戦いの後に残るのは勝利ではなく後始末。倒れた敵の確認に怪我人の選別。広場に散った瓦礫の移動。泣き出した子どもを宥める声。鍋の火を落とさないよう気を配る者。崩れかけた壁を背に、ようやく腰を下ろして震え出す兵士。
マシュは、そうした一つ一つの光景を見ながら、ようやく自分の呼吸が落ち着いてきたことに気づいた。カーミラは退いた。だが倒せたわけではない。こちらを測って王妃を揺さぶり、十分に“次がある”ことだけを残して去っていった。
つまりこれは勝利ではなくただの挨拶。
敵がこちらを敵として認識した、その最初の接触に過ぎない。
「マシュ、こっちはもう大丈夫」
藤丸が声をかけてくる。広場の端で怪我をした兵士の包帯を巻き終えたところだった。袖に煤がつき手にも土がついている。戦闘が終わってからも休む暇などなかったはずなのに、その声色は不思議なほど落ち着いていた。
「先輩こそ、休んでください」
「休む前に確認だけ。避難民の数、怪我人、移動できる人。そこが分かれば、次の判断がしやすいから」
いつものことだ。そう思いながらも、マシュは胸の奥が少しだけ熱くなる。
この人は自分の怖さや疲れを後回しにする。後回しにしてでも今必要なことを先に拾おうとする。だからこそ守らなければならないと何度でも思うのだ。
広場の中央では、マリーが避難民のもとを一人一人回っていた。
「はい、こちらのお嬢さんにはお水を。それから、そちらの毛布はもう少し火から離した方が良いわ。焦げてしまったらもったいないもの」
彼女は軽やかに動く。ドレスの裾は泥に汚れ、顔の輝きも煤で少し鈍っているのに、不思議とその姿はみすぼらしく見えない。むしろ荒れた広場の中で彼女だけが“王妃であること”をやめていないように見えた。
怖がる子どもの前ではしゃがみ込み、老人の手を取っては笑いかけ、兵士の疲れた顔に向かっては「無理はしすぎないように」と言う。どれも特別な奇跡ではない。派手な魔術でも、圧倒的な武威でもない。 ただ、人の心を少しだけ軽くするための言葉と仕草だ。
だが、今この広場では、それが何より価値を持っていた。
ジャンヌ(ルーラー)が、その様子を見ながら小さく息を吐いた。
「やはり、彼女がいるだけで違います」
その言葉に、藤丸が頷く。
「うん。安心させるっていうのは、こういうことなんだなって分かる」
「ええ。戦いにおいて兵の士気はもちろん重要ですが、民の心が折れないこともまた同じくらい大切です。人が“明日も生きる意味がある”と思えなくなった時、その国はどんな軍勢より先に崩れてしまいますから」
ジャンヌはそこまで言ってから、少しだけ困ったように微笑んだ。
「私はどうしても旗を掲げる側の人間です。兵や人々にとって、目印にはなれてもあの方のように肩の力を抜かせることは得意ではありません」
「そんなことありませんよ」
マシュは、思わず少し強めに言っていた。妙に圧が強いこともあってジャンヌが目を丸くする。
「マシュ?」
「すみません。でも・・・・ジャンヌさんの旗があったから、皆さんはあそこまで持ちこたえられたのだと思います。安心のさせ方が違うだけです。誰かの心を支えていることに、変わりはありません」
自分でも少し熱くなっていたと思う。けれど、言わずにはいられなかった。
ジャンヌは数拍黙り、それから柔らかく頷いた。
「ありがとうございます。そう言っていただけると少し救われます」
その微笑みは、どこか痛みを含んでいた。彼女は人を救う立場にいるくせに、自分が救われることには慣れていないのだ。
その時、後ろから軽い拍手が聞こえた。
「いやあ、実に結構。朝っぱらから聖女と優等生と善良なマスターが揃って、たいへん見目麗しい会話をしているじゃないか」
気の抜けたような、しかしよく通る男の声だった。振り返ると崩れた石壁の上に一人の青年が腰掛けていた。
白い外套。整えられた銀髪。軽薄そうに見えて、その実、こちらの全員をよく観察している目。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
マリーがぱっと顔を明るくした。
「アマデウス!」
