落下する感覚は、何度経験しても慣れるものではなかった。
肉体がほどけ、意識だけが先に進んでいるような、不安定な浮遊感。
視界を満たす光は白いはずなのに、どこか冷たく、無機質で、ただ真っ直ぐに前へと流れていく。レイシフトのたびに思う。これは移動ではない。人間という存在を一度“記録”へ戻し、別の場所へ“書き出している”のだと。
だからこそ、隣に人がいることが大事だった。
マシュ・キリエライトは、自分の意識がほどけそうになるたび、隣の気配を確かめる。
先輩。
藤丸立香。
その輪郭を見失わない限り、自分はきっと帰ってこられる。
それは理屈ではなく、何度もそうやって自分を繋ぎ止めてきた実感だった。
やがて光が途切れ、空気が変わる。
肺に飛び込んできたのは、焼けた木の匂いだった。
「――っ」
足が地面を踏む。湿った土。踏みしめた草の感触。
同時に、喉の奥へと灰のざらつきが入り込んだ。
「先輩……!」
「大丈夫!」
藤丸がすぐに口元を押さえ、マシュへ短く頷く。
だが、その顔にも苦味が浮いていた。呼吸を一つするごとに、焦げた匂いが肺の奥へ入り込む。煙だけではない。血の匂い、獣の匂い、焼けた家畜の匂いまで混じっている。あらゆるものが焼けたのだろう。村か、集落か、それとも街道沿いの農地か。いずれにしても、ついさっきまで人が生活していた場所が焼かれた直後の匂いだった。
マシュは素早く周囲を見渡した。
緩やかな丘陵。踏み荒らされた草地。
遠くに黒煙。そして上空には、まだ雲の切れ間から立ち上る煤が見える。
第一特異点。邪竜百年戦争オルレアン。
その名を、マシュは知っている。知っているどころではない。何度も、何度も、何度も通った道だ。ジャンヌと出会い、マリーと合流し、モーツァルトが皮肉を言い、最後には竜の魔女と向き合う。知っている。
知っているはずだった。
けれど今、その知っている道筋の上には、前回まで存在しなかったものがいる。
背後で、空気が微かに揺れた。
槍を携えた、もう一人のジャンヌ。魔導書を抱えたエレナ。藤丸のすぐ近くに寄り添うジャック。
彼女たちの存在は、マシュにとってももう見慣れたものだった。
冬木以降、藤丸の戦力として並び立つことは珍しくない。今さら彼女たちにいちいち驚くことはないし、制御もまた、藤丸の仕事として成立している。
――だが。
この地において、彼女たちは“知っている物語の外側”にいる。
「マスター」
最初に声を発したのは、ジャンヌだった。髪を揺らし、穏やかに、しかしまったく迷いのない足取りで藤丸の斜め後ろへ進み出る。
「周辺の魔力流動は不安定です。上空には大型飛行生物の反応。敵性の可能性が高いと判断します。対応指示を」
その声音は落ち着いていて、語調も丁寧だ。
だが、内容は軍人そのものである。必要ならば即座に排除へ移れるよう、最初から準備が整っている声。
藤丸は周囲を見渡しながら、短く答えた。
「まずは状況確認。現地の人間がいるなら保護を優先する。交戦はその後で」
「承知しました」
ランサーのジャンヌは静かに頷く。その顔には不満も逡巡もない。ただ“命じられたことを最適に遂行する”者の、潔い従順さだけがあった。
エレナが肩を竦める。
「現地情報ゼロのまま放り込まれて、いきなり焦土なんてね。まあ、特異点としてはむしろ分かりやすいけれど。少なくとも、歓迎されてはいないみたい」
彼女は軽く笑ってから、黒煙の上がる方角へ視線を向けた。
「風向きからして、火はまだ新しいわ。放置していたら逃げ遅れた人たちが危ないかもしれない」
「うん。行こう」
藤丸がそう言った瞬間だった。
ジャックが、藤丸の袖を小さく引いた。
「・・・・」
「どうした?」
「こっち」
白い髪の少女は、街道の脇の低い窪地を指差した。その瞳は、目の前の物を見るというより、“見えないものの位置を知っている”ような、不思議な確信に満ちている。
「血の匂い。まだ生きてる人、いる」
