マシュ・キリエライトしか分からない   作:ats376

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第7話 「忠誠の値段」

~ガリア新帝都~

 

石造りの会議室には火鉢の熱が残る。

壁には属州地図。卓上には街道図、蝋板、密書、封を切られたばかりの報告書。

街道と河川、税と軍、属州行政を束ねるために選ばれた帝国の第二の心臓、ルグドゥヌム。

 

その中央にアグリッピナが座る。

 

周囲の官僚たちの顔に不安の色が濃い。

報告役が蝋板を読み上げる。

 

「ローマ市近郊にて皇帝ネロ自ら出陣。南方街道の反乱軍先遣隊は敗走。続いて我々母后陣営の客将ロムルス様、カエサル殿も退けられました」

 

会議室がざわつく。

ロムルス。カエサル。

サーヴァントという存在を正確に理解している者は限られる。彼らの多くにとってあの者たちは異様に強い協力者、客将に過ぎない。

 

想定外の事態に苦々しく財務担当の官僚が低く呻く。

 

「皇帝の出陣はローマ各地で広く噂になっております。『皇帝は動いた』と。我々の陣営へ傾きかけていた貴族は態度を保留に戻しました。ローマの中心部、地中海東方、南方の各勢力は、現時点ではネロ陛下側で安定しつつあるとの報告です」

「それは困る」

 

「ローマ市そのものが揺れねば、こちらの正統性は属州側でしか支えられません。都がネロへ戻れば、周辺貴族もそちらへ雪崩を打つ」

「加えて、皇帝側には異邦の少年と怪物じみた客将たちがいると聞く。ロムルス殿を倒した剣士、狙撃でカエサル殿の布陣を崩した女、盾の少女……何か隠し球があるかもしれん」

「それだけ聞けば、もはや小さな軍ではないか」

 

アグリッピナは指先で卓上の地図をゆっくりとなぞる。

ローマから各地の小都市や宿駅を結び、やがてガリアへ至る線。

 

「勝利の報は速いものです。けれど、速い報ほど熱に浮かされる。ネロが動いた。ネロが勝った。ネロは皇帝である。民も兵もしばらくはその言葉を好んで聞くでしょう」

「では、こちらは熱が冷めるのを待つべきでしょうか?」

「いいえ。冷める前にこちらから水をかけてあげましょう」

「ネロは勝っている。だからこそ、前へ出ざるを得ない。進めば兵は疲弊し、補給は伸びる。貴族は会談を求め、地方有力者は約束を求め、兵は水と麦を求め、負傷者は後送を求める。皇帝が動くということは、皇帝があらゆる判断を背負うということです」

 

 

「今の世論を維持するには、彼女は進み続けるしかありません」

 

軍務担当をはじめ、官僚たちが別の地図を指した。

 

「ならば、補給と人員の入れ替えを狙いますか。皇帝軍は勝利の勢いで兵を集め始めている。新たな地方兵、補給車、負傷兵の後送。そこへ密偵を混ぜれば、警備に穴が開きましょう」

「こちらも団結を強めましょう。ヘリオガバルス様を戴く諸都市へ改めて誓約文を求めます。中立を許さない形で」

「宣伝文も必要です。ネロは異邦の怪物に頼る皇帝である、と。ローマの名を守ると称しながら、ローマの外から来た者たちを戦列に置いている。これは貴族層へ効きます」

 

アグリッピナは目を伏せる。

彼らの盤面の見方が、自分の望む形へ寄ってきた。

 

「ネロを殺すだけでは足りません。ネロを支える理由を削りなさい。兵には不安を。貴族には損得を。民には疑いを。皇帝とは、一人で立つものではありません」

「先に出た意見を採用します。補給と兵の入れ替えの夜を狙いなさい。密偵を通し、火を入れるのです。私の客将もさらに三騎出しましょう」

「ネロの首を?」

「取れればよい。けれど、取れずとも構いません」

 

アグリッピナが微笑む。

 

「兵站を焼き、遊軍を疑わせ、夜に眠れぬ皇帝を作りなさい。勝ち続ける者ほど休めなくなることを、教えてあげましょう」

「もう、あの子はいらないもの」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから数日。ネロの軍は変わらず進む。

