貴族街を離れるまでに、思った以上の時間がかかってしまった。
藤丸たちに用意された邸宅は、市街の喧騒から距離を置いた静寂な区画にある。
周囲に並ぶのは、広大な敷地を誇る屋敷ばかり。夜になっても話し声一つなく、通りを行き交うのは灯火を掲げた使用人か見回りの警備兵くらいだ。
祝祭の中心地へ向かうには、馬車でだらだらとした坂道を下り、メインストリートへ出る必要があった。
――道中。
ネロは当初、いつもの真っ赤なドレスで徒歩で乗り込むつもり満々だったらしい。
それを全力で組み伏せたのが、マシュ、宮廷の侍従、そしてお母さんモードに火がついたブーディカの三人だ。
「絶対に駄目です! 陛下って一言でも呼ばれた瞬間、お忍びが終わります!」
「左様です、陛下! せめてその目立つお色のお召し物だけでも!」
「自分がどれだけ目立つか分かってるの? 声も歩き方も顔もよ!」
三方向からの怒濤のダメ出しに、ネロは「むー」と頬を膨らませた。
だが、根が芸術家の彼女は『お忍び変装』というイベントが始まると、一転してノリノリで着替えに応じた。
赤と金を徹底排除し、地味なアースカラーの薄手外套を羽織る。華やかな金髪は薄い布でぐるぐるとまとめ、装飾も宝石も外した。
遠目に見れば、どこかの小金持ちの令嬢がこっそり夜祭りに遊びにきた――程度の上品な佇まい。
……ただし、『瞳』だけは隠せない。
楽しげに爛々と輝く翠の瞳と、周囲を引っ張る圧倒的な覇気は布きれ一枚でどうにかなるものではない。
侍従がハラハラしながら「……今宵は『クラウディア様』ということで」と耳打ちすると、ネロは自慢げに胸を張った。
「うむ、心得た! 今宵の余の真名は『クラウディア』である!」
「声が大きいです。はっ倒しますよ」
「おっと」
藤丸は前途多難な予感に頭を抱えた。
中型の馬車に、ネロ、藤丸、マシュが乗り込む。モルガンは最初から関わりたくないと気配を消し、混ざるつもりもない。
馬車が静寂な邸宅街を抜け、ガタゴトと石畳の坂道を下っていく。
最初に、変化が訪れた。――『匂い』だ。
貴族街の上品な花や高級香油の香りが薄れ、代わりに、焼けた麦の匂い、炭の煙、焦げた油、濃厚な魚醤、安葡萄酒の饐えた香りが押し寄せてくる。
家々の窓から漏れる歌声が倍々に増え、馬車が大通りへ滑り込む頃には、楽師の笛と太鼓のビートが夜の空気を震わせていた。
藤丸は窓から身を乗り出す。
通りの両側には松明の灯が並び、民家の軒先には色とりどりの布や花輪が飾られている。
香ばしい煙を上げる屋台の前には黒山の人だかり。武装を解いた兵士、汗まみれの職人、はしゃぐ子供、一時の解放を楽しむ奴隷、値切り交渉に励む商人。身分の垣根を越え、一つの火を囲んでいる。
全員が同じ理由で笑っているわけではない。
それでも――内戦の終結を演出するこのひとときを、全員が笑い合っていた。
ネロが我慢できず窓から身を乗り出しかけ、すかさずマシュに外套をギュッと引きずり戻される。
「クラウディア様」
「む。……おっと、そうであったな」
偽名で我に返ったように座り直す。
「だが、見よ藤丸! あれこそが今宵のローマ、余の愛する市民たちの姿だ。宮廷の奥で銀の皿に盛られた高級料理を並べることもできたが、それでは何の風情もないからな。余はそなたに、戦に勝って息を吹き返した真実の『ローマの匂い』をたらふく食わせてやりたかったのだ!」
「匂いを食べる、って表現、なんかネロらしくて凄いな」
「当然だ! 食の喜びとは、まず鼻腔をくすぐる匂いから始まるものであろう?」
自信満々に胸を張られると、それが世界の真理に思えてくるから不思議だ。
やがて馬車は脇道へ入り、広場の近くで停車した。
