マシュ・キリエライトしか分からない   作:ats376

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第6話 「簒奪者たちの舌」

石畳は無残に割れ、土の下から噴き上がった根が今なお街道に生々しい爪痕を残している。

皇帝軍の兵たちは遠巻きにその跡を避け、散らばった槍を拾い、荷車の車輪が通れるだけの道幅を確保する。

 

ロムルスが残した根を雑に踏みつけようとする者はいない。刃を交えた敵であっても相手は自分たちの『祖』。兵たちの背中には隠しきれない緊張と畏怖がこびりついている。

藤丸はあの黒い影が消えた石畳を見つめていた。

そこには何もない。焼け焦げた跡も魔術の残滓も視線で追える痕跡は一切ない。言葉に出来ない不気味さが胸の奥に澱む。

 

「大丈夫ですか?」

 

マシュは盾を下ろさず低く声をかける。

 

「先ほどの影についてですがやはりロムルスさんの霊基反応とは一致しませんでした。私の計測では消滅直前に本来の霊基とは全く別種の反応が無理やり混ざり込んだように見えました。いえ……内側から這い出てきたというべきでしょうか」

「別種って具体的に何か分かるかな?」

「……いえ分かりません。ただあまりにも異質だったとしか」

 

藤丸は言葉を詰まらせる。

モルガンもまた冷徹な瞳でその場所を見据えていた。足元には先ほど黒い影の端を捉えようとした術式が消えかけの燐光を放つ。その双眼に映し出されているのはただのひび割れた石畳。

 

「霊基……いえ違いますね。英霊の残滓とも呼び難い。少なくともロムルス本人の内側から生じたものではありません」

「モルガンにも分からないの?」

「断定は避けます。魔力反応自体は感知しました。ですが魔力の『流れ』がこの世界と全く合っていないのです。術式で端を削った感触こそありましたがあれが何に属するものなのかまでは結局掴めませんでした」

 

モルガンは言葉を切り藤丸へ鋭い視線を向ける。

 

「念のためお伝えしますが分からないということは決して『無害』という意味ではありませんよ、マスター。今後、もし同じものが現れたとしても絶対に近づかないでください」

「分かってる……あれは普通に近づいちゃダメなやつだ。というかあんな不気味なものに興味本位で触るわけないだろ……?」

 

ネロは二人の会話を背中で聞き消えた神祖の場所へ目を向ける。表情はいつになく硬い。

 

『これはローマの戦争ではない』

『ローマならざる者がローマの名を騙っている』

 

ネロは小さく重い息を吐き出す。

 

「……神祖の言葉を軽んじるつもりはない。だが余はここで足を止める気はない。得体の知れぬものを分からぬまま恐れていては、母上の置いた火種に道を譲ることになる」

 

前方から馬を飛ばして斥候が戻ってきた。

馬は全身に汗をかき斥候はネロの前で手綱を引く。息を整える間も惜しみ即座に報告を上げる。

 

「陛下! 前方の丘陵地帯に敵軍を確認しました! 先ほどの反乱軍より数は少ないものの極めて理知的な布陣を敷いております!」

「またか……指揮官は誰だ?」

「中央に一名。離れた場所からでも一際目立つ男です。大柄で……その不敬ながら非常に『丸い』と申しますか」

 

ネロの眉がぴくりと動く。斥候は困惑した表情でこくりと頷いた。

 

「はい。大変……丸い男です」

 

ネロはな猛烈な頭痛を堪えるような顔をする。

 

「……余は今、非常に心当たりのある『丸さ』を思い浮かべておるぞ…」

「知り合い……ですか?」

「『知り合い』という生易しい言葉で済ませる相手ではない。皇帝の在り方の扉を自らの才知だけで力ずくでこじ開けた男だ」

 

そんな藤丸への回答にマシュが小さく息を呑む。

 

「……ユリウス・カエサル。共和政ローマ末期の政治家であり希代の軍人ですね」

「うむ。剣も使うし軍も率いる。だがあやつが真に恐ろしいのはその『舌』だ。言葉だけで人を動かし貴族を操り兵を奮わせ民衆の価値観そのものを塗り替える。戦いそのものが始まる前からすでに『勝利した後の空気』を作り上げる男だ」

「ロムルスが『ローマそのもの』だというならカエサルは『ローマを動かす舌と指』だ。奴は戦場にいながらにして高度な政治を行うぞ」

 