「おや、マリー。相変わらず、こんな泥と煤だらけの場所でも絵になるね。ある意味では宮廷にいた頃よりよほど似合っているかもしれない」
「まあ、失礼ね」
そう言いながらも、マリーは楽しそうだった。モーツァルトは石壁から飛び降り、優雅なのかぞんざいなのか分からない礼をした。
「初めまして――ではないかな。いや、初めましてとしか言えないのだろうね。僕はアマデウス・モーツァルト。しがない音楽家にして、戦場においては驚くほど役に立たない男さ」
「そんなことありません」
ジャンヌがすぐに否定する。モーツァルトは肩をすくめた。
「いやいやあるとも。剣も槍も振れないし、ドラゴンを一撃で吹き飛ばせるわけでもない。せいぜい、人の気分を少しマシにする程度だ。けれどまあ、このご時世だ。少しマシ、というのも案外馬鹿に出来ないらしい。さて、そちらが噂の増援かな? 王妃様とジャンヌにずいぶん頼もしい同伴者がついたものだ」
その声には軽い冗談めいた響きがある。だが目は軽くない。特にマシュの後ろに控える三騎へ向けられた時、わずかに細くなった。
「初めまして。藤丸立香です」
「マシュ・キリエライトです」
「ふむ」
モーツァルトは腕を組み、二人を順に見て次にランサーのジャンヌへ視線を止めた。
「驚いた。僕はさほど信心深い方ではないが、神秘的な体験というのは時々あるものだね。聖女が二人、しかも片方は槍持ちとは」
ランサーのジャンヌは、穏やかな顔のまま会釈した。
「初めまして、モーツァルト。私はマスターの槍として在る者です」
「ほう。自己紹介がすでにだいぶ変わっている」
モーツァルトは面白そうに片眉を上げ、それ以上は踏み込まなかった。分からないものを分からないまま棚に上げる判断が早い。そういうところがこの男らしい、とマシュは思う。
続いてエレナへ視線が移る。
「そしてこちらは・・・・なるほど、魔術師枠かな。いや、そこまで単純ではないか。君は少し説明しなさそうな顔をしている」
「まあ、ひどい言い草。でも嫌いじゃないわ。あなたみたいに勘の良い人は、話していて退屈しないもの」
「光栄だね。もっとも、僕は勘が良いというより、舞台の上で“妙に目立つ不協和音”に気づきやすいだけさ」
最後にモーツァルトはジャックを見る。ジャックは藤丸の近くにぴたりと寄り、じっと相手を観察していた。
「・・・・小さい暗殺者。これはまた、見たままに受け取って良いのか良くないのか」
「ジャックはジャックだよ」
「そうかい。それは一番困る答え方だな。・・・・本当に困るな」
そう言って、彼はふっと笑った。それ以上は詮索しない。違和感は抱いている。けれど今はそれを深掘りする場ではないと判断しているのだ。
マシュはそれに、少しだけ助けられるような気持ちになった。人理側のサーヴァントたちは確かに違和感を覚えている。だが、それをいちいち問題化しない。戦場には、他に優先すべきことが山ほどあるからだ。
モーツァルトは広場を見回した。
「で、王妃様。状況はあまりよろしくない、と見ていいのかな?」
「ええ。カーミラというサーヴァントが来たわ。使い魔を連れて。こちらを探っていたのだと思う」
「なるほど。ということは、敵側も“このあたりに何かまとまった動きがある”と気づき始めているわけだ」
藤丸が補足する。
「本格的に狩りに来る前にこっちも手を打ちたい。今のところ敵の正確な布陣はまだ見えていないけど、幹部クラスのサーヴァントが複数いるのは確かだと思う」
「幹部クラス、か。ずいぶん素敵な言い方をするじゃないか。だが、まあ間違ってはいない。こちらにとって問題なのは、“誰がどの程度、本気で竜の魔女に与しているか”だろうね。召喚されたから仕方なく従っているのか、それとも積極的に国を焼く側へ回っているのか。そこが分からないと対処も変わる」
ジャンヌ(ルーラー)が厳しい顔で頷いた。
「はい。同じ英霊である以上は無駄な戦いは避けたい。ですが避けられないのなら、こちらも覚悟を決めなければなりません」
その言葉を聞きながら、藤丸は少し考え込むように黙った。
マシュは、藤丸が何を考えているか少し分かった。“無駄な戦いは避けたい”。それは本心だ。だが同時にこの場にはビーストサーヴァントがいる。もしサーヴァント同士の本格戦闘になれば、彼女たちは遠慮なくその性能を発揮するだろう。藤丸がどこまで抑えられるか、それは状況次第でもある。
