
否定できなかった。
今日の紫陽花さんちょっと積極的かも。
紫陽花さんはわたしの前の席に腰を下ろす。
顔と顔が、触れそうで触れない距離。
紫陽花さんがイヤホンを片耳に差す。
わたしは残った片方を、自分の耳に。
――近い。
思っていたより、ずっと。
紫陽花さんの髪が、ふわっと香る。
シャンプーの匂い。
甘くて、落ち着くのに、胸がそわそわする匂い。
再生ボタンを押した。
音楽が流れ始める。
……はずだった。
全然、頭に入ってこない。
目の前に紫陽花さんがいる。
近すぎる。
呼吸の音まで聞こえそう。
心臓の音がうるさくて、
音楽どころじゃない。
「(ち、近い……)」
横目で見ると、紫陽花さんは目を閉じていた。
イヤホンに集中しているみたいに、静かに。
――え。
「(え、待って)」
「(ドキドキしてるの、わたしだけ……?)」
その考えに気づいた瞬間、胸がちくっとした。
紫陽花さんは楽しそうに音楽を聴いてる。
わたしは勝手に意識して、勝手に落ち着かなくなってる。
「(……なにそれ)」
ちょっとだけ、ショックだった。
曲が終わる。
わたしは内心ほっとしながら、紫陽花さんの方を見る。
紫陽花さんは、ゆっくり目を開けた。
「……ねえ、れなちゃん」
「な、なに?」
「正直に言っていい?」
わたしはごくりと唾を飲む。
「……うん」
「れなちゃんが近くて、ドキドキして」
「……!」
「全然、音楽に集中できなかったの……」
一瞬、頭が真っ白になった。
「え……?」
「心臓、うるさくなっちゃって」
紫陽花さんは照れたように笑う。
「わたしも、同じ」
その一言で、胸の奥が一気にあたたかくなった。
「(……同じ、だった)」
「もう一曲、聴く?」
紫陽花さんがそう言って、わたしを見る。
逃げ道みたいに差し出される選択肢。
でも――。
「……うん」
わたしは小さく頷いた。
今度は、少しだけ自然に顔を寄せる。
紫陽花さんも、ほんの少し寄ってくる。
また音楽が流れる。
今度も、やっぱりよくは聴こえない。
でも、それでいいと思った。
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴るまで、
わたしたちはイヤホンを半分こしたまま、
近くて、甘くて、少し落ち着かない時間を共有していた。
――ワイヤレスじゃなくて、よかったかもしれない。
そんなことを思いながら。
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