今日は、特別な日だ。
朝起きた瞬間から、胸の奥がそわそわして落ち着かなかった。
目覚ましより少し早く目が覚めて、布団の中で何度も寝返りを打つ。
理由は、分かりきっている。
今日は――
紗月さんと、二人でデートをする日だから。
事の発端は、数日前だった。
「猫カフェの無料チケット、二人分もらったの」
そう言って、紗月さんはいつも通り淡々とした口調で、
紙のチケットをひらりと見せた。
「バイト先の同僚がね。使わないからって」
「へ、へぇ……」
「それで」
ちらり、とこちらを見る視線。
「一緒に行く相手、空いてる?」
その言い方が、あまりにも自然で。
まるで「今日の夕飯何にする?」くらいの軽さで。
でも、わたしの心臓はその瞬間、確実に跳ねた。
「あ、あいてます!」
即答だった。
「そう。じゃあ決まりね」
それだけ言って、紗月さんはまた本を読みに戻ったけれど――
わたしはその日一日、ずっと浮かれていたと思う。
そして迎えた当日。
クローゼットの前で、わたしは三回悩んだ。
可愛すぎるのは違う気がするし、ラフすぎるのも、今日じゃない。
「……これ、かな」
最終的に選んだのは、淡い色のトップスに、動きやすいスカート。
猫カフェだから、汚れても大丈夫なように、素材もちゃんと考えた。
鏡の前でくるっと一回転して、髪を整えて、深呼吸。
「よしっ!」
気合いを入れて家を出た。
◯
待ち合わせは、駅前の定番スポット。
人通りの多い場所で、少しだけ落ち着かない。
でも――
「あ」
すぐに見つけた。
柱の横で、本を片手に立っている人。
変わらない姿勢、変わらない表情。
白シャツにデニムの大人びたスタイル。
紗月さんだ。
時計を見ると、約束の時間ぴったり。
遅刻はしていない。
少し胸を張って、わたしは声をかけた。
「お待たせ!……待った?」
定番の一言。
すると紗月さんは、顔も上げずに言った。
「ええ。待ったわ」
やっぱりか、と思った次の瞬間。
「……待ちくたびれたわ」
「えっ」
思わず声が裏返る。
慌てて時計を見るけど、どう考えても時間通りだ。
「じょ、冗談だよね?」
「さあ?」
ようやく顔を上げて、紗月さんは口の端をわずかに上げた。
――ほんの少しだけ。
それを見た瞬間、胸の奥がふわっと温かくなる。
「(あ……)」
きっと。
本当に待ちくたびれたわけじゃない。
ただ、それだけ楽しみにして、早く来てくれていたんだ。
そう思うと、自然と頬が緩んだ。
猫カフェは、駅から少し歩いたところにあった。
扉を開けた瞬間、ふわっとした空気と、柔らかな鳴き声。
「わぁ~……猫がいっぱい!」
思わず声が漏れる。
床を歩く小さな足音。
ソファの上で丸くなる猫たち。
あちこちに置かれたクッション。
――天国だ!
「好きそうね」
横で紗月さんが言う。
「うん!動物、大好きだから!」
靴を脱いで、手を洗って、
店員さんの説明を聞くのもそこそこに、わたしはもう猫に夢中だった。
「こんにちは~……おいでおいで」
そっとしゃがんで手を伸ばすと、
茶色の猫が警戒しながら近づいてくる。
鼻先をくん、と寄せて――
次の瞬間、すりっと頬を擦りつけられた。
「っ……!」
心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいになる。
「か、可愛い~っ!」
撫でると、喉を鳴らしてくれる。
その振動が、指先から伝わってきて、幸せでいっぱいになる。
一方。
「……」
少し離れたところで、紗月さんは苦戦していた。
猫じゃらしを振っても、視線すら向けてもらえない。
餌を差し出しても、ぷいっと顔を背けられる。
挙句の果てには。
ぺしっ。
「……!」
小さな猫パンチ。
「拒否されたわ……」
ぽつり、と落ち込んだ声。
その背中が、いつもより少しだけ小さく見えた。
「(どうしよう……)」
猫が嫌いなわけじゃないはず。
でも、どうにも距離が縮まらない。
じっと観察して、わたしは気づいた。
たぶん。紗月さんの、あのクールな表情。
無意識の圧が、猫には強いのかもしれない。
「さ、紗月さん」
「なに?」
「ちょっと、にっこり笑ってみない?」
「……は?」
怪訝そうな顔。
「猫、怖がっちゃうんだよ、たぶん」
「……笑えと?」
「そう!スマイルスマイル!」
しばらく沈黙。
そして。
「……こう?」
引きつった、不自然な笑顔。
「う、うーん……」
それを見て、逆に猫たちが距離を取る。
「むしろ逃げられてるわね」
紗月さんは深くため息をついた。
「……私、動物に嫌われる体質なのかしら」
その言葉が、少しだけ寂しそうで。
「(……よし)」
わたしは、バッグからそれを取り出した。
「紗月さん」
「なによ?」
「これ、付けてみません?」
差し出したのは――猫耳カチューシャ。
「……」
数秒、固まる。
「そんなもの、どこで手に入れたの?」
「香穂ちゃんの私物!ささ、どうぞ!」
しばらく葛藤したあと、紗月さんは小さく観念したように息を吐いた。
「……今日だけよ」
そして、そっと装着。
わたしの追撃はまだ続く。
「さぁ、紗月さん!にゃあと言ってみよう!こう……手を顔に添えて、にゃあと!」
「……」
一瞬の沈黙。
「……にゃあ」
くあーっ!超絶猫耳美少女サイコー!
