それは、まだ誰にも観測されていない戦い。
西暦六十年のローマ……とは少し違う場所。
人理の表層からわずかにずれた境界領域。
霊子の海とも虚数の底ともつかぬその場所で、二つの異形が対峙していた。
片方は人の皮を被った魔術師――レフ・ライノール。
カルデアを爆破し、人理焼却の尖兵として地上へ降りた男。その本質は七十二の魔神柱の一角であり、人理を食い荒らす災厄そのものだ。
そんな彼の背後にはすでに半ば完成しつつある特異点が展開していた。
赤と金の輝きで形作られた、ローマの雛形。兵、城壁、皇帝、反乱。
聖杯を核として編まれるべき偽りの歴史。
「まったく。手間をかけさせてくれる」
「せっかく美しく整えた舞台だ。多少の雑音程度なら見逃してもよかったが・・・・ここまであからさまに踏みにじられるとなれば話は別だ」
霊子の海が、びり、と震えた。
その向こう。赤。血のような。花のような。
あるいは臓腑の内側を思わせる、ぬめるように艶やかな赤。
そこから一つの影が歩み出る。
「ソレ」は、無邪気に笑っていた。
「舞台? おかしなことを言う。舞台とは誰かに見られるためのものだろう」
一歩踏み出すごとに、境界領域へ赤い紋章が走る。
「ならばこれはこちらがいただく。見よ。よく見よ。夢見る帝国を。ただ与え、ただ砕くための、たった一つの箱庭を」
「……! なるほど、引き寄せられたとでも? 滑稽な真似を」
「滑稽で構わない。人は滑稽な夢を見る。己もまたそうだった。ならば、最後まで夢を見せてやるのが情けというもの」
くすくすと笑う。
あまりにも無邪気に。
あまりにも底冷えのする声音で。
しかしそんな慮外者をレフは鼻で嗤う。
「情けだと?迷い犬風情が言葉を飾るな。貴様がここに来た理由は知れている。聖杯でも、人理でもない。もっと個人的で、もっと矮小な執着だろうに」
その言葉に、「ソレ」は怒らない。
ただ、少しだけ目を細めた。
「矮小、か。そうだろうな。血の絡む諍いなど世界から見れば塵にも等しい」
女が目を細める。
それに合わせて赤い波紋がレフの作りかけた特異点の外郭をじわじわと侵食し始める。
「だが、塵であろうと熱はある。熱は燃える。燃えれば灰になる。世界も、帝国も、皇帝も、民も、親も子も。何もかもが」
「だから焼くと?」
「そうだ」
「焼いて、喰らって、残らぬようにする。そのために来た」
その瞬間。
レフの背後に巨大な魔神柱の影が展開する。
人の皮を被っていた輪郭が、ばり、と音を立てて裂けた。
無数の瞳。
無数の触腕。
無数の呪い。
ソロモンの使徒たる異形がその本性を覗かせる。
「つくづく腹立たしいな。人理を否定して秩序を嘲り、なお『個』に耽溺する。……醜悪だよ、貴様は」
対する女は嬉しそうに目を見開く。
「ああ、そうだ。ようやく見せたな、その姿。実にいい。皮を剥げば結局は貴様も喰らうばかりの柱ではないか」
「ソレ」の背後に、幾本もの巨大な黒い影が浮かび上がる。
形を持たぬ黒い歪み。それらは脈打ちながら、特異点の雛形へと視線を向けていた。
「こちらも喰らう。貴様も喰らう。ならば、どちらがより上手く喰らえるか。試してみるものいいだろう」
レフは魔力を奔らせる。
外縁に刻まれた術式が一斉に起動し、槍のような光となって降り注いだ。
そのすべてが、女へ向かう。
だが。
「遅い」
女の姿が消えた。
距離も時間も無視したような超速の接近。
紅い爪が一閃し、レフの多重防壁が紙細工のように引き裂かれた。
「っ……!」
「仕事は丁寧でも戦い方は雑だな、柱。貴様は理不尽というものを知らぬだろう?」
女の笑みが深くなる。
「理不尽とはな。もっと、こう・・・ぬるりと、肌にまとわりつくものだ」
赤い波が爆ぜた。
外縁に展開されていたレフの術式群が、中心からごっそりと抉り取られる。
それは破壊というより侵食に近かった。焼かれたのでも、砕かれたのでもない。
“奪われた”のだ。
「貴様……ッ、特異点そのものを――」
「接収すると言ったはずだ」
黒き影が、ローマの雛形へ深く食い込む。
土地へ、人へ、運命へ。
ひとつひとつに毒を垂らすように、女の意思が染み渡っていく。
「よい舞台だ。反乱も、簒奪も、戦火も、呪いもある。ここを揺り籠としよう」
レフは苦々しく損害を計算した。
まだ未完成とはいえ、人理焼却に必要な設計図を土足で踏みにじられ、あまつさえ部品を奪われようとしている。
効率の観点から言えば、最悪のイレギュラーだ。
「撤退するか?」
女はまるで明日の天気を尋ねるような軽やかさで問う。
「あるいは、ここで貴様も喰われるか。選べ、柱」
「増長するなよ。貴様のような不純物、本来なら――」
言葉はそこで途切れる。
特異点の中心。まだ核を据えていないはずの場所に、いつの間にか聖杯が座していたからだ。
それは黄金の器。
血に濡れたように華美で空虚な空間に、
「貴様……何をした」
「簡単なことよ」
