オルレアンへの出撃を決めたはいいものの、一つ問題が残っていた。
それは避難民達の扱いである。
朝を迎えて日付が変わっても状況が変わるわけではないのだ。
----------------------------------------
ゲオルギウスは砦の縁へ出て周辺の地形を確かめ終えており、ジークフリートは折れた石壁へ背を預けたまま、剣の重みを確かめるように柄へ手を置いている。マシュはまだ消えきらない焚き火の傍で荷を整え、ジャンヌは避難民の側を回りながら夜の間に悪化した者がいないかを静かに見ていた。サンソンは傷の具合を確かめる兵に短く助言を送り、マリーは子どもたちに水を配っている。
各々が出来ることをこなす。これまでと変わらない朝。
「先輩、おはようございます。夜のうちに熱を出した方はいませんでしたが歩けない方が数人います。このまま次の移動に入るなら、かなり速度は落ちると思います」
盾を背負い直したマシュがそう告げる声音は落ち着いていたが、その落ち着きがむしろ現実の重さを際立たせた。藤丸は頷いてから、砦跡の中央に寄せられた荷車へ目を向ける。車輪の片方は完全に歪みきっていて、直したところで長く保つようには見えない。老人の一人は兵士に肩を借りなければ立てず、まだ幼い子どもは眠気と疲れで足取りが覚束ない。ここから先も連れて行けるかどうかを議論する段階ではなく、もうどう見ても連れて行けないところまで来ているのだと、景色そのものが答えを出していた。
「この砦跡は防ぎやすい地形ではあります」
ゲオルギウスが戻ってくるなり、藤丸の傍で足を止めた。
「前面は開けており、竜が来れば察知は早いでしょう。背後は斜面で奇襲にもある程度備えられます。ですが、あくまで一時的な防御拠点にすぎません。長く留まり、なおかつ民を守り続けるには兵も物資も足りないと言わざるを得ませんね」
「ここから先は、敵の本拠へ近づくほど遭遇戦の密度が上がるはずです」
マシュが言葉を継ぐ。
「今までのように道を選べるとは限りません。避難民の方々を守りながら進むのは正直に申し上げて難しいと思います。誰か一人が遅れれば、そのまま全体が崩される危険があります」
サンソンも避難民の方を振り返りながら静かに言った。
「守ることと連れていくことは大きく異なるからね。ここまでは何とか上手く運んできた。けれど、ここからはそうはいかない。的の本拠地ならば尚更だ」
藤丸は返事をしなかった。
言葉にしなくても、分かっていたからだ。ここまでの道のりは戦いながら進んできた旅だった。同時に、焼かれ、追われ、行き場を失った人たちを、少しでも安全な方へ運んでいく旅でもあった。だが、オルレアンは違う。あそこへ向かうのは避難ではない。敵の中心を止めに行くための進軍だ。子どもも老人も、負傷者も抱えたまま踏み込める場所ではない。
ならばどうするかと一行が考えていると見張りについていた兵士が声を張った。
「街道の先に動きがあります! 人馬です! 数は・・・多いぞ!」
その一声で砦跡の空気が変わる。
マシュが即座に盾を構え、ゲオルギウスが剣を取り、ジークフリートが前へ出る。ジャンヌ(ランサー)は何でもない顔で一歩だけ藤丸の斜め前へ滑り込み、ジャックは焚き火の向こう側で首を傾げたまま、視線だけを街道の先へ据えた。避難民たちの間に怯えが走る。母親が子どもを抱き寄せ、兵が荷車の影へ人々を誘導する。
「竜の姿は見えません!」
見張りが続けて叫ぶ。
「空ではなく、人の軍勢です! 旗が見えます、ただ・・・・まだ判別しきれません!」
土煙が近づいてくる。陽の角度を受けて鉄の縁がちらつく。
人の軍勢だからといって味方と決まったわけではなかった。今のフランスにおいて人間の形をしていることは安心の証にはならない。
「避難民は下がってください!」
マシュが振り返らずに叫ぶ。
「ここで混乱すると危険です、兵士の方は負傷者を守ってください。先輩、前へは出すぎないでくださいね」
「分かってる」
そう返しながらも、藤丸は目を細めて前方を見る。旗の輪郭が少しずつはっきりしてきた。何の紋章か、と確信するにはまだ遠いが少なくとも竜の魔女の配下が掲げる黒い旗ではない。
やがて先頭の一団が砦跡の前で速度を落とし、数人の兵が前へ出た。鎧はくたびれている。顔つきにも消耗の色は濃い。だがその足取りには敗走の乱れがなかった。前へ出た兵士は砦跡の有様を一目で見渡し、まず状況確認から入る実務の目をしていた。