マシュは即座に駆け出した。窪地の向こう、倒木の陰に一人の兵士が倒れている。フランス軍のものと思しき革鎧は煤と泥で汚れ、左肩口には大きく裂けた火傷と引っ掻き傷があった。動物の爪か、それとも火炎を避け損ねたのか。顔色はひどく悪いが、まだ息はある。
「大丈夫ですか!」
マシュが膝をつき、兵士の上体を支える。兵士は薄く目を開けたが、焦点が定まらない。唇が乾き、呼吸は浅く速い。
「……あ……」
「水を」
藤丸がすぐに水筒を差し出す。マシュはほんの少しだけ水を含ませた。兵士は咳き込みながらも、どうにか言葉を絞り出す。
「に、逃げろ・・・・。聖女が・・・・聖女が・・・・・」
マシュの胸が痛んだ。その言葉も聞き慣れたものだ。
ただし、その意味するところは、今やひどく歪んでいる。
「聖女、ですか。ジャンヌ・ダルクを見たのですか?」
兵士の瞳が怯えで揺れた。
「白い旗の・・聖女様・・・・いや、違うあんなの・・。同じ顔で、でも、違って・・・竜を、竜を連れて・・・!」
藤丸とマシュは目を合わせる。
情報としては断片的だったが、十分だった。その時、ランサーのジャンヌが一歩進み出る。
「彼は苦しんでいますね。痛みは長引くほど人を摩耗させます。もしマスターが許されるなら、私が――」
「だめです」
マシュの声が、自分でも驚くほど鋭く出た。藤丸がすぐに続ける。
「ジャンヌ、治療のための補助ならいい。でも、それ以上はしない」
ランサーのジャンヌは一瞬だけ目を伏せ、それからすぐに頷いた。
「承知しました。私はマスターが望まれる形でのみ、この方を助けましょう」
言い回しは柔らかい。
だが、その“望まれる形でのみ”という部分に、このサーヴァントの危うさが凝縮されているとマシュは思った。
彼女は自分の善悪では動かない。藤丸の意志を善悪の基準にしている。だから藤丸が踏み外せば、どこまでもついていくのだろう。
マシュは兵士の傷口を見た。応急処置は可能だ。今すぐ致命傷になる深さではない。だが移動は必要だ。
「先輩、この人を安全な場所へ」
「うん。野営できるような場所か、味方の陣地が近くにあるか調べよう」
エレナが地形を見回し、口元に指を当てる。
「街道の方向はあっちね。それと、少し離れた場所に複数の人間反応。軍勢と呼ぶには少ないけれど、まとまりがある。避難民の群れではなく、統制された動きに近いわ」
「味方の可能性が高い?」
「高いと思う。少なくとも、今のところワイバーンの魔力反応とは別系統ね。話しかけてみる?」
藤丸はすぐに決断した。
「そっちへ向かおう。ジャック、先行して周囲の警戒。敵がいたら戻って報告、無理に近づかない」
「うん。でも、すごく近かったら?」
「それでもまず報告。勝手に始めないで」
ジャックは頬を少しだけ膨らませた。
「・・・・・・わかった。マスターがそう言うなら、ちゃんと見るだけにする」
そう言って彼女は風のように薄れた。気配が散る。足音すら残らない。
マシュは兵士を支えながら立ち上がる。その瞬間、上空を低い影が横切った。
全員が反射的に空を見上げる。
黒い影。
唐突だがワイバーンだ。
「伏せて!」
マシュが叫ぶ。兵士を庇い、盾を構える。藤丸も低く身を落とした。
ワイバーンは上空を一度だけ旋回し、こちらの位置を測るように首を巡らせる。
そして喉を膨らませた。
「エレナ!」
藤丸の声に、エレナが即応する。
彼女は魔導書を開き、指先で空間へ幾何学的な光を走らせた。
「目くらましくらいはしてあげるわ」
魔力が空気へ溶け込む。次の瞬間、ワイバーンの視線がほんの少しだけ逸れた。その僅かなずれを、マシュは逃さない。
「はっ――!」
盾を前へ。火炎が降る。真正面から受け止めた熱が腕を焼き、足元の土が爆ぜる。
だが、直撃は避けた。
ジャンヌが一気に踏み込む。槍の軌道は美しいほどまっすぐで、無駄がない。ワイバーンの左翼の付け根を正確に貫き、その巨体を地面へと引きずり落とした。
地鳴りのような衝撃に合わせて土煙が上がる。
「マスター、追撃を」
「マシュ!」
「はい!」
藤丸の指示に応じて、マシュは兵士を庇う位置から飛び出した。落下で態勢を崩したワイバーンの頭部へ、盾の重量を乗せて打ち込む。骨が軋む感触。巨体が苦鳴を上げる。
