間借りしている邸宅へ戻る頃。
門の向こうの貴族街には、ぽつりぽつりと夜を告げる灯火が増え始める。
復興物資を運んでいた大通りにも、再び祝祭の火が灯る。
荷車の車輪が残した白い粉の傍らで、花輪を抱えた子供たちが笑い声を上げて走り抜けていく。広場へ続く道の両脇では、露店の男たちが夜の書き入れ時に備え、熱い炭を景気よく注ぎ足していた。
神殿への参拝客の波はすでに引いている。代わりに、薄い葡萄酒の杯を手にした兵士や職人たちの野太い声が、通り全体を覆い尽くさんばかりに響き始める。
――昼間に遭遇したあの魔術師の姿はもうどこにもない。
藤丸は重厚な鉄門をくぐる直前、もう一度だけ大通りの方を振り返る。
花輪、物資を積んだ荷車、封蝋の施された文書を抱えて走る官吏、石灰の袋。
平和を取り戻しつつある活気にあふれた都市の景色。だがレディ・アヴァロンなる女性が残した言葉が、胸の奥でチリチリと燻り続けている。
『何が起きて、何が消えて、何が残されたのか』
夜になっても、思考はどうしても同じ場所へとぐるぐる戻ってきてしまう。
特異点は、まだ何一つ収束していないのだから。
「先輩。どうかされましたか? 少しお部屋で休まれますか?」
背後からマシュが心配そうに声をかけてくる。隣ではブーディカも藤丸の顔色をうかがうように細めた目を向けている。
藤丸は小さく首を振り、広場の方向を指差して笑ってみせた。
「いや、大丈夫。夜が来るまで、ちょっとこの中庭のベンチに座って待ってるよ」
「夜まで、ですか?」
「うん。たぶん、もうすぐネロが出てくると思うんだ。昨日の夜、あれだけ俺たちに大戦果と祝祭の様子を見せたがってたんだからさ。これだけ盛り上がってる今日の夜に、市民の前に顔を出さないわけがないだろ?」
昨夜はお忍びで市民の生活をその目で見た。ならば今夜は皇帝として市民の前に立ち、復興と未来を語るはずだ。ネロはただ勝利を祝うだけでなく、自分自身の姿を直接見せることで、この巨大なローマを動かしていく人物なのだから。
「なるほど。皇帝としての公的な戦後処理や民衆へのアピールも、まだ分刻みで続いているはずですからね」
「ああ。少し休んだら、みんなで見に行こう」
藤丸の言葉に、マシュはこくりと頷く。少し離れた場所では、リチャードが剣の柄を叩きながら早く祭りに行きたそうにそわそわとしており、ドレイクがそれを呆れたように見つめている。こちらの雰囲気は穏やかである。
強行軍の疲れが身体の節々に鉛のように残っている。それでも、中庭の木製ベンチに腰を下ろし、水の止まった噴水を見つめていると、少しだけ心が落ち着いてくるように思える。
白い大理石の水盤の縁に遠くの街の灯り――妖しくも鮮やかな火の色が、じわじわと侵食し始めていた。
その赤を見つめているうちに、本格的な夜が訪れる。
大通りには昼間とは違う濃密な人間の流れが出来上がる。
労働を終えて煤で顔を汚した職人、配給のパンを大事そうに抱えた市民、祈りを終えて家路を急ぐ者、大騒ぎしたい熱気を隠そうともしない若者たち。目的は違えど、まばゆい火柱と歌声が響く中心地へ向かう足取りは、奇妙なほど揃っていた。
藤丸たちは広場の端、人混みに紛れやすい木陰に陣取った。
今夜のこの場は復活を遂げたローマ皇帝が民衆の前に姿を現す、厳かな舞台だそうだ。
協力者に過ぎない自分たちが最前列へしゃしゃり出るような真似はしない。
広場の中央には急造された演壇。
周囲には、武装したローマ兵がほどよい距離を保って並んでいる。彼らの槍は民衆を威圧するためではなく、熱狂した市民が前に出すぎて事故が起きないよう、人の流れを安全に整理するために機能していた。雑踏処理も大切な仕事である。
やがて広場のあちこちで響いていた楽師たちの演奏が、示し合わせたようにピタリと弱まる。
大笑いしていた酔客たちの声も止まり、数千の瞳が吸い寄せられるように壇上へと集まっていった。