揉みくちゃにされる中心地ではないが、貴族専用の隔離席でもない。軒の深い大衆向け料理屋の、一番奥まった一角。
表向きは一般向けだが、奥の一部だけを侍従たちがさりげなく貸し切りにしていた。
馬車を降りるなり、ブーディカがネロの外套の合わせ目をサッと直す。
「歩き方も少し抑えてくださいね、クラウディア様。いつもの癖でドヤドヤと歩かないように」
「うぬぬ……注文の多い手合いだな」
「ここでバレたら、一瞬で群衆に囲まれてお忍びが大失敗に終わるので」
藤丸が釘を刺すと、ネロはむっと頬を膨らませた。
「ふん、余はお忍びの才能だって天才的だぞ?」
「……今の発言自体が、致命的に下手くそです。変装の才能は無いのでは…?」
マシュが顔に手を当て、すごい呆れ顔で突っ込んだ。
席に着くと、ほかほかの料理が次々と運ばれてきた。
テーブルの中央には、『パニス』と呼ばれる大きな焼き立てのパン。
硬い表面を手でパキッと割ると、粗挽き麦の香ばしい湯気が立ち上る。灰色がかったパンは、噛むほど穀物の甘みが広がる。
隣には、なみなみと盛られた豆のピューレの大皿。
潰したインゲン豆にたっぷりのオリーブオイル、塩、ハーブ、そして隠し味の魚醤。表面には黄金のオイルが光り、刻んだ緑の香草が散らされている。
スプーンではなく、ちぎったパンで直接掬い取るのが現地の流儀。藤丸も真似て口へと運ぶ。
――美味い。
豆のコクと甘み、オイルのまろやかさが舌でとろける。かなり塩気の強い味付けだが、狂騒と熱気の中ではこの濃さがたまらなく心地よい。
「……うまっ。地味だけど、ずっと食べていられる味だ」
「であろう! 腹にしっかり溜まる。戦い抜いた後の身体には、こういう泥臭いエネルギー源が一番なのだ!」
ネロは自分のことのように満足げに頷く。
続いて運ばれてきたのは、一口サイズの肉団子『イシキア』。
こんがりと焦げ目のついた団子は、豚肉と白身魚のすり身の二種類。
手づかみで口に放り込むと、強烈な胡椒とハーブの香りが鼻を抜け、肉汁と魚醤の強烈な塩気が溢れ出す。魚肉特有の生臭さも、お酢とハーブのマリネと食べると驚くほどさっぱりと進む。
「……ん、魚醤の主張がかなり強いな」
二口目を咀嚼しながら、藤丸は目を瞬かせた。
ネロがちょっぴり不安そうに覗き込む。
「どうした、藤丸。口に合わなかったか…?」
「いや、めちゃくちゃ美味いよ。ただ……なんて言うか、俺の知ってる旨味のシステムと同じなんだけど、なにかが違うっていうか」
「知っているシステム、とな?」
「うん。俺の故郷だと、魚じゃなくて大豆から作る、黒くて塩辛い液体調味料があるんだ。塩気とうま味の引き出し方は凄くよく似てる。ただこっちは魚っぽさが前面に出るから、新鮮でさ」
藤丸が説明すると、ネロは興味を惹かれたように身を乗り出した。
「ほう! 豆から旨味を? 魚ではなく!?」
「そう。だからパンよりも、俺たちの主食の『米』にめちゃくちゃ合う感じで――」
「米、か……ふむ。そなたの故郷の家庭の味というわけだな」
ネロはまだ見ぬ異国の食卓に想いを馳せ、楽しそうに目を細めた。
「気に入った! よいぞ、いつか余がその地を訪れた際には、必ずそれを食わせるがよい!」
「あはは、機会があればね」
「約束だからな! 違約は許さぬぞ!」
有無を言わさず決定事項にされてしまった。
マシュも豆のピューレと合わせるコツを掴み、「……美味しいです」と表情を和らげる。
ブーディカは「男の子はもっと食べなきゃ」と藤丸の前に新しいパンを追加する。
ドレイクはイシキアを口に放り込み「味付けは悪くありませんね」と、評論家のように上から目線で褒めた。海賊なのにグルメレポート。
