マシュ・キリエライトしか分からない   作:ats376

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第9話 「皇帝の器-1」

アルビンガウヌムを越えて数日。

 

西へ伸びる石畳には、ローマの秩序が刻まれている。

だが、目に入る景色は無惨だった。

黒焦げの梁が突き出した宿駅跡。巨大な獣のあばら骨のように空を刺している。壁際には熱を持った灰が嫌な臭いを放ちながら積もっていた。

井戸には泥と家畜の死骸が投げ込まれている。水場を失い、兵站担当が奥歯を鳴らす。

小橋は一つ残らず叩き落とされ、兵たちは重い丸太を運んで仮橋を組む。畑では刈り取られない麦が酸い臭いを漂わせ、主のいない小屋には千切れたロープだけが垂れ下がっていた。

 

大軍同士の激突などない。

執拗な小競り合い。神経をすり減らすだけの嫌がらせ。

水を殺し、橋を落とし、寝床を焼く。

アグリッピナの刃は、陰湿な遅滞戦術へと形を変えていた。

 

地中海側から繋ぎ直した補給線が、辛うじて軍の胃袋を満たしている。ピサエ、ルナ、ゲヌア。港湾都市から運ばれる麦、飼葉、油。

船と港が泥まみれの行軍を背中から押し続けていた。

 

胃袋は満たされている。しかし、蓄積した疲労は兵たちの足を確実に重くしている。

敵の根城は近い。

抵抗は小規模だが、肌にまとわりつくような不快感が増していく。

 

ネロはその惨状から決して目を逸らさない。

焼け落ちた宿駅の前で馬を止め、死骸の浮く井戸を冷徹に見下ろし、仮橋を渡る兵の肩を叩く。

兵たちの前で、彼女はいつだって背筋を伸ばし、眩い皇帝として笑い飛ばすのだ。

 

「よく進んだ! 目的地はもうすぐだ。そなたたちの献身はこのネロが決して忘れぬぞ!」

 

声が響き、兵たちの顔が上がる。

しかし、誰も見ていない一瞬。藤丸は見てしまった。

ネロの小さな肩が、ふっと沈むのを。

 

(……何か、声をかけるべきか)

 

いや、答えは分かっている。「余を案じるとは、そなたも随分と大胆になったものよ。褒めて遣わすぞ!」と、いつもの皇帝の仮面をより強く張り付かせるだけだ。

藤丸は口を噤み、ただ歩みを進める。

 

その沈黙の奥底に異質な『声』が落ちた。

 

 

『敵に好きにさせたくないのなら――』

 

藤丸の足がピタリと止まる。

耳元ではない。脳内でもない。心臓のさらに奥、自身の肉体を人知れず補修し続けているどこかから響いた声。

 

『私が造った英霊たちを、好きに暴れさせればいい』

 

ORT。

ずっと沈黙していた同居人の唐突な声に、藤丸は「ひゅっ」と奇妙な息を呑み、慌てて口元を押さえた。

前を歩いていたネロが振り返る。

 

「どうした、藤丸?」

「いえ、なんでもないです! ちょっと、足元に石が……!」

「……石畳だぞ?」

「あっ、はい。その石畳の石が、ちょっと個性的だったというか……!」

 

頼むからそんなに真っ直ぐ見つめないでほしい。

ネロは訝しげに首を傾げたが、すぐに兵たちの指揮に戻っていった。

藤丸は派手に咳払いをして誤魔化し、意識を内側へ向ける。

 

(……それ、どういう意味だよ)

『文字通りの意味だ。兵を進ませる必要はない。交渉を重ねる必要もない。街道も、門も、城も、軍勢も。お前の進路を塞ぐすべてを、ただ砕けばいい。障害が消滅すれば、敵は物理的に動けなくなる』

 

(いや、それをやったらネロ陛下がローマを取り戻すための戦いじゃなくなるんだよ!)

『勝利までの時間は劇的に短縮される。特異点の解消が目的ならこれ以上の近道はない』

 

(そりゃそうだろうけどさ)

『犠牲も減る。お前の側の、な』

 

(代わりに、相手側は目も当てられない惨状になるだろ! 絶対に)

『効率は極めて高い。お前が執り行っていたシミュレーションゲームでも、そうした選択が最善だったはずだが?』

(何故そこを覚えているんだよ……!)