負傷兵を後方へ戻し、新たな地方兵を合流させ、補給を整える。水と麦を調達し、街道沿いの使者を受ける。

反乱軍を退け、ロムルスとカエサルを越えた皇帝の軍勢。噂は迷っていた者たちの背を押し、彼らは必ず書面と条件を持ってくる。

 

朝は兵の配置を確認。昼は行軍。夕刻に地方有力者と会談し、夜には補給と明日の進路を決める。

すべてがネロの肩に乗る。

そしてここは街道沿いの小都市で一番の邸宅にある広間。

地方有力者が何度も汗を拭う。顔にはアグリッピナ側へつく選択肢を捨てきれない迷いが滲む。

 

「我が家は無論、皇帝陛下への忠誠を忘れたことなど……」

 

有力者の言葉が止まった。

ネロの横に座る藤丸。その背後に立つ面々。

マシュが大盾を傍らに真面目に記録を取る。モルガンが無言で有力者の魂の価値を測るように見据える。リチャードが退屈そうに壁際へ立ち、「さっさと済ませろ」という圧を放つ。

 

 

「む、無論、忠誠を忘れたことなどございません! 陛下が自ら進まれている今、我が家もまた道を誤ることはないでしょう!」

「よい返答だ!」

 

ネロが頷き、書面が交わされる。

ドレイクが藤丸の横で静かに囁いた。

 

「迷っていた時間にも、価値は発生していましたが……?」

「迷ってなどおりません!」

「今、圧かけました?」

「交渉には場の空気が大事ですので。必要な措置ですよ、マスター」

「交渉が円滑に進んでいますね。さすが先輩です。やはりカルデア家の頭目にふさわしいかと」

「これ、円滑なのかな……。というか、何か知らない単語が出てきた気がする」

 

そんな様子を眺めていた控えていた将軍が藤丸の背後で小さく笑う。

決して楽ではない行軍中だというのになんとも楽しそうだ。

 

「客将殿、便利だな」

「便利扱いされるのはちょっと……」

 

ネロはわずかに笑みを漏らす。

軍議の後。交渉の前。行軍の合間。ネロは藤丸を近くへ呼ぶ。

客将としての意見。異邦人からの視点。戦力の開示。

話は実務だけに留まらない。

 

夕方、兵たちが水を配っている時。

 

「そなたは普段は何を食べている?」

「普段?」

「うむ。そなた、戦場では普通の顔をする。余から見るとそこがかえって不思議だ」

「普通の食事ですよ。白いご飯とか、味噌汁とか」

「白い飯……? いや、味噌汁とは何だ」

「ええと、豆を発酵させた調味料を使った汁物で……」

 

ネロは真面目な顔で聞く。皇帝としてではなく、ただ一人の人間として。

 

「そなたの故郷は妙なものを食べるな」

「ローマの人に言われると、ちょっと面白いです」

「なんだと?」

「ネロ陛下、ちゃんと食べました?」

「余は皇帝である。食事程度、忘れたところで――」

「駄目です」

「臣下でもないのに、妙に遠慮がないな、そなたは」

「客将なので」

「便利な言葉にするでない」

 

ネロが純粋に笑う。兵の前で見せる強く見せるための笑みではない。

 

将軍たちはその変化を見逃さない。

 

「陛下、あの客将殿をよく呼ばれるな」

「命の恩人だからな」

「それだけか?」

「陛下は恋多き御方とも聞くし……」

「馬鹿、声が大きい」

「いや、しかし邪魔はよくないだろう」

「何の邪魔だ」

「分からん。だが邪魔はよくない」

 

しかし、獣冠英霊たちへの恐れは未だ根強い。得体の知れない4人は未だに近づき難い。

その一方で、藤丸への警戒は薄れている。

負傷兵へ声をかけ、水運びを手伝い、礼を言われれば困った顔で笑う少年。

 

「あの客将殿、すごく良い奴だな」

「陛下を庇ったんだろ」

「でも、なんであんな方々を従えているんだ?」

「やんごとない身分の御方なのでは?」

「隣の盾の少女は従者か?」

「いや、婚約者かもしれん」

「馬鹿、声が大きい」

 

 

「先輩。今、私のことを何か言っていたような」

「気のせいだと思う」

「そうでしょうか。極めて何か素晴らしいものだったように思います」

 

藤丸はそっと視線を逸らした。沈黙こそが金である。

 

