「灰の国、半旗の下」
フランスは、冬の終わりのような色をしていた。
空は低く垂れ込み、雲は鉛のように重い。土はまだ湿り気を残し、街道には馬車の轍が深く刻まれている。畑は痩せ、村の柵は古く、教会の鐘はくすんだ音を響かせる。
百年戦争の最中にある国とは、本来こういうものなのだろう。疲れ切り、それでも辛うじて息をしている国。誰かが明日を信じているから、まだ死に切れていない土地。
だが、その日、その国に落ちた火は、戦争の範疇に収まるものではなかった。
最初に異変に気付いたのは、街道沿いの村にいた物売りの老人だった。
牛を引き、荷車に織物を積み、次の町へ向かう途中だった。彼は空を見上げ、雲の流れに混じる黒い影を見た。大きすぎる鳥かと思った。だが、鳥にしては影が多い。ひとつではない。ふたつでもない。群れている。
次に聞こえたのは、羽音ではなく咆哮だった。
獣の唸り声に似ているが、獣より深く、腹の底へ沈み込むような音。音が空を震わせ、老人の膝から力を奪う。牛が怯え、荷車が傾き、陶器の壺がひとつ割れた。
「な、なんだ……?」
空を横切る影が、雲を裂いた。
竜。正確にはワイバーン。
翼膜の張った巨体が三、四、五と視界を過ぎり、村の上空で旋回する。
村人たちは悲鳴を上げた。誰もが、あれを“見てはいけないもの”だと本能で理解した。
人が戦争をする時代に、空から竜が降る。そんな理不尽がまかり通るはずがない。通っていいはずがない。
だが、通った。
ワイバーンが口を開く。
次の瞬間、炎が降った。
藁葺きの屋根はひと息で燃え上がった。
家畜小屋が崩れ、柵が焼け、井戸の水面に火の粉が散る。炎は風に煽られ、村から村へ、家から家へ飛び移っていった。
「逃げろ! 森へ! 森へ行け!」
「子どもを連れて!」
「神よ、神よ、どうか――」
祈りの言葉は続かなかった。
祈る声をかき消すように、村の入口へ一騎の女が現れたからだ。
握られた旗が、風を裂く。
その旗を携えた女は、聖女の顔をしていた。
白銀の髪、整った横顔、強い意志を帯びた眼差し。フランスの民なら、一度は木版画か噂話で聞いたことがある顔だ。国を救った乙女。神の声を聞き、軍を率いた娘。
だが、そこに立つ女は、その記憶を嘲笑うような黒い鎧に身を包んでいた。
ジャンヌ・ダルク〔オルタ〕は、燃え上がる村を見渡し、つまらなそうに吐き捨てた。
「遅いわね」
その声に熱はない。
むしろ、火の海には不釣り合いなほど冷えていた。
「まだ逃げる余力があるなんて。
もっと早く諦めてくれた方が、焼く側としては手間が省けるのだけれど」
村人たちは彼女を見て凍り付いた。
それが誰に似ているのか、誰であってはいけないのかを、説明されなくても理解できたからだ。
「せ、聖女……?」
誰かが、震える声でそう漏らした。
ジャンヌ・オルタは視線だけでその声の主を射抜き、口元を歪める。
「聖女? 私が? やめてちょうだい。そんな気持ちの悪い呼び方」
彼女は旗の石突で地面を軽く叩いた。
ワイバーンの一体がすぐに降下し、逃げ遅れた荷馬車の上へ炎を浴びせる。悲鳴が上がる。
「私は竜の魔女よ。国を救うために来たんじゃない。国が救われたなんて幻想をきちんと壊しに来たの」
その言葉の意味を、村人の誰もすぐには理解できなかった。
だが、彼女は理解されることを望んでいなかった。
彼女の後ろから、別の影が近づいてくる。
黒い法衣。痩せた身体。手には分厚い書物。
狂気と恍惚が溶け合った目をした男――ジル・ド・レェだ。
「おお、おお……! 何と美しい。何と気高いお姿でしょう、我が聖女よ。竜の焔すら、あなた様の怒りを飾るための灯火に過ぎません」
「うるさいわね」
ジャンヌ・オルタは振り向きもせずに言った。
「褒めるなら手を動かしなさい。兵が足りないの。焼くだけでは、この国は静かにならないでしょう?」
