マシュ・キリエライトしか分からない   作:ats376

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第15話 「黄金の夢」

ゆっくりと重い瞼を閉じる。

寝台の心地よい柔らかさが、霧のように遠のいていく。

灯火の落ちた部屋は恐ろしいほど静まり返っている。マシュが最後の明かりを落とした、衣擦れの音だけが耳の奥に残っていた。

 

眠気の底へ沈んでいく意識の中で、ネロの声がゆらゆらと揺曳する。

 

――そう答える男だからこそ……余は、そなたという人間を心の底から認めたのであろうな。

 

言葉に続くはずの彼女の胸の内は、いくら手を伸ばしても掴み取れなかった。

夜風に翻る赤い外套。冷たい大理石の柱。寂しさを隠す強がりの笑み。そして背を向け、きらびやかな広場へ戻っていった背中。

夢の中でその背中を必死に追いかけようとして――藤丸の意識は、底なしの暗闇へと墜落した。

 

次にハッと目を開けた時、そこを埋め尽くしていたのは不気味なほどの金の世界。

 

「……っ、ここは……?」

 

足の裏から、頭が痛くなるような鋭い冷気が伝わってくる。

寝ていた温かい寝台の上ではない。毛布も水差しも消失し、どこまでも長く続く見たこともない巨大な柱廊の真ん中に立っていた。

眩い黄金の柱、磨き上げられた大理石の床、天井から垂れ下がる巨大な赤い幕。

……見覚えはある。ネロと歩いた宮殿の回廊のようであり、広場の演壇のようでもあった。

 

――これは、夢だ。さっき寝ようとしていたじゃないか。

そう自覚して頬を叩いていると、柱廊の遥か奥から、視界を焼き尽くすような鮮烈な『赤』が滑り込んできた。

 

「ネロ・クラウディウス……!?」

 

そこにいたのは間違いなく彼女。

真紅の艶やかな衣。輝くばかりの金髪。内側から爛々と輝く翠の瞳。

玉座の肘掛けに指を置き、顔にかかる前髪を払う優雅な仕草まで、藤丸の知る彼女と恐ろしいほどに酷似している。

 

「ふっ、ようやく来たか、我が最愛の男よ」

 

「世界で一番美しいこの余をここまで待たせるとは、実に罪深い男よな。……まあよい。そなたが必ず来ると分かっていれば、待つ時間も悪くはない」

「ネロ……本当にネロ? なんで俺の夢に……。はっきりしすぎてる、どうなってるんだ?」

 

「くはは、他の誰に見えるというのだ? 余はな、そなたが眠りに落ちるのを今か今かと待ち侘びていたのだぞ。現の身体というやつは、国だの民だのといった余計な邪魔者を抱え込みすぎてしまうからな」

 

彼女は妖艶に微笑み、玉座から腰を上げた。

真紅の裾が、階段を滑るように降りてくる。布が擦れる音はしない。空間の距離だけが不自然にグニャリと縮まっていく。

本能的な危機感から半歩退がろうとすると、踵が段差にぶつかった。気がつけば背後には、行き止まりの黄金の柱がぴったりとそびえ立っている。

 

「待っていたって……一体どういう意味?」

「言葉通りの意味だぞ? 藤丸。そなたは疲れ果てている。カルデアのために戦い、人理のために迷い、今夜はこの余の醜い涙と弱音まで見せつけられてしまった。……ふふ、本当に律儀で、どこまでも優しい男だな。だからこそ今夜は――そんな健気なそなたに、余が直々に最高極上の褒美で報いてやろうと思ってな?」

 

白く細い指先が、胸元へと愛おしげに伸びてくる。

反射的に顔を逸らして拒絶しようとした刹那。

指先が顎の下へ滑り込み、クイッと上向かせるように捕らえた。

 

「余だけを見よ。そなたのその美しい瞳のすべてを、余のためだけに捧げるが良い」

 

鼓膜がとろけそうなほどに甘く、淫らな声音。

顎を固定する手を力ずくで掴み剥がそうとしたが、それより早く、彼女は一歩踏み越え、胸元へと全身で滑り込んできた。

ドン、と藤丸の背中が黄金柱に叩きつけられる。冷酷な金の表面が、服越しにじっとりとした異様な熱を帯び始めている。

 

姿を見下ろした藤丸は、激しく息を呑んだ。

 

彼女のまとう真紅の衣――それは透き通るようなシースルー仕様であり、下には何一つ身につけていなかった。

隙間から露わになる、吸い付くような白さを誇るみずみずしい裸身。

身体を押し付けてくるたび、服の下に隠された驚くほど豊満で柔らかな双丘が、藤丸の胸板へダイレクトに押し潰されて形を変えていく。

 