 

藤丸は内心で頭を抱え込んだ。

誰に任せても駄目そう。結果の振れ幅が多すぎるイメージが出力されてしまい、冷や汗が滲む。

 

(戦闘が)早い、(コストが)安い、(外部からの評価が)美味い。

藤丸自身の負担だって劇的に減るのもそう。

 

けれど。

 

(……やっぱり、駄目だ)

『……理解は保留する。そうか! 今のビーストサーヴァントたちが気に入らないのだな? ならば、別の個体を出してやろう。性能か、それともビジュアルの好みか? なんだっけか、ほら。金色の羊毛が好きな女とか草ばっか喰ってた男とかどうだ?』

 

(違う! ジャンヌたちでも、もう今の時点でキャパオーバーなんだよ! ……というか、そういうことじゃないんだ!)

『必要になればいつでも使え。あれらはお前のために私が造り替えたものだ。……忘れるな。お前は、すべてを求めていいのだぞ』

 

霧が晴れるように、ORTの声が消えていく。

藤丸は深く、長くため息を吐き出す。

前方では、ネロが疲れを微塵も見せずに兵たちを鼓舞し続けている。

深紅の外套が風に舞い、泥まみれの兵たちがその背中を追う。

これはネロの戦いだ。自分たちが主役を奪ってはいけない。

 

しんどくても、回り道に見えても。

これが、自分たちにできる一番いいやり方なのだ。

 

 

土煙を上げ、前方から斥候の馬が駆け込んでくる。

 

「陛下! 前方に敵拠点を確認しました!」

 

ネロが手綱を引き、隊列がピタリと止まる。

 

「場所は」

「アルビウム・インテメリウム方面の街道上です。古い宿駅と見張り台を改修した代物と思われますが……防御の構えが、あまりにも奇妙です」

 

息を呑み、斥候が続ける。

 

「門は開け放たれ、壁上の兵も弓を持っていません。門前には白布を巻いた槍が立てられ……中庭までの道がぽっかりと空けられております。まるで、こちらを招いているかのようです」

「招待だと?」

 

将軍たちの顔に緊張が走る。

視界の先に、低い石壁に囲まれた小さな前哨拠点が姿を現す。

守る気があるなら、あの狭い門だけで十分に時間を稼げる。左右の丘に弓兵を潜ませれば、補給車列を一方的に叩き潰せる絶好の地形だ。

なのに、門はがら空き。

 

白布を巻いた二本の槍。壁上の兵はこちらを見下ろすだけで、殺気すら感じられない。石畳は綺麗に掃き清められ、中庭へ続く道には人っ子一人いない。

 

「……会談の場、ということでしょうか」

 

マシュが盾を構える。警戒に声が低く沈む。

 

「迎撃の陣形ではありませんが、罠がない保証もありません」

 

モルガンの指先から淡い光が零れ落ちる。

這うように伸びた術式が石畳の隙間を走り、門、井戸、壁際、見張り台の根元を蛇のように這っていく。

 

「防御の痕跡はありませんね。……文字通り『招待』でしょう」

 

冷たく言い捨て、モルガンは視線を門の奥へ戻した。

ネロは静かに前哨拠点を見据えている。

ここで退けば、会談を恐れて逃げ出した臆病な皇帝として記録される。進めば、敵の用意した舞台へ自ら上がることになる。

 

どちらにせよ相手の掌の上なのは変わらない。

ネロはすべてを飲み込み、馬上から毅然と声を張り上げた。

 

「よい、受け入れよう。……入るぞ!」

 

 

 

----------------------------------------------

 

 

 

くぐり抜けた中庭は思いのほか広い。

中央にぽつんと置かれた石卓。周囲の柱廊には母后派の護衛兵が控えている。包囲するには足りないが、隙を見せれば一飲みにされる絶妙な配置だ。

 

石卓の向こう側には一人の女。

軽やかな足取りで前へ出る。

敵陣のど真ん中だというのに、その表情は春の陽だまりのように明るい。女は薄い笑みを浮かべ、ひらりと一礼した。

 

「ごきげんよう、ネロ様。……それから、カルデアのマスター様」

「初めましての方が多いですね。まずは自己紹介から。私、ロクスタと申します。この度はアグリッピナ様より伝言係を拝領いたしました。いやぁ、こういう仕事はあんまりしたことないんですが、精一杯頑張りますね!」

 

冗談めかした声音は近所の住人に挨拶でもするかのよう。

ネロの顔から、すっと血の気が引いていく。

 

「……ロクスタ」

 