ドレイクがクスクスと笑みを漏らす。

 

「商談相手としては一番嫌なタイプですね。価値を決める前にルールそのものを書き換えてしまう手合いです」

「戦場でも同じことだ。あやつはあらゆるものに値段をつける。兵の命にも武功の名誉にもそして勝敗の価値にな」

 

短い休息を終え皇帝軍は再び歩みを開始する。

南方街道は緩やかな丘陵の間へと入り込んでいく。

丘の上には乾いた夏草が揺れ点在する岩影や低木が視界を遮る。道は蛇行し奥へと続いていた。

 

敵はその最奥で待ち構えていた。

 

兵数は少ない。正面を厚い盾兵が固め左右の急斜面には投槍兵が展開。少し小高い岩場には弓兵が陣取りさらに奥の退路になる道にすら薄く兵が配置されている。

強行突破を図れば斜面から射られ斜面を叩きに行けば正面の盾兵が前進する。引こうとすれば別の高台から射線が通る。

 

藤丸は息を詰める。

(なんて嫌な配置なんだ。数が少ないのにどこにも足が置けない)

 

その中央に男がいた。

 

丸々と肥えた威厳を感じさせる体格。

装飾が施された華麗な剣。戦乱の渦中にありながら泥や血飛沫が衣に触れることさえ許さぬ佇まい。

男は笑みを浮かべ瞳だけは冷え切っている。

 

「これはこれは皇帝陛下」

 

カエサルが大仰な仕草で両手を広げる。

 

「あの神祖を退けた直後にこれほど早く次の盤面へ到着されるとは……若さとは実に恐ろしい。いや羨ましいと言うべきかな?」

 

ネロは馬を下りず高みから見据え返す。

 

「その丸いツラを見た瞬間余の疲れが倍増したぞカエサル殿」

「はははそれは光栄。皇帝陛下をこれほどまでに疲弊させるとは一介の政治家としては上々の働きというものだ」

「ローマのためと豪語しながら母上の側に付くか」

「ローマのためだからこそ私は選ぶのだよ陛下」

 

カエサルの柔らかい声が戦場全体へ響く。

 

「皇帝とはただ名乗れば成れるものではない。支える者担ぐ者そして信じる者がいて初めて成立する概念だ。ならばその支えが別の者を選んだ時皇帝は何を以て皇帝であり続けるのかね?」

 

言葉が毒のように周囲へ浸透していく。皇帝軍の兵たちにも反乱軍の兵たちにも。戦場にいる全ての者の心を掻き乱す。

 

ネロは怯まない。

 

「――余自身によってだ」

 

凛とした拒絶。カエサルの笑みがより一層深く刻まれる。

 

「美しい。実に美しい答えだ。だが……美しさというものはしばしば現実の重みに屈するものだよ」

「ならば余がこの現実すべてを美しく塗り替えてやろうではないか」

「そのために異邦から来たという胡散臭い客将たちを連れ歩くと?」

「神祖を退けたという剣士。強固な盾を持つ少女。青き魔術師に礼儀正しき女傑……そしてブリタニアの女王。随分と華やかな一座ではないか。ネロよ皇帝は劇を好むものだがこれは少々、演目が過剰ではないかね?」

 

藤丸は真正面からカエサルの視線を受け止めた。

自分たちに値札を貼られているような感触。男は冷徹に算盤を弾いている。

 

「……あんたみたいなタイプが一番厄介なんだろうな」

 

カエサルが興味深げに目を細める。

 

「ほう。若い割に政治家を見る目があるようだ。投票の意思はあるかね?」

「全然。それに褒められてる気がしないけど」

「褒めているとも。私は価値のあるものは正当に認める主義だ。価値があるからこそ奪うか買うか、あるいは壊すかを考えるのだよ」

 

カエサルの指がふと軽やかに動く。見逃してしまいそうなほど小さなサイン。

 

丘の上の弓兵が一斉に弦を引き絞る。

会話に視線が集中していた。その僅かな隙間を無慈悲な矢が射抜く。

 

狙いはネロ。藤丸は反射で身体を動かす。

 

「ネロ危ないっ!」

 

藤丸はネロの肩を力一杯押す。

小柄な皇帝の身体が横へ大きくよろめく。矢がネロのいた場所を通り抜け赤い外套の端を鋭く裂いた。

 