ジャンヌが槍を引き抜き、今度は喉元へ突きを放つ。
ワイバーンは暴れたが、その前に生命線を断たれた。痙攣し、やがて動かなくなる。
兵士は、目の前で繰り広げられた連携を呆然と見ていた。
マシュもまた、息を整えながら小さく肩を落とす。まだ一体。だが初戦としては十分すぎるほど濃い。
藤丸が兵士へ向き直る。
「動ける?」
「・・・あ、あんたたちは?」
「カルデアというところから来ました。説明は後でします。今は安全な場所へ行きましょう」
兵士は頷ききれなかったが、抵抗する余裕もなかった。
マシュたちは街道沿いを急ぎながら、味方と思しき人影を探した。やがて、丘を越えた先に小規模な陣営が見えてきた。
即席の柵。旗。焚き火。包帯を巻いた兵士たち。その中央に立っている一人の女性を見た瞬間、マシュは息を呑んだ。
白い旗。鎧と白と青を基調にした清らかな装束。
金髪を揺らし、まっすぐに前を見る、誰よりも見慣れたその姿。
――ジャンヌ・ダルク。
もと通りに進むのなら、この特異点で出会う。そのはずだった。
だが出会うと分かっていても、胸が締め付けられるような感覚は変わらない。
ジャンヌは、近づいてくるマシュたちへ視線を向けた。
最初に見たのは、負傷兵を支えるマシュと藤丸。
次に、槍を持つジャンヌ。そして、エレナ。
――その一瞬だけ、彼女の表情が揺れた。
「あなた方は・・・・・?」
旗を持つ聖女は、戸惑いを隠し切れない顔で立ち尽くす。
無理もない。同じ顔の、自分と似ていて、まるで似ていない存在が前に立っているのだから。
藤丸が一歩進み出た。
「はじめまして。俺は藤丸立香。カルデアという・・・組織から来ました」
ジャンヌはその名を反芻するように小さく繰り返した。
「カルデア・・・・。異国の響きですね。ですが今この国において、どのような方であれ助力を拒む余裕はありません」
彼女の目は真剣だった。
疲労はある。焦りもある。だが折れてはいない。
「私はジャンヌ・ダルク。この国を、竜の魔女の手から救うために戦っています」
その言葉が、マシュの胸へまっすぐに落ちてくる。
そうだ。この人は、こういう人だ。状況がどうあれ、自分の役目を見失わない。
だからこそ――。
「あなたが、聖女様ですか?本物の・・・・?」
負傷兵が震える声を上げる。 ジャンヌはすぐに彼の元へ歩み寄り、膝をついた。
「よく生き延びてくれました。あなたがここへ来てくれたことで、私たちはまた一つ、事実を知ることができます。ありがとう」
兵士は泣きそうな顔をした。ただ名前を呼ばれるだけではない。感謝を向けられることで、人はやっと“自分がまだ人間だ”と思い出せるのだと、マシュは感じた。
そのやり取りを、ランサーのジャンヌが静かに見ていた。やがて彼女は、ルーラーのジャンヌへ向かって一礼する。
「はじめまして。あなた"も"ジャンヌ・ダルクなのですね」
その言葉に、白旗の聖女は小さく息を呑んだ。
そして、ほんのわずかな沈黙ののち、丁寧に返礼する。
「・・・・はい。そう名乗っております。あなたは?」
「同じく、ジャンヌ・ダルクです。ですが今はマスターの槍として在ります」
あまりにも穏やかな自己紹介だった。だからこそ、その異様さが余計に浮き彫りになる。
ジャンヌ(ルーラー)は、彼女の表情を見つめた。
同じ顔立ち。けれど、違う。根幹から違う。
祈りの先ではなく、たった一人へ向けて収束する在り方。
「そう、ですか」
それ以上は言わなかった。言えなかったのかもしれない。
藤丸が空気を切り替えるように言う。
「詳しい話をしたい。でもその前に、この人の手当てを」
「もちろんです。こちらへ」
ジャンヌが兵士の搬送を兵たちへ指示する。その指示の一つ一つは落ち着いていて、無用な混乱を起こさない。疲れている兵たちも、彼女の声にはすぐ従った。
マシュたちは小さな野営地へ通された。想像以上に状況は厳しい。食糧は乏しく、負傷者は多い。包帯も薬も足りていない。焚き火の傍らには、避難民と思しき老人や子どもまで身を寄せ合っていた。
