夕暮れは戦場に一種の錯覚をもたらす。
空が赤く染まれば人は一日の終わりを連想する。
仕事が終われば家へ帰り、火を囲んで休む時間が近づいているのだと身体が勝手に思い込もうとするのだ。だが、この特異点において夕暮れは終わりではない。むしろ夜の襲撃と明日の飢えと次の移動に備えるためのもっとも気を張るべき時間帯だった。
川を渡り終えた一行はゲオルギウスの助言に従い、川沿いから少しだけ外れた高台の林縁を目指していた。水場へ近すぎれば敵もまた同じく水を求めて寄ってくる。開けすぎた場所ではワイバーンの格好の狩場になる。
だから道を外れすぎず、かといって見通しの良い平地も避ける。その微妙な線を今はゲオルギウスが先頭で選んでいた。
「この先に、古い見張り小屋の跡があります。完全な拠点にはなりませんが少なくとも夜を越すだけの地形的優位は得られるでしょう。背後に斜面、左右に木立、前面はある程度開ける。竜が来るなら低く降りてくるしかない、そういう場所です」
藤丸はその説明を聞きながら少しだけ安堵したように息を吐く。
「今の俺たちにはちょうどいいな。避難民を抱えたまま完璧な要塞なんて望めない。でも敵が“やりにくい”と思うだけで十分価値があるはず」
「ええ。守る側は、常に完璧を求められます。ですが現実には完璧な守りなどそうそう存在しない。ですから相手に一つでも余計な判断を強いること。それだけでも立派な防御になります」
マシュはその言葉を胸の中で反芻した。完璧でなくていい。ただ、相手に余計な判断を強いること。それは今の藤丸たちの戦い方そのものだ。圧倒的な殲滅ではなく、守るべきものを見失わずに相手の動きを一つずつずらしていく。その積み重ねは確かな価値のあるものだ。
その時荷車の横を歩いていたマリーが子どもへ毛布をかけ直しながら笑った。
「聞きましたか、皆さん。私たちは今、とても理にかなった場所へ向かっているそうですよ。つまり少なくとも今夜は“疲れたからその辺に座る”よりずっと賢いことをしているのです」
子どもの一人が眠そうな目をこすりながら聞く。
「そこ、こわくない?」
「怖くない場所、とは言えないわ。でもね、“怖いけれど守りやすい場所”と“少し楽そうだけれどすぐ襲われる場所”なら、前者を選んだ方がいい時もあるの。それにあなたたちがちゃんと歩いてくれたおかげで、今はその前者を選べるのよ。だから少しだけ誇っていいわ。皆、今日もとても立派です」
その言い方はやはり見事。不安を消すのではなく行動へ意味を与える。
マシュはマリーのこの才覚が王妃としての教育だけで出来ているわけではないと感じていた。人を見て、人の顔色を読み、その時最も必要な言葉を選べるのは、やはり本人の気質なのだろう。
マシィの言葉を代弁するかのようにモーツァルトが少し離れた場所から肩を竦める。
「マリーは本当に不安をそのまま別の形へ編み直すのが上手い。ああいうのは才能だね。もし君が舞台に上がっていたら、たぶん観客は悲劇の場面でも“この人ならどうにかしてくれるかもしれない”と勝手に思ってしまう」
「それは褒めているのかしら? それとも“王妃の仕事を舞台芸にするな”と遠回しに言っているのかしら」
「両方かな。だが、前者の意味合いが強い。少なくとも今の君は舞台装置としても、現実の指揮官としてもとても優秀だよ。それが僕の正直な感想だ」
「ありがとう。あなたがそこまで素直に言うと明日は大雨かもしれませんね」
「それは困る。せっかくなら敵に降ってほしいね」
そんな軽口の裏で、兵士たちの表情が少しだけ和らぐ。
疲れきった列は、ほんのわずかな笑いでも持ち直せる。
それが今の彼らだった。
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高台の見張り小屋跡へ着いた頃には、日はほとんど落ちていた。
小屋と言ってももはや壁が二枚ほど立っているだけで、屋根は半ば崩れ落ちている。だが地形そのものは悪くなかった。前面は緩やかな斜面で、十数人が並んでも視界を取れる。左右は木立で風を少しだけ和らげる。背後は浅い崖に近い斜面になっているため、大きく回り込まれる危険も少ない。
ゲオルギウスは周囲を一通り確認し、ようやく足を止めた。
「ここなら迎撃しやすい。少なくとも竜が低く入ってくるなら前面からになります。左右の木立から人間大の敵が来る可能性はありますが、それは見張りを厚くすれば対応できるでしょう」
