レイシフトの白が晴れる。
藤丸立香の目に飛び込んだのは城壁へ吸い込まれていく荷車の列だった。
足の裏の感覚がカルデアの床から乾いた石畳へと変わる。
陽光が石を白く焼き車輪の溝には細かな砂埃がたまっていた。
麦袋。
縄で縛られた葡萄酒の壺。
干し肉とオリーブ油の甕。
荷車が門前でせき止められ槍を持つローマ兵に一つ一つ検められている。
荷札を確認し怪しい者を弾く荒っぽい検問の風景。
「……ここがローマ?」
呟くと同時に乾いた熱気と濃い匂いが喉を焼く。
焼きたてのパン。木材。葡萄酒。強烈な魚醤の香り。
第一特異点の血と煙の焦げ臭さはない。むせ返るような生きた人間の匂いがそこにあった。
マシュが隣で端末から顔を上げる。
「座標一致。西暦六十年ローマ帝国。現在地は市南東部カペーナ門付近と推定。アッピア街道の入口で北西へ進めば都市中心部です」
「ど真ん中じゃなくて入口?」
「はい。中心のフォルムやパラティーノ丘の手前です」
マシュの手は盾の裏を固く握ったままだ。
視線が兵士の数や荷車の軍印を鋭く走る。
「人流はありますが検問が異常に厳重であると見受けられます。軍用物資が優先されているようですね」
門の奥では女たちが水を汲みパンが並ぶ。
だがすぐ横で兵士が穀物袋を数え荷車の底を槍で突いていた。
「活気はあるのになんかピリピリしてない?」
門の内側で商人らしき男の怒声が響く。
「昨日も半分持っていったろ! これじゃ売るもんがない!」
「皇帝陛下の命だ! 後日補填される!」
「補填の前に店が潰れる! ガリアに送る分が滞っただの南の街道が危ないだのそんな話ばかりじゃないか!」
『ガリア』
その単語に水を汲む女たちの手がピタリと止まる。
すぐ作業を再開するが耳は完全に商人へ向いていた。
「マシュ今の」
「はい。ガリア方面で単なる物流遅延以上の問題が起きているのでしょう」
人混みから漏れる断片的な囁き。
「母后が動いたって本当か」
「声がデカい。ここはローマだぞ」
「でもガリアじゃもう新しい皇帝の名が出てるらしいぜ。ネロ様はまだ若いしな」
母后。ガリア。新皇帝。
不穏な熱が市民の沈黙にへばりついている。
「まぁ、それhそれとしてまずは中心部だ。カルデアとの通信も――」
ピーッと端末が短く鳴る。デンパガチバイマス。
「通信不安定。常時接続確立できません。…二人きり、ですね」
「またか」
「ちなみにカルデアの通信は割とアテになりません」
「現地来てから言わないでよそれ」
「そこの二人。止まれ」
地を這うような低い声。
数人のローマ兵が槍を下げて歩み寄る。先頭の下士官が藤丸の服装からマシュの大盾へ視線を這わせた。
「どこの者だ? 旅人には見えんしその盾はローマの物でもないな」
マシュが半歩前に出て盾の角度を下げる。
「怪しいのは分かります。でも俺たちは危ない者じゃないです。俺たちも状況を知りたいんです」
「戦時下でそう誤魔化す密偵も反乱兵も腐るほどいる! 名を名乗れ! どこの家だ!」
「藤丸立香。こっちはマシュ・キリエライト。どこの家にも属してません」
「無所属の者がなぜ戦用の大盾を持って門を叩く!」
弁明を探すより早くマシュの視線が荷車の列へ飛ぶ。
「マスター、 右奥の荷車の陰に何かが…?」
ザザァッ!と音を立てて麦袋が内側から弾けた。
隠された剣が引き抜かれる。商人や荷物に偽装していた男たちが一斉に跳ね起きた。
左右の路地からも短槍を持った暴徒が雪崩れ込む。
「門を押さえろ! ネロの犬どもを分断しろ!」
「母后の名のもとに! 新しきローマへ道を開け!」
