マシュ・キリエライトしか分からない   作:ats376

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第13話 「魔術師、異邦より」

接収された大邸宅の中庭には、今日も昨日と変わらず、太い洗濯紐が何本も堂々と張り巡らされていた。

 

風にぱたぱたと揺れているのは、見慣れたカルデアの外套や、現地の兵士から借りた真っ白なシーツ。門柱には、元の主人の家紋を覆い隠す白布が巻かれたままだ。

贅を尽くした屋敷はその輪郭だけを残して中身を失い、五月の高い陽射しに照らされている。

 

藤丸は回廊の冷たい石柱に背を預け、杯の水を静かに口へ含んだ。

冷たい水が喉を通っていっても、鼻の奥には昨夜の祝祭の匂いがしつこく残っている。

香ばしく焦げた麦。炭火へ落ちた獣脂の煙。脳を揺さぶるほど強烈な魚醤の塩気。

ネロに次々と皿を押しつけられ、ブーディカには退路を塞がれ、最後にはマシュまでが「健康管理です」と完璧な理屈を掲げて加勢してきた。

 

今夜の夢にまでローマの大衆料理が押し寄せてきそうなほど、胃袋がずしりと重い。

……とはいえ。

 

胸の奥に冷たく居座っているものまで、単なる胃もたれで片づけることはできないもので。

痛みがあるわけでも、息苦しいわけでもない。不気味な警告が聞こえているわけでもないのに。

 

ただ昨夜、賑やかな祭りの最中に一瞬だけ世界の輪郭がぐにゃりと歪んだような。

あの奇妙な感覚が薄い膜となり、今も胸の奥へ張りついたまま離れない。

 

「……はは。昨日、ちょっと調子に乗って食べすぎたかもなぁ」

 

ぽつりとこぼした言葉は、自分でも呆れるほど苦しい言い訳。

ぱし、ぱし、と洗濯物を畳んでいたマシュの手がわずかに止まる。

手元のシーツを籠へ戻すと、まっすぐ藤丸へ向き直った。真面目な紫色の瞳がその顔を捉えて離さない。

 

「先輩。ガリアから戻ってきた直後に比べれば顔色は落ち着いています。ですが、それと無理をしていないことは別問題です」

「大丈夫だって。ちゃんとぐっすり寝たし。ブーディカに『眠るまで部屋から出しません』って怒られたからさ」

「当然よ。釘を刺しておかないと、あなた、夜中に一人で起きて、暗い部屋でずっと考え込んでいたでしょう?」

 

門の近くからブーディカの声が飛んでくる。

いつもの優しいお姉さんらしい声なのに、その奥には一切の反論を許さない強さが宿る。

 

「今日は一日、このお屋敷で寝ていたっていいくらいなのよ? 人間の身体っていうのはね、激しい戦いが終わって緊張が解けた途端、溜め込んでいた疲れを思い出すものなんだから」

「いや、本当にそこまで大袈裟な状態じゃないって。ほんの少し、胃が重いだけで……」

 

「その『ほんの少し』を甘く見ないの! あなた、自分が倒れる一秒前まで動き続けた前科があるんでしょう?」

「うぐっ……」

 

返す言葉を失い、藤丸は手元の水面へ視線を落とした。

何ひとつ言い返せない時点で、精神的な主導権は完全に握られている。

回廊のガラス戸を隔てた食堂では、ドレイクが大きなテーブルの上へ何やら次々と物を並べていた。

 

宝石、象牙細工、儀礼用の器具、神像、装飾品、銀杯、貴金属。そして、いくつも積み上げられた革袋。

見るからに値の張りそうな品々が種類ごとに几帳面に分けられている。

 

「マスター、こちらへ。身体を休めていただくことが最優先ではありますが……気分転換も兼ねて、そろそろ整理を始めましょうか」

 

「……何を?」

「戦利品です。いえ、回収済み資産の一部、と言い換えた方がよろしいでしょうか」

 

ドレイクは涼しい顔で帳簿をめくった。

 

「反乱軍が抱え込んでいた金品、装飾品、書類などは、貴方様の利益として一括管理しておりました。必要なものから順にお渡ししようかと。ああ、こちらは取り急ぎの心付けです」

 

机の上へ置かれた三つの袋が、ごとり、と重い音を立てる。

 

「……何これ?」

「確か、金貨がアウレウス、銀貨がデナリウス、真鍮貨がセステルティウスでしたか。この時代のローマで用いられている通貨です」

 