藤丸の肩に熱い激痛が走る。掠めた。即座に生々しい血の匂いが立ち込める。

 

「先輩っ!」

 

マシュの盾が藤丸の前へ滑り込む。場の空気が変質する。サーヴァントたちの纏う雰囲気が凍てつくような殺気に塗り替えられた。

 

ネロが狙われた際彼女たちはあえて動かなかった。だが藤丸の肩を矢が掠めた瞬間全員の視線が冷酷な殺意を伴って射手へ向けられる。

 

「マスターっ!」

 

ブーディカが血相を変えて駆け寄りリチャードの手が剣の柄へ伸びる。

 

「今のは……マスターを明確な殺意を持って狙ったのか?」

「いえ。ですがマスターが巻き添えになりました……不快ですね」

 

モルガンの低く平坦な声。そこには一切の『温度』が存在しない。ドレイクは不敵な表情で丘の上を睨み据える。

 

「射手確認しました……三。いえ四。奥に合図役が一人」

 

カエサルが余裕の笑みを浮かべる。

 

「惜しい。いやこれは計算外というべきかな? まさか自ら盾になるとはね客将の少年。君は随分と高くつく男のようだ」

 

藤丸は傷口を押さえながら立ち上がる。ネロは姿勢を立て直し唖然と藤丸を見つめていた。驚愕と言いようのない怒りが混ざり合った表情。

 

「そなた……何を……何を考えておるのだ……!」

「無事ならあとでいくらでも怒ってください」

 

藤丸はドレイクへ視線を送る。

 

「ドレイクやれるか?」

「ええ。宝具を使うまでもありませんよ」

 

両手にはすでに漆黒の銃。瞳は丘の上から伸びる射線を冷徹にカウントしている。

 

「うちのマスターを巻き込んだ以上相応の利子は頂戴しますよ?」

 

乾いた銃声が一つ響き、ネロを狙った弓兵が仰向けに倒れた。二射目。伏兵の眉間が爆ぜる。三射目。小隊長の肩を精密に撃ち抜く。四射目。旗手の足元が粉砕された。

 

旗が落ち、合図が途絶える。ドレイクの銃口から絶え間ない火が噴き出す。カエサルが再び合図を送ろうとするが、指示を受け取るべき兵たちはすでに骸へと変わっている。

 

予備の旗を掲げようとした兵の手が射抜かれ地面に膝をつく。投槍兵の列が乱れ正面の盾兵が前進するタイミングを見失う。倒れゆく自軍にカエサルの目が鋭く細められた。

 

「……なるほど。神祖戦では沈黙していた駒か」

「『駒』じゃありませんよ。私はマスターの『狗』ですよ」

 

ドレイクは次の標的へ銃口を向ける。

 

「そして射線さえ見えれば相手の懐は丸裸にできるんですよ」

 

カエサルが固く口を閉ざす。完璧だった布陣が呼吸を乱す。高台の狙撃網は瓦解し合図役は消え斜面の伏兵たちは次の行動指針を見失い困惑する。

今なら勝機はある。

 

「ネロ陛下……カエサルの相手はこちらに任せてください」

 

ネロは唇を強く結ぶ。

 

「……余の戦列である以上は余が退くのは本意ではない」

「退くんじゃありません。これ以上兵を削らせないための最善の判断です」

 

ネロの視線が藤丸の肩へ流れる。矢が掠めた場所からじわりと赤い血が染み出している。ネロは短く息を吐き出す。

 

「……随分と言うようになったな客将」

「さっき庇ったばかりなんだから少しは言うことを聞いてください」

 

ネロは僅かに言葉を詰まらせ凛とした皇帝の貌へ戻る。

 

「……よい。カエサル本人は任せる。余の兵は陣を維持し逃げ道を塞ぐことに専念しよう」

「ありがとうございます」

 

ブーディカが確固たる意志を持って前へ出る。声に低く響く重厚な怒りが宿る。

 

「じゃ――次は私の番だね」

「俺も出るか?」

「さっき神祖と戦ったばかりでしょ!」

「ロムルスとの戦いはもう終わったぞ?」

「そういう問題じゃないのっ! あなたはマスターの側にいて!」

「ならば護衛か。まあマスターが怪我をした直後だ。異論はないよ」

「大人しくしててちょうだい」

 