怒号が石壁を叩く。
ローマ兵が即座に盾を構えるが襲撃は検問の内側だった。馬がいななき市民の悲鳴が上がる。
日常風景が数秒で泥沼へ叩き落とされた。
「マシュ!」
「はい!」
マシュが前へ躍り出る。
飛来した短槍を弾き矢の雨を盾の縁で受け流した。衝撃を殺した足元の石畳がバキリと割れる。
「兵士さん! 市民を後ろへ! こちらは防御に回ります!」
見知らぬ大盾が市民を守った事実。
下士官が一瞬の躊躇を捨て部下へ怒鳴る。
「女子供を門の内へ! 荷車を倒して防壁にしろ!」
藤丸は後退しながら敵の動きを睨む。
武装はバラバラだが合図に呼応して動いている。逃げ惑う市民の波を利用してローマ兵の隊列を崩しにかかっていた。
「いきなりかよ!」
「これ以上踏み込めば第三勢力と見なされます!」
喉に張り付く熱を無理やり飲み込む。
ここでリチャードやブーディカを呼べば反乱兵の殲滅は容易い。
だが周囲には市民がいる。獣冠英霊の力を派手に振るえばローマそのものを敵に回すかもしれない。
必要なのは鎮圧による混乱の収束だ。
「モルガン出てくれ! 被害を出さずに反乱兵だけ止めて!」
冷たい影が這い広がり漆黒の英霊が顕現する。
「承知しましたマスター。制圧ですね。立ち上がる気力も奪えばよろしいのですね」
「そこまで言ってないけど大体そう」
「死なせません。あなたがそう命じましたので。ですが痛みを与えるなとは命じていませんね?」
モルガンが魔杖を傾けた。
見えない魔力の枷が反乱兵に絡みつく。
骨が折れる寸前ギリギリの力で関節が異様な方向へ軋んだ。
「ぐッあああああッ!」
絶叫。
逃げ出そうとした別の男の前に同じ景色が三つ重なる。
幻惑され足を止めた足首を茨が刈り取り体勢を崩した背中に不可視の重槌が叩きつけられる。
モルガンは一歩も動かない。指先一つで戦場の認識を切り替え冷酷に蹂躙していく。
「……魔女か」
ローマ兵の掠れた声。誰がどう見ても魔女の所業だ。
最後まで足掻いた男の手の甲を魔力で粉砕し剣を石畳へ落とさせる。
「この程度でしょう。数名しばらく歩けない者がいますが命に別状はありません。私が命を聞いていなければ掃除はもっと簡潔に済みましたが」
「ありがとう十分だよ」
「あなたの十分は甘口ですがここでは役に立ったようですね」
モルガンの冷酷な視線が戦場を睥睨する。
遠巻きに見る市民もローマ兵も震え上がっていた。
下士官が倒れた反乱兵の生死を確認し警戒を露わにして藤丸を睨む。
「……お前たちは何者だ?」
「怪しい者じゃない。今はそれだけ信じてほしい」
「無理な相談だ。だが助けられたのも事実。今の我々に貴様らを縛り上げる力もない」
下士官は苦虫を噛み潰した顔で部下に怒鳴った。
「皇帝陛下へ報告を急げ! カペーナ門に反乱兵! 死者なし捕縛多数! 正体不明の異邦人が介入し魔術で制圧! 少年が魔女を使役していると伝えろ!」
伝令の背中が門の奥へ消えていく。
「皇帝の耳に直行か。こっちは助けたつもりでも向こうからしたら最悪の不審者だよな」
「ローマの指揮系統外にいる魔術師など疑って当然です」
モルガンが事も無げに言う。
「ですがあなたは死者を出さず市民を守った。皇帝が無能でなければ排除の前に利用価値を測るはずです」
兵士たちは反乱兵の武器を回収し早くも検問を再開しようと動いている。
生活は止まらない。
藤丸は血の匂いが残る石畳の先都市中心部へと続く道をじっと見据えた。
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パラティーノ丘の宮殿執務室。