絞り出すような声。藤丸は聞き返すことすらできない。

ネロの指は深紅の外套の端を白くなるほど握り締めている。相手が単なる敵将なら、正面から睨み返したはずだ。

彼女は目の前の相手と、心の奥底にある記憶とを照らし合わせてしまっていた。

 

数日前の野営での会話が、藤丸の脳裏をよぎる。

 

『余の周りには才ある者が多いのだぞ。将だけではない。薬に明るい者、料理人、詩を解する者……。ローマは人で成る。皇帝の目に映る才は、ローマの輝きそのものなのだ!』

『……ロクスタという者がいてな。少々癖は強いが、薬にも毒にも明るい。扱いは難しいが、その才は確かなのだ』

 

 

 

 

「……そなたまで、母上の側にいるのか」

「いますよ。呼ばれましたもの。こういう時、あたしって便利ですから」

「便利、だと……?」

「思い当たる節があるならば、恐らくそれが正解ですよ。ネロ様。――毒殺とか、お考えでしたよね?」

 

裏切りの重みなど微塵も感じさせない軽薄さ。それが何よりも鋭く、ネロの心を抉る。

マシュが藤丸に小声で耳打ちした。

 

「ロクスタ……アグリッピナに見出され、後にネロ陛下にも仕えた伝説的な毒使い。クラウディウス帝やブリタンニクスを巡る暗殺の逸話にもその名が登場します」

 

かつて自分が信頼し、その才を愛した人間が今、敵の一人として目の前に立っている。

ロクスタは石卓に白く細い指を置いた。

 

「では、伝言です。アグリッピナ様より――『資格があるというなら、証明してみせよ』とのこと」

「資格?」

 

藤丸が問い返すと、ロクスタは楽しそうに小首を傾げる。

 

「ええ。英霊七騎を消耗させ、その果てに残る『器』が願いを掴み取る。……そういう形式です。分かりやすいでしょう?」

「……それって、聖杯戦争みたいなもの、か? なんかで見た気がする」

 

藤丸の言葉に、ロクスタは「あら」と目を丸くした。

マシュがすかさず補足を入れる。

 

「形式だけを見れば、七騎のサーヴァントによる儀式に似ている、とも言えなくもないかと。ですが、通常の聖杯戦争はマスターとサーヴァントが己の願いを賭けて競うもの。そのために同じ陣営の英霊を消耗させるなど、儀式として致命的に不自然です」

「まぁ、最後に残るものがあるなら、だいたい同じじゃないですか? そう、ヒラタケとツキヨタケのように」

 

ロクスタはさらりと聞き流す。

説明が破綻していることなど最初から百も承知。その破綻した嘘をそのまま相手に届けることこそが、彼女の役割なのだ。

 

「……最後に残る『器』っていうのは、誰のことなんだ?」

「ヘリオガバルス様。――アグリッピナ様が選んだ、真なる皇帝です」

 

 

 

そう話し続ける面々を見ながらモルガンは冷徹に思考を巡らせる。聖杯戦争などと言うには全てがお粗末。こちら側の陣営に至っては儀式に考慮すらされていない。なのに、『資格があるというなら、証明してみせよ』。どういうことなのか。

そもそもとして、この時代のネロ・クラウディウスは生身の人間であり、その配下も人間である。

なのに、目の前のロクスタなるネロの部下だった女はサーヴァントや聖杯戦争という明らかに後世の歴史で成り立った単語を知る存在としてここに存在する。

 

(何故、この人物は「人間」を演じているのです?)

 

 

 

 

「それでは、ご本人に登場してもらいましょうか! こういうの、顔を見せたほうが早いですし」

 

ロクスタが指を鳴らす。

途端に、むせ返るような香の匂いが漂った。

血でも鉄でも泥でもない。色とりどりの花と高価な香料が混じり合った、あまりにも甘い匂い。

 

壇上に姿を現す者が一人。

陽光を浴びて煌めく華美な衣装。細い手足、白磁のような肌、丁寧に手入れされた髪。黙っていれば異国の姫君かと見紛うほどの貌だ。

だが、その立ち居振る舞いには一本の芯が通っている。

少年は武器も持たず、魔術も放たず、ただ壇上から慈しむように微笑みかけた。

 

「――ここまでよく来たね、ネロ陛下」

 

陛下。

敵対するもう一人の皇帝が、ネロを皇帝として認める言葉を吐いた。

あまりにも礼儀正しく、あまりにも残酷な呼び方。

ネロの指が、深紅の外套をさらに強く握りしめる。

 