リチャードは水で薄めたムルスムがお気に召したようで、空の杯を掲げて二杯目を要求している。
「素晴らしい。 激しい戦いの後に流し込むには最高だ。濃すぎず軽やかで、驚くほど滑らかに喉を通っていく!」
「ちょっとリチャード、飲み過ぎないでよ? あくまでお忍びなんだからね」
「わかっているさ。大人の嗜みとして、ひっそり楽しむさ!」
声が少し大きい。ブーディカがギロリと睨むと、リチャードは肩をすくめて杯を下げた。
その後も、途切れることなく皿が並べられた。
完熟オリーブのオイル漬け。塩気が効いた山羊のチーズ。蜂蜜をかけた焼き菓子。ビネガーで和えた生野菜。干しぶどう。
晩餐会のような贅沢な宮廷料理ではない。
普段より少し油が多く、塩が強く、甘い。
――それこそが、今日を生き延びた労働者たちが明日を生きるために貪り食う、祝祭の味。
藤丸は咀嚼しながら、周囲に目を向けた。
離れた席で、いかつい兵士がパニスをちぎり、豆の汁を拭い取るように平らげている。
露店の前で、蜂蜜を舐める子供が母親に頭を小突かれている。
奴隷の若者がドサクサにパンの切れ端をこっそり口に放り込み、それを見た年配の女性がクスリと笑い、薄い葡萄酒の杯をそっと滑らせてやっている。
――当たり前の生活が戻ってきている。
立派な勝利の布告よりも先に、名もなき市井の皿の上にこそ、それはいち早く鮮やかに現れる。
ネロは藤丸の横顔を愛おしそうに見つめていた。
「うまいか? 藤丸」
「うん。めちゃくちゃ美味いよ」
「そうか。ならば……余の勝ちだな」
満足そうに短く笑う。
玉座も銀食器もない。それでも、彼女の心はこれ以上ないほど満たされていた。
「余はな、どうしてもこうして、お前と一緒に食事がしたかったのだ。行軍中の飯など味気がないしな。宮廷で国賓としてお堅くもてなすこともできるが、それでは本当のローマを味合わせたたことにはならぬ。今宵はこの民の泥臭い叫びと、焦げた麦の煙と、強烈な魚醤の匂いにまみれながら食う方こそがよほど正しいのだ」
藤丸はパンをちぎる手を止めた。
ネロは照れくさそうに視線を泳がせ、豆の皿へ手を伸ばす。
「……まぁ、余の命を救い、大戦果を助けた者への褒美としては少々庶民的かもしれぬがな」
「いや、俺は宮殿のフルコースより何倍も嬉しいよ」
「……そうか」
掠れるような小さな返事。
だが次の瞬間、彼女はいつもの調子で皿を押し出してきた。
「ならば遠慮せず食え! そなたは身体が細すぎるのだ! 過酷な戦場を駆け回るなら、まずは肉をつけねば話にならん!」
「いや、結構なペースで食べてるって!」
「甘い! 余の審美眼から見れば全然足りぬ!」
「ん? 誰の目から見たって圧倒的に足りてないわよ、マスター?」
ブーディカが背後から参戦し、取り皿にイシキアを追加する。マシュまでが大真面目に頷くのを見て、藤丸は「降参」と笑って抵抗を諦めた。
夜が更け、祝祭の熱狂は少しずつ落ち着いた色合いへ変わっていく。
歓声は酒と疲労に溶け、広場の隅で遊び疲れた子供が寝息を立てる。楽師たちの演奏は千鳥足気味に乱れ、酔っ払いの歌声が派手に音程を外すたび、温かい笑いが伝染していく。
藤丸は食べかけの小皿を片手に、少し高くなった古い石段へと足を向けた。
大通りを一望できる場所。篝火の列と、押し寄せる波のような人々の頭頂部が見下ろせる。
片手にパン、片手に豆のピューレ。お祭りのど真ん中で物思いに耽るには、少々妙な格好だ。
背後からマシュが近づいてきた。
「先輩。ここにいらしたんですね」
「うん、ちょっとだけ夜風に当たりたくてさ」
「もしかして、食べ過ぎてお腹が苦しいですか?」