「先輩、痛みは? 意識ははっきりしていますか?」

「掠っただけだよ。大丈夫」

「大丈夫ではありません! この戦闘が終わったら即座に処置しますからね!」

「……はい」

 

モルガンは動かず丘陵地帯の深淵とカエサルの霊基反応を観察し続ける。

 

「私は観測を続けます。あの影が再び姿を現すなら今度は一瞬たりとも逃さず捉えます。きっちり倒して下さいね」

 

ブーディカが力強く剣を抜く。カエサルの周囲に残った親衛隊が盾を構えるがその中へ迷いなく突き進む。流れるような剣筋で盾を弾き飛ばし体捌きで足を払う。武器を持つ腕を打ち前へ出ようとする兵を力強く押し返す。

 

ドレイクの銃声が進路を阻もうとする伏兵の射線を次々と消していく。

 

カエサルが自ら剣を抜く。丸々と肥えた体格に似合わず驚くほど身軽な動きで後方へ下がりブーディカの剣閃を受け流す。口元には余裕の笑みがへばりつく。

 

「ブリタニアの女王か。ローマを骨の髄まで憎む者がローマ皇帝の側に立つとは……運命とは実に皮肉な脚本を書くものだね?」

 

ブーディカの重い一撃がカエサルの剣を弾き飛ばす。

 

「今はただマスターの敵を止めてるだけよ。そっちの都合のいい解釈に私の怒りを使うな!」

「なるほど……私の舌も今日は少々効きが悪いようだ」

「言葉で止まるつもりなんて最初からないもの――その舌ごと裂いてあげるわ」

 

ブーディカが地を蹴り一気に間合いを詰める。カエサルは受け横へ流し距離を取る。先に控えていた護衛兵が動こうとした瞬間ドレイクの銃弾がその盾を粉々に砕いた。カエサルの目がほんの一瞬だけドレイクへ向く。

 

その一瞬の隙。ブーディカがそれを見逃すはずもない。

 

剣の柄がカエサルの分厚い腹部に深くめり込む。肺の空気が押し出され息が詰まる。電光石火の追撃がカエサルの剣を高く跳ね上げる。

丸々と肥えた体格には到底似つかわしくない水のように滑らかな体捌き。それでも完全に回避することは叶わない。胸元の華美な装飾が火花を散らして弾け飛び、黄金の留め具がカラン、と虚しく石畳を転がった。

 

カエサルは後退しようとするが背後の兵たちはすでにドレイクに無力化され地面に這いつくばる。

策略家の退路が完全に絶たれた。

 

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 

「おっと……。これは危うい」

 

「やはり、女王とは恐ろしいものだ。怒りを宿す者は、時に理屈よりも速く届く」

「――怒りだけで動いているとでも思っているの?」

 

ブーディカの声は静かに煮える熱湯の如く。

次の一歩で彼女はカエサルの退路を完璧に塞ぐ。護衛兵が強引に割り込もうとしたがその瞬間、ドレイクの放った銃弾がその足元を正確に粉砕した。兵は踏み込めず、盾を構えたまま石像のように凍り付く。

 

「……思わんな。だからこそ、私にとっては絶望的に厄介なのだよ」

 

「怒りを持ちながら、なお他者のために剣を振るう。実に、実に取り扱いづらい」

「扱われる気なんて最初からないもの」

 

ブーディカが再び地を蹴った。

激しくぶつかり合う剣と剣。カエサルは力で抗わず、ひたすらに受け流す。真っ向からの押し合いには乗らず、身体をずらし、角度を変え、その合間に巧妙な言葉を挟み込む。相手の呼吸を乱し、僅かな隙を作っては周囲の兵へサインを送ろうとする。

 

だが、そのサインを受けるべき兵はもう戦場にはいない。

高台の射手は沈黙し、投槍兵はドレイクの射線を恐れて亀のように身を縮めている。旗手が旗を握り直そうとするたび、その足元へ無慈悲な弾丸が突き刺さる。

 

「次に旗を掲げたら、旗ではなくその手を撃ち抜きますよ?」

 

その言葉は犠牲者が転がる戦場に拡がり、敵兵たちの戦意を根こそぎ奪い去っていく。

藤丸はマシュの背後に隠れながらその光景を見つめていた。肩の傷が脈打ち、熱を持っている。痛みは確かにあったが、今は一瞬たりとも目を逸らすわけにはいかないのだから。

 