藤丸が口を開いた。
「次の目標を整理しよう。マリー達とは合流できた。次はモーツァルト。これで二騎。その後は現地の戦力と避難民を一度まとめて、安全に動かせる場所を確保する。敵の布陣を知らないまま大軍で動くのは危険だし、こっちは守るものが多い」
モーツァルトが指を立てながら満足そうに言葉へ反応する。
「良いね。それと付け加えるなら、“勝てる戦場”をこちらで選ぶこと。竜の魔女の土俵に乗ってはだめだ。空を押さえられている以上、開けた場所で包囲されれば終わる」
「そうですね」
ジャンヌが地図を広げる。
「森沿い、あるいは廃城塞の周辺であればある程度は上空からの奇襲を防げるかもしれません。ただし避難民の移動を考えると、あまり険しい道は使えない・・・・」
会話は自然と作戦の形になっていった。マリーが避難民の状態を伝え、モーツァルトが地形的な不利を指摘し、ジャンヌが軍勢の動かし方を考え、藤丸が優先順位を定める。マシュはその流れを見ながら、少しだけ安堵した。
戦いは始まっている。だが、まだ“戦える形”を保てている。それは、この場にいる面々がきちんと役割を果たしているからだ。
その時、不意にモーツァルトが何でもない風を装って藤丸へ尋ねた。
「ところで、マスター。君の同行者たちは・・・・ずいぶん個性的だが、普段からその構成なのかい?」
「場合による、と思う。今回はこの三人が動きやすいと思った」
「なるほど。では、残りもいるわけだ」
軽い調子だった。だが、その一言でマシュの肩がわずかに強張る。
藤丸はそれを隠さず、正直に答えた。
「いる。ただ、今回は同行してない」
「そうかい。なら結構。今ここで深掘りする趣味はないし、舞台の裏側まで全部覗くのは無粋だからね」
モーツァルトは本当にそれ以上は聞かなかった。ただ、“まだ見ぬ何かがカルデア側にはある”という事実だけを把握し、頭の片隅に置いた。
それで十分という顔だった。
マリーが少しだけ首を傾げる。
「アマデウス、あなた、ずいぶんあっさりしているのね」
「詮索しても今ここで得になる答えが出るとは限らないからさ。それに王妃様。僕はあくまで音楽家だ。奇妙な同伴者の正体を暴くより、今この場で誰がどんな音を鳴らしているかの方に興味がある」
「ふふ、相変わらず分かったような分からないようなことを言うのね」
「分かりやすい音楽家なんて、少し退屈だろう?」
その言い方にマリーが肩を揺らして笑う。重い空気をほんの少しだけ持ち上げる、絶妙なやり取りだった。
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竜の魔女陣営では、別の種類の会話が交わされていた。
焼け落ちた修道院の跡地。
かつて祈りが捧げられていたであろう場所は、今や黒い煤と魔術陣で塗り潰されている。天井は半ば崩れ、差し込む光は灰で鈍く濁っていた。
ジャンヌ・ダルク〔オルタ〕は、壊れた祭壇に腰掛けていた。目の前では、ジル・ド・レェが恭しく膝をつき、得てきた情報を報告している。
「・・・・と、そのように。マリー・アントワネットはまだ各地を巡り、避難民を取りまとめているようです。加えて敵の側へ新たな戦力が合流したとのこと」
「新たな戦力」
オルタは退屈そうにその言葉を繰り返した。
「どの程度?」
「詳細は不明です。しかし、カーミラの報告では少なくとも通常の兵や民兵ではありません。マスターらしき少年と、盾を持つ少女、それに――」
ジルは一瞬言葉を選んだ。
「・・・・不可解なサーヴァントが三騎」
「不可解、ねえ。ずいぶん曖昧な報告をするじゃない」
「申し訳ございません。しかしカーミラも“説明しづらい”と。聖女に酷似した槍兵、正体の見えない魔術師、そして白髪の小さな暗殺者・・・・そうした特徴までは掴めたものの、どこか輪郭が掴みきれないと申しておりました」
「要するに、わけの分からない連中が相手のところに増えた、と」
「はい」
「ふうん」
彼女の関心は、それで十分だった。最初から細部に拘る性質ではない。重要なのは、それが自分の戦争にどう関わるかだ。