「正解。正確には強制的に食べさせられ過ぎた、だけどね。まだ手元に残ってるし」
マシュはくすくすと笑い、藤丸の隣に腰を下ろした。
彼女の手元の小皿にはイシキアとマリネが残されている。戸惑っていた彼女もかなりの量を平らげていた。
「マシュ、それ気に入ったの?」
「はい。最初は独特の発酵臭に驚きましたが、酸味の効いたマリネと一緒にいただくと食べ合わせがいいのかも知れません。このお豆のピューレは、パニスと合わせると心がホッと落ち着きます」
「わかる。遺伝子レベルで安心する味っていうかさ」
パンの端でピューレを掬い、口へ運ぶ。
ハーブの青臭さ、魚醤の塩気、豆の甘み。日本の味とは違うのに、胃袋へ落ちる感覚は不思議なほど優しく、馴染みがある。
しばらくの間、二人は何も言わずに眼下に広がる暗くなっていく世界を見つめた。
広場の中央ではネロが変装を忘れ、大きな身振りで大笑いしている。侍従が「外套がはだけております!」と必死に服を引っ張る。ブーディカが呆れ、リチャードが爆笑し、ドレイクが露店の店主に価格交渉をふっかけている。モルガンは街灯の影から冷徹にそれを見守っていた。
「……終わったんだよな、一応」
「はい。内戦はひとまず幕を閉じました。ネロ陛下は無事に帰還され、統治権の復権を世界に示されました。母后派の中核は完全に崩壊したと見ていいでしょう」
マシュは言葉を区切った。
答えを急がない。単純な戦況報告で割り切れるものではないと理解しているからだ。
「ですが――まだ解決していないものもあります」
「ここへ来てからもう二ヶ月くらい経ってる。それなのに俺たちはまだ、この特異点を終わらせる場所にすら立ててないんじゃないかって……。俺たちの目的は、七つ全部を修復することだろ。なのに、二つ目でこんなに時間がかかって、聖杯の場所すら分からない。ローマの戦争には勝ったのに、カルデアの目標は何も果たせてない。そんな気がするんだ」
藤丸は手元の小皿を見つめた。
豆に浮いた薄いオイルが篝火を反射し、ゆらゆらと揺れる。
「『最後に勝ち残った一騎が本物の皇帝になる』っていうあのシステム、成立しなかったんだよな。アルテラを倒して英霊も消滅したのに、残ったヘリオガバルスには何のパワーアップも起きなかった」
「ええ。少なくともアグリッピナが盲信していた形では機能していません。英霊を戦わせ、魔力リソースを一箇所に集める仕組みは間違いなく存在していました。ですが……それが“最後の一騎を王として選別するため”だったとは言い切れません」
「じゃあ、何のために……? 意味が無いとか?」
「……申し訳ありません、先輩。そこから先はまだ霧の中です」
マシュが素直に言う。
その言葉に藤丸は不思議と胸の強張りが解けるのを感じた。
大団円の答えが出ているなら、自分の不気味な予感は考えすぎだ。だが、マシュも同じように首を傾げているのなら、警戒の手綱を握り続けていていい。
視線を広場へ戻す。
ネロが楽しそうに笑っている。
お忍び変装のせいで名乗れないのがもどかしいのか、落ち着きなく動き回り、子供のように無邪気に目を輝かせていた。
先ほどの切実な問いがリフレインする。
――余は、ちゃんと皇帝であったか。
「……でもさ、マシュ。ネロは間違いなく、ちゃんと立派な皇帝だったよ」
「はい」
マシュは力強く頷いた。
「ですが……先輩の前で見せたお姿はほんの少しだけ、いつものネロさんとは違っていたように思えます」
「違った?」
「はい。きっと、確認したかったのだと思います。自分が犯した罪や背負った業も含め、本当の意味で君臨者として立てていたかを。ネロさんは誰よりも気高い方ですが、今回の内乱は……実のお母様の裏切りであり、もう一人の皇帝候補であり、かつて信じていたロクスタさんの刃でもありましたから」