 

ブーディカが着実にカエサルを追い詰めていく。

彼女は決して怒りに身を任せない。藤丸を守るため。ネロの兵たちを無駄死にさせないため。そして――この街道をただの戦争の道具として焼き払った者たちを止めるために。彼女の剣には明確な意思が宿る。

 

「ドレイクの狙撃が完璧に効いてる……」

「はい。カエサルは配置で戦う指揮官。ですが指示を受ける兵、射線を作る兵、退路を守る兵がことごとく潰されています」

 

マシュは背後の藤丸を気にかけながらも冷徹に戦況を分析し続ける。

 

「ブーディカさんが正面を抑え、ドレイクさんが周囲を封殺する。カエサル本人がどれほど武に長けていようとも、周囲の援護がこれでは機能不全です」

 

ネロもまたその光景を静かに見守っていた。

一国の皇帝として、かつての英雄の布陣が瓦解していく様を。

そこには自らの軍勢ではなく客将の力で戦況が動いていることへの複雑な感情もあっただろう。

だが、彼女は誇り高く命じたのだ。自軍の兵を無駄にせず、逃げ道を塞げと。その苦渋のけれど最善の決断を藤丸は心から信頼していた。

 

カエサルの剣がブーディカの首筋を鋭く狙う。

しかし、ブーディカは半歩も退かない。剣で受けるのではなく、盾の縁でカエサルの手首を強打した。

剣筋が大きく逸れ、その隙を見逃さず彼女は足を払う。カエサルは辛うじて身をかわすが、着地したその極小のスペースには――。

 

ドレイクの弾丸が置き土産のように着弾した。

逃げ道がまた一つ、砂のように消え去る。

 

「……見事だ。船長殿、であっているかね。君は実に厄介な女だな。神祖戦で沈黙していたのは、我々にとって最大の不幸であったよ」

「それはどうも。どうでもいいですが」

 

不敵に笑うドレイク。

その直後。ブーディカの重い一撃がカエサルの剣を空高く跳ね上げた。

剣の柄を鮮やかに反転させ、その重厚な柄頭をカエサルの胸へと叩き込む。鎧の上から放たれた衝撃は十分に致命的。カエサルの身体が後ろへと大きく崩れる。片膝が石畳を叩き、剣を支えに立ち上がろうとした手からは力が失われていく。

 

ドレイクの銃口が膝をついたカエサルを飛び越え、背後に残る僅かな護衛兵たちへと向けられているため助けもない。

 ――詰み。

もはや動ける者は誰もいない。

 

カエサルは膝をつき、しばしの間沈黙を保った。

それから。肩を揺らし愉快そうに笑い声を漏らした。

 

「敗北だ。完敗だよ」

 

 

「いや、実に明快だ。剣で敗れ、盤面で敗れ、あろうことか見落としていた駒に演出を台無しにされた。政治家としては……身を引くべきかな」

「『駒』じゃないと言ったはずですが?」

 

「失敬。……ああ、狗だったな。客将の少年。君は実に厄介極まるな。皇帝を庇い、奇妙な英霊どもを従え、しかもそれらを完全には使い切ろうとしない。実に、実に面倒な存在だよ」

「それ……本当に褒めてるんですか?」

「今一度だが、褒めているとも。私は価値あるものを認めることに吝かではない主義なのだ」

 

カエサルの霊基が静かに崩れ始める。

光の粒が足元へとこぼれ落ちていく。

 

 

――まただ。

 

カエサルの胸の奥。崩壊していく霊基の深淵から、あの『黒いもの』が滲み出してくる。

ロムルスの時と同じ。いや、同じと言い切れるほどの明確な形などない。

墨を水に垂らしたように、不気味にゆらゆらと揺れ、消えゆく光の縁を侵食しながらそこに在る。

 

「出た……っ!」

 

マシュが藤丸を庇うように一歩前に出る。

モルガンの魔術が電光石火の如く走った。術式が石畳を這い、黒い影の輪郭を縫い止めようとする。

だが――影の端に術式が触れた瞬間、構築された線が不自然に歪んだ。掴んだはずの場所が薄く引き伸ばされ、液体のように別の場所へと滑り落ちる。影には縛るための輪郭そのものが存在しないらしい。

 

「……逃がしません!」

 