――その瞬間だった。
「にゃあ」
低く、落ち着いた鳴き声。
振り向くと、そこには一匹の黒猫。
艶のある毛並み、静かな瞳。
「……あ」
黒猫は迷いなく、紗月さんの足元へ。
すり……。
甘えるように、体を擦りつける。
「……え?」
紗月さんが目を見開く。
黒猫はそのまま、膝の上へ跳び乗り、丸くなって喉を鳴らし始めた。
「……な、なにこれ……」
戸惑いながらも、そっと撫でると――黒猫は満足そうに目を細める。
店員さんが微笑んで言った。
「その子、ツキちゃんって言うんですよ。人見知りなんですけど……」
「……私に、懐いてる?」
「珍しいですね。仲間だと思ったのかも」
「仲間……」
紗月さんの顔が、ぱっと明るくなる。
驚きと、喜びと、感動が混ざった表情。
「……やった!やったわ、甘織!」
小さく、でも確かに嬉しそうに。
黒猫――ツキちゃんと戯れるその姿は、いつものクールさが嘘みたいで。
猫耳をつけたまま、柔らかく笑うその顔。
「(紗月さん……可愛い)」
胸の奥で、そう思った。
そして、心の中でそっと呟く。
「(よかったね、紗月さん)」
今日この日が、紗月さんにとって、少しでも特別な思い出になりますように。
――そう願いながら、わたしはまた一匹、猫を撫でた。
猫カフェの午後は、ゆっくり、穏やかに流れていった。
◯
猫カフェを出ると、外の空気が少しだけ冷たく感じた。
ガラス越しの世界から現実に戻ってきた、そんな感覚。
時計を見ると、まだ夕方には少し早い。
「……」
並んで歩きながら、わたしはちらっと紗月さんを見る。
さっきまで猫耳をつけていたとは思えない、いつものクールな横顔。
でも、どこか満足そうで、機嫌がいいのが分かる。
「(よかった……)」
勇気を出して、声をかけようとした。
「えっと、まだ時間あるし……どこか――」
そう言って、振り向いた瞬間だった。
視界いっぱいに、紗月さんの顔。
近い、と思うより先に――ふわり、と。
頬に、柔らかな感触。
「……っ!?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
遅れて理解した瞬間、熱が一気に顔に集まる。
「え、え、え……!?」
言葉にならない声が漏れる。
鏡を見なくても分かる。絶対、顔が真っ赤だ。
紗月さんは、ほんの一瞬だけわたしから距離を取ると、
人差し指をそっと自分の唇に当てた。
「しー」
そして、静かに微笑む。
「……さっきのお礼よ」
心臓が、跳ねる。
「ありがとう、甘織」
その声は、とても優しくて、猫を撫でていた時よりも、ずっと柔らかかった。
「っ……!」
頭が、完全に追いつかない。
頬が熱い。
胸がうるさい。
息の仕方も、分からない。
「な、ななな……なにを……!」
必死に言葉を探すわたしを見て、紗月さんは少しだけ楽しそうに目を細めた。
「そんな顔、初めて見たわ」
「そ、それは……!」
反論しようとして、でも何も出てこない。
ただ、さっき触れた場所が、じんわり、ずっと温かいままで。
「(……ずるい)」
心の中で、そう思った。
わたしは小さく俯いて、蚊の鳴くような声で言った。
「……こちらこそ」
紗月さんは一瞬きょとんとしてから、ふっと微笑った。
「じゃあ、続きは……」
わたしの顔を覗き込んで。
「甘織が決めなさい」
心臓が、また一段大きく鳴った。
今日は、きっと。
忘れられない一日になる。
そう確信しながら、わたしは真っ赤な顔のまま、次の行き先を考えるのだった。
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