――バサリと。
鮮烈な『赤』が、松明の列の向こう側から揺らめき現れた。
限界寸前のはずの疲労も、重圧に耐える弱気な横顔も、今の彼女には一切ない。
ローマ皇帝ネロ・クラウディウスが堂々たる足取りで壇上へ駆け上がり、眼下に集まった無数の市民たちを見渡した。
翠の瞳が炎の光を反射して輝く。ただ姿を見せただけで、広大な空間の空気が一瞬にして皇帝のものへと塗り替えられた。
彼女の顔には、微塵の疲労も悟らせない。弱さを一片も見せない、完璧な支配者の顔がそこにあった。
「――ローマの民よ!」
凛烈にして華やかな大音声。
「余はここにいる! そしてそなたたちもまた、この不屈のローマにいる!」
ネロの声が、夜の広場の隅々にまで響き渡る。
「戦火によって、多くのものが理不尽に失われた。だが、失われたものの数だけを数えて、涙を流すだけで終わらせるな! 剣を置いた下級兵には美味い水を与えよ! 疲れ果てた者は休め! 飢えた者は、余の用意したパンをたらふく受け取るが良い!」
彼女は力強く拳を握り、夜空へ向かって突き上げた。
「そして未だ悲しみに沈む者には、明日を生きるための誇り高き仕事を用意しよう! ローマはただ待つだけで元に戻ることはない。我々自身の手で戻すのだ! 余と、そなたたちの、この熱き手によってな!」
地を震わせるような大歓声。
民衆の胸の最も深い場所から押し出された、魂の咆哮。
兵士たちが杯を力強く握り直し、天へ掲げる。疲れ果てていた職人たちが顔を上げ、露店の女たちが真っ赤になるまで手を叩く。意味を完全には理解していないであろう幼い子供たちまでもが、その熱気に当てられて歓声を上げていた。
藤丸はその光景を、木陰から静かに見つめていた。
ネロの言葉は、決して単なる美辞麗句ではない。それは昼間に見た復興の布告であり、荷車であり、配給のパンへ確実に繋がっている。
ネロは皇帝として、立派に立っている。昨夜、藤丸が答えた『皇帝らしい』という評価が、今まさに数万の民衆の前で現実のものとして実証されていた。
「ではここで一曲という」言葉が放たれるやいなや、側近達に引きずり下ろされていたが。
不思議なこともあるものである。
「おお、よく戦い抜いたな!」
前線の兵士たちが掲げる粗末な木杯に、自身の黄金の杯を気さくに打ち合わせる。大衆店の店主の肩を叩いて労いの言葉をかけ、駆け寄ってきた子供が差し出した不恰好な花輪を、破顔して自らの首へと飾る。市民からの絶え間ない呼びかけに、一つ一つ笑顔で応じていく。
護衛の騎士や侍従たちは顔を真っ青にして悲鳴を上げている。いつ暗殺の刃が飛んでくるか分からない状況で、皇帝が自ら民衆の波の中へ入っていくなど正気の沙汰ではない。
だが、彼らもまた、皇帝が民と直接触れ合うことの政治的、そして感情的な意味の大きさを理解しているがゆえに、強引に引き剥がすことができず、必死に巨大な肉の壁を作って人の流れをコントロールに務める。
藤丸は遠くから見つめながら、ネロが無理をしていること。そして同時に、心からこの市民たちを愛していることを感じ取っていた。
やがて、ネロは民衆の熱狂と護衛の網をすり抜け、松明の明かりからほんの少しだけ外れた。
暗がりにいた藤丸と、翠の瞳が真っ直ぐに交錯する。彼女はそのまま、周囲に気づかれないよう俯きがちに近づいてきた。
「藤丸。……少し、余の散歩に付き合え」
いつもの響き渡る尊大な調子ではない。声のトーンが低く、公の皇帝の口調から、私的なネロのものへと変わっている。
「今から?」
「うむ。昼は目の色を変えた官吏どもが余を絶対に逃がさぬし、夜になれば愛すべき民たちが余を離さぬ。ならば――その隙間に生じたわずかな一瞬を、泥棒のように盗むしかあるまい?」
ネロは悪戯っぽく微笑む。
「皇帝としてではなく、一人のネロとして、そなたとだけ話したいことがあるのだ」