夜。軍は街道沿いの臨時拠点に入る。

貴族館に隣接した広い敷地。補給部隊が入り、負傷兵が送られ、新たな地方兵が合流する。

古い部隊と新しい部隊の入れ替え。荷運び人、医療係、馬丁、貴族の使者、兵站担当が行き交い、慌ただしい。

 

軍議用の部屋。ネロの目の下にはうっすらと疲れが出ているが、将たちの前では背筋を伸ばす。

 

「負傷兵の後送は」

「夜半までに終わります。新たな地方兵二百が合流。補給車は麦袋、乾燥肉、矢束、馬用の飼葉を積んでおります」

「合流兵の身元確認は」

「各隊長が行っております。ただ、出入りが多く、完全な確認には時間が」

「急がせよ。ただし、兵を疑うような扱いにはするな。彼らは余を信じて来た」

 

藤丸はその横で聞く。

ネロは自分のもちへ来た兵を疑いたくない。けれど、内戦の甘さは命取りになる。

それまで黙って見ていたモルガンが唐突に口を開く。

 

「確認は私の術式を通しなさい。疑うのではなく、あなた方を守るためです」

「ネロ陛下、俺からも。少しでも被害減らすためです」

 

ネロは藤丸を見た。

 

「……分かった。確認を許す。ただし、兵に無用な恐怖を与えることはないようにな」

「承知しました」

 

 

 

その時。

外で馬が大きく嘶く。遠くで何かが割れる音。

藤丸が立ち上がるより早く、窓の外に赤い光が走った。

補給庫の方角で火が上がっている。

 

鐘が鳴り、兵の声が夜を裂く。

 

「襲撃! 補給庫に火!」

「東側の柵が開いている! 内側からだ!」

 

藤丸の前にマシュが立つ。リチャードが剣へ手をかけ、ブーディカの表情が変わる。ドレイクは火の上がった方角と反対側の柵を見比べる。

モルガンだけが夜の奥を凝視する。

 

「来ます。人間の兵だけではありませんね。三つ。霊基反応です」

 

 

□□□□□□□□□□□□□□

 

 

狂ったような鐘の音が夜の静けさを叩き潰した。

 

藤丸の視界を焼いたのは不気味な赤色。

補給庫の方角で火の手が爆ぜ、積み上げられた麦袋の影が巨大な怪物の足跡のように壁へ映し出される。

 

馬の嘶き。水桶が石畳を転がる乾いた音。溢れた水は兵たちの靴に踏み荒らされ泥水となって広がる。

 

「襲撃だっ! 補給庫に火が回っているぞ!」

「東側の柵が開いている! 内側からだ、裏切り者がいるぞ!」

 

悲鳴と怒号が重なり合う中、藤丸の正面にマシュが滑り込んだ。

大盾の縁が床を擦り火花を散らす。炎の照り返しを受け盾は頼もしく光る。

 

「マスター、下がってください! ここは危険です!」

「ネロは……!?」

 

藤丸が振り返る。ネロはすでに部屋の扉を蹴り開けていた。

寝不足の顔から疲労の色だけが抜け落ちている。冷徹に勝利を掴み取るための皇帝の瞳。

 

「火を消せ! 補給車を下げよ! 合流兵は所属ごとに固まれ、勝手な動きは反逆と見なす! 古参兵は列を作り、逃げる者を踏み潰させるな!」

 

将たちが弾かれたように走り出す。

 

外では合流したばかりの地方兵たちが己の盾を探して右往左往。

上官を呼ぶ叫び。古参兵に力ずくで押し戻される怒声。馬丁たちが必死に馬を宥める音。

そこへ母后派の兵たちが容赦なく流れ込んだ。

 

内通者の手引きによって開かれた柵から侵入した者たち。火と煙を遮蔽物として利用し、補給庫と指揮所へ二手に分かれて殺到する。

誰がいつどこへ走るかを敵はすべて知り尽くしている。

 

荒れる窓の外を見据えるドレイクの瞳が鋭くなる。

 

「火は単なる陽動ではありませんね。補給そのものを根こそぎ削りに来ています」

「こちら側の連携がうまく取れないタイミングを狙って……!」

 

マシュが低く呟く。直後モルガンが静かに顔を上げた。

 

「……来ます。先ほどよりも近い」

 