少し離れた柱の陰では、カーミラ本人がくすくすと笑っている。
「だけど面白いわよ。少なくともただの増援ではないわ。あのマスターの周囲にはどうにも嫌な手触りのものが集まってる。まるで自分の懐へ刃物ばかり抱え込んで平然としているような」
その言い方に、オルタは鼻で笑った。
「刃物を抱え込んでいる?それで自分が切れないと思ってるなら、随分間抜けな話ね」
「もしかすると、自分が切れることも含めて受け入れているのかもしれませんわ」
カーミラの言葉に、ジャンヌ・オルタの眉がわずかに動く。それは共感ではない。
ただ、その仮説が少しだけ耳障りだったのだ。
「気に食わない」
ぽつりと、彼女は言った。
「そういうのすごく気に食わない。自分だけは傷つく覚悟がある、みたいな顔で立つ連中。そういう顔で“正しい側”にいようとする奴を見ると、燃やしたくなる」
祭壇の縁を指先で叩く。その声音には怒りが混じっている。だが、怒りだけではない。
カーミラはその微妙な濁りを面白がるように、目を細めた。
「竜の魔女様にしては、ずいぶん強い反応ですこと。たった一度見ただけの少年にそんなに興味を?」
「興味なんてあるわけないでしょ」
即答だった。だがその即答の早さ自体が、否定になっていない。
「ただ目障りなだけ。そんな顔をしたマスターが、どうしてジャンヌ・ダルクの隣に立ってるのか気に入らないのよ。――それに」
彼女は少しだけ笑った。
「従えてる連中も妙に気に障る。特に槍持ちの女。・・・・それは何?」
ジルが恐る恐る口を開く。
「何、とは・・・・?」
「私が聞いてるのは名前じゃないわ。あれが“何”かよ」
言葉を切るたび、彼女の苛立ちが濃くなる。同じ顔。似た輪郭。だが自分のように怒りへ燃えてもいなければ、ルーラーのように祈りへ縋ってもいない。ただ、たった一人のマスターだけを見ているという。その在り方がどうにも気味が悪かった。
「くだらない。自分が何を憎んでるかも自分が何に燃えてるかも曖昧なくせに、他人の後ろに立って満足してるだけの顔。ああいうのが一番つまらない」
柱の陰に控えていたアタランテが、静かに目を上げた。狩人のような鋭い視線がオルタへ向けられる。
「ずいぶん強く言うな」
「何よ」
「いや。気に入らないのであれば、すぐに殺せばいい。お前はそういうやり方を好むと思っていた。既にかなり派手にやっているしな」
ジャンヌ・オルタは口元だけで笑う。
「簡単に燃やして終わりにするには、少しだけ面白いのよ。どうしてあの連中がそのマスターのところにいるのか。そのマスターは何を抱えたまま平然と立ってるのか。それを知ってから壊した方がたぶん気分がいい」
アタランテはそれ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ不快そうに目を細める。彼女にとって戦いを“気分”で語るのは好ましいことではない。だが今この陣営で竜の魔女に正面から異を唱える者は少ない。
ジルだけがうっとりと頷いていた。
「素晴らしい!敵を観察し、その心を砕き、その希望を潰してから焼き尽くす。実に、実にお美しい」
「黙りなさい」
「はい」
ジルはすぐに口を閉じた。悦んでいるくせに従順なのが、余計に気色悪い。
ジャンヌ・オルタは立ち上がる。
「カーミラ」
「はい?」
「次はもう少し本気で行きなさい。あの王妃の首を持って来いとは言わない。でも泣かせるくらいはしてきなさいよ。それとあのマスターたちがどこまでやれるのかもきちんと見てきて」
カーミラが優雅に一礼する。
「仰せのままに。けれど、もし私が少々遊びたくなってしまっても見逃してよ?」
「結果を持って帰るなら好きにしなさい」
「まあ、なんて寛大」
カーミラは唇を笑みに歪めた。その横でアタランテは静かに弓へ触れ、ファントムは仮面の下で何かを囁き、ランスロットは無言のまま剣のような黒い何かを握り締める。敵もまた整いつつあった。
夕方。
マリーの避難民たちはより大きな群れとして再編されることになった。
広場に残り続けるのは危険だ。カーミラが一度現れた以上、ここはすでに“見つかった場所”でしかない。敵が再度来る前に人と物資を分散し、移せる者は移しておく必要がある。
