夜の礼拝堂には、奇妙な静けさが宿る。
崩れた屋根の隙間からは月光が差し込み、砕けた石床の一部を白く照らしている。壁際には荷車から降ろした荷が寄せられ、兵士たちは交代で見張りにつき、避難民たちは毛布を寄せ合って眠ろうとしていた。火は三つ。ひとつは炊き出しのため、ひとつは見張りのため、そしてもうひとつは――話し合うための火だ。
戦いの直後はどうしても人の声が小さくなる。
勝った負けたではなく、「まだ次が来る」という予感が全員の喉元を掴んでいるからだ。
火を囲む形で、藤丸、マシュ、ジャンヌ、マリー、モーツァルトが座っていた。少し離れた場所に、ジャンヌ(ランサー)、エレナ、ジャックもいる。完全に輪へ加わるのではなく、藤丸の視界に入る位置へ自然に収まっているあたりが三騎らしいと言えば三騎らしかった。
最初に口を開いたのは、モーツァルトだった。
「さて。こういう時、僕は決まって“音楽家は戦場では役に立たない”と言うことにしているんだがどうやら今日ばかりは少し事情が違うらしい。ワイバーンの羽音と避難民のざわめきと、兵士の鎧の擦れる音を全部ひとまとめに聞いていると嫌でも分かる。今夜のこれは単なる夜襲じゃない。向こうはこちらの息遣いを確かめに来たんだ。何人いて、誰が指揮を執っていて、どの程度まで踏み込めば崩れるのか。――あの騎士はそのために送られてきた」
火の向こうで、ジャンヌが頷く。
「私も同感です。あの方は最初から勝ち切るつもりで来たというよりもこの陣の形と私たちの反応を見ていたように感じました。ワイバーンを伴っていたのも力押しのためというより、こちらの守り方を探るためだったのでしょう」
マリーが膝の上で指を組み、小さくため息をついた。
「だとすると、嫌なことね。こちらは避難民を抱えていますもの。守るべきものが多い陣営というのは、それだけで相手に“試す余地”を与えてしまう。私たちが何を優先し、何を見捨てられないか。それを知られたら次からはそこを突かれます」
藤丸は焚き火の炎を見つめたまま言う。
「そうなる前にこっちも相手の情報を揃えたい。誰がいて、どのくらいの戦力があって、どういう順番でぶつかってくるのか。分かってることを一度整理しよう」
マシュはその声を聞きながら、ようやく息を整えた。
先輩は、こういう時に落ち着いている。いや、落ち着いて見せると言った方が近いかもしれない。内心の恐れや緊張が消えているわけではないはずなのに、それをそのまま外へは出さない。そうしなければ、周囲の呼吸が乱れることを知っているからだ。
モーツァルトが肩を竦める。
「うん、いいね。その方が建設的だ。怯えるにしても正しい相手を選んで怯えたい。無駄に全部を怖がるのは美しくない上に効率も悪い」
マリーがじろりと横目を向けた。
「相変わらず、言い方が少しだけ意地悪ね。でも、今のは同意します。漠然と怖がっていると、必要な行動まで止まってしまいますもの。今は何が敵で何が味方で、何を優先するべきかをはっきりさせた方がいい」
ジャンヌが真っ直ぐに藤丸を見る。
「では、私から。現時点で確実に把握している敵戦力は、竜の魔女――ジャンヌ・ダルク〔オルタ〕。その配下として動くワイバーン群。そして複数のサーヴァントです。今夜現れたのはシュヴァリエ・デオン。昼間に王妃を狙って現れたのがカーミラ。ここまでは間違いありません」
藤丸が地図代わりに広げた板の上へ、石片を二つ置く。
「デオンとカーミラ」
「はい。それに加えて、これまで拾った伝聞や、敵方の進軍跡から推測できるものがあります。弓兵のサーヴァント。槍兵。狂戦士。おそらく、竜の魔女はただワイバーンを放っているだけではありません。各地へサーヴァントを散らし、恐怖と混乱を管理している。そうでなければ、この短期間でこれほど効率よく集落が焼かれるはずがないのです」
モーツァルトがそこで指先をひとつ鳴らした。
「その通り。竜だけで村を焼くならもっと大雑把になる。燃やすだけなら簡単だが、“逃がして、怯えさせて、次の村へ噂を運ばせる”となると話が違う。今のフランスで起きていることはただの虐殺じゃない。計画的な戦争だ。恐怖そのものを兵站にしている」
マシュはその表現に、ぞくりとした。恐怖を兵站にする。