今まで通り。いや、これまでで見た以上に、現実としての重みがある。
マシュは周囲を見回しながら、自分の知っている流れを頭の中でなぞった。ここでジャンヌと合流し、味方を探し、竜の魔女の軍勢に対抗していく。けれど今は、どのタイミングで三騎がどう影響を及ぼすかが未知だ。
ジャンヌが天幕代わりの布の下へと案内し、向かい合う形で腰を下ろした。
「改めて伺います、藤丸。あなた方はどこから来たのですか。そして何のために、このフランスへ? サーヴァントまで連れて・・・・・」
藤丸は一度だけマシュを見る。
マシュは小さく頷いた。
「先ほども言いましたけど、俺たちはカルデアという組織から来ました。この時代に起きている異常を正すために」
ジャンヌは首を傾げた。
「異常、ですか」
「はい」
マシュが言葉を継いだ。
「この時代は本来、別の歴史を辿るはずでした。けれど今のフランスでは、本来ありえない規模の改変が起きています。竜の出現、そして・・・・」
そこで、彼女は一瞬だけ言葉を選ぶ。
「あなたと同じ姿をした、もう一人の存在」
ジャンヌの瞳が静かに伏せられる。
「・・・・竜の魔女、ですね」
「ご存じなのですね」
「ええ。彼女は私を名乗り、この国を焼いています。ですが、あれは私ではありません。私の憎しみでも、私の願いでもない」
その声音には怒りよりも、深い痛みがあった。
自分と同じ顔をした何かが自分の名で国を焼く。その苦しみは想像するだけでも胸が痛む。
藤丸は問いを重ねる。
「敵の規模は?」
「詳細までは把握しきれていません。ですがワイバーンの数は多く、上空を常に監視されています。加えて、複数のサーヴァントが彼女に従っていることも確認しています」
ここで彼女の言い方に、わずかな迷いが混じる。“従っている”と言い切っていいのか、彼女自身も判断しかねているのだろう。召喚されたから敵にいるだけなのか、意志を持って味方しているのか。その区別は、実際に相対してみなければ分からない。
「こちらの戦力は私を含めてご覧の通りです。兵たちも決して諦めてはいません。ですが消耗は激しい。避難民を守りながらの戦いは、どうしても機動力を失います」
「だから、協力者が必要だと思うんです」
藤丸の言葉に、ジャンヌは頷く。
「はい。私たちは現在、他の英霊たちを探しています。わずかでも協力を得られれば状況は変えられるかもしれません」
マシュはその会話を聞きながら、微かな安堵を覚えていた。
流れは大きく逸れていない。少なくとも現時点では、第一特異点の骨格は維持されている。
その時だった。
外から駆け足の音がして、ジャックが布をかき分けるように戻ってきた。
呼吸は乱れていない。だが目だけが鋭い。
「マスター」
「どうしたの、ジャック」
「遠くに黒いの、いたよ」
ジャンヌ(ルーラー)の表情が即座に引き締まる。
「竜の魔女、ですか?」
ジャックは少し考えてから頷く。
「たぶん。旗があった。その人と似たのが。でも、こっちにはまだ来ない。遠くから、見てるだけ」
藤丸が眉を寄せる。
「こっちの位置は掴まれてる?」
「うーん・・・・? ちゃんとじゃない。でも煙とか、人の動きとか。そういうのでだいたい」
「偵察ね」
エレナが静かに呟く。
「向こうもいきなり本隊をぶつけるつもりはないみたい。まずはこちらの規模と動きを測ってる」
ジャンヌ(ルーラー)はすぐに立ち上がった。
「ならば、可能な限り素早く陣の位置を変えます。避難民と負傷者の移動を最優先に」
その判断は早かった。藤丸もすぐに頷く。
「手伝います。兵の負担を減らすために役割を分けよう。マシュは移送と護衛。エレナは経路の確認。ジャックは先行偵察。ジャンヌ――」
彼の視線が、ランサーのジャンヌへ向く。
「住民の護衛を最優先。敵が来ても、俺が言うまで宝具は使わない。いい?」
「承知しました。あなたの守りたいものを、守り抜きます」
その返答の後、ほんの一瞬だけ、ルーラーのジャンヌが彼女を見た。愛ではなく、祈りでもなく、ただ一点への奉仕として語られる“守る”。