モーツァルトは、荷車の車輪を確かめながら呟いた。
「僕は昔から、舞台替えというものが得意ではなくてね。けれど今のこれは嫌いじゃない。幕が落ちる前に役者全員を次の場面へ運ぶようなものだと思えば、案外やる気も出る」
マリーが呆れ半分に笑う。
「あなた本当に何でも舞台や音楽に例えるのね」
「生憎それ以外の言語をあまり知らないものでね。それにマリーだって舞台映えする台詞ばかり言っているじゃないか」
「私は別に映えようと思って言っているわけではないのだけれど」
「そこが一番厄介なんだよ」
そんなやり取りをしながらも二人の手は止まらない。マリーは子どもたちを荷車へ乗せ、モーツァルトは兵士へ移動順を指示し、ジャンヌ(ルーラー)は全体の進行を整える。
藤丸は少し離れた位置で三騎を呼び寄せた。
「確認する。次の移動中は護衛最優先。敵サーヴァントが来たら迎撃するけど、避難民を巻き込むような戦い方はしない。大丈夫?」
ジャンヌ(ランサー)が頷く。
「はい。必要ならば、敵の動きを限定しこちらの被害を抑える形で対処します」
エレナは肩をすくめる。
「こっちは補助と妨害に徹すればいいのね。まあ、それくらいなら可愛いものよ」
ジャックは少しだけ考えてから言った。
「切るのはサーヴァントだけ?」
「基本はそう。敵が避難民に手を出したらその時は止める。けど先に飛び出さないでね? 本当に頼むよ?」
「うん」
素直な返事。それだけに、藤丸もマシュも、その“素直さ”が何に対するものかを忘れないようにしなければならなかった。
やがて移動が始まる。
傾きかけた日差しの中、荷車が軋む。足の遅い者が支えられ、兵士たちが左右を固め、前方にはジャックが先行し、上空や周辺の気配をエレナが拾う。
マシュは藤丸の少し前に位置を取りながら、何度か後ろを振り返った。そこには、同じように歩き続ける人々がいる。
泣いている子どももいる。疲れて足を引きずる老人もいる。けれど、広場にいた時より少しだけ顔が前を向いていた。
たぶん、マリーが笑っていたからだ。たぶん、ジャンヌが旗を掲げていたからだ。そして、先輩が“やることをやっている”からだ。
それだけで、人は少しだけ歩ける。
「マシュ」
「はい」
「今夜、もし落ち着いたら。敵の顔ぶれについて、こっちでも整理しよう」
その言葉に、マシュの心臓が一瞬強く打った。“知っていること”をどこまで言うか。そこをまた迫られるのかと思ったのだ。
だが藤丸の続きはもっと現実的だった。
「ジャンヌとマリーさん、それにモーツァルト。みんな見てる範囲が違う。情報を合わせれば敵の動きももう少し見えるかもしれない」
「・・・・はい。そうですね」
安堵しながら、同時に少しだけ胸が痛む。自分はまだ言えていない。言えないままだ。それでも先輩は、誰かの知識と経験を集めて前へ進もうとしている。
その時、前方からジャックが戻ってきた。藤丸のすぐ横へ滑り込むように現れる。
「マスター」
「どうした」
「前に人」
「敵?」
「ううん。でも、変な歌・・・・じゃない。へんな音」
音。その言葉に、モーツァルトが眉を上げた。
「ほう。敵でもなく、ただの風でもない“変な音”とはこれはまた興味深い」
ジャックは小さく頷く。
「きれいじゃない。でもいやな感じもしない。なんか・・・・・いじわるな音」
モーツァルトがふっと笑った。
「それはたぶん僕の同業者だな。優しくはないが悪意とも少し違う。実に面倒くさい類の音を出す男が一人、心当たりがある」
マリーが小さく息を吐く。
「アマデウス。それあなたのことじゃなくて?」
「失礼だな、マリー。僕はもっと洗練された嫌味を奏でるよ」
そんな会話を交わしながら、一行は前へ進む。
日は沈みかけている。敵も味方も、次の夜に備えて動く時間だ。
第一特異点は、まだ序盤にすぎない。それでももう、聖女、王妃、音楽家、そしてカルデアのマスターが同じ列に並び始めている。
この列がどこまで折れずに進めるのか。その先に何が待つのか。
マシュは盾を抱え直した。守る。先輩を守る。そのために、この列を守る。
夕暮れの道を、彼女たちは歩き続けた。