「生存者を確認した!」
低く通る声が、こちらへ向けられる。
「我らはシャルル七世陛下の名のもとに、この周辺に散った民と兵を回収している者だ。ここから先は戦線に近い。負傷者と民間人を優先する、後方へ移動してもらう。話は道中で聞く、まずは列を整えろ」
その言葉は避難民たちへ向けられたものだった。同時に砦跡にいる全員へ向けられてもいた。
つまり兵士たちの目には藤丸たちもまたここで見つかった生存者の一団として映っているのだ。
それも当然である。彼らはカルデアの事情など知らないし、サーヴァントなんて理解していない。焼けた砦跡に避難民と混じって立っている以上、まず「助けるべき相手」として扱われるのが自然だった。
兵士の一人が藤丸の前へ歩み寄ってくる。
「君たちもこちらへ。まだ歩けるか? 後方の中継地点までは護衛がつく。ここで留まる理由はない、すぐに動いた方がいい」
藤丸はその申し出を一拍だけ受け止めた。
避難民と一緒に後方の安全圏へ向かう。今ならそれができる。助けられる側へ戻る道が目の前へ差し出されている。
けれど、それは自分たちの進む道ではないともう決めたのだ。
「・・・・ありがとうございます。でも、俺たちはここで下がれません。守るべき人たちを後ろへ送れるなら、なおさら前へ行く必要があるんです。オルレアンで止めなきゃいけないものがある」
「何を言っている・・・。そちら方面は避難路じゃない、正面から戦場へ踏み込む道だぞ。無茶を言っている自覚はあるのか」
「あります。無茶じゃないなんて言いません。でもここまで来て後ろへ戻るつもりはありません。俺たちはあそこへ行かなきゃいけないんです」
兵士はすぐには納得しなかった。むしろ当然だ。だが、その視線は藤丸の背後に並ぶサーヴァントたちの方へも向いていた。ルーラーのジャンヌ。明らかに只者ではない騎士たち。戦意をまるで削がない少女たち。砦跡にいる他の兵や避難民の表情もまた、彼らがここまでただ偶然生き延びてきた集団ではないと物語っている。
「この方の言葉は事実です」
ルーラーのジャンヌが一歩前へ出た。
「私たちはオルレアンへ向かいます。そこにいる竜の魔女とすべての元凶を止めるために。皆さんの申し出には心から感謝します。ですが、私たちが受け取るべき救いは、別の形にあるのでしょう」
兵士は驚いたように彼女を見たが、それでも現場の判断を投げ出すことはしなかった。わずかに歯噛みするような間のあと低く息を吐く。
「・・・・正気とは思えん。だが、その顔で言われると止める言葉も薄くなるな。分かった、ならばせめて残る民と負傷兵はこちらが引き受ける。シャルル七世陛下の命で、この周辺に散った生存者を集めている。後方の安全圏まで送る手筈は整いつつある。ここから先へ連れて進めば、かえって死なせるだけだ」
その言葉を待っていたかのように別の兵士たちが荷馬車を前へ出し、水袋と毛布を運び込み始めた。名簿を取る者、怪我を確認する者、歩けない者へ肩を貸す者。実務的な処理が成されていく。
避難民たちの緊張がそこでようやく少しだけ緩む。
「本当に、後ろへ……?」
子どもを抱えた母親がおそるおそる兵士へ尋ねた。
「ああ。もう少し先に中継地がある、そこで別の隊とも合流する予定だ。ここよりはずっとましな場所へ行ける。急がせはするが置いていきはしない」
その答えを聞いた瞬間、女性はへたり込むように膝をついた。泣き崩れるのではない。ただ、張りつめていたものが急に抜けただけではあるが、疲労からの解放が見て取れる。
藤丸たちはその様子を見ていた。
ここまで自分たちが守りながら運んできた命が、ようやく別の手へ渡る。安心していいはずなのに、胸の中は妙に軽くならない。むしろ、ここから先が完全に別の道になるのだと、ますますはっきりしてくる。
「ここまで守ってくださって、本当に・・・・」
避難民の一人が藤丸たちへ頭を下げた。
「あなた方がいなければ、私たちはとてもここまでは・・・・・。どうか、どうかご無事で」
「俺たちより、まず自分たちのことを考えてください」
藤丸はそう返した。
「ここからはこの人たちが守ってくれます。ちゃんと命を大切にしてください」
荷馬車へ乗せられる子どもの一人が、毛布にくるまったまま藤丸を見上げる。
「おにいさんはいっしょにこないの?」
その問いは、ただ不思議そうな、純粋な子供の言葉。