ひどく分かりやすい言葉だった。食糧や武具の代わりに焼かれた村の噂と、逃げ延びた人々の絶望を運ばせる。それによって次の村が早く折れるなら確かに効率的だ。効率的で、だからこそ悪辣だ。
マリーが唇を引き結ぶ。
「許し難い話ですわ。人の心を折ることまで“手順”に組み込んでいるなんて」
「そうだね。だからこそ、王妃様の価値がある。君が今やっていること――笑って、歩かせて、子どもに声をかけて、老人の手を引くこと。あれは全部、竜の魔女が撒いている恐怖への対抗策になっている。剣で切り払うのとは別の意味で、とてもよく戦っているよ」
「あなたにそんなふうに褒められると、少し調子が狂いますわね。でもありがとう。そう言ってもらえるなら、王妃として頑張っている甲斐があります」
そのやり取りを聞きながら、藤丸は石片をさらに置く。
「敵は少なくとも二騎以上。たぶん実際はもっと多い」
モーツァルトが頷く。
「多いとも。僕が知っている限りでも、竜の魔女の陣営にはまだ弓兵がいる。かなり厄介な相手だ。森と夜を使われたら面倒だし、単純な腕前だけ見ても一流と言っていい」
「名前は?」
「アタランテ。神話の大英雄と並べても遜色ない狩人だ。速く、静かで、判断が早い。加えて、子どもに関わることとなると一層ややこしい。あれはそういう英霊だ」
子ども。その言葉に、マシュの視線が自然とジャックの方へ向いた。
ジャックは藤丸の近くに座り、膝を抱えて火を見ている。一見すると大人しい子どもだ。だが刃を握れば話は変わる。
アタランテと出会った時、どうなるだろう。その想像に不穏なものが胸へ落ちる。
藤丸も同じことを考えたのか、表情を少しだけ引き締めた。
「・・・・・相性が悪そうだな」
「悪いだろうね。もっとも、あちらがその子をどう見るかは分からない。守るべき子どもと見るか、危険な暗殺者と見るか。あるいは、その両方か。けれど、少なくとも感情の揺れは生まれるはずだ。その揺れは戦場では厄介なノイズにも突破口にもなる」
ジャンヌが続ける。
「さらに、槍兵の気配もありました。報告が正しいなら、その名はヴラド三世。狂戦士については、まだ断定は出来ませんが・・・・もし本当に名のある存在であるなら単独でも脅威です」
マリーが目を伏せる。
「聞けば聞くほど、気軽に笑っていられる顔ぶれではありませんわね」
「ええ、そうですね」
ジャンヌが静かに答える。
「ですが、だからこそ、こちらも味方を集めなければなりません。私と王妃、アマデウス、そしてカルデアの皆さんだけで全てを支えるには限界があります」
藤丸は火の向こうで揺れるジャンヌの顔を見た。その横顔は疲れている。それでも、目だけはまっすぐだ。
この人は、無理を押してでも前に立つ。ならば、その“無理”を前提にしてはいけないのだと、藤丸は思った。
「分かった。次の目標は味方の確保で確定だ。戦える英霊を探す。それと同時に、避難民の安全な移動先も探る。この礼拝堂跡は今日明日で使い潰す前提で考えた方がいいかも」
エレナがそこではじめて本格的に会話へ加わった。
「その判断は賢明ね。敵はこちらの位置をもう掴み始めているし、次の襲撃が同じ強度とは限らないもの。ただし、動くなら夜明け前は避けた方がいいわ。魔力の流れが少し乱れていて、上空からの探知とこちらの視界が噛み合わない。移動に向いている時間帯じゃない」
藤丸が視線を向ける。
「おすすめは?」
「日が昇ってから、空が完全に明るくなるまでの間。敵も夜襲の疲れが残るし、ワイバーンの索敵も切り替わる。ほんの短い時間だけれどそのくらいなら私たちの方が動きやすい」
「分かった。じゃあ明朝、早めに出る」
そこで、ジャンヌ(ランサー)が静かに口を開いた。
「マスター。確認してもよろしいでしょうか」
「どうしたの?」
「味方の探索を優先する方針に異存はありません。ただ、その過程で敵サーヴァントと接触した場合、私達はどこまでの出力を許されるのでしょう。昼間のカーミラ、そして今夜のデオン。彼らはいずれも本気ではありませんでした。ですが、本気で来るなら話は変わります。避難民を守りつつ短時間で切り崩すには、こちらも中途半端は避けるべきです」
火の向こうでジャンヌ(ルーラー)の目がわずかに動く。
マリーもまたその問いの重さを感じたのだろう。微笑みを消し藤丸の返答を待っている。