魔術式が足元を這う。拠点全体に張り巡らせていた警戒術式の末端が夜の深淵から迫る異質な霊基を捉える。

 

「霊基反応を再度確認。……紛れもなく、サーヴァントです」

 

 

火を吹く建物の影から一人目が姿を現した。

カリギュラ。

 

青白い月光を浴びたローマの狂帝が歪な笑みを浮かべている。

瞳はどこも見ていない。燃え盛る補給庫にも逃げ惑う兵にも一切の関心を示さず、ネロがいる建物へと機械的に歩いてくる。

ただ愛し憎んだネロの名を求めて。

 

 

二人目はパニックに陥る補給車の列へ向かっていた。

ダレイオス三世。

 

巨躯が揺れるたび荷車を引く馬たちが恐怖に狂って嘶く。槍を構えた兵たちの手は震え消火に走っていた者たちが金縛りにあったように足を止める。

燃え上がる麦袋の赤よりも静かに近づいてくる黒き巨王の方が、彼らには巨大な死そのものだった。

 

 

そして三人目。

破壊された柵から拠点中央へ猛然と踏み込んでくる呂布奉先。

敵兵の号令を塗り潰す轟音と共に武具が夜を引き裂いた。

言葉はない。交渉もない。進路上にあるすべての物質を粉砕するためだけの暴力的な一歩。

 

母后派の用意した絶対的な切り札。皇帝側の怪物たちを叩き潰すために送り込まれた人知を超えた協力者。

 

「マシュ、あなたはマスターを護りなさい」

「はいっ!」

 

マシュが藤丸を背後へ促す。

藤丸は盾の隙間から立ち込める煙の向こうに聳え立つ三体のサーヴァントを見据える。人間同士の混乱の中に放り込んでいい存在ではない。

 

ネロがカリギュラの姿を捉える。

凛としていた号令が微かな震えと共に止まった。

同じローマ皇帝。自分へと繋がる血脈の一人。地獄の火に照らされながら歩んでくるその狂態に、ネロの指が吸い寄せられるように剣の柄へかかる。

 

「……ネロ陛下。指揮を続けてください」

 

藤丸の静かな声。

ネロは唇を血が滲むほどに噛み締める。次の瞬間には前を見据えた。

 

「……うむっ! 兵は近づくな、道を空けよ! 客将たちの動きを妨げるでないぞ!」

 

「カリギュラは私が引き受けます」

 

狂帝の足元をモルガンの魔術が蛇のように走り抜ける。

石畳の隙間を縫い火の粉をすり抜け霊基の輪郭へ容赦なく絡みつく。

通常魔術を何重にも積層させた拘束専用の高等術式。モルガンのテリトリーが広がるにつれ、カリギュラの進路は一歩また一歩と狭められていく。

 

カリギュラが笑いネロの名を呼ぼうとするも、喉の震えが術式に締め上げられ虚しく霧散する。

 

「倒すためではありませんよ、ご安心を。……観測するための措置です。あなた方の内部の黒い影について調べさせていただきましょう」

 

モルガンの冷徹な瞳が狂帝を射抜く。

 

「ネロ。貴女は目を逸らしなさい」

「……なぜだ」

「貴女が見るべきものではありません。ただそれだけのこと」

 

ネロは答えない。代わりに燃え盛る補給車へと群がる兵たちへ咆哮した。

 

「水を回せっ! 麦袋は諦めよ、今は矢束を運び出せ! 馬を下げろ誇り高き獣を焼かせるでない!」

 

その隙に呂布が拠点中央へ侵攻を始める。

巨大な武器が振り下ろされる直前一閃の風が吹き抜ける。

 

「俺の相手は君というわけか」

 

リチャードが不敵に立ち塞がる。

返答はない。呂布の方天戟が爆音と共に石畳を砕き近くにいた兵たちが衝撃波で吹き飛ばされる。

リチャードは一瞬で懐へ潜り込み剣を交差させた。

 

「悪いが静かにしてくれ。マスターを早く寝かせたい奴らがうちには大勢いるんでね」

 

その後の動きは兵たちの動体視力では追えない。

呂布の剛腕による一撃が空を切りリチャードの変幻自在な剣閃が巨体の重心を狂わせる。時間をかけない。拠点中央を蹂躙しようとした東方の猛将は俊足の騎士を突破できず釘付けにされていた。