窓の外にはフォルムへ向かう人の流れと遠くの神殿の列柱が見える。
都市の中心を見下ろすこの場所からならローマがいかに巨大な生き物であるかがよく分かる。
だからこそ机の上に広げられた報告書の山がその巨体のどこに刃が入っているかを痛感させた。
ネロ・クラウディウスは赤い外套を椅子の背へかけたまま地図の上へ指を置いている。
ガリア。
そこへ置かれた駒だけが他のどれよりも重い。
「また属州からの返答が遅れておるな。税も兵も届かぬ。文面だけは丁重だが迷っている者の筆だ」
明るい声色を取り繕っても目元の酷い隈は隠せない。
夜通し読んだ報告書は微笑み一つで融通を利かせてくれるほど慈悲深くなかった。
側近の一人が慎重に口を開く。
「ガリアではアグリッピナ様の名で集兵が続いています。貴族も地方軍も出立を渋っている状況で……」
「母上は実に手際が良い。余に不満を持つ者や遠方の連中の耳元へ欲しい言葉を吹き込んでおるのだろうな」
ネロが駒を弾く。
都を固める兵はまだいる。だが守るだけでは足りない。
「市内の治安維持にも兵が割かれています。検問を緩めれば反乱兵が入り固めすぎれば民の不満が爆発します」
「分かっておる。だが兵が飢えれば都は守れず都を守れぬ皇帝に属州は従わぬ」
ネロは唇を歪める。
「まったく皇帝とは舞台の上だけに立っていればよい役ではないな」
バンッ!
慌ただしく扉が開く。衛兵が膝をつき早口で告げた。
「カペーナ門に反乱兵! 市民を巻き込む構えでしたが死者はゼロ! 捕縛多数!」
「死者なしだと? 門兵の働きか? やるではないか」
「いえ、正体不明の異邦人が介入しました! 少年と大盾の少女! そして魔女が現れ反乱兵を殺さずに制圧を! 少年が女へ命じていたとのこと!」
側近たちが青ざめ一斉にざわめく。
大盾。魔術。謎の少年。この非常時に怪しすぎる。母后の罠か新手の敵か。
ネロは椅子の背の外套へ手を伸ばしかけ途中で止めた。
兵を動かせば都の治安が薄れ都を固めれば属州が離れる。
そんな中で死者を出さず門前を鎮めた正体不明の一団。
利用できるなら利用したい。それが得体の知れない存在に縋りたいほど追い詰められた少女の本音だった。
ネロは深く息を吸う。目元の疲れを表情の奥へ押し込めローマ皇帝として顔を上げる。
「その者たちを連れてこい! 敵か味方か余が直々に見極める!」
「陛下! 危険です、魔術師など接見そのものが罠の可能性も!」
「分かっておる! だが危険なものを見ないふりで済ませられるほど今のローマに猶予はないのだ!」
赤い外套を翻しネロは鋭く言い放つ。
「母上はガリアで新しきローマを作るつもりだ。貴族は迷い属州は揺れ兵は足りぬ。ならば余も手を伸ばせるものには伸ばす!」
「たとえ異邦人であろうと余の前でローマを守ったというなら見極めねばならぬ!」
「連れてこい! 余が直々に見定めてやろう!」
命を受けた伝令が駆け出していく。
扉が閉まった瞬間ネロは誰にも見えない角度で深く深く息を吐き出した。
まぶたの奥が熱い。考えるべきことが多すぎる。
それでも足を止めればローマが離れていき、足下は音を立てて崩れていくかも知れないのだ。
凛とした皇帝の仮面の下でギリッと奥歯を噛み締める。
(もうさぁ!! 分かんない余ォ!! 内戦とかさァ!! 母上何してくれてんのォォォォ!!!!)
魂の絶叫だけを己の胸の奥底へ厳重に封印しながら。
お仕事がね。忙しすぎるんだ。
しょうもないミスとか、不注意の失敗とかでいっぱい怒られたよ......
もう疲れちゃって 全然動けなくてェ...