同じ言葉なのに、意味合いがまるで違うことを、彼女も感じ取っているのだろう。
移動準備は慌ただしかった。
少ない荷をまとめ、歩けない者を担架へ乗せ、子どもたちを大人の間へ入れる。兵士たちは疲れ切っていたが藤丸やマシュが動き出すと、それにつられるように皆が動き始めた。
マリーやモーツァルト、他の英霊たちとまだ合流していないこの段階では希望そのものが少ない。だからこそ、目の前で手を動かす者の存在が重要になる。
マシュは子どもを抱き上げ、母親へ渡した。老人の腕を支え、荷を持ち、できることを一つずつ増やしていく。
盾を持つ手は戦いのためだけにあるのではない。そういうことを、彼女は何度もこの旅で学んできた。
不意に、ジャンヌ(ルーラー)が小さく声をかけてきた。
「マシュ」
「はい?」
「あなたは・・・・不思議な方ですね」
マシュは足を止める。
ジャンヌは避難民へ目を配りながら続けた。
「戦い方は熟練している気配があるのに、その眼差しにはなお迷いがある。迷いがあるのに、足は止まらない。まるで道を知っている人のように」
その言葉に、マシュの胸がひどく冷えた。見抜かれている。
全部ではなくても、何かを感じ取られている。
「・・・・・気のせいです」
かろうじてそう答える。
自分でも下手な誤魔化しだと思った。
ジャンヌは微笑んだ。追及はしない。だが受け流してもいない。
「そうかもしれません。けれど、今はそれで構いません。あなたがここで、誰かを守るために立っていることに変わりはありませんから」
その言葉は、救いでもあり、痛みでもあった。私は知っている。
でも、知っていることを言えない。その上で、“今ここで誰かを守る”ことだけは本物だと認められるのは、あまりにも優しくて苦しい。
移動は夕方まで続いた。
日が傾き始めた頃、いくらか深い林の縁へと陣を移し終える。上空からの視認は多少避けやすくなった。だが安全とは言い難い。いつまたワイバーンが来てもおかしくない。
ジャンヌは再び簡素な作戦卓を作り、地図を広げた。
「今夜はここで休みます。明朝、マリー・アントワネットの捜索に向かいたいのですが・・・・」
藤丸が頷く。
「俺たちも同行する。味方を増やすのが先決だ」
「ありがとうございます。彼女は避難民保護のため各地を転々としているようです。もし合流できれば、民の不安を和らげる助けにもなるでしょう」
その時、遠くで、低い咆哮がした。
夜風に乗って届いた、竜の声。
まだ遠い。だが消えたわけではない。
焚き火の火がぱちりと爆ぜる。兵士たちは無言で武器を抱き寄せた。
誰もが、今夜も眠りは浅いと知っている。
藤丸は空を見上げた。マシュもつられて見上げる。黒い雲の向こうに、月は見えない。
「先輩」
「ん?」
「・・・ここから先、想定通りに行くとは限りません」
口をついて出たのは、半ば独り言のような言葉だった。
藤丸は驚いたように彼女を見たが、咎めはしなかった。
「うん。でも、たとえ違っても進むしかない」
そう言って、小さく笑う。
「その時は、その時の最善を選ぶよ。マシュがいてくれるなら、何とかなる気がする」
胸が熱くなる。
嬉しい。
嬉しいからこそ、守らなければと思う。
「・・・・はい」
それだけで精一杯だった。
火の向こうで、ランサーのジャンヌが静かに二人を見ていた。エレナは何かを考えるように本をめくり、ジャックは藤丸の足元近くにしゃがみ込んで、夜の気配を聞いている。
第一特異点は、まだ始まったばかりだ。
焼けた国。
黒い旗。
白い旗。
守るべき人々。
そして、知っているはずなのに未知へ変わっていく道筋。
マシュは盾を抱き寄せるようにして目を閉じた。
眠るためではない。明日もまた、立つために。
竜の魔女がこの国を沈黙させようとするなら、こちらはその沈黙を破らなければならない。
先輩と一緒に。
この旅がどれだけ歪んでも、自分だけは彼の隣で正しく立っていなければならない。
夜は深まり、火は揺れ続ける。
その先に待つのは、王妃との合流か、それともさらなる炎か。
だがいずれにせよ、もう引き返す場所はない。