ユリア・アグリッピナ/小アグリッピナ
多くの者はこう思うだろう。
「名前は聞いたことあるけど、結局どんな人なの?」
「ネロのお母さんなのは分かる」
「なんかやべー奴なんだろう!? やっぱりローマ最低だな!!」
そんな印象を抱く人もいるかもしれない。
しかし、ちょっと待ってほしい。
お手軽さが売りのカップラーメンですら、お湯を入れて三分待たなければその旨さを味わうことはできない。
ならばローマ帝国屈指の濃厚人物であるアグリッピナも、少しくらい湯戻ししてから味わうべきである。
というわけで、ここでは彼女がどんな人物だったのかをざっくり見ていく。
1.そもそも誰?
ローマ帝国第5代皇帝ネロ・クラウディウスの母。
本名はユリア・アグリッピナ。同名の母親と区別するため、一般には小アグリッピナとも呼ばれる。
血筋だけで見れば、彼女はローマ帝国中枢そのものに近い人物である。
父は名将ゲルマニクス。母は大アグリッピナ。兄は第3代皇帝カリグラ。
さらに彼女自身は第4代皇帝クラウディウスの妻となり、自らの子ネロを皇帝へ押し上げた。
つまり、皇帝の妹であり、皇帝の妻であり、皇帝の母でもある女である。
肩書きの圧がすごい。名刺に書いたらきっと相手は萎縮するだろう。
ユリウス=クラウディウス朝の血統と宮廷政治を最大限に利用し、自分と息子の地位を引き上げた政治的人物。
単なる「ネロの母」ではなく、ネロという皇帝を成立させるために動いた、ローマ宮廷屈指の権力者である。
アグリッピナはネロの人生に大きな影を落とした母でもある。
ネロを皇帝とするために奸計を巡らせ、皇妃となってからは「ユリア・アウグスタ・アグリッピナ」と名乗るようになったのだ。
皇帝を作った母。
皇帝の人生を歪めた母。
やはり天才か。
いや、天災かもしれない。
2.じゃあ何をやったんだよ?
割とやりたいことやってネロを皇帝にした。
これだけではよく分からない。順序立てて考えよう。
まず彼女は第4代皇帝クラウディウスと結婚する。
クラウディウスには実子ブリタンニクスがいたが、アグリッピナは自分の子であるネロをクラウディウスの養子に入れた。
これによってネロは皇位継承者として非常に強い立場を得ることになる。
さらに、ネロをクラウディウスの娘オクタヴィアと結婚させる。
これによって血統的にも政治的にも、ネロの立場はさらに補強される。
「皇帝になるために必要な条件」を一つ一つ積み上げていったわけである。
根回しの鬼。ローマ式ママ友政治の最終進化形。なんとも迷惑であろうか。
また、アグリッピナは人材配置にも手を出している。
ネロの教育係としてセネカを呼び戻し、軍事面では近衛長官ブッルスらを押さえ、ネロの周囲に必要な人材を配置していった。
毒と陰謀のイメージが強い人物ではあるが、実際にはそれだけではない。
血統、婚姻、人事、軍、宮廷工作。使えるものは全部利用し、それらが利用できる環境も整えたのだ。
つまり_____政治家としては普通にめちゃくちゃ有能。
そして彼女の名に必ずついて回るのが毒である。
クラウディウスの死については、古代からアグリッピナによる毒殺説が語られている。
毒キノコを使った、という話が特に有名だ。
もちろん古代ローマの史料は政敵や権力女性への悪意マシマシで書かれることも多いので、どこまで事実かは慎重に見る必要がある。
ただ、ここで重要なのは「本当にやったかどうか」だけではない。
後世の人々が、
「アグリッピナならやっただろう」
と思ってること。
人望がないのか、権力者としての在り方に説得力がありすぎると言うべきか。どちらにせよアーメン。否、ローマ。
彼女の周囲には、毒使いロクスタの存在もある。
クラウディウスの死、ブリタンニクスの死、そしてネロ自身の頭痛。
毒という要素は、アグリッピナとネロを語る上で避けて通れない。
母の愛情表現としては最低点である。
ふしだらな母でいてくれた方がまだ良かった。
3.ネロとの関係は?
アグリッピナは、ネロの母である。
それは間違いない。
ただし、ここまでの話で理解できるだろう。優しく微笑みながら子を抱きしめる母親である訳がない。
もうこの際、人の心はベスビオ火山に放り込もう。
彼女にとってネロは、愛すべき我が子……というより、自分を“皇帝の母”へ押し上げるための切り札だった。
ネロを皇帝にすることが最優先。本人の事情は考慮しないものとする。
そのためなら、結婚も教育も人事も毒も使う。
もちろん、アグリッピナがネロに何の感情も持っていなかった、とは言い切れない。
息子を皇帝にするために人生を賭けたのは事実であり、その執着は並大抵ではない。
だが、その執着がネロ本人の幸福を向いていたかというとかなり怪しい。
ネロが望むもの。
ネロが愛するもの。
ネロがどう生きたいか。
そういったものよりも、アグリッピナにとって重要だったのは、ネロが皇帝になることだったから。
そして、ネロを通じて自分が権力の中心に立つことが真の願い。
実際、ネロ即位直後はアグリッピナの影響力は非常に強かった。
ネロと並んで彼女の姿が刻まれた貨幣も存在し、単なる「皇帝の母」ではなく、政権そのものに深く食い込んでいたことが分かる。
要するに、ネロ政権の初期はかなり母の影が濃い。
しかしネロが成長し、皇帝として自立しようとすればするほど、アグリッピナの存在は邪魔になっていったのだろう。
母であり、後見人であり、権力の源であり、同時に自分を縛る鎖。
邪魔な人間がいて、排除する権力が己の手元にある。
ではどうするか?