藤丸はすぐには答えなかった。ジャンヌ(ランサー)の問いが正論であることは理解している。中途半端な抑制で被害が増えるなら意味がない。だが彼女の“中途半端ではない”がどこまで行くかをシュミレーションで知っているからこそ、簡単には頷けなかった。
少しの沈黙の後、藤丸はゆっくりと言葉を選んだ。
「まず大前提として俺は守るのが最優先だと思ってる。避難民も、味方の英霊も、マシュも、ここにいる皆も。その上で敵サーヴァントを止める必要があるなら、止めるための全力は使う。でも“倒せるから倒す”って判断にはしない。どこまで必要か、その場で俺が見る」
「・・・・・承知しました。では、私はその都度、あなたの判断を待ちます」
それは従順な返答だった。返答としては正しい。
だがマシュは、そこにほんの僅かに残る温度を感じ取っていた。何度も感じている感覚、“本当ならもっと早く終わらせられる”という確信だ。
モーツァルトがその空気を横目に見ながら、ややわざとらしく咳払いをした。
「さて。真面目な話の合間に僕から一つ、どうでもよくてどうでもよくない情報を差し込ませてもらうとしよう。君たちの同行者たちは見た目の珍妙さに反して実に指示の通りがいいね。これは羨ましい。僕の知る限り、サーヴァントというものはもう少し我が強くて、勝手に舞台へ上がりたがるものなんだが」
エレナが笑う。不快感もない、かといって関心もあまり含んでいないうわべだけをなぞったような....目が笑ってない。
「そういうのは色々と教育の賜物よ」
「教育、ねえ」
モーツァルトは意味ありげに肩を揺らしたが、それ以上は突っ込まなかった。
「まあ、何にせよ今のところはこちらに都合がいい。気になるところがないわけではないが戦場で全部を解き明かしている暇もないからね。分からないものがあっても、今は“使える”と分かっているならそれで十分だ」
その言い方に、マシュは少し救われる。
違和感はある。だが、それをいちいち問い質して場を乱すつもりはない。今優先すべきは別だ――そういう意思が、モーツァルトの物言いにははっきり出ていた。
マリーも小さく頷く。
「ええ。私も同じです。驚いていないと言えば嘘になりますけれど、驚いている間に守れる命を落とす方がずっと嫌だもの。皆さんがこちらのために戦ってくださるのなら、まずはそれを信じたいと思います」
その言葉を受け、ジャックが少しだけ顔を上げた。
「・・・・マリー」
「はい、なあに?」
「さっきも思ったけど。あなた、へん」
の場の全員が一瞬だけ黙った。そして、とうのマリーが吹き出すように笑う。
「まあ。今日はよく言われますわね、それ」
「だって怖いでしょ。私ナイフ持ってるし、敵もいっぱい斬るし。なのにあなたはちゃんと見る」
マリーは、火の向こうからジャックへ優しく目を向けた。
「怖いか怖くないかで言えば、怖いわ。でもね、ジャック。怖いという気持ちとその人をどう扱うかは、同じではないの。私は王妃としてたくさんの人を見てきました。怖い人も、弱い人も、優しい人も、どうしようもなく間違ってしまう人も。そういう人たちを前にした時、最初に“だから駄目です”と言ってしまったら、もうそこで終わってしまうでしょう?」
彼女は少しだけ言葉を区切り、それから続けた。
「もちろん、何でも許すという意味ではありません。してはいけないことは、してはいけない。止める時は止めるし、叱る時は叱らなければならない。でも最初から“あなたは怖いから遠ざけます”というのは、あまり好きではないのよ」
ジャックはしばらく考え込み、それからぽつりと漏らす。
「・・・・マスターに似てる」
その言葉に、藤丸が思わず苦笑する。
「それ、褒めてるのか?」
「うん。たぶん、すごく」
場の空気が少し和らいだ。
それを見て、ジャンヌ(ルーラー)もようやく肩の力を抜いたように見えた。
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同じ頃、竜の魔女陣営では、まるで正反対の沈黙が場を支配していた。
崩れた修道院跡。
祭壇は砕け、ステンドグラスは割れ、床には黒い魔術陣がいくつも重ね描きされている。信仰の残骸を足で踏みにじりながら、ジル・ド・レェが恍惚とした表情で書物をめくる。
その奥、祭壇だった場所の高みにジャンヌ・ダルク〔オルタ〕が腰掛けていた。
「……それで?」