背後でマシュが判断を仰ぐように藤丸を見る。
ブーディカが心配そうに藤丸の顔を覗き込んできた。
「マスター。体調が優れないなら、無理して付き合わずに休んでもいいのよ?」
「……いや、大丈夫。行ってくるよ」
リチャードがニヤニヤしながら口笛を吹きかけたが、ブーディカの冷徹な視線を察知し、素早く口を噤む。
「行ってくるよ、マシュ」
「はい、先輩。……お気をつけて」
マシュは余計な詮索はせず、静かに微笑んで送り出してくれた。短く頷き、外套を翻して歩き出したネロの背を追った。
大騒ぎの広場から少し離れるだけで、喧騒は驚くほど急激に遠ざかっていく。
二人が向かったのは、宮殿へと真っ直ぐに続く巨大な大理石の柱廊。
灯火こそ等間隔に配置されているものの、一般市民の姿はそこにはない。磨き上げられた石床には風に揺れる火の影だけが長く伸び、太い柱の隙間から、遥か遠くの祝祭の光が覗いている。
勝利の乾杯も、酔っ払いの歌声も、深い水の底から響いてくるようにぼやけて遠い。
ネロは先頭を歩きながらも言葉を発しない。
コツ、コツと、二人の靴の音だけが静まり返った回廊に反響する。
藤丸もあえて急かすような真似はしない。ネロの外套が夜風に揺れ、規則正しい呼吸の音が微かに聞こえる。
先ほどまで、大勢の民の前で完璧に笑っていた。絶対無二の皇帝として誇らしげに立っていた。その直後にすべての人間を遠ざけ、ただ一人、藤丸だけをこの暗闇へと連れてきた。
その背中には、先ほどまでとは異なる重さが漂う。
「――余は、母上を討った」
冷たい石の床へ垂直に落ちるような、低く、震える声。
ネロは足を止め、振り返らずに言葉を紡いだ。
「いや、語弊があるな。首を刎ねたわけではない。あの女は今も、どこかで生きているのだろうよ。だが、余は母上の築いた帝国を滅ぼした。母后としての権威を奪い、ローマの敵として切り捨てたのだ。娘としての余が、実の母上へ剣を向けたことに変わりはない」
ネロはゆっくりと藤丸へ向き直った。その顔に決断を後悔する色はなかった。
「放置していれば、我がローマはさらに無惨に引き裂かれていた。余がこの国の皇帝である以上、母后派を滅ぼし、あの女を止めること以外に選択肢はなかったのだ」
「それでも……あの女が余の母であるという事実まで消えるわけではない。かつて余に『皇帝となれ』と囁き、このローマを統べよと進むべき道を示してくれた過去も、決して消えはしないのだ」
藤丸は何も言わない。ただ、彼女の悲痛な告白を黙って聞き続けた。
ここで「仕方がなかった」と安易な慰めを口にすれば、致命的に間違える。彼女が抱える愛情と憎しみ、そして承認を求める複雑な感情は、軽い同情で触れていいものではないと分かっていた。
「ヘリオガバルス……。あれもまた、母上によって皇帝として選ばれたのであろう。かつての余と同じようにな」
ネロの脳裏に、地下宮殿で対峙した少年の姿がよぎる。
「だが、あれは最後まで母上の言葉だけで動いていたわけではない。あれはあれなりに、自らの意思で皇帝として立とうとしていたように思う。戦うことを選んでいたのだ。だからこそ、余はあれを見るのが苦しかった」
ネロは胸元を強く握りしめる。
「目の前にいたのは敵の皇帝でありながら、母上の望む姿へ押し込められようとしていた、かつての余自身でもあったのだから」
似ているからこそ、拒絶せざるを得なかった。
同じように母に選ばれながらも、決定的に道を違えた存在。
ネロはヘリオガバルスを見下すことも、偽物として切り捨てることもなく、ただその類似性に深く傷ついていた。
「藤丸。教えてくれ」
カサリ。夜風が抜け、ネロの赤い外套の端が揺れる。
「そなたが昨夜、余を皇帝と認めてくれたことを疑っているのではない。余が皇帝として成すべきことを成した。その自負もある」