「もちろんですとも。もちろん。このジル・ド・レェ、あなた様の御心を形にするためならば、いかなる外法も惜しみません」
ジルは村の中央へ進み出ると、炎の中で魔導書を開いた。古い羊皮紙が、熱風の中でも不自然なほど静かにめくれる。
「来たれ、来たれ……神に背き、正道を外れ、それでもなお戦場を歩む者たちよ。我が聖女の憤怒のために、再びその武を振るうがよい」
地面に黒い魔術陣が広がった。
泥の上に浮かぶその紋様は、教会の床に描かれる祝福の円環を、汚泥で塗り潰したような形をしている。
最初に立ち上がったのは、気品ある一人の女性だった。
深い色のドレスに身を包み、どこまでも冷たい微笑を浮かべる。白い肌に映える赤い瞳。彼女の存在だけで、火よりもなお血の気配が濃くなる。
カーミラ。
続いて、森の気配を纏った女が現れる。
緑の髪、弓、獣のようなしなやかさ。鋭い瞳は、炎に怯える子どもへ一瞬だけ向き、その後でジャンヌ・オルタを冷ややかに見た。
アタランテ。
さらに、仮面とマントをまとった男が、まるで煙のように輪郭を結ぶ。
人間のようでいて、人間の顔がどこにもない。音楽劇の幕が下りた後に残る、薄気味悪い沈黙そのもののような男。
ファントム。
その後ろに、漆黒の甲冑が現れる。
重い。圧倒的に重い。人の形をしていながら、人と認識することを拒む威圧。紅く光る隙間から、理性の通わぬ狂気だけが滲んでいる。
ランスロット〔狂〕。
魔術陣はなおも脈打ち、別の気配を押し上げ続けていた。
青い帽子を被った美貌の騎士。十字杖を持つ聖女。長槍を携えた貴公子。それぞれが己の意思や誇りを抱えたまま、この歪んだ陣営に組み込まれていく。
シュヴァリエ・デオン。
マルタ。
ヴラド三世。
それは戦争というより、悪趣味な見世物だった。
竜に率いられ、聖女の貌を持つ憎悪に従う英霊たち。秩序も敬意もあったものではない。ただ、破壊と否定のために並べられた戦力。
ジルは恍惚とした声で告げた。
「これで、いよいよ整いました。あなた様の怒りを、フランス全土へ。あなた様を否定した国と民へ、余すところなく」
ジャンヌ・オルタは、燃え盛る村の向こうを見た。
黒煙が流れ、逃げる者たちがまだ小さく見える。彼らがどこへ行こうと、同じことだ。別の村へ辿り着いたところで、次の炎が待っているだけなのだから。
「私を否定したのなら、私が成し遂げたことも否定されるべきなのよ」
その声には怒号のような激しさはなかった。むしろ、淡々としていた。
怒りを何度も反芻し、磨き上げた果てに生まれた、理屈としての憎悪。そこにこそ恐ろしさがある。
「フランスを救った聖女なんて、いなかったことにする。王も、民も、教会も、街も村も――全部、沈黙させる。そうしてようやく、この国は私を理解する」
ワイバーンが空を巡る。
炎の匂い、焼ける木の爆ぜる音、泣き叫ぶ声。
その全てを背にして、彼女は旗を肩へ担いだ。
「行くわよ。次の村へ」
誰も彼女の命令に逆らわない。
竜も、狂気の司祭も、歪められた英霊たちも。
こうして、フランスは焼かれていった。まるで、世界が聖女の記憶そのものに火を放っているかのように。
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その頃、カルデアでは、別種の緊張が空気を張り詰めさせていた。
観測室のモニターには、地表を覆う霊子グラフが何重にも表示されている。その中でフランスの一帯だけが明らかに異常だった。
「第一特異点、反応増大」
ダ・ヴィンチが端末の前で呟く。軽い口調に聞こえるが、目はまったく笑っていない。
「これは随分派手にやってるね。聖杯の影響だけでは説明がつかないレベルで歴史が乱れてる」
ロマニ・アーキマンは顔をしかめ、別画面を開いた。
「位置はフランス。十五世紀。百年戦争終盤――本来ならジャンヌ・ダルクの活躍で戦局が大きく動いた時期だ。だけど、観測できる範囲だけでも当時の地形や軍勢の動きとズレが大きい」