「いや、聞きたいのは種類じゃなくて」

「決戦から退却する際、亡霊たちを各地へ派遣して頂戴して参りました。そちらはアウレウス金貨の詰め合わせです」

 

「息をするみたいに犯罪するじゃん」

「お褒めにあずかり、恐悦至極」

 

「褒めてないんだよね。というか、返さないと!」

 

慌てる藤丸を眺め、ドレイクはくすりと艶やかに笑った。

 

「ふふっ。お可愛い人です。その心配はありません」

「えっ、なんで?」

 

「所有者の大半は既に捕縛されています。財産についても、厳しい裁きが下る予定でしょう。それに……」

「それに?」

 

「ネロ陛下は、マスターに大変入れ込んでおられるご様子。客将としての正式な報償を辞退し、その代わりとして受け取ると申し出れば、きっと認めてくださいます。おそらく」

 

「まだ許可取ってないってことじゃん!」

「まあ、そうとも言いますね。大丈夫です」

 

――特に多くの財を頂戴した方々は、自決に見せかけて処理済みですし。

 

「……とりあえず、一旦全部ここに置いておいてくれ。使うかどうかはちゃんと考えるから、そのまま市場に流したりは絶対にしないで。本当に」

 

「承知いたしました」

 

満足そうに頷くドレイクから別次元の不穏さが漂っている。

藤丸はそれ以上追及する勇気を失い、ふと二階の回廊へ視線を向けた。

 

モルガンが大理石の手すりに白く細い指を添え、静かに首都の中心部を見下ろしている。

遠くにそびえる大神殿の絢爛な屋根。ネロのいる宮殿。そこから各地へ伸びる巨大な街路。

 

彼女の冷徹な瞳には、藤丸たちが見ている景色とは異なる、世界のさらに深い層が映っているのかもしれない。

 

「モルガン」

「……この特異点は、いまだ収束していません。兆候すら見られない」

「それは、あの『黒い影』の件でしょうか?」

 

マシュの声が張り詰める。

 

「それも含まれます。逃亡を続け、いまだ行方の知れない主謀者三名。何者かによって強制的に回収されたサーヴァントの霊基。そして、本来ならば『勝者』を選ぶはずだったという話」

 

モルガンはローマの街並みを見下ろしたまま、淡々と続ける。

 

「帝国の内戦処理はあくまで表向きの問題。我々が見るべきものは、やはり別にあるのでしょう」

 

 

昨夜、マシュとも似たような話をした。

 

内戦は終わった。

ネロは奇跡的な復権を遂げ、ローマの街は勝利の祝祭に包まれている。

 

それでも、分からないことが多すぎた。

アグリッピナたちの行方。不気味な黒い影。見つからない聖杯。そして、カルデアと繋がらない通信。

 

この屋敷に閉じこもり、同じ要素を何度並べ直したところで、答えに届くはずもない。

 

「……よし。俺も昼のローマを見ておきたいな」

 

藤丸は杯を置き、石柱から背を離す。

 

「昨日は夜の祭りだったからさ。今日は、この国が普段どうやって動いているのか、自分の目で確かめたい」

 

「了解しました、先輩。私も護衛として同行します」

 

マシュは即座に頷き、外套を取りに動き出す。

ブーディカは藤丸の顔色をもう一度確かめると、短く、しかし厳しく釘を刺した。

 

「いい? 少しだけよ。人混みの中で一瞬でも気分が悪くなったら、すぐにここへ戻ること。約束ね」

 

「うん、分かった」

「それからリチャード。ついて行くなら、街中で急に走り出さないこと」

 

「誓おう。騎士の誉れにかけて」

「楽しそうに返事をしないの!」

 

ドレイクが帳簿へぱたんと栞を挟む。

 

モルガンも何も言わないまま、優雅な足取りで階段を下りてきた。

 

 

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色鮮やかな花輪が街のあちこちを飾っている。

神殿へ向かう参拝客の列は途切れず、露店には焼き立てのパンや菓子が並ぶ。子供たちは小さな花束を振り回しながら、狭い路地を元気よく駆けていた。

 

昨夜の酒が残っているのか、井戸端で頭から水を被っている兵士もいる。通りの向こうから聞こえてくる楽師たちの笛の音が、陽気に跳ねていた。

 