重苦しい三人の名前が並んだ瞬間、祝祭のBGMが一瞬遠のいたような錯覚に陥る。
藤丸は夜の空気を吸い込み、深く息を吐き出した。
「戦争に勝ったからって、心についた傷まで綺麗さっぱり消えてなくなるわけじゃないもんな」
「ええ。だからこそ、戦いの後に心から笑い合える安息の場所が大切なのだと思います。今夜のこのお食事も、賑やかな祝祭も――きっと、傷ついた陛下の心を繋ぎ止めるために絶対に必要な時間なのです」
マシュは小皿に残った最後のイシキアを口へ運んだ。
ハムハムと咀嚼し、大真面目なトーンで告げる。
「……先輩。この魚団子、冷めても信じられないくらい美味しいです」
「急に食レポに戻るじゃん」
「いえ、これは戦術的に重要な要素です。冷めても味が落ちない料理は、長距離移動や長時間の警戒任務の携行食として無類の強みを発揮しますから」
「うわぁ、マシュまでドレイクみたいな現実的なビジネス視点になり出してる……」
「む、それは私としては非常に不本意な評価なのですが……!」
軽いやり取りの向こうで、お祭りの火がパチパチと温かく揺れている。
片付いたものと、未だ闇に蠢くもの。
白と黒のようにパッカリと二分割できるものではない。
祝祭の皿の上にも、戦後処理の帳簿にも、逃亡者の影にも――等しく、ローマの夜の帳が降りかかっている。
藤丸は手元のパンを大きく齧った。
今はとにかく食べる。
戦える時に戦い、食べられる時に腹に詰め込む。それもまた、この過酷な旅の中で学んだ生存戦略である。
□□□□□□□□□□□□□
地上で響く華やかな歓声や歌声も、この地下の世界においては地響きのような低周波の振動でしかない。
古い石造りの天井から、パラパラと砂埃が落ちる。
遥か頭上では、人々が足を踏み鳴らし、勝利の歌を狂ったように歌っているのだろう。
だが、その音の言葉はここには届かない。たまに鼓膜を震わせる地鳴りが響くものの、冷たい湿った壁に吸い取られ、すぐに元の嫌な沈黙へと引き戻される。
空間を照らす灯火は絶望的に少ない。
油が底を突きかけた小さな鉄皿の火が一つ。壁際でゆらゆらと揺れているだけだ。
足元の剥き出しの石床には淀んだ水の跡があり、石の継ぎ目からは這い上がるような冷気が立ち上っている。
ここがローマのどのエリアの地下なのか、もはや分からない。古い兵糧倉庫か、忘れ去られた神殿の最下層か、あるいは隠し通路か。
少なくとも――敗軍の将として泥水をすすりながら息を潜めるには、都合の良い地獄だった。
「おかしいわ。こんなはずがない……。絶対に、こんな理不尽な結末があってたまるものですか……!」
アグリッピナはこの数時間、壊れた人形のように同じ言葉を繰り返し呟き続けていた。
声は枯れ果て、擦れている。
かつて権勢を誇った絢爛豪華なドレスはボロボロに引き裂かれ、美しく整えられていた髪も泥と汗で顔に張り付いている。
それでも――背筋だけは頑なにピンと伸ばしている。ここで背中を丸めれば、自分が積み上げてきた狂信のすべてが崩れ落ちてしまうと本能で理解しているからだ。
「言われたとおりサーヴァントの力を集めたわ! 戦わせて、命を落とさせて! ネロも、ヘリオガバルスも、完璧な王の器として盤上に揃えたはずよ! ローマ帝国を真っ二つに叩き割ってでも、そこまでの大博打を打ったのよ! それなのに……! なぜ、何も起きないの!?」
ヘリオガバルスは湿った冷たい壁にそっと背中を預け、体育座りをした膝の上で細い両手を静かに組んでいた。
顔は俯いているが、眠っているわけではない。消えかけの灯火が爆ぜるたび、長い睫毛の影が頬の上で微かに動く。