「なっ……!? お前、その格好……っ!」

「ふふ、何を驚く? 鬱陶しいローマの秩序も、カルデアの使命も、目障りな盾の娘も、お前が還るというあの場所も……今夜この夢の帳の中においては、綺麗さっぱり忘れ去るが良いぞ?」

「マシュまで……っ、いい加減にしろ!」

「――余の前で他の女の名を呼ぶな」

 

声から甘さが消え、ゾッとするような冷酷な温度へ変貌した。

 

「今夜この場所でお前を抱き潰し、すべてを貪るのはこの余だ。熱い視線も、吐き出す呼吸も、狂ったように脈打つ鼓動も――今この瞬間はすべて余のためだけに存在する。余以外の不純な名前を一文字たりとも混ぜるでないわ」

 

ネロの姿をした女は妖艶に微笑みながら、藤丸の手首を逃れられない怪力でガチリと掴んだ。

抵抗する掌を、自らの豊かな胸の真ん中へと力ずくで押し当てる。

 

「あはあ……どうだ? 柔らかいであろう? 素晴らしいであろう?」

 

掌が、吸い付くような美乳の柔らかさの奥底へ深く沈み込む。

彼女は藤丸の手のひらを胸に押し付けたまま指を動かさせ、豊かな双丘を激しく揉み込ませて翻弄する。

完全なる生身の圧倒的な肉感と、手のひら全体を包み込む暴力的な柔らかさ。

熱い吐息が首筋へ吹きかかるたび、豊かな胸の先端の突起が掌の真ん中でコリッと硬く形を変えていく。

 

「さあ、もっと余のすべてを貪り、繋がりを強固なものにするが良い……。今宵は朝が来るまで、余のこの熱い身体を、そなたの誠実な優しさで塗りつぶしてくれ……」

 

香油の甘い匂いと少女の体温が、理性を削り取っていく。

暗い柱廊の陰で向き合ったネロにも、確かにこれと同じ熱と匂いがあった。

 

だが――目の前の女は藤丸の返事など待とうとしない。

拒絶の沈黙などハナから許していない。

思考の時間そのものを、過激な色仕掛けと胸に押し当てた掌の圧倒的なエロティシズムでドロドロに溶かし、撫で消そうと襲いかかってきている。

 

「そなたは本当に頑なだな。誰も彼もを抱え込み、戻るべき場所を口にし、己の引いた一線を守ろうとする。……ふふ、その童貞染みた硬さは嫌いではないが、今の余にとっては少々邪魔な障害物だな」

「……やめろ……っ!」

「おや、嫌か?」

「――嫌だ! 触るな!」

「くははは! では、その嫌がって歪んだ最高に愛らしい顔から、まずは余のすべてで美味しく戴いてくれよう!」

 

女の笑みが三日月のように深く、不気味に裂けた。

 

――違う。

昨夜、俺の前にいた本物のネロ・クラウディウスは、絶対にこんなことはしなかった。

 

彼女は寂しさに震え、一人でいたくないと縋ってきた。夜の誘いを投げかけてきた。

けれど――藤丸が不器用に一線を守り、拒絶したその瞬間。どんなに傷つきながらもピタリと踏みとどまってくれたのだ。

胸を引き裂かれる痛みを隠しきれない顔のまま、最後には皇帝の笑みを浮かべ、愛する民たちの待つ光の海へと戻っていったのだ。

 

目の前にいる怪物は止まらない。

拒絶の言葉をぶつけるほど愉しむように距離を詰める。息を詰めて顔を背ければ、逃げ道を塞ぐように唇の距離をゼロへ引き詰めてくる。

 

「……お前は……違う……ッ!」

「何が違うというのだ、我が最愛の男よ」

「本物のネロなら……嫌といえばそこで終わりにする人だ……! あの人は、どれだけ寂しくたって、俺の逃げ道や意思まで力ずくで奪うような真似は絶対にしない……!」

 

渾身の叫びを聞いた瞬間、彼女の動きが完全に停止した。

美乳へ無理やり押し当て、揉み込ませていた強欲な手の力が消える。

 

「……逃げ道、か。ああ、なるほど。あの哀れな女は、どこまでもそんな無駄な余地を相手に残してしまうのであったな」

 

ホールの深い場所から、重厚な金属が激しく軋み、歪んでいくような不快な音が響き渡り始める。

 