「それでも、暗い部屋で一人になると考えてしまうのだ。母上に選ばれ、玉座へ置かれた過去の余と、そなたらカルデアの圧倒的な力で復権した今の余は、本当に違うのかと。余はまた、誰かの強大な力によって玉座へ立たされただけではないのか、と」
国家とは一人の力で動くものではない。臣下が働き、兵が戦い、民が支え、皇帝はすべてを束ねて決断する。その仕組みをネロは理屈では誰よりも理解している。
それでも、理解と感情は一致しない。夜の闇が彼女の心に冷たい不安を呼び起こす。
「余は本当に――自分自身の足で、この玉座に立っているのだろうか?」
祝祭の音がさらに遠のいたような気がした。
藤丸は、逃げることなくネロの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……誰かの力を借りたからって、今そこに立っているのが自分じゃないことにはならないよ」
気の利いた答えではない。それでも藤丸は、言葉を探しながらゆっくりと紡ぐ。
「俺だって、マシュやみんながいなかったら何もできない。ここまで来る前に、とっくに倒れてる。だから、誰かの助けを借りること自体が間違いだとは思わない」
ネロの翠の瞳が、僅かに揺れた。遠い歓声が、二人の間に落ちた短い沈黙を埋める。
「だけど、力を借りることと、自分の選択を誰かに預けることは別じゃない?」
藤丸は自身の立場を思い返しながら、はっきりと告げた。
「誰と一緒に進むのか。何を守るのか。どこで立ち止まらず、何を見捨てないのか。それを決めたのはネロだ」
「母親と戦うことも、ボロボロになってローマへ戻ることも、逃げずに皇帝として立ち続けることも。俺たちは手を貸したけど、決断したのはネロだよ」
ネロが一度だけ、小さく息を呑む音が聞こえた。
「だから、カルデアの力で玉座に戻ったとしても、ネロが誰かに立たされただけの皇帝になるわけじゃない、って思うかな。なんて…」
静寂が降りた柱廊で藤丸の言葉がゆっくりと溶けていく。
ネロは瞬きすら忘れたように藤丸の顔を見つめていたが、やがてふっと息を吐き出し、微かに口角を上げた。
「……そなたは、余が一番抉ってほしいところへ真っ直ぐ剣を突き入れてくる」
「いや、そんな格好いいことは言ってないよ」
「ふっ、ならば木剣くらいにはしておいてやろう」
ネロは小さく笑いながら、背後の大理石の柱へとトスンと背中を預ける。
昼間の通りでも、演壇の上でも、民衆の前では絶対に見せることのない、無防備な少女の姿を。
「……今夜くらいはな、ただのネロという女の子でいたいと思ってしまったのだ」
彼女の吐息が届くほど、二人の距離が近い。
「ローマのためでも、民のためでもない。一人でいたくないと思ってしまった。だから、すべての人間を遠ざけ、そなただけをここに呼んだのだ。ちゃんと人払いをして、偶然を装って近づいたのだぞ?」
潤みを帯びた翠の瞳が藤丸を射貫く。
夜気の冷たさの中に、甘く妖艶な香油の匂いが漂う。柱へ預けた肩から、彼女の確かな体温が伝わってくるようだった。言葉を発する前の震えるような呼吸の音が、耳元を掠める。
「藤丸。そなたの隣にいる時だけは、自分が冷酷な怪物ではなく、母を切り捨てた大罪人でもなく、完璧な皇帝でもなく……血の通った一人の人間でいられる気がするのだ」
「今夜だけでよい。偉大な皇帝でも勝者でもなく、一人の無力な女としていられる場所を……そなたの胸の隣へ、置いてはくれぬか?」
それは、孤独と、依存と、好意と。色んな思いが複雑に混ざり合った、あまりにも切実な告白。
藤丸はすぐには答えを出せなかった。
冷たく拒絶したいわけではないし、彼女を一人で帰したくはなという気持ちもある。ここで拒絶すれば、彼女を深く傷つけることになると分かっている。その感情を認めている自分がいる。
それでも、彼の中には、どうしても曖昧にできない一線があった。
「……一人でいたくない、寂しいって思うのはおかしくないよ」