藤丸が頷く。
「使おう。兵士は見張り位置の確認。荷車は中央寄り。子どもと負傷者は小屋跡の陰へ。火は大きくしすぎない。夜目を潰さない程度に絞る」
指示が飛べば皆すぐに動き出す。ここ数日で、隊列そのものが“命令を待つだけではなく、今何が必要かを理解して動く”ようになってきていた。それは良い兆候だ。だが同時に、それだけ消耗と実戦が積み重なっているということでもある。
サンソンが兵士たちの配置を見ながら、低く言う。
「皆、覚えるのが早い。状況が人を育てている、と言えば聞こえはいいが・・・・本来なら、こういう慣れ方はしない方がいいのだろうね」
ジャンヌ(ルーラー)が、その言葉へ静かに返した。
「ええ。けれど、今はそれを嘆いている余裕もありません。この人たちが一日生き延びるたびに、明日を考えるための土台が増える。私はその積み重ねに賭けたいのです」
サンソンは小さく頭を垂れた。
「その言葉は、処刑人である僕には少々眩しすぎる。だけど、だからこそ価値があるのだろう。死を前提に秩序を作る者と、生を前提に希望を繋ぐ者では、見ている景色が違う。僕は今、後者の景色を学ばせてもらっている気がします」
「私もいつも前だけ見ているわけではありません。怖いと思うこともあります。折れそうになることもある。ただ、そのたびに“それでも私が立たなければ”と思い直しているだけです。ですから、学ぶというなら私の方かもしれません。あなたのように死を知りながらなお必要な言葉を選べる人は、そう多くありませんから」
サンソンは目を伏せた。その会話は短いのに、静かな重みがあった。
一方で、少し離れた場所では別の会話が進んでいた。
ゲオルギウスが地面へ簡単な線を引き、藤丸、マシュ、モーツァルト、ジャンヌ〔ランサー〕、エレナへ説明している。
「前面からワイバーンが来た場合、最初の一撃を誰が受けるかが重要です。狙いは大抵動きの遅いところか、目立つところへ向きます。したがって、囮という言い方は好みませんが、“意図的に狙われる位置へ立つ者”は必要になる」
「俺とマシュが前に立つ。目立つのは慣れてるわけじゃないけど、少なくとも誰を狙わせたくないかは分かってる」
「はい。私が盾で初撃を受けます。その間にゲオルギウスさんとジャンヌ〔ランサー〕さんが迎撃へ入れば、ワイバーンの突入角度をかなり削げるはずです」
「理屈としてはその通りです。ただし、槍兵殿――」
彼はジャンヌ〔ランサー〕へ視線を向ける。
「あなたの機動力は申し分ない。むしろ過剰と言っていいほどです。ですがあまりに単独で前へ出すぎると、次の敵サーヴァントがその空白を狙う可能性があります。速さは強みですが、速さゆえに孤立すると今度はそこが狙い目になる」
「ご忠告はもっともです。ですが、もしマスターが許されるなら、私はその空白ごと敵を踏み潰すことができます。ワイバーン程度であれば、数が揃っていても問題はありません。これまでそうしてきましたしね。敵サーヴァントが合わせてきたとしても、優先順位が定まっているなら十分対応可能です。えぇ、特にあの弓兵などであれば」
その言い方には一切の誇張がない。
だからこそ、場の空気が少しだけ冷える。
モーツァルトが肩を竦めた。
「いやはや、君は本当に言い方が穏やかなだけで中身は物騒だね。だが、今はその“踏み潰せる”をそのまま信用するわけにもいかない。こちらは列を守らなければならないし、敵はそこを見ている。強い手札を切るにしても切りどころというものがある」
「ええ。ですから私は、マスターの判断を待ちます。私自身の結論は単純ですが、この旅路で必要なのは“単純な正解”ではないのでしょう?」
その言い回しに、マシュはほんの少しだけ安堵した。このジャンヌは自分の本質を隠さない。
だが藤丸が線を引く限り、それを踏み越えはしない。
今のところは。
エレナが説明の流れを戻すように手を挙げる。
「なら、私は視界と軌道の乱しに回るわ。ワイバーン相手ならそれで十分だし、敵サーヴァントが混ざってきた時も一拍はずらせる。ただし期待しすぎないでね。万能じゃないもの。あくまで“あなたたちが取りやすいよう盤面をずらす”までよ」
「それで十分だ。真正面から全部壊すより、その一拍が欲しい」
「マスターにそう言ってもらえると助かるわ。私も今回ばかりは“先回りして全部片付けました”とは言わないで済みそうだもの」
エレナのその一言に、モーツァルトが吹き出しかける。