そんな祭りの名残を引きずる雑踏の横を、石灰袋を積んだ大型の荷車が進んでいく。

木桶、太い縄、木材、鉄釘、毛布、大量の薬草。

隙間には穀物袋が押し込まれ、補修用の無骨な道具が幾重にも括りつけられている。

御者台の男は、首から赤い花輪を下げた陽気な格好をしていたが、手にした木札へ目を落とす表情は真剣そのものだった。

 

広場の片隅では声量に自信のある朗読役が、新たな布告の写しを読み上げている。

 

『――剣を置く者はローマへ戻れ! されど、ローマを裂いた裏切りの手を、皇帝は決して見逃さぬ――!』

 

朗々とした声は露店の呼び込みや荷車の軋む音に混じりながらも、通りの奥まで確かに届いていた。

 

役所の前には、地方都市から訪れた使者たちが長い列を作り、封蝋の施された書簡を大切そうに抱えている。書記官が慌ただしく行き来し、若い伝令兵が人波を縫って駆け抜けていく。

 

 

首都ローマには戦火の跡はほとんど無いと言っていいだろう。

焦げついた壁も、崩れた民家も、瓦礫を運び出す市民の姿も見当たらない。

だが、戦火に傷つき、支援を求めている土地へ向かう物資は、この街の中心を絶え間なく流れ続けているのだ。

 

「……復興のために動いてる人も多いんだろうな」

「はい。首都ローマは、ほぼ無傷で済みました。ですが、ガリア方面や各地の街道沿いへ向かう荷車が、明らかに多いです。あの惨状であれば致し方ないかと」

 

マシュの目が、大通りを通り過ぎる積み荷を順番に追っていく。

 

「石灰、木材、毛布、大量の薬草……昨日、ネロ陛下が熱く語られていた戦後復旧の方針と一致します」

 

「『橋と井戸と宿駅を直してこい』、だったかしらね?」

 

ブーディカが荷車へ道を譲る。

ドレイクは積み荷のバランスを一瞥しただけで、商人らしい目線から淡々と分析を加えた。

 

「水場の浄化を最優先で進めているのでしょう。石灰の量が桁違いです。木材は破損した橋梁や宿駅の補修。毛布と薬草は、負傷者や避難民への配給用」

 

行き交う荷車を眺め、わずかに目を細める。

 

「ただ勝利に浮かれているだけの都市なら、これほどの実用品が組織的に流れることはありません」

 

藤丸は活気に満ちた通りを見渡した。

無邪気に笑う子供の隣を、属州へ向かうらしい険しい顔の軍務官が通り過ぎていく。

 

兵士の肩にあるのは人を殺すための槍ではなく、街を立て直すための縄と大工道具。荷車には小麦と油壺が積まれ、脇道では書記官が使者の名を蝋板へ刻み込んでいた。

 

昨夜、ネロはあれほど無邪気に笑っていた。

だが、その笑顔の裏側で彼女がどれほど巨大な歯車を動かしたのか。その結果が、昼のローマに形となって現れている。

 

山のように積み上がっていた未決裁の文書は、無数の荷車や伝令の姿へと変わり、ローマの未来へ向かって動き始めていた。

 

 

「ちゃんと……ネロって、国を動かしてるんだな」

「うん。ここまでは、本当にちゃんと動いているね」

 

すぐ横か、鈴を転がすような美しい声が返ってきた。

はっとして振り向くと、人混みの端に、雪のように白い衣をまとった女性が立っていた。

 

光を受けて輝く白い髪。陽炎のように淡く、掴みどころのない存在感。

露店から立ち上る煙も降り注ぐ昼の光さえも、彼女の周囲だけを不自然に避けているように見える。

 

 

「こんにちは、藤丸君」

「……っ、誰だ?」

 

マシュが即座に藤丸の半歩前へ飛び出し、盾を構える。

 

「あなたは何者ですか。なぜ、初対面のはずの先輩の名前を……!?」

「おっと。そんなに怖い顔をしなくても大丈夫だよ」

 

女性は宥めるように両手を上げる。

 

「私はただの通りすがりの魔術師さ。お祭りが楽しそうだったから、ちょっと見学に来たんだ」

 

楽しげに広場へ視線を向ける。

人々の営みを、劇場の一等席から舞台でも眺めるような目。

 

「名乗る必要があるなら――そうだね。レディ・アヴァロン。そう呼んでくれると嬉しいかな」

 

 

「……その呪わしい気配を、よくも私の前で臆面もなく晒せたものですね」

 

モルガンの声が周囲の喧騒から鋭く切り離されて響く。

そこには底知れない嫌悪が込められている。

 