彼女は頬杖をついたまま、目の前のデオンを見下ろした。
「成果は何だったの。王妃は連れて来ない、聖女の旗も折れない、その上で“様子は見てきました”なんて言うつもりなら少し面倒よ」
デオンは静かに頭を垂れていた。
声には敗走の恥は混じっていない。ただ、事実をそのまま報告する者の冷静さがあった。
「仰せの通り、戦果そのものは挙げられなかった。しかし、確認出来たこともある。まず、カルデアのマスター、――藤丸立香。彼は戦場において冷静で優先順位の判断が早い。王妃と避難民を守ることを最優先に据えながら、その場で必要な前衛と後衛をすぐに配置できていた。少なくとも、未熟な子どもが偶然そこに立っている、という類ではないだろう」
「子どもが偶然立ってる戦場なんてそんなもの最初からないでしょ。立たされるか、立つか、そのどちらかよ」
デオンは否定せずに続けた。
「加えて、従えている戦力が問題だ。盾の娘は堅実で守りに迷いがない。それにかなり強いとみた。これは厄介だがまだ理解の範囲内。しかし、その背後の三騎については表現が難しい。貴女に酷似した槍兵は機動と瞬間火力が異常に高い。小さな暗殺者は気配の消し方が常軌を逸している。そして魔術師の女は、こちらの認識と進路に干渉してきた」
カーミラがくすりと喉を鳴らす。
「でしょう?私も昼間に見たけれど、あれは少々嫌な類の手札。強い、というだけなら可愛げもあるのですけれど、どうにも“正面からの比較”にならない感じがする。戦場のルールにそのまま乗ってくれない、とでも申しましょうか」
アタランテが腕を組んだまま、低く問う。
「ならば、なおさら早く潰すべきだ。正体不明の手札を抱えたまま時間を与えるのは得策じゃない」
ジャンヌ・オルタはその言葉を待っていたように口元を歪めた。
「そうね。私もそう思う。でも、ただ数をぶつけて終わりじゃつまらない。あいつらが何を守ろうとしていて、どこまで守れるつもりでいるのか。そこを壊さないと意味がないのよ。あの王妃も、あの聖女も、あのマスターも。みんな“守る”だの“支える”だの、耳障りのいいことばかり言っていたじゃない。そういう綺麗事は崩れる瞬間が一番面白いんだから」
ジルが恍惚とした声を漏らす。
「おお・・・・・! なんと慈悲深きお考え。希望を抱かせたまま、それを砕く――まさしく、救済の否定!」
「黙ってなさい」
「はい」
叱責すら嬉しそうに受け止めるジルを見て、アタランテは露骨に眉をひそめた。
「私は遊びに付き合うつもりはない。やるならやるで、確実に仕留める」
「じゃあ行けば? 次はあなたが行きなさい、アタランテ。カーミラやデオンはあいつらを測るところまではやってくれた。なら次は、もっと厭なところを抉る役が必要でしょう」
アタランテの瞳が鋭く光る。
「・・・・何を狙えばいい?」
「子どもよ」
即答だった。
「王妃は民を守ってる。聖女は旗で兵を支えてる。そしてあのマスターの近くには、“子どもの形をした刃物”がいる。あなた、そういうものに弱いでしょう?」
言葉そのものは挑発に近かった。だが、アタランテは怒らない。ただ静かに目を細める。
「弱いのではない。見過ごせないだけだ」
「同じことじゃない」
ジャンヌ・オルタは肩を竦める。
「要はあなたの判断を揺らす何かがそこにあるってことでしょう?なら、その揺れごと利用しなさい。子どもがいる戦場は誰だって綺麗には動けない」
アタランテはしばらく黙っていた。
その沈黙の間に、ヴラド三世が低く口を開く。
「感情の揺れを前提にした作戦か。好みではないな。戦場とはもっと単純であるべきだ」
「単純?だったらあなたは杭でも降らせていればいいじゃない。誰も彼も同じように貫いて血を啜って、終わり。――でもね、それじゃ国は壊れても、心までは折れないのよ」
ヴラドの視線が冷える。
「余を吸血鬼の怪物と同列に語るな、小娘」
「同列じゃないわよ。あなたはあなた。私は私。だから利用出来るものは利用するだけ」
修道院の空気が一瞬だけ張り詰めた。
だが、そこでデオンが静かに口を挟む。
「竜の魔女。ひとつだけ申し上げる。あのマスターの周囲は言葉の綺麗さに反して判断がかなり冷たい。追い詰めれば取り乱す、という期待は持たない方がいい。少なくとも今夜見た限りでは、彼は自分を犠牲にしてでも列を維持する側の人間だ」