最終的にネロは母を排除し、アグリッピナは殺害される。
親子喧嘩の終着点が暗殺になるあたり、血のつながりとは実に厄介。
また、ネロの頭痛についても、アグリッピナの影は深い。
幼少期から毒と解毒剤によって支配されていたとされ、その実行役としてロクスタの名が!
つまりアグリッピナは、ネロの政治的人生だけでなく、身体そのものにも傷を残した女なのだ。
4.じゃあ、後世での評価は?
後世のアグリッピナ評は、長らくかなりひどいものであった。
「毒婦」
「悪女」
「策謀家」
「我が子を操ろうとした女」
「ローマ宮廷の闇を擬人化した存在」
言われたい放題で前菜からデザートまで毒入りの悪女フルコース。
正直、クラウディウス毒殺疑惑や宮廷工作の話だけを並べると、そう言われるのも分からなくはない。
ただし、ここで大事なのはそうした評価の多くが古代ローマの男性エリートたちが書き残した視点にかなり依存しているという点。
ローマは強烈な男性中心社会であり、女が政治権力を握ること自体が異常であるとか危険であるとか。さらには秩序を乱すものと見られやすかったという事実はある程度考慮すべきであろう。
つまりアグリッピナは本当に悪辣な面があったとしても、それ以上に“権力を持った女”として盛られ、怪物化された可能性があることを忘れてはいけない。ブリティッシュ・ミュージアムも、アグリッピナのような有力女性は実際以上に多くの罪を着せられた可能性が高い、と説明している。
近年では彼女を単なる悪女として片付ける見方はかなり弱くなりつつある。
むしろ、アグリッピナはローマ帝国の政治構造を理解し、血統、婚姻、養子縁組、人材配置、貨幣上のイメージ戦略まで使って権力を築いた、極めて優秀な政治的人物として再評価されている。ネロ即位直後の金貨や浮彫では、アグリッピナがネロの即位・正統性に深く関わる存在として表象されており、近年の展示・研究ではそれを彼女の知性と政治能力の証拠として捉える見方も示されている。
政策面で見てもアグリッピナはただ宮廷に籠もっていたわけではないぞ。
たとえば彼女は自身の出生地とされるライン川沿いの都市をローマ植民市へ昇格させることに関わった。これが後のケルン、すなわちコロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシウムである。植民市への昇格は単なる地名変更ではなく、ローマ法上の地位や都市としての格を引き上げる政策的意味を持つ。つまり彼女は地元に自分の名前を刻んだだけではなく、辺境都市の格上げにも関わったわけである。地元愛なのかふるさと納税なのか、それは今となっては分からない。
また、彼女の肖像や称号が貨幣に用いられたことも重要である。貨幣とはただのお金ではない。
皇帝という権力を帝国中にばら撒くメディアである。そこにアグリッピナが登場するということは、彼女が単なる皇帝の母ではなく、政権の中枢にいる人物として扱われていたことを意味する。
要するに、アグリッピナは「悪女だったかどうか」だけで語るには惜しい人物である。
確かに手段はかなり黒い。許されないことは多々あるだろう。
だが、それらを実行できるだけの政治判断力、人脈構築力、制度理解、そして権力への執着があった。
ただの毒婦程度でここまで帝国は動かせない。
ただの毒親がここまで歴史に名は残らない。
ただの悪女なら現代になって再評価などされない。
アグリッピナとはローマという男社会のど真ん中で、女の身で皇帝権力の中枢に食い込んだ政治家である。
そのやり方は強引で、冷酷で、後世から見ても擁護しきれない部分がある。
だが同時に、彼女が一流の政治的才媛であったことも否定しづらい。
ローマ宮廷の怪物。
あるいは、男たちの歴史書に怪物として書かれた、ひとりの権力者である側面も確かにあるかもしれない。
5.つまり?
「政治家としては一流。母としては最悪。ネロを皇帝にしたが、ネロという人間を壊した女でネロによって消された女傑」。リスペクトするから死んでくれ。
なお、ネロが後世に語られるような「暴君」として本格的に輪郭を持ち始めるのは、西暦59年のアグリッピナ死後である。
即位初期のネロ政権は、アグリッピナ、セネカ、ブッルスらの影響もあって、むしろ比較的安定していた。後に「ネロの五年の善政」などと呼ばれる時期があるほどで、最初から燃えるローマを背景に高笑いしていたわけではない。
つまりアグリッピナは、ネロを操った毒母であると同時に、ネロ政権初期を成立させていた政治的な重しでもあった。
その重しが外れた後、ネロ個人の欲望と元老院・貴族層との対立が前面に出てくる。
暴君ネロの完成はある意味でアグリッピナ不在の産物でもある。
久々にキャラ資料。
自己満足で作るの楽しいね。え?フィリアも書けって?
パンジャンドラムの爆発で聴力がちょっと....