 

一方補給車側。

ダレイオスが立ち塞がる兵たちを蟻でも潰すように押し退ける。そこへ女戦士が静かに立ち塞がる。

 

「……それ以上近づかないでくれる?」

 

ブーディカの声は普段と変わらない穏やかなもの。燃える荷車と逃げ遅れた若い兵の間へ割って入る。

ダレイオスが咆哮と共に巨大な斧槍を振り下ろす。ブーディカは正面から受けない。柳のように半身をずらし巨体の懐へ踏み込む。

漆黒の膝を力強く打つ。

 

ずぅん、と地面が揺れる。

 

流れるような動作でダレイオスの肩を叩き巨躯を炎から引き離す方向へ転倒させる。

倒れた兵を巻き込まぬ位置へ。貴重な物資を潰さぬ位置へ。

守るべき場所を選び抜き巨王を制圧していく。

 

夜襲は終わっていない。火の手は衰えず兵は傷つき密偵は暗闇に潜み続ける。

けれど英霊の戦いにおいて勝負は決している。母后派の兵たちは信じられないものを見る顔で立ち尽くす。

切り札のはずだった。だが投入された瞬間に封じ込められている。

 

密偵たちも逃れられない。

ドレイクがわずかに宝具を解放し亡霊船員たちを夜の中へ放つ。怪しき者たちは次々と捕らえられる。

彼女は火の粉を払い、後ろ手に括られた男たちを眺めながら銃を構える。

 

「逃げる密偵を数人捕らえましたよ。全員処分しては裏取りができませんから。よろしいですね?」

「……頼んだ」

 

藤丸が応じると乾いた銃声が響く。足を撃ち抜かれた密偵が転倒し、周囲の兵が取り押さえる。

 

 

 

それからさほど時間がかからずして、それぞれが受け持つ三騎の霊基が耐えきれずに崩壊を始める。

モルガンはカリギュラをすぐには消滅させず、崩れゆく瞬間を凝視する。

体に張り巡らされた術式が狂帝の周囲を猛烈な勢いで巡り霊基の深層へと分け入る。眼が魔力によって不気味に発光する。

 

「……出ますね」

 

カリギュラの霊基の深淵からあの黒いものが滲み出してくる。

影とも靄ともつかぬ異物。術式が輪郭を捉えようとすれば瞬間に輪郭そのものが溶けて滑り落ちる。黒い縁が光を飲み込み周囲の暗闇へ沈み込もうとする。

 

ロムルス、カエサル。そしてこの三騎。全て同じだ。

 

「同じ反応を確認。……ですがやはり英霊には属していません」

 

モルガンが瞬時に術式を組み替える。拘束ではなく全感覚を用いた観測。移動ベクトルと霊基が汚染されるプロセスのみを記録する。

それでも実体は掴めない。魔術の網をすり抜けるようにして完全に消滅した。

 

「ロムルスやカエサルの時と酷似した特性を持ちます。ですがサーヴァント自身の性質ではない。そこだけは確実です」

「やっぱり倒したサーヴァントの中から出てきてるのか?」

「そう見えます。ですが因果関係については現時点では推測の域を出ません」

 

マシュは盾を構えたまま周囲を警戒する。

 

「つまり……敵のサーヴァントを倒すごとにあれが現れる可能性があると……?」

「その懸念も当然あります」

 

ネロはカリギュラが消えた場所をいつまでも見つめている。

同じローマ皇帝を名乗る者。そこからローマならざる黒い穢れが這い出した。

炎の赤に照らされた横顔は夜襲が始まった時よりも白く痛ましく見える。

 

「……余のローマに何が起きているのだ?」

 

 

夜明け前になってようやく火は鎮火された。

拠点には鼻を突く煙の匂いが充満している。

無惨に焼け焦げた二台の補給車。泥にまみれた麦。割れた樽。散乱した矢束。

至る所から負傷者の呻きが漏れる。

 

ネロは一睡もしなかった。

火が消えた後も軍官たちと負傷兵の数を確認し失われた物資を精査し合流兵の再点検を厳命する。将たちは「どうかお休みください」と懇願したがネロは静かに首を振る。

 

「……余が休めば兵たちが不安に駆られる。皇帝とは常に立ち続けていなければならぬのだ」

 