モルガンの声が低く鋭くなる。彼女は一瞬で術式を組み替えた。

影の表面を削るのではなく、その流れの向きを強引に読み取るための魔術へ。青白い閃光が一瞬だけ黒い縁をなぞった。

 

しかし本体はすでに沈んでいる。

地面に落ちた他の影へと溶け込むように音もなく、すっと消滅した。

追撃の術式は空しく石畳の上で解け、青い残光だけが夜の空気を照らした。

 

「モルガン!」

「……逃がしました。前回よりも長く接触しました。……ですが、やはり正体は掴めません。霊基でも、呪いでも、単純な魔力の塊でもない。少なくともこちらの既存の術式で分類できるような代物ではないようです」

 

カエサルは消えゆく意識の中でそのやり取りを眺めていた。

己の胸から這い出したあの黒いものを、まるで他人事のように冷めた目で見つめていた。

 

「カエサル。お前は……あれを知っているのか」

 

「……私にも分からんよ。皇帝殿」

「お前にもだと?」

「意外そうな顔だな、皇帝陛下。私も全知ではない。だが――富の匂いにはこれでも敏感な方でね」

 

「さて、そちらのマスター殿も聞いておけ。あれは……誰かが得をしている。だが、誰が、何を、どれほどの利益を得ているのか? そこまでは今の私には見えん」

「母上の策ではないというのか?」

 

「さてな。少なくとも……私はアグリッピナ殿からは何も聞かされていない」

 

カエサルの霊基がいよいよ薄れ半透明になっていく。

 

「……気をつけておけ。戦争とは常に得をする者がいるものだ。勝者だけではない。敗者からも、死者からも、剥ぎ取られた名からも、歪められた歴史からも……利益を拾い集める者がいるのだ」

 

「……それがあの黒い影だって?」

「さあね。だが……君たちが真に追うべきものは、私のこの丸い腹よりもあちらかもしれんな」

 

 

「ネロよ。舌で負けたつもりはないが、戦場では私の負けだ。……あとは君の足で進むがいい」

「言われずとも」

「よろしい。皇帝とは――進み続ける姿を見せ続ける者のことだからな」

 

カエサルの姿が完全に崩れ、まばゆい光の粒となって霧散した。

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

その日の進軍は限界を迎える。

 

反乱軍先遣隊。神祖ロムルス。智将カエサル。ローマを出発して以来皇帝軍は休む間もなく戦いを続けてきた。兵たちの足取りは重く負傷者を乗せた荷車の数も増え続けている。

ネロは先へ進む意志を瞳に宿す。だが将たちから上がった疲弊の報告を耳にし短く息を吐いた。

 

「……よい。ここで兵を潰すのは皇帝の意地を越えた愚かさ。受け入れよう」

 

ネロ派の使者が到着する。ボウィラエ近郊にある貴族のヴィッラを皇帝軍の臨時拠点として開放するという申し出。

 

アッピア街道から外れた丘の斜面に豪奢な屋敷が佇む。低い石壁に囲まれ周囲には銀緑色のオリーブ畑と青々としたブドウ棚。主屋には美しい列柱廊が巡らされ白い柱の奥には広々とした広間。

屋敷の主人はネロの前に膝をつき深く頭を下げる。礼を尽くす顔に不安が滲む。内戦の最中重い門を開けた覚悟がそこにある。

 

負傷者は広間へ運び込まれ庭園には疲れた兵たちが腰を下ろす。清潔な包帯と水、焼きたてのパンが配られ馬の鞍が一つまた一つと外される。

藤丸は列柱廊の一角に力なく座り込む。

 

「……やっと座れた」

「さぁ先輩。肩を見せてください」

 

マシュが隣に膝をつき真剣な眼差しで覗き込む。清潔な布で血を拭い、盛る胃がんが消毒代わりの魔術処置を施す。

 

「そういえば今日は結局どういう場所を通ってきたんだろ?」

 

マシュは端末の簡易地図と照らし合わせつつ回答する。

 

「はい。ローマ市のカペーナ門付近を出発しアッピア街道方面へ南下しました。現在地はボウィラエ近郊です」

「ボウィラエ……まだ都からは遠くないよね?」

「距離としてはローマ近郊の範疇です。ただ――アグリッピナの新帝都がガリア方面のルグドゥヌム付近にあるとすればここからはかなりの長距離行軍になります」

 

マシュは表情を曇らせ地図をなぞる。

 