「――あの女、だと……?」

「心底欲しがりながら、相手の返事をただ健気に待つ。縋りつきながらも、拒絶されるための余地をわざわざ残してやる。……フン、実に愚かしく、反吐が出るほどにまどろっこしいわ! 己が手に入れたい至高の存在を前にして、なぜ膝を折り、相手の顔色を窺って返事を待つ必要などあるのだ?」

 

翠の瞳の奥底から、ドロリとした底知れない悪意が急速に混じり合っていく。

 

「余は待たぬ。欲しいものがあるならば、この強欲な両手を限界まで伸ばして毟り取るのみ。そなたが元の世界へ帰るというのであれば、その帰るべき場所ごと無惨に噛み砕いて奪い去ってやろう。誰かを守るというのであれば、その腕ごとへし折って、余のためだけに血を流して使わせてやろう。……もし余を拒むというのであれば、その生意気な拒絶の叫び声のすべてを、余という絶対の存在によってドロドロの肉の海へと塗り替えてやるわ!」

「ネロの……ネロの顔を使って……そんな醜いことを、言うな……ッ!」

「くははは! まだそんな偽物の残像に縋りつくか! ならば――もっとよく、余のこの真実の姿を見るが良い!」

 

艶やかな唇が、再び藤丸の唇へと急接近する。

あと一ミリでも動けば触れ合う寸前。

両手首は黄金の柱へと押さえつけられ、足元を見遣れば、床から這い上がってきた赤黒い肉が両足へドロドロに絡みつき、自由を奪っている。

最悪の夢だと分かっていても、肉体は何一つ動かせない。

 

「余はそなたのような無力な人間を慰めに来たのではない。哀れみを持って慰められに来たのでもない。……余はそなたのすべてをこの奈落へと堕とし、余の絶対の肉体の内側へと永久に繋ぎ止めるために呼んだのだ。そなたの持つくだらぬ誠実さも、安っぽい優しさも、還るべき大切な場所も――すべて余の悦びのために、無様に崩れ落ちるが良い!」

 

ズズズ、と黄金の床が不気味に鳴動する。

眩かった表面に、ガラスが割れるかのような無数のひび割れが走る。

細い裂け目の奥底から禍々しい赤黒い光がドクドクと滲み出し、脈打つ巨大な血管となって床一面を走り回る。柱の金箔がボロボロと剥がれ落ち、剥き出しになった奥側から、生き物の肉のようなじっとりと濡れたピンク色の肉壁が覗く。

気高き彫刻は顔を失い、月桂冠も、誇り高き獅子のレリーフも、意味の分からないドロドロとした醜悪な輪郭へと溶け落ちていく。

 

黄金の玉座の背後が、巨大な肺のように不気味に膨らむ。

広間そのものが、一つの巨大な『怪物』として息をしている。

 

「お前は……本当は……誰なんだ……っ!」

「決まっているであろう? 余は、ネロだ」

「違う……ッ!」

「くははは! ならば――『暴君』とでも、その恐怖に震える口で呼ぶが良いわ!」

 

その名が空間へ落とされた瞬間。

赤黒くひび割れた床の裂け目から、この世の終わりを告げるかのような巨大な影が次々と立ち上る。

 

一つ。二つ。

数をカウントし終えるよりも早く、一気に六つの巨大な輪郭が顕現する。

 

凶悪な獣の顎に酷似した影が、黄金柱の陰からヌッと首を覗かせる。巨大な竜の首のような影が、玉座の背後を這いまわるように蛇行する。棘を生やした巨体が高い天井をガリガリと擦り、もう一つも大理石を削り上げる。

残りの二つは明確な形を定めることなく、不気味な赤黒い濁流のまま、左右の視界のすべてを完全に埋め尽くしていった。

 

怪物は決して咆哮を上げない。威嚇の唸り声一つ上げない。

ただ冷酷に、静かに藤丸の元へと近づいてくる。

 

人類最後のマスター。その全てを奪うために。

 

 

□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 

 

そんな悪夢の極致に、一枚の白い花弁が舞い落ちる。

嵐に投げ込まれた羽毛のように、儚く薄い一枚。

 

――だが。

 

藤丸の足元を締め上げていた赤黒い肉の筋が、白い花弁に触れた瞬間、パチィィン!と激しい音を立てて弾け飛んだ。

 

 

「はいはい、そこまでそこまで! 夢の中とはいえ、ちょっと強引が過ぎるんじゃないかなぁ、お嬢さん?」

 

メリメリと音を立て、歪んだ黄金の壁に裂け目が走る。

純白の衣をまとった女性――レディ・アヴァロンが、その裂け目の向こうから優雅な足取りで歩いてきた。

ネロの赤い凶光を受け、足元に咲き乱れる花々は広がる端から黒く燃え尽きていく。それでも彼女の歩みは止まらない。昼間の大通りで見せた人懐っこい笑みを浮かべているのに――瞳の奥に光はない。