「ええ? そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃない。私はまだ、君たちに何も悪いことをしていないよ?」

「その名を持つ者が存在している。それだけで、既にこの上なく不快です」

「そこまで言う!?」

 

思わず藤丸が突っ込んだ。

しかし、モルガンは目の前の存在から一瞬たりとも目を離さない。

 

「マスター。そこまでです。その女から離れなさい」

 

刺し貫くような視線を受けながらも、レディ・アヴァロンはますます楽しそうに口元へ指を添えた。

 

「なるほどねぇ。どうやらこちらの世界の私は、よほど君に嫌われているらしい」

「こちらの、って……どういう意味?」

 

「ふふ。細かい話はまた今度にしよう。今日は君たちとお喋りをするために来たわけじゃないんだ」

 

敵意もなければ、押しつけるような魔力の圧力もない。

それでも、本能的な警戒は少しも解けなかった。

 

何十人もの市民がすぐ横を行き交っている。それなのに、誰一人として彼女へ目を向けないという異様な光景が繰り広げられている。

露店の主人も、兵士も、子供たちさえも、まるでそこに誰もいないかのように、彼女へ触れることなく通り過ぎていく。

 

「先輩。周囲の人々の反応が、明らかに不自然です」

「うん。これって、みんなには見えてない……?」

 

「正確には、『そこにいるのに見ようとしていない』の方が近いかな? 最初に言った通り、害を与えに来たわけじゃないよ。……少なくとも、今日のところはね」

 

「その言い方、明日以降は牙を剥くかもしれないって聞こえるんだけど」

「未来の話なんて、少しくらい暗くて曖昧な方が、物語としては面白いだろう?」

 

彼女は楽しそうに笑ったあと、賑やかなローマの街へ目を向けた。

 

「過酷な戦いは終わった。ローマの秩序も戻った。楽しい祝祭も、まだまだ続いている。……うん。ここまでは完璧なくらい良い流れじゃないか」

 

 

「でもね。それは、ここまでの話が綺麗に片づいたというだけなんだよ」

 

白い魔術師の瞳が藤丸をまっすぐに見つめる。

 

「藤丸君。君はこの特異点で、何が起きたのか。何が消え去り、そして何が残されたのか。今のうちに、自分の目でよく見ておいた方がいい」

 

 

「お姉さんからの忠告だよ」

 

 

通りの奥から朗読役の声が響いてくる。

 

荷車の車輪が軋み、石灰袋の裂け目から白い粉がこぼれた。踏みそうになった子供の腕を、母親が慌てて引き寄せる。

 

「残されたものって……英霊を襲った、あの黒い影のことか?」

「それも一つの答えだね」

 

「それとも、地下へ逃げたアグリッピナたち三人?」

「うんうん。それも正解。よく分かっているね」

 

「……聖杯が、まだ見つかっていないこと?」

「お見事。それはとっても、とぉっても大事な問題だ」

 

レディ・アヴァロンは人差し指を立てると、悪びれた様子もなく付け加えた。

 

「あ、ちなみに私は、聖杯の場所までは分からないよ。そこはごめんね」

「じゃあ、何が言いたいんだ?」

 

「本を読む時、次の頁をめくった途端に前の頁の内容を忘れてしまったら、その先の展開にあっという間に置いていかれるだろう?」

 

白い指先が見えない本の頁をめくるように動く。

 

「特に今回みたいに、持ち主のあずかり知らないところで、誰かが物語の途中へ勝手に別の話を書き込んでいる時はね」

 

「あんたは、一体どこまで知ってるんだ?」

「ほんの少しだけ。全部じゃないよ」

 

「ほら、物知り顔でしゃしゃり出てくる魔術師なんて、最初から信用しない方がいいって相場が決まっているからね」

「――おや。自覚だけは一丁前にあるようですね」

 

モルガンの冷たい皮肉が飛び、レディ・アヴァロンは困ったように眉を下げた。

 

「酷いなぁ。今のは別に、君に向けた当て擦りじゃなかったんだけど?」

「どちらでも構いません。不快であることに変わりはありませんので」

「やれやれ」

 

レディ・アヴァロンは肩をすくめ、今度はマシュへ視線を移した。

 

「君も今のうちにこの光景をよく目へ焼きつけておくといい」

 

「私もですか?」

 

「守るべき大切なものがある人ほど、全てを終わったことにして、安心したくなる瞬間が必ず来るものだからね」

「……貴重な助言と警告として、受け取っておきます」

 