「軍勢と補給車を伴う行軍なら何事もなく進んでも数十日単位。戦闘や補給の滞りを含めればさらに期間は延びる可能性があります」

「数十日……か」

「マスター。今日だけでも相当疲れてるみたいだけど大丈夫?」

 

ブーディカが心配そうに覗き込む。ドレイクが真面目な顔で口を開く。

 

「それならば! 私が宝具で船を浮かせてマスターを運んだ方が早くありませんか? 陸路で何十日も移動するよりずっと合理的ですよ」

「速度面では魅力的です。ですがそれでは皇帝軍と離れてしまいますし、補給計画に大きな狂いが生じます」

「じゃあ俺が宝具を解放して進路上の敵を根こそぎ薙ぎ倒しながら進むのはどうだ? 道も敵もまとめて力ずくで開いてみせるぞ? 戦争っぽくなって盛り上がりも最高だ」

「……どっちも却下っ!」

 

ブーディカがピシャリと言い放つ。

 

「マスターを休ませたいって話をしてるのになんで移動手段が天災みたいになるのよ!」

「いや、俺の案は飽くまで地上戦だ。船よりは歩調を合わせやすいぞ? 地に足をつけた人生みたいなもんだ」

「そういう問題じゃないの!」

「……普通に。普通に休ませてください……」

「はい。先輩は今一刻も早く普通に休むべきです」

 

ドレイクが苦笑いして例の果実飲料が入った水筒を差し出す。味のフレーバーが異なるらしい。

 

「では、まずはこちらをどうぞ」

「……ありがとう。本当に助かるよ」

 

モルガンはやり取りを壁に寄りかかったまま眺めている。藤丸の肩の処置が終わったのを確認し僅かに瞳を和らげた。

 

「移動手段の検討は後回しです。今はマスターの休息こそが最優先事項です」

「……モルガンまで」

「当然のことです」

 

夜が更ける。ヴィッラの列柱廊に静寂が降り積もる。兵たちは泥のように眠り負傷者の呻き声も穏やかな寝息へ変わる。井戸から滴る水の音と時折馬が鼻を鳴らす音だけが静かに響く。

 

藤丸は寝付けず列柱廊へ出る。肩の傷に鈍い疼きが残る。カエサル達が放った矢の残像。不気味な黒い影。ネロを突き飛ばした確かな感触が頭を離れない。

 

「眠れぬのか? 客将」

 

振り返るとネロが立っていた。トーンを落とした穏やかな声。外套を羽織り甲冑の大部分は外されている。皇帝としての姿勢はそのままに佇まいは戦場よりも近く感じる。

 

「ネロ陛下こそ……」

「余は皇帝だ。眠れぬ夜の一つや二つ、珍しいことではない」

 

ネロは視線を夜の闇へ泳がせ言い淀むように口を開く。

 

「……昼の矢のことだが。改めて礼を言おう。感謝する」

「……無事で本当によかったです」

「だがしかしだな。そなた少しは己の身を顧みたらどうだ」

「考えるより先に身体が動いちゃったので」

 

ネロがじっと藤丸を見つめる。呆れたような怒るような顔。瞳の奥に確かな熱が宿る。

 

「……だからこそよいのだろうな」

 

列柱の間から夜の庭へ目を向ける。

 

「余はそなたを客将として迎えた。危険で便利で正体の知れぬ力を持つ異邦の闖入者。正直に言えばそう見ておったとも」

 

藤丸は黙って聞いていた。

 

「だが今日。そなたは余を庇った。余の玉座や名に縛られずネロという一人の人間をだ」

「ならば余も認めよう。そなたに対しもう少しばかりの信を置くことを。もはやただの便利な力としては扱わぬ」

「……ありがとうございます」

「礼を言うのはこちらだと言っておろう」

 

ネロは頬を膨らませ、悪戯っぽく笑う。

 

「それに。皇帝を直々に助けた男だ。少しくらい余に対して誇ってもよいぞ?」

「あはは。いやそれはちょっと……」

「遠慮は無用だ。この余が許す!」

 

月光を背に受けた笑顔は大胆でまばゆい。

 

 




マシュ「第二特異点ってこんなのでしたっけ……? でも、先輩がかっこいからOKです!」

ORT「そこに愛はあるのか?」
ジャンヌ「愛、素晴らしいですね」
エレナ「愛……、愛かしら……?」

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