 

「レディ・アヴァロン……っ!」

「うんうん、お待たせ! ギリギリセーフ。難しい説明はぜーんぶ後回し。今はとにかく、君をこの最悪の檻の外へと連れ出してあげる!」

「――余の邪魔をするか、小癪な夢魔風情が。そんな安っぽい花の香りで、余の構築したこの絶対の檻を壊せると思うな!」

「あはは、確かにこれを力ずくで壊すには、今の私じゃちょっとパワーが足りないね。……だからさ、今回は壊すんじゃなくて――鮮やかに盗み出すことにするよ!」

 

「……何をだと?」

「決まっているじゃない。――この、可愛い藤丸君をさ!」

 

レディ・アヴァロンが真っ直ぐに手を伸ばす。

無数の花弁が嵐のように吹き荒れ、藤丸の両手首の拘束を一つずつ強引に剥ぎ取っていく。

 

「走れる!? 藤丸君!」

「足が……っ、肉の筋に絡まれて、感覚が……っ!」

「オッケー、じゃあ――引っ張る!」

 

藤丸の返答を待たず、レディ・アヴァロンは細い手で藤丸の腕を力強く掴んだ。

 

その瞬間、ガバァァッ!と、空振りに終わった巨大な顎が虚空を噛み締める。荒れ狂う魔力の影が残された花々を消し去り、二人がいた空間の裂け目へと牙を立てるが、それは空を切り失敗に終わった。

 

奈落の底から、藤丸の引き剥がされていく足元へ執念深く幾本もの手が伸ばされる。

ネロの背後の暗闇には――先ほどの六つの怪物など比較にならないほど、圧倒的に巨大な何かの影が不気味に蠢く。

 

 

「――逃がさぬ……絶対に逃がさぬぞ、カルデアのマスター……!」

 

呪詛のような叫び声が精神へ直接流れ込んでくる。

 

「仮にこの夢から目覚めたとしても……その目覚めた先の地獄においてすら、余の爪痕を永久にお前の身体に刻み残してやるわ……!」

 

ドクン!

藤丸の胸の奥底が、火を放たれたように激しく焼け焦げた。

あまりの苦しさに絶叫を上げようとしたが――声帯から飛び出すより早く、レディ・アヴァロンの手のひらが視界を優しく覆い隠す。

鼻腔を突き抜ける強烈な花の香りが世界を満たし、赤と金に染まっていた最悪の地獄が一瞬にして純白の光によって塗り潰されていく。

 

奈落の底へ落ちているのか、現実の世界へ引き上げられているのか。感覚が狂って分からない。

ただ、背骨の内側の神経から一本の強固な糸を引き抜かれているような――奇妙な喪失感だけが永遠のように続いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて――肺の奥深くに、現実世界の新鮮な空気が流れ込む。

静かな寝台の上で大きく息を吸い込んで跳ね起きた。

 

「がはっ……ッ、はぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 

寝具を弾き飛ばし、藤丸の身体が寝台の上で跳ね起きる。

全身は冷水を浴びせられたように、冷や汗で濡れそぼっていた。

 

狂ったように上下する胸元を右手で強く押さえる。刃物で付けられた傷もなければ、血が一滴すら流れているわけでもない。

 

だが、手首の周りには確かな違和感がある。

端末の明かりにかざすと、そこには薄っすらと赤黒く変色した『掴まれた指の形』にそっくりな肉の跡が、現実の皮膚の上に刻み残されていた。

 

「……はは、クソ。……ただの最悪な悪夢じゃ、済まないやつだったのか……っ」

「うん、紛れもない夢だよ。……ただね、夢だから現実の肉体は安全っていう都合の良いルールが、あの手合いの怪物には一切通用しないっていうだけの話さ」

 

窓辺から、今この瞬間もっとも聞きたかった女性の声が返ってきた。

 

藤丸が視線を向けると、レディ・アヴァロンが腰掛けている。

片手をアンティークな窓枠に預け、中庭を背にしている。この部屋に存在しているはずなのに、身体の輪郭だけがホログラムのように薄く透けて見える。白い肩から零れ落ちた一枚の花弁は、床板に触れる直前で光の粒子となって消滅した。

 

「無事に目を覚ますことができて本当に良かったよ、藤丸君。……もしあのまま、もうあと一歩あの子の欲の奥深くまで噛み込まれていたら――君の精神が粉々になっちゃうような手段を取らざるを得