「今回ばかりは、ね。どうやら君は、過去に相当勝手をしてきたらしい」
「失礼ね。必要なことを必要なだけ先にやっただけよ」
「世間ではそれを“勝手”とも呼ぶんだ」
言い合う二人を横目に、ゲオルギウスはようやく小さく笑った。
「良いでしょう。役割分担としては整っています。竜が来るならこちらも迎える準備は出来る」
その言葉に、皆の緊張が僅かに変わった。
消えたわけではない。
だが、“漠然とした不安”から“やるべき準備がある緊張”へ変わるのは大きい。
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その夜、ワイバーンは本当に来た。
最初に気づいたのは見張りの兵ではなくゲオルギウスだった。
彼は火のそばから立ち上がり空の暗がりへ目を凝らす。
「……来ます」
その一言は大きくなかった。だが前もって役割が整理されていたおかげで、それで十分だった。
兵士が持ち場につきマリーが子どもたちを中央へ寄せる。
ジャンヌ(ルーラー)が旗を持ち直し、マシュが盾を構え、藤丸が全体を見回して位置を微調整する。
そして、ジャンヌ〔ランサー〕は槍を静かに下ろした。夜空を裂くように、低い羽音が増えていく。
一体。二体。三体。
更に後方にも気配がある。
マシュは深く息を吸い、盾の縁を握り込んだ。
ワイバーンは単体ならまだしも数が揃うと本当に厄介だ。火を吐き出して列を散らし、散ったところへ再度低空で突っ込んでくる。その流れを作らせれば避難民を抱えたこちらは一気に崩れる。
藤丸の声が飛ぶ。
「前衛、前へ!マシュ、俺の半歩前!ゲオルギウス、最初の突入角を見てからでいい!」
「承知しました!」
ゲオルギウスが答える。そしてワイバーンが降下した。火炎ではない。
最初は様子見だ。低く旋回しながら、列の“弱そうな部分”を探っている。
「来る!」
マシュの声とほぼ同時に、ゲオルギウスが動いた。
「今です!」
剣が走る。聖人の一撃は空へ向かって振り上げたものとは思えないほど鋭かった。最も低く入ってきた一体の翼の付け根を切り裂き、バランスを失わせる。巨体が斜めに傾いたところへジャンヌ〔ランサー〕の武器が雷のように突き込まれた。
貫通し地面へ叩き落とされる。その速さに兵士たちが思わず息を呑む。
「まず一体。次が来ます。マスター、まだ抑えますか?」
問いは穏やかだ。だがその実、彼女の中では“次も落とせる”が確定している。藤丸は短く返す。
「列から離れるな。来る分だけ落とすようにして。追うな」
「承知しました」
その返答の直後、エレナが空へ魔力を走らせる。
「少し足を取らせるわ。皆、今のうちに目だけは逸らさないで。夜の空って気を抜くと全部同じ暗さに見えるもの」
空気が揺らぐ。二体目のワイバーンがわずかに軌道を外される。そこへゲオルギウスが前へ出て今度は喉元へ切り上げる。首を逸らしたワイバーンの頭部へマシュの盾が打ち込まれた。
鈍い衝撃が走って姿勢が崩れたところへ兵士の槍が続く。
完璧な一撃ではないけれど、全体が一つの生き物のように動き始めていた。
モーツァルトが半ば感心したように呟く。
「なるほど。これはなかなか良い編成だ。誰か一人の英雄譚ではないが、その代わりに“崩れない形”としては非常に美しい」
その言葉の通りだった。
派手さはない。だが綻ばない。敵の一撃一撃に対し、誰かが前へ出過ぎるのではなく全員が半歩ずつ噛み合っている。
ワイバーンは最終的に五体が落ち、残りは上空へ散った。追撃はしない。それが先ほど決めた線だ。
ゲオルギウスが剣の血を払いながら言う。
「今の通りです。低く入ってきた瞬間を逃さず、深追いはしない。これを徹底出来るなら、少なくともワイバーンは“脅威ではあるが致命傷ではない”ところまで引き下げられます」
藤丸が頷く。
「十分だ。それだけでも、だいぶ違う」
だがそのやり取りの最中。マシュはふと、遠くの斜面に誰かが立っているのを見た気がした。
文明の明かりがない夜に月明かりがその姿をぼんやりと照らし出す。青い髪。十字の杖。
マルタ。
だが、次の瞬間にはその姿は見えなくなる。
気のせいだったのか、それとも本当に見ていただけなのか。
「・・・・・・マシュ?」
藤丸の声に、彼女ははっとする。
「いえっ!何でもありません」
今は言わない。
確証がなかったし、列を乱す話でもない。
だが、胸の奥には小さな棘のような違和感が残った。