「原因が分かれば苦労しないのだけれど」
ダ・ヴィンチが肩を竦める。
「現地の詳細は依然不明。敵が誰で、何が起きていて、どう壊れているのか。こちらから分かるのは、特異点が非常に大きく、人理修復において放置できない、ということだけ」
「十分すぎるくらい嫌な情報だよ……」
ロマニは額を押さえたが、視線を別モニターへ移した瞬間、ため息の質が変わった。
そこには、すでに登録された特殊霊基群の待機ログが映っている。
通常のサーヴァントデータベースでは整理しきれない、異質な面々。
冬木以降、藤丸立香の指揮下に置かれている、ビーストサーヴァント群。
ジャンヌ・ダルク〔ランサー〕。
エレナ・ブラヴァツキー〔キャスター〕。
ジャック・ザ・リッパー〔アサシン〕。
ブーディカ〔ライダー〕。
フランシス・ドレイク〔アーチャー〕。
リチャード一世〔セイバー〕。
モルガン〔バーサーカー〕。
そして、通常枠でありながら成立経緯そのものが異常なキャスター、フランチェスカ・プレラーティ。
カルデアは彼女らを“知らない”わけではない。知らないのではなく、理解できないのだ。
霊基はそこにある。シュミレーション実績もある。制御も、少なくとも現在までは成立している。だが、何故そうなっているのかは説明できない。
「・・・同行申請、もう出てるのか」
ロマニが端末を覗き込み、乾いた声を出した。ダ・ヴィンチは苦笑した。
「ああ。藤丸くん本人が今回は三騎のみ同行希望、だそうだよ」
「三騎“のみ”って言い方で安心できないのが嫌だな……。どの三騎?」
「ジャンヌ、エレナ、ジャック」
「最初の一手としては、いや、まあ、分からなくもないけど……」
ロマニは言い淀み、それ以上言葉を繋げられなかった。戦力としての合理性はある。前衛、魔術支援、偵察。組み合わせとしては整っている。問題は、整っていること自体だ。
こちら側の提供した資料やシュミレーションにそってある程度学んだかこその堅実な配置。
観測室の扉が開く。
藤丸立香と、マシュ・キリエライトが入ってきた。
「呼ばれました」
マシュが言う。
その声音は落ち着いている。だが、ロマニは彼女の顔を見てほんの少し眉を寄せた。
彼女は冬木からこっち、明らかに変わった。強くなった、と言えば聞こえはいい。だがその強さには、積み重ねられた何かがある。経験にしては重すぎる何かが。
藤丸は端末の表示を見て、状況をすぐに察したようだった。
「第一特異点、ですよね」
「そうだ」
ロマニは頷く。
「現地詳細は不明。ただ、特異点規模は大きい。歴史の歪みも深い。君たちにはすぐに向かってもらう。我々は人類の未来を取り戻さねばならない、その始まりとなるだろう」
「分かりました。・・・・俺に出来ることをやります」
藤丸は短く答え、それからモニターに映る同行申請の項目へ目をやった。
「三騎で行く。他は今回は待機で」
ロマニは確認するように言った。
「ブーディカもドレイクも、リチャードもモルガンも連れて行かないんだね?」
「うん。過剰戦力な気がするし、最初の特異点から札を切りすぎるのはよくない。それに、現地の状況が見えない以上、動きやすい構成にしたほうがいいかなって」
その答えに、ダ・ヴィンチが目を細める。
「実に理性的だ。とても良い。もう少し勢いで決めると思ってたんだけど」
「成長したってことになりません?」
藤丸が肩を竦める。マシュは、その横顔を静かに見ていた。
彼女にとって、このやり取りは“今更”だった。
藤丸がどのビーストをどの状況で使うか。誰が同行に向き、誰を待機させるべきか。そういう判断をもう彼はある程度学んでいる。そしてマシュ自身も、それを当然のものとして受け止めている。
「マシュ」
ロマニが少しだけ声を低くする。