藤丸はしゃがんで目線を合わせた。
「俺たちはまだ行く場所があるんだ。だから先には行けない。でも君たちはもう大丈夫だよ。ここからはこの人たちが守ってくれる」
「ぜったい?」
「うん。絶対とは軽く言えないけど、それでも言うよ。もうすぐしたら、元の生活にきっと戻れる」
子どもは意味の半分も分かっていない顔でそれでも何となく頷いた。
マリーがその子の頭をそっと撫で、柔らかく微笑む。
「ええ、大丈夫よ。怖いと思っても、泣いてしまっても構いません。ここから先は、あなたたちが生き延びるための道ですもの。少しだけ勇気を出して、兵士さんたちの言うことを聞いてくださいな」
ジャンヌ(ルーラー)も、王軍の兵士たちへ向き直って小さく一礼した。
「お願いします。ここまで生き延びた方々です、どうか後を」
「引き受けます。こちらも王の兵だ。守るべきものを守るために来ている」
そのやり取りの傍らで、ジャンヌ(ランサー)が穏やかに言う。
「マスターが守るべきものを安全圏へ移せるのは、とても良いことです。これであなたは前だけを見てお進みになれる」
ジャックも藤丸の袖を軽く引いた。
「これで、マスターのそばにいればいいんだよね。うしろを気にしなくてよくなるなら、そのほうがいい」
マシュは返事をしなかった。しなかったが、その二人の言葉が心のどこかへ小さな棘のように引っかかる。善意だと忠誠。
マスターを守ることへ何の迷いもないが、その他への関心が極めて薄い当事者意識の薄弱さが目立つ。
やがて準備が整い、王軍に守られた避難民たちの列が動き始めた。
荷馬車の軋み。兵士の短い指示。振り返る人々の視線。朝の光の中で、その列は少しずつ砦跡から遠ざかっていく。後ろ姿を見送ることしかできない距離になっても、しばらくのあいだ、藤丸はその場を動けなかった。
ここまで連れてきた命がようやく別の手へ渡った。
助けられる側へ戻る道があったことも、その道を自分たちが選ばなかったことも、全部ひっくるめてこれが区切りなのだと心を整理する。
守る列は後ろへ消えた。
ここから残るのは戦いだけ。
避難民の声が遠ざかるほど、砦跡の音は変わっていった。子どもの泣き声も荷車の軋みも消え、代わりに残るのは鎧のこすれる音と、見張りの足音と、風にさらわれる灰の気配ばかりになる。なんとも軽くなった。人のぬくもりが抜け落ちたぶんの軽さでもあるのだが。
「再編しましょう」
ゲオルギウスが沈黙を切る。
「ここからは避難民の歩調に合わせる必要がありません。進軍速度も警戒の置き方も変えられます。ですが、そのぶん一人の乱れが全体へ響く。今までより、むしろ崩れてはならない列になります」
「竜の質も変わるはずだ」
ジークフリートが短く言った。
「本拠へ近づくなら数だけでなく連携も整ってくるだろう。遭遇戦は避けられないと見ておくべきだ」
サンソンは砦跡の外へ目を向けたまま、静かに続ける。
「退く理由が一つ減った、とも言えるだろうね。守るべき民を抱えているなら無理はできない。けれど今は違う。だからこそ逆に足元を誤らないようにしないといけない」
「まったく、舞台から観客が消えてしまったみたいだ」
モーツァルトが肩をすくめた。
「演者だけが残されたとなると、いよいよ嫌でも終幕らしくなってくる。嫌いじゃないが、のんびり拍手を待てる状況でもないね」
日が落ちるころ、一行は砦跡の中央へ小さな焚き火を起こした。
朝とは違い、そこには避難民を落ち着かせるための火ではなく、戦う者だけが最後の確認をするための火がある。モーツァルトが拾ってきた枝で地面へ簡易の地図を描き、オルレアンへの道筋と城門の位置、これまで得た情報をなぞっていく。風は冷えるが、今の静けさは迷いのそれではなかった。もう考えるべきことが絞られているとき、人の沈黙はむしろ輪郭を持つ。
藤丸はその輪の中心で口を開いた。
「ここまで来たんだ。もう避けて通れない。敵の本拠へ向かって行動しよう。もちろん無茶はしない。出来るだけみんなが生きて帰れる形を考える。俺はまだ新米だし、知らないことだらけだ。判断を間違えることも、多分これからいくらでもあると思う。でも、それでも一人で決めるつもりはない。みんなの意見を借りて、ちゃんと見て、ちゃんと選ぶ。だから――力を貸してください」
ジャンヌ(ルーラー)が焚き火の向こうで穏やかに微笑んだ。