「うん。今の君には、それで十分さ」

 

そう言い残すと、レディ・アヴァロンは賑やかな露店の方へふわりと歩き出した。

 

「待ってくれ!」

 

藤丸が呼び止めると白い衣の裾がぴたりと止まる。

 

「あんたは、本当は何のためにここへ来たんだ? ただ祭りを見物しに来ただけじゃないだろ」

「見に来たのは本当だよ」

 

白い魔術師は振り返らず、少しだけ顔を横へ傾けた。

 

「せっかく訪れた奇跡みたいに平和な時間なんだ。今のうちに、五感の全部で味わっておくといい」

「そういう何でもない時間ほど、あとになってから信じられないくらい大切な楔になるものだから。心の準備みたいなものだよ」

 

 

そして最後に肩越しに藤丸を振り返った。

 

「じゃあね、藤丸君。次の頁を開く前に――今日のローマをよく見ておくんだよ」

 

歩いて人混みへと消えていく後ろ姿。走ればまだ追いつける距離だろう。

けれど、藤丸の足は一歩も動かない。

怯えて逃げたようには見えない。かといって、力ずくで捕らえるべき敵とも思えない。

今ここで無理に追ったところで、手の中にはすり抜ける煙のような感触しか残らない、そんな漠然とした気持ちが一つ。

 

 

「先輩。……追いますか?」

「……いや。たぶん、今追いかけても捕まらない。それに、力ずくで捕まえていい相手なのかも、まだ分からないんだ」

「賢明な判断ですね」

 

モルガンはウンザリした顔でそれ以上、彼女が消えた方向を見ようともしなかった。

 

「なあ、モルガン。さっきから気になってたんだけど……『レディ・アヴァロン』って、そんなに嫌なの? 何か知ってそうだったけど」

「今この場で、その呪わしい名前について詳しく解説する必要は皆無です」

 

「即答……!」

「必要になれば、いずれ私の口から嫌というほど話してあげます。今はあの女が残した言葉の意味を考えるべきでしょう。あれで害悪名だけとは限らない人物ではありますから」

 

モルガンは冷ややかな目で、人混みを見渡す。

 

「明確な敵と断じるには材料が足りません。ですが、味方と呼ぶには――あの女の周囲には、余計なものが多すぎる」

 

 

 

ここは第二特異点、セプテム。

 

自分たちは、その解決のためにやってきた。

藤丸の思考を断ち切るように、ガリア方面へ向かう荷車が広場の横をがたごとと通り過ぎていく。

頑丈な荷台には真新しい木材、白い粉を吹いた石灰袋、毛布、大きな水桶が積まれていた。

 

木枠の端には、誰かが悪戯で引っかけたのか、祭りに使われた真っ赤な花輪が一つ、車輪の揺れに合わせてぴょこぴょこと跳ねている。

 

「あっ、待って! ボクの花輪――っ!」

 

小さな子供が半べそをかきながら、荷車の後ろを懸命に追いかけていた。

それに気づいた御者台の男が、片手で器用に手綱を引き、荷車の速度を落とす。

荷台へ腕を伸ばし、引っかかっていた赤い花輪をひょいと外した。

 

「ほらよ!」

 

花輪がぽん、と子供の手元へ投げ返される。

 

「わあ、ありがとう!」

 

子供は両手でしっかりと受け止めると、大切そうに胸へ抱き、神殿へ向かう賑やかな群衆の中へ駆け戻っていった。

 

資材を積んだ荷車は、再び速度を上げる。

石灰袋から白い粉をさらさらと路面へ落としながら、大通りの遥か先へ向かって進んでいく。

 

「……よし。俺たちも一度、屋敷に戻ろう」

 

藤丸は遠ざかる荷車を見送りながら、静かに息を吐いた。

 

「何て言うか……これから自分が目を向けるべきものが、少しだけ見えた気がする。本当に気がするだけだけど」

 

荷車の姿が人波の向こうへ消えるまで見届ける。

そして藤丸は、帰るべき邸宅へ続く緩やかな坂道へ、一歩を踏み出した。

 

 




ワイ「ハッハァ!! ややこしい仕事が片付きまくって趣味に専念できるぜぇ!!待ってたぜぇ!この瞬間をよォ!!」

上司「療養休暇の人の仕事もよろしくね!」

ワイ「Huh?(分かりました!お任せください!)」
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