藤丸は、懸命に言葉を探しながら答えた。
「俺だって、一人が怖くなる夜はある。だから、ネロがそう思うのは当然だと思う」
藤丸は、彼女の孤独を決して否定しなかった。民衆に愛されているから寂しくないはずだなどという、暴力的な理屈を押し付ける気はない。
「でも、だからこそ……その寂しさだけを理由に答えを決めたくないんだ」
ネロの肩が、びくっと跳ねる。
「俺には、帰らなきゃいけない場所がある。マシュや仲間たちがいて、カルデアのみんなが待ってる。やらないといけないことを終わらせるまで、俺はそこから逃げることはできないんだ」
「ネロを放っておきたいわけじゃないよ? ネロはもう、俺たちにとって通りすがりの他人じゃないから。大切に思ってる。だからこそ、同情や孤独を埋めるためだけに関係を決めることは良くないと思うなって」
静寂が落ちる。
一瞬の沈黙。翠の瞳が激しく揺れ、かすかな呼吸の乱れが、彼女の痛みを物語っている。
しかし、彼女は泣き崩れることも藤丸を大声で責め立てることもない。強引にすがりつくことも、不機嫌になって敵意を向けることもない。
やがて彼女はゆっくりと顔を上げ、艶やかに濡れた唇の端に、いつもの愛らしい強がりの笑みを戻した。
「……見事に振られてしまったな。余の生涯でも滅多にない珍事であるぞ」
「ごめん」
「謝るでない。そなたがそう答える男だからこそ……余はそなたを認めたのだろうな」
彼女は柱から背を離し、再び光り輝く広場の圧倒的な灯火へ視線を向けた。
その横顔の奥には、母との間に刻まれた傷も、ヘリオガバルスへ抱いた複雑な感情も、そして今、藤丸に拒絶された痛みも生々しく残っている。数分間の会話で、すべてが綺麗に解決するはずなどないのだ。
それでも彼女は立ち止まらない。
「余もまた、我が戦場へ戻る。ローマ皇帝は息をつく暇もないほど多忙なのだ」
「文句を言いながら、全部やるんだろ?」
「当然である! 余を誰だと思っておるのだ!」
ネロは皇帝の顔へと戻り、誇り高く胸を張った。
鮮烈な赤い外套が翻り、祝祭の黄金の光が溢れる広場へ向かって歩き出していく。
遠くから、民衆が皇帝の名を呼ぶ声が聞こえてくる。ネロは完璧な笑顔で、優雅に右手を掲げてみせた。
藤丸は、誇り高き小柄な少女が、圧倒的に巨大な皇帝として光の中へ戻っていくその背中を、静かに見送った。
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元の木陰へ戻ると、待機していたマシュが小走りで駆け寄ってきた。
「先輩……!」
「大丈夫。ネロは、俺が思っていたよりずっと、自分の足で立ってたよ」
マシュは藤丸の言葉を聞き、それ以上何を話したのかを詮索することはない。表情に嫉妬を滲ませることもなく、ただ安堵したように藤丸の顔を確認する。
「……そろそろ帰りましょうか」
ネロはローマ皇帝として、自分の場所へ帰った。
藤丸もまた、カルデアのマスターとして、自分の場所へと帰るのだ。
二人は並んで歩き出し、熱狂する祝祭の広場を後にした。
接収邸宅への帰り道。重厚な鉄門をくぐり、静まり返った中庭へ足を踏み入れる。
止まった噴水の水盤の底に、遠いお祭りの赤い火の色がぽつりと映り込んでいる。水などないはずの底で、その赤い光だけが不気味に揺らめき続ける。
遠くの街からは、まだ終わらない祭りの歌声が微かに聞こえている。
「おかえりなさい、先輩」
「……ただいま、マシュ」
藤丸は自室へ戻り、寝台へと横になった。
目を閉じると、二つの声が耳の奥で蘇る。
昼間に聞いた、レディ・アヴァロンの掴みどころのない、それでいて不吉な意味深な警告。
そして、暗い柱廊の陰で聞いた、ネロの切実な声。
考えはまとまらないまま、深い疲労だけが全身を包み込んでいく。
扉の向こうの回廊で、マシュが静かに灯火を落とす音が聞こえた。
夜の帳が_________降りてくる。