女は脚を組み、頬杖をつく。
「我が影を舞台の役者へ配る。戦わせる。喰らわせる。削らせる。そして最後に残ったものを、すべてこちらへ返させる」
童話を語るような朗らかな声で、女は言った。
「擬似聖杯戦争、というやつだ。なかなかよい言葉であろう?」
レフは理解した。
この乱入者はただ暴れるだけの存在ではない。
構造を理解し、利用し、己の遊戯へと組み替える知性を持っている。
そして何より――この女は待つつもりなのだ。
この特異点が己の手の中で意味を持つことを。
「……なるほど。ここで貴様と消耗し合う意味はない」
レフの声から熱が失せ、冷徹な計算が宿る。
「第二特異点は放棄する。くれてやろう。為すべきは既に成した」
「賢いな」
「勘違いするな。貴様を認めたわけではない。ただ順番を変えるだけだ。貴様が何を望もうと人理は燃える。カルデアもいずれ灰になる」
「そうか。では、せいぜい薪探しにでも戻るがいい」
その言葉が終わるより早く、レフの気配は後方へ退いた。
魔神柱の巨躯が霧散し、空間の裂け目へと沈んでいく。
最後に残ったのは、憎悪に濁った視線だけ。
「次に会う時は奪う側でいられると思うなよ」
「次があればな」
裂け目が閉じ、静寂が戻る。
残されたのは女と奪い取った特異点の雛形のみ。
波がゆっくりとローマを飲み込んでいく。
女は玉座から立ち上がり、愛おしげに世界の雛形へ触れた。
指先が止まったのは、一筋の光。
ネロへと繋がる糸だ。
「さて」
そしてもう一つ。
遠い未来から伸びる、まだここには存在しない細い糸。
それに触れた瞬間女の笑みが変わった。
「…む? 来るか。来るのだな。未来背負いし人間よ」
その響きを舌の上で確かめるように繰り返す。
「ならば見せてやろうとしよう。悪の夢も、皇帝の末路も、文明の骸も。そして最後には――」
女は玉座へ座り直す。
壊すために。喰らうために。
あるいは、まだ見ぬ誰かに、自らの在り方を証明するために。
かくして第二特異点はレフの舞台ではなくなった。
その瞬間より、そこは「妄執の箱庭」と化す。
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魔神柱が消えた後の境界領域は凪のように静かである。
だがそれは嵐そのものが中心へ収束しているだけの静寂に過ぎない。
黄金の玉座に座る女は、ゆっくりと指を鳴らした。
その合図で特異点の立体地図が展開される。
「よく出来ている。柱の作るものは味気ないが……構造は悪くない」
女の視線がローマ帝国の中心――ネロ・クラウディウスに向けられた。
まだこの段階では、ただの人間。
暴君、あるいは芸術家。いずれにせよ、まだ「ヒト」である存在。
「……だからこそ、か」
女の唇が弧を描く。
そこへ赤い波紋を伴った指先を落とした。
「行け、影達よ。死を喰らい、力を集めよ」
七つの影が意思を持つように異なる方向へ放たれる。
この舞台には役者が必要だ。英雄、皇帝、暴君、覇王。
ロムルス。
カエサル。
カリギュラ。
ダレイオス。
呂布。
そして――。
文明破壊の象徴、星の外から来た者。
「……ふふ、おまえも来い」
指先から放たれた一つの影が、時代の層を越えて特異点の深層へ沈んでいく。
世界が軋むほどの圧力がかかった時、その種は必ず芽吹く。
「これで六つ」
残る影はあと一つ。
女のそばで静かに脈打つその影も、特異点へと送り込んだ。
「皇帝とは孤独なものだ。誰も信じず、誰にも理解されず、それでも帝国を背負わねばならぬ。……いいではないか。それでこそ皇帝だ」
最後の一つも潜り込む。これで七つの影が特異点の役者たちへと。
戦わせ、殺し合わせ、霊基を喰らわせてもいい。
そして最後にすべてを回収する。
「擬似聖杯戦争……よく出来た遊びだ」
女は視線を上げる。
特異点の外側、遠くからこちらへ向かってくる「糸」を見つめて。
魔術師でも英雄でもない、ただの人間。それも妙に獣の香りがする人類を。
己の知る盾使いもきっとそばいるのだろう。
「迎えてやるぞ、藤丸立香」
その声は拒絶ではなく期待に震えていた。
彼女は玉座に深く腰掛け、頬杖をつく。
「見せてみよ、獣を従える人間。……面白い」
特異点セプテムは、完全に変質した。
レフ・ライノールの舞台は消え、残されたのは血の帝国。
永続狂気帝国――セプテム。
エレナ「今回はお留守番よ! 公平かつ校正で厳粛なじゃんけんの結果ね」
ジャンヌ「さきっちょだけでもダメですか?」
エレナ「だめよ、殺し合いになるわ。マスターにも話は通してるでしょ? 迷惑かけちゃダメよ」
ジャンヌ「一番最初にマスターにけっこう本気で叱られることをした方が仰られても説得力ありませんよ?」
エレナ「その話は内緒で済ませたいのだけれど」
ジャンヌ「いつか明かされる可能性に魂をかけましょう。フランチェスカさんのものを」
一般通過魔術師「えっ」