藤丸は横顔をじっと見つめる。

瞳の奥には隠しきれない疲労。声には掠れた重み。それでも兵たちの前へ出れば奇跡のような強さで背筋を伸ばす。

 

「暗殺だけが目的ならここまで派手に荷を焼く必要はありませんね」

 

ドレイクが焼け焦げた補給車とネロを交互に見ながら言葉を続ける。

 

「補給の遮断兵たちへの疑心暗鬼行軍の遅滞。……そのすべてを相手は形にしようとしたのでしょうね。中々演出が凝っています」

「密偵が紛れ込んでいました。今後の合流は例外なく私の術式による検査を通すように。マスターの身の安全が図れませんので」

 

「……余の兵を疑えと言うのか?」

「疑うのではありません。事実としてこういったことがありましたので。貴女が信じたいと願う兵を裏切り者の汚名から守るための手順です。そう理解しなさい」

 

ネロは焼けた補給車を見据える。

合流したばかりの地方兵が古参の兵に深々と頭を下げている。密偵が混じっていたせいで何の非もない若者たちまでが冷ややかな疑いの視線に晒され始めている。

 

「ネロ陛下。……味方を疑いたくない気持ちは分かります。でも次も同じことをされたら今度こそ取り返しのつかない被害が出る。俺は素人だけどそれは分かりますから」

 

ネロはゆっくりと目を伏せる。数秒間、戦後の静寂が三人の間を流れる。

 

「……分かっておる」

「分かっておるのだ。余は信じたいのだ。余を信じて集まった兵をまず最初に疑いから入るような冷酷な皇帝ではありたくなかった。だが守るために疑う手順も必要だというのだな」

 

「よい。以後合流兵と補給の確認にはお前の術式とやらを通す。将たちは兵へ伝えよ。これは疑いではない。母上の卑劣な罠から余の兵を、ローマを守るための加護であるとな」

 

将たちが安堵したように頷く。一人が傍らに立つ藤丸を見た。

傷を庇いながらも皇帝へ臆することなく言葉を返す異邦の少年。

兵たちの間で小さな囁きが漏れる。

 

「あの客将殿また陛下の傍に……」

「昨晩も陛下直々にお呼びがかかったらしいぞ」

「命の恩人だからな。……いやそれだけか?」

「馬鹿邪魔をするな。陛下が笑っておられるならそれでいいだろう」

 

藤丸は聞こえない振りに徹した。マシュが端末を握りしめたまま少しだけ首を傾げる。

ネロは藤丸をじっと見つめる。

疲れ果ててはいる。それでもそこには確かに柔らかな笑みがあった。

 

「……そなたは。余に対し本当に遠慮というものがないな」

「……客将ですから」

「またそれか。……フフッ」

 

ネロは小さく喉を鳴らして笑った。

積もりに積もった疲労の上に無理やり乗せたような笑み。少しでも強く触れれば崩れてしまいそうな脆さ。

 

「……少し休みましょう」

「余が休めば兵たちが不安に――」

「陛下が倒れたらもっとみんな不安になります」

 

ネロは言い返そうとして唇を噤む。重たそうに額に手を当てる。

 

「……そなた。言葉があまりに真っ直ぐすぎるぞ」

「遠回しに言ってもネロ陛下は聞いてくれなさそうなので」

「無礼であるぞ」

「すみません」

「……よい。この余が特別に許してやろう」

 

将軍たちは様子を遠巻きに見つめ合い頷く。

 

「陛下が笑われたな」

「……ああ。客将殿を呼んだ甲斐があったというものだ」

「やはり邪魔は良くない」

「……だな。もうそれでいい」

 

夜襲は撃退された。

補給は焼かれ兵の心には疑念が植え付けられた。

母后が放った三騎の英霊は消えあの黒い影は正体を隠したまま。

アグリッピナの触手は軍の内側にまで確実に食い込んでいる。

 

それでもネロは前へ進む。

藤丸は青白い朝靄の中で立ち尽くす横顔を見る。

 

この人を放っておけない。

理屈を言葉にするよりも先にその思いが胸の中で形を成す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(母上さぁ!! 本当に何してんの!? 本当に死ぬとこだった余!? ……客将がいなければ本当に……)




真面目に書くべきかふざけて書くべきか

原作を大切にしつつ書くのって難しい
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