壁際に座り込んでいるヘリオガバルスはかつての空虚な笑みを完全に失っていた。
「それは、あなたが望んだ結末だ」
アグリッピナが血走った目で彼を睨む。
「あなたは本物の皇帝になるはずだったのです!」
「僕もそれを信じたかった。だから、僕にも責任はある」
ヘリオガバルスはアグリッピナを責めるだけでなく、自分自身の責任をはっきりと認めていた。
自分はただの操り人形として終わるつもりはなかった。本物の皇帝として立とうとした気持ちに嘘はない。しかし、アグリッピナの言葉を信じ、反乱軍の皇帝として立つことを選んだのは、紛れもなく自分自身。
ネロは首都へ戻り、市民から皇帝として迎えられた。自分たちは地下へ逃れ、勝者の祝祭を頭上から聞いている。それが自分たちの選択が生んだ現実であり、完全なる敗北。
「……僕は、ただの無力な飾りで終わるつもりなんてサラサラなかったんだ」
消え入りそうなほど小さな声。
けれど、それはアグリッピナの終わりのない独白を明確に遮る。
「誰かに都合よく神輿として祭り上げられることなんて、生きてた頃からうんざりするほど慣れっこだった。他人の思惑のままに操られるのも、周囲が期待する哀れな道化の形に合わせるのも、最後に無様に失敗して破滅するのも――僕の人生は、ずっとそんな泥塗れの記号ばかりだった。だけど……だからこそ、今回ばかりは……ちゃんと、自分の足で、本物の皇帝として立つつもりだったんだ」
「本物の皇帝として振る舞おうと必死だった。戦場でネロ陛下と対峙して、あの人がどれほど圧倒的な覚悟でそこに立っているか理解できた。僕だって、あの人のように気高く立つべきなんだって。アグリッピナ様、あなたの操り人形でも、システムの生贄でも、反乱軍の旗印でもなく――僕自身の、僕だけの絶対の意思で!!」
「なのに結果はこれだ。何も起きなかった。最後に勝ち残るどころか、その結末にたどり着く前に僕たちの足元の舞台そのものが、根底から消えてなくなっていた。……あはは、滑稽だよね。結局、僕の存在って、一体何だったんだろうね?」
「何を弱音を吐いているのです、ヘリオガバルス! あなたは、世界を統べる本物の皇帝になるはずの男だったのよ!?」
「――それはあなたの頭の中だけの願望だよ、皇帝の母上殿」
静かで冷徹な返答。
声を荒げたわけでも、責め立てたわけでもない。だからこそ、その絶対的な拒絶の響きにアグリッピナは言葉を詰まらせた。
「でも、その甘い言葉を信じて、信じたいと願って、都合よく踊ってしまったのは僕だ。だから同罪かもしれないね。だけどさ、今ここにあるのが僕たちの選んだ現実だよ。ネロ陛下は玉座に戻り、ローマの民は今この瞬間も彼女を称えて祝杯を挙げている。そして……僕たちは、この冷たいドブネズミの這い回る地下にいる」
ズゥン、と頭上から地鳴りのような笑い声が響いた。
それに合わせて、冷たい石壁が哀れな敗北者を嘲笑うかのようにビリビリと震える。
その不快な振動を聞きながら、暗闇に佇んでいたロクスタが口元だけで不敵に笑った。
「本当に楽しそうですねぇ、地上の皆さん方は」
汚れた壁にもたれかかり、細い指先で紫色の液体が入った小さなガラス瓶を器用に転がす。
かすかな火が当たるたび、硝子の内側に妖しい光のラインが滑り落ちていく。
「ロクスタ。君は一体どこまで知っていたんだ?」
「さあて、いろいろですよ。毒が身体を回る正確な時間とか、愚かな人間が死に際に信じたくなる甘い言葉の味とか。あるいは、戦争に負けた時にどの泥道を通れば追手の犬を撒けるかとか……ね」
「僕はそんなはぐらかすような答えが欲しいわけじゃない!」