「もちろんです。私はそのためにここへ来ましたし、ここまで皆さんと共に進んできたことにもきちんと意味がありました。止めるべきものを止めるため、私の旗も、私の祈りも最後まであなた方と共にあります」
マシュもすぐに続く。
「はい、先輩。ここまで来て今さら迷いだけを理由に立ち止まるつもりはありません。私もまだ未熟ですし、分からないこともありますけれど、それでも先輩の隣で最後まで一緒に進みます」
他にも各々が自分の思いを語り、最後にジャンヌ〔ランサー〕が口を開いた。
「何度も申してきましたが、マスターが行かれるなら私たちはその道を切り開きます。あなたが見たいものを見られるように、あなたが守りたいものを守れるように、私たちはそのためにあります。どうかご安心ください。あなたへ届く害意は、ひとつ残らずこちらで断ちますから」
マシュはその横顔を見て自分が少しずつ慣れてきたような気分を感じた。
自分が知らない危険因子。しかし、見方を変えれば藤丸の身柄の安全を確保する上ではこの上なく好都合。
これまで危機感を感じることもあったが、多少目を瞑れば構わないのかも知れないと。
そんなマシュの思考を途切れさせるように焚き火の音が一つ弾けた。
会議はそこで終わり、人々は順に眠りについた。見張りは交代し、火は小さくなり、砦跡の夜には再び静けさが戻る。
-----------------------------------------
その中で、眠れない者が二人いた。
一人はマシュ。もう一人はジャンヌ(ルーラー)。
砦跡の外れ、欠けた石壁の向こうに夜空が広がる場所で二人は偶然を装うように顔を合わせる。火の届かない場所は冷えが深く、吐いた息がすぐ白くなる。
「眠れませんか、マシュ」
「はい、少しだけ・・・・考え事をしていました」
責めるでもなく、見透かすでもなく、ジャンヌはその隣へ立った。
「分かります。戦いの前夜は、どうしても心が静まりません。覚悟が足りないのかと疑うこともありますし、怖いと思う自分を恥じることだってある。けれど本当はそういうことではないのでしょうね」
「・・・・ジャンヌさんは、怖くないんですか」
「怖いですよ」
「負けることも、誰かが傷つくことも、私が正しくあれなかった時のことも、全部怖いです。ですが、それでも立つしかないと思っているだけです。たぶん勇気というのは、怖くないことではなく、怖くても立つことなのだと・・・・・・私はそう考えています」
マシュは唇を結んだ。
本当にその通りだ。だが自分の怖れは少し種類が違う。ここにある旅路が、本来あるべき形から静かにずれていっていることを知っているからこそ、正しさだけでは言い表せない不安がある。
「・・・・・もし、定められた旅路があるとして」
声がほんの少し震えた。
「もし、この旅が本来とは違う形に変わっていたとして、それでもその先に進むべきだと思いますか」
ジャンヌは驚かなかった。むしろ静かに問い返す。
「“本来”というのは、あなたの知っている形ですか」
マシュは息を呑む。答えられない。だが答えを求められているわけではないのだと次の言葉で分かった。
「答えなくても構いません」
ジャンヌは夜空を見上げたまま続ける。
「私には分からないことが多い。けれど一つだけ分かることがあります。目の前に助けを必要とする人がいて、進まなければ止められない火があるなら、その時点で進む理由は足りるということです。たとえ道筋が違っていたとしても、行き着くべきところが同じなら、人はそこで正しさを拾い直せるかもしれません」
それは慰めではない。答えでもない。けれど、マシュには少しだけ救いになった。
「ありがとうございます」
「いいえ。私は、あなたが一人で抱え込みすぎないといいと思っているだけです。あなたは強い人でしょう。でも、強い人ほど沈黙を選びやすい。どうか忘れないでください。誰かと並んで立つのもまた、強さなのだと」
マシュは小さく頭を下げた。
その言葉を胸へしまい込んだまま、ようやく夜は終わる。翌朝、砦跡にはもう避難民の姿も援軍の列もない。
残っているのは英霊達。冷えた石へ朝の光が差し込み、昨夜の焚き火の灰が白く色を変える。
藤丸は最後に一度だけ全員を見回した。
知らない英霊と、そうでないもの。けれど、それでもここまで一緒に来た。だから、今は信じるしかない。
「出発しよう」
藤丸の声で列が動き出す。
オルレアンへ。
焼け残る城塞と、邪竜の旗が待つ終局の地へ向けて。