「確認しておく。君は今回も、藤丸くんの後衛支援だけじゃなく、現場指揮と制御補助を担う。あの三騎の扱いについて、問題は?」
「ありません」
マシュの返答は即答だった。
「制御については先輩が最優先です。私はその補佐を行います。現地での情報収集、住民保護、味方勢力との連携についても、出来る限り支えます」
「……そうか」
ロマニはそれ以上踏み込まなかった。
マシュがこういう言い方をする時、もう結論は変わらないと分かっているからだ。
ダ・ヴィンチがぱん、と手を打つ。
「よし。では出発前の最終確認。第一特異点、現地情報は不足。だからこそ、最初の目標は二つ。ひとつは生存、ひとつは把握。いきなり敵中枢に飛び込めると思わないこと。まずは現地勢力の確認、協力者の捜索、状況の整理。いいね?」
「了解」
「はい」
藤丸とマシュが揃って答える。
観測室の奥、レイシフト準備区画の方で小さな物音がした。待機しているサーヴァントたちの気配だ。
全員が前に出てくるわけではない。だが、視線はある。
家族を心配するようなもの。
獲物を睨む獣のもの。
主の留守を見送る臣下のもの。
それぞれ質は違うが、向けられている先は同じだ。
藤丸立香。
彼はその気配に気付きながら、あえて振り返らなかった。
振り返れば、何人かは本気でついて来るだろう。だから、最初から線を引く必要がある。
「今回は三人だけ」
静かな声だったが、よく通った。
「ジャンヌ、エレナ、ジャック。他はカルデアで待機。何かあればすぐ呼ぶ。だから、今は待っててくれ」
しばしの沈黙。
それから、向こうで誰かがくすりと笑った。誰かが不満げに鼻を鳴らし、誰かが愉快そうに拍手をひとつ。声にならないざわめきはあったが、命令に逆らう気配はない。
マシュはその空気を感じ取りながら、胸の奥を静かに押さえた。
――この人は、本当に一人ではない。
カルデアがある。ロマニがいる。ダ・ヴィンチがいる。そして、あの異常なサーヴァントたちもいる。
誰も彼もが、先輩の側にいる。
自分もその一人だ。
だからこそ、思う。その中で一番、先輩を守れるのは誰か。その答えを、マシュは誰にも譲るつもりがなかった。
レイシフト準備が整う。
白い光の輪が足元に広がり、機器が低く唸り始める。
藤丸が深く息を吸い、マシュはその隣へ立った。
「先輩。必ず、お守りします」
藤丸は少しだけ驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「うん。頼りにしてる、マシュ」
それだけで、十分だった。
十分すぎるほどに、胸が熱くなる。
区画の入口から、同行する三騎が姿を見せる。
槍を携えたジャンヌ・ダルク〔ランサー〕は、整った所作で一礼した。
「お呼び立てに応じ、参上しました。マスター。あなたの旅路を守りましょう」
エレナ・ブラヴァツキーは魔導書を抱え、意味ありげに微笑む。
「ふふ。第一特異点ね。さて、どんな面倒が待っているのかしら。少なくとも、退屈はしなさそう」
ジャック・ザ・リッパーは藤丸のすぐ近くまで歩み寄り、上目遣いに尋ねた。
「マスター。……ついていって、いいんだよね?」
藤丸はしゃがみ、目線を合わせた。
「もちろん。でも、今回は偵察優先。勝手に切りすぎないこと。あとちゃんとマスター呼びにしてくれてありがとう」
「うん。マスターがそう言うなら、私、ちゃんとがまんする」
その答えに、ロマニは小さく息を吐いた。
不安が消えるわけではない。だが、少なくとも今は、これが最善だ。
「レイシフト開始」
ダ・ヴィンチの声が響く。光が満ちる。カルデアの白い床が遠ざかり、代わりに未知の時代の空気が近づいてくる。
フランスは、すでに燃えている。
誰が敵で、誰が味方かも分からないまま。
聖女の国は、魔女の下で焼かれている。
その異変へ向けて、藤丸立香とマシュ・キリエライトは踏み出した。
守るべきものを抱え、守るための刃を従えて。