「でしょうね」
「でもねぇ、坊や。今ここで私がすべてのネタばらしをしてしまったら、きっとこれっぽっちも面白くなくなっちゃいますよ? アグリッピナ様はまだご自分の計画の失敗に納得がいっていないご様子ですし、貴方はプライドをズタズタにされて絶望している。そして何より――私自身、こんなところで大人しくお縄について、終わりにする気なんてサラサラありませんから。だったら、本当の『答え合わせ』は、もう少しだけお預けにしておいた方がお互いのために健全ってものです」
「ロクスタ……! あなた、まさか最初から私を騙して何かを隠していたの!?」
「おや、心外ですねぇ。隠し事の一つや二つもないような毒使いなんて、そもそもハナから信用に値しないでしょ? さて。貴女が聞きたかった言葉と、私が実際に言った言葉は、本当に同じでしたかね?」
地上の勝利の賛歌が、再び地下へと木霊する。
きらびやかな祝祭の光も御馳走の匂いも、この奈落の底までは届かない。
ここに届くのは、激しく鳴り響く民の足音と、勝者だけに許された夜の残響だけ。
ヘリオガバルスは諦めたようにゆっくりと両目を閉じる。
「……もしも、次があるなら」
掠れた声。だが、今度は誰の命令でもなく、自分の言葉で。
「今度は誰かに都合よく立たされる神輿なんかじゃなくて――僕自身の足で、僕自身の意思で、真っ直ぐに立ち上がって見せるさ」
ロクスタは満足そうに目を細め、ガラス瓶を懐へしまい込んだ。
「いいんじゃないですか、それ。往生際が悪いですね。嫌いじゃありませんよ」
アグリッピナはもう答えない。
粉々に崩れ去った妄執の破片を、血の滲む両手で必死にかき集め、抱え込み続けていた。
――最後に残れば、あの子が本物の皇帝になる。確かにそう聞いた。そうなるはずだった。
呪いのような言葉だけが、出口を求めて地下の湿った空気の中で蠢く。
パチッ、と鉄皿の火が一度だけ大きく揺らめく。
湿った壁に映し出された三人の歪んだ影は、一瞬だけ長く伸びて重なり合い――すぐにまた、互いに冷たく離れていった。
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パチパチ、と炭火の上で焼き直されたパニスの表面が小気味よい音を立てて弾けた。
店主が年季の入った木の板で手際よくパンをひっくり返すと、焦げた麦の香ばしい匂いがふわりと立ち上る。
隣の鉄皿では、ジューシーなイシキアがバチバチと油を弾かせる。こんがりと焼き目のついた肉団子から、濃厚な脂が炭火へと滴り落ちていた。火柱が跳ね上がるたび、取り囲む子供たちが「わあ!」と歓声を上げる。
藤丸が石段から席へ戻ると、驚いたことに、ネロはすでに彼の取り皿にさらなる料理の山を築き上げていた。
「……ねえ、なんかさっきより確実に増えてるんだけど」
「うむ、余が直々に増やしておいたぞ!」
「いや、なんで!?」
「お前がこれから食べるからだ!」
「どうして……」
皿の上には、丁寧にちぎられたパン、こんもりと盛られた豆のピューレ、焼き立ての肉のイシキアに、白身魚の団子。そして口直し用の野菜マリネとオリーブが、完璧なバランスで盛り付けられている。
それどころか、ネロはトドメとばかりに、蜂蜜をたっぷり塗った甘い菓子まで山に追加しようと画策していた。
見かねたマシュがサッと手を伸ばし、お菓子を半分だけ別の空き皿へ避難させる。
「クラウディア様。先輩の健康のためにも、甘いデザートは食事をすべて終えた後にいたしましょう」
「マシュ……! 本当にいつも助かる……!」
「う、奴め、なぜ止めるのだ! これは余からの極上の褒美であるぞ!?」