「……余を陛下と呼ぶか。母上が立てた、新たな傀儡が」

「呼ぶよ? だって貴女は皇帝だ。少なくとも、ここまで貴女を信じて付いてきた兵たちにとってはね」

 

ヘリオガバルスの声はどこまでも柔らかい。

だがその言葉は鋭い棘となって、ネロの足元を抉り取る。

 

「信じる者がいるから皇帝は皇帝となる。のだとしたら、その信が別の者に移り変わった時、後に何が残るのだろうね?」

 

ヘリオガバルスはネロを罵倒しない。ただ認めた上で、彼女が立っている床板そのものを剥がしにかかる。

 

「ローマからここまで、本当に遠かっただろうね。兵も貴女も疲れ切っている様子だ。……それでも歩みを止めなかった。さすがは皇帝だと僕は思うよ。心からの賞賛を贈るよ」

 

ネロは何も返せない。

ロクスタや官僚の裏切り、兵たちの疲弊、母の執念。すべてが一気に押し寄せ、彼女の喉を塞いでいた。

 

「母上は……また『器』を用意したのだな」

 

絞り出すようなネロの言葉に、中庭の空気が冷える。

ヘリオガバルスは怒ることも、傷つく様子もない。

 

「――『器』であることを、陛下は本当によく知っているんだね。誰かに望まれて、誰かに飾られて、誰かの理想を詰め込むために立たされる。皇帝って、そういう不自由な形から始まることもあるだろう?」

 

ネロは真っ向から否定できたはずだ。

けれど、かつて自分を支えたロクスタが少年の背後に控えているという現実が、その言葉に真実という重みを与えてしまう。

 

「そなたは母上の夢を入れるための入れ物に過ぎぬ」

「そう見える?」

「違うとでも言うつもりか」

「ううん。……たぶん、半分は正解だよ」

 

「でも、器だからといって何も考えないわけじゃない。器だからといって、何を流し込まれても黙っているわけじゃないんだ」

 

少年の声に初めて硬質な意志が混ざった。

 

「僕は皇帝として立つ。立たされたからには――ちゃんとやるよ。その真意は__まだ内緒かな」

 

担ぎ上げられた自分を理解した上で、決して置物にはならないという宣言。

敵として厄介である以上に、それはネロの魂を深く鋭く射抜く。

ヘリオガバルスがふっと表情を緩めた。

 

「今日は戦わないよ。……この拠点は、好きに使っていい」

「……余に、情けでもかけるつもりか」

「違うよ。兵を休ませるのも皇帝の役目だろう?」

 

背後で兵たちが微かに身じろぎする。

汗にまみれた鎧、膝を庇う老兵、許可を待つ乾いた喉。ヘリオガバルスはそれらすべてを見透かしているのだ。

 

「疲れ果てた兵を無理に歩かせる皇帝は――美しくないよね。仲良く、優しくしようじゃないか」

 

ネロの顔が屈辱で苦く歪んだ。

 

「……余がそなたの用意した場所で休むとでも思うのか?」

「思うよ。……貴女は、兵を見捨てるような皇帝じゃないからね」

 

完璧に逃げ道を塞がれた。

拒めば兵の疲弊を無視し、受け入れれば敵の土俵に足を止めることになる。

 

「……厚意なんかじゃないな」

 

藤丸が低く囁き、マシュが小さく頷く。

 

「そうなのですが、兵の疲労が限界なのは事実です」

 

モルガンの術式はすでに拠点全域を調査し終えている。罠らしいものは何もないのも確認済み。

ロクスタがパンと軽く手を叩いた。

 

「よかったですねえ。屋根付きですよ?」

 

ネロは兵を見た。藤丸を見た。マシュを見た。そして、限界まで疲弊した兵を再び見た。

判断は決まっている。正しいからこそ、敵に選ばされたことが何よりも苦い。

 

「……よい。申し出を受け入れよう」

 

ネロの宣言を受け、将軍たちが一斉に動き出す。

ヘリオガバルスは勝ち誇ることもなく、礼儀正しく頭を下げた。

 

「では、また。――ネロ陛下」

 

最後に残された呼び声が、中庭に響く。

ヘリオガバルスとロクスタが去り、甘い香の匂いが薄れていく。

 

ネロは立ち尽くしていた。

兵の前で折れることも叫ぶことも許されない。皇帝という名の枷をはめられたまま。

 




明日は-2を投稿したいなぁ。出来るかな?

ノッポさん「「できるかな?」じゃねぇよ。やるんだよ。」
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