その言葉を聞いた瞬間ジャンヌ・オルタの目がわずかに細まった。
「気に食わない。そういう顔、一番嫌い。自分だけは傷つく覚悟があります、みたいな顔で前に立つやつ。結局、周りにそれを押しつけてるだけなのに」
カーミラが面白そうに首を傾げた。
「随分と刺さっているのね。二人の時間でも作ってみたら? お似合いよ」
「うるさい。だから壊すのよ」
彼女はアタランテを見た。
「行きなさい。仕留められなくてもいい。揺らしなさい。あの列がどこまで“善良な判断”を保っていられるか見てきて」
アタランテは短く頷く。
「分かった。だが、私は私のやり方でやる。必要以上に民を焼くつもりはない」
「好きにすればいいわ。結果さえ持って来るならね」
やり取りはそれで終わった。アタランテは弓を取り、振り返りもせず修道院を後にする。狩人が夜へ溶けていくのを見送りながらジャンヌ・オルタは旗を握り直した。
あのカルデアのマスター。
あの白い聖女。
あの王妃。
そして、あの気味の悪い三騎。
全てが気に食わない。気に食わないから、まだ燃やし切れない。
簡単に壊れるなら面白くない。だからこそまずは揺らす。
彼女は、ようやく少しだけ機嫌を直したように笑った。
□□□□□□□□□□□□□□
礼拝堂跡へ戻る。会議は一段落したが、誰もすぐには眠れなかった。
兵士たちは見張り位置を再調整し、藤丸はジャンヌ、マリー、モーツァルトと最低限の移動順を確認し、マシュは子どもたちの寝床を見回る。
ようやく火の傍へ戻った時、藤丸が一人で礼拝堂の外れに立っているのが見えた。月明かりが肩へ落ちている。眠る前に最後の外周確認をしているのだろう。
マシュは少し迷ってから近づいた。
「先輩」
「ん、マシュ。どうしたの?」
「少しだけ、確認したいことがあって」
藤丸は表情を柔らかくする。
「いいよ。俺も今ちょうど、頭の中を整理してたところ」
マシュは並んで立ち、崩れた石壁の向こうを見た。林が揺れている。風は弱い。だが弱い風ほど夜の物音を遠くまで運ぶ。
「今日の会議で敵の顔ぶれがかなりはっきりしてきました。それに向こうもこちらを測り始めている。ここから先はたぶん、もっと“選ぶこと”が増えます」
「うん」
「先輩は、その時・・・・どこまで割り切れますか」
問いは半ば自分のためでもあった。先輩の善性が今の三騎を押しとどめている。逆に言えばその善性が揺れた時、何が起こるか分からない。
藤丸はすぐには答えない。焚き火の匂いが、少し遅れて風に乗ってくる。しばらくしてから、彼はゆっくり口を開いた。
「割り切るって言葉がどこまでを指すかによるかな。俺は人を守りたいと思ってる。避難民も、味方も、できるなら敵だって無駄には殺したくない。でもそれで守れないなら、選ばなきゃいけない時があるのも分かってる」
マシュは黙って聞く。
藤丸は視線を夜の向こうへ置いたまま続けた。
「たぶん、俺は綺麗にはやれない。綺麗な正解なんてないし、後で絶対に後悔する判断も出てくると思う。でもその時に“何も決めませんでした”だけは嫌なんだ」
その言葉は、痛いほど先輩らしかった。
迷わないのではない。迷った上で、決めないことを一番嫌うのだ。
「・・・・・はい」
「だから、マシュ。俺が変な方向に行きそうになったら、止めてほしい。それは、命令とかじゃなくて。たぶん、一番近くにいる君にしか出来ないから」
胸の奥が、強く鳴った。そんなことを言われて平然としていられるわけがない。
この人は自分の信頼をこういう形で差し出してくる。重い。嬉しい。苦しい。全部一度に来る。
マシュは、少し俯いてから答えた。
「止めます。先輩がどんなに強くても、どんなに正しいつもりでも、違うと思ったら私は止めます。……その代わり、先輩も」
「うん?」
「私が一人で抱え込みそうになったら、止めてください。私は、まだ・・・・そういうところが、あまり上手くありませんから」
藤丸は一瞬だけ目を見開き、それから柔らかく笑った。
「分かった。じゃあ、お互い様だ」
それだけで、十分だった。マシュはようやく少しだけ肩の力を抜くことが出来た。
遠くで、見張りの兵士が合図を送る。異常なし。
今夜はまだ、大きくは動かないらしい。
けれど、夜の向こうでは狩人がもう弓を取っている。
次の矢は、きっと列の“どこを守るか”を試しに来る。
狩人とは厄介なものなのだ。