「どれほど素晴らしい褒美でも、食事の摂取には正しい順番というものがあります」
マシュが眼鏡の奥の瞳で大真面目に諭す。ネロはウヌヌと考え込み、妙に納得したようにポンと手を打った。
「なるほど……一理あるな。そなた、さては食の戦術を極めた高名な軍師だな?」
「違います」
会話の噛み合わなさに、背後でブーディカが堪えきれずクスクスと肩を揺らしている。
ドレイクはいつの間にか店主を口説き落とし、ガルムの隠し味の配合について熱心にメモを取っていた。リチャードは近くの兵士たちと勢いよく杯を交わそうとしたが、ブーディカの「殺すわよ?」と言わんばかりの冷徹な視線に気づき、何事もなかったように杯をテーブルへ戻した。
そんな中、モルガンが料理の山を一瞥し、冷淡に告げた。
「……ふむ。ボリュームとしては非常に妥当ですね」
「えっ、モルガンまでネロの味方するの!?」
「貴方はもう少し、自覚を持って栄養を摂取しなさい。魔力供給云々の問題以前に、マスターとしての基礎的な肉体の維持管理があまりにも疎かすぎます」
全方向からの完璧な包囲網。もはや逃げ場はない。
藤丸は諦めて覚悟を決め、パニスの端っこで豆のピューレを掬い取る。そこへネロの手によって追い打ちのようにガルムのタレが追加され、独特の発酵臭に一瞬だけ鼻をひくつかせた。
「うぐっ……やっぱりまだ、最初の一口のインパクトに慣れないな、これ」
「だが、味自体は美味いのであろう?」
「うん、めちゃくちゃ美味い。美味いんだけど……最初の一撃のパンチ力が凄すぎて脳がびっくりする」
「くははは! それこそが我が最愛のローマの味だ! その強烈な衝撃ごと、五感のすべてに刻み込んでおくが良い!」
広場の向こう側から、陽気な民謡の合唱が始まった。
誰かが入りを間違えて音を外す。けれど咎める者はなく、すぐに誰かが大笑いしながら手拍子でフォローし、最初から歌い直していく。
酔っ払った兵士の野太い声、子供たちの高らかな笑い声、屋台の主人が客を呼び込む威勢の良いダミ声。
木製の杯がチリンと触れ合い、素朴な木皿の上で、温かいパンが次々と分け合われていく。
ネロは温かい喧騒の渦中で、ふと、地味な外套のフードを少しだけ深く被り直した。
いつの間にか変装が乱れ、金髪が夜風に溢れ出しかけている。
――けれど、今の彼女は誰からも「皇帝陛下」と呼ばれ、跪かれることを望んでいないようで。
誰にも名前を知られず、市民たちと同じ火の温もりを分け合い、同じ皿の料理を美味しいと笑って食べている。
名もなき一人の少女としての時間こそが、今夜限りの、何よりも贅沢な褒美だったのかもしれない。
「藤丸」
「ん? なに?」
「その白身魚のイシキアも残さず食べるが良いぞ。冷めてもなかなか乙な味がして悪くない」
「あはは、さっきマシュも全く同じこと言ってたよ」
「ほう! ならば、余の味覚の正しさが完璧に証明されたな!」
ネロは上機嫌にフンスと胸を張り、取り皿の端っこへ魚肉団子を追加した。
藤丸は苦笑し、フォークで突いて口へと運ぶ。
魚醤の旨味とハーブの香り、マリネの甘酸っぱい残り香が心地よく調和する。焦げた煙の匂いまでもが、最高の調味料として胃袋へ収まっていく。
遠くでまた誰かの歌声が出遅れて、あの生真面目なマシュまでもがクスクスと本当に楽しそうに小さく笑う。
黄金色の火柱が弾ける向こう側。
ローマの陽気な賛歌がまたしても賑やかに音程を外していった。
だが今度は誰も止める者はいない。街中がただ笑い転げながら、どこまでも、どこまでも、勝者たちの輝かしい夜の続きを歌い繋いでいく。
よかったね。ハッピーエンドだ。
オルガマリーもこれにはニッコリ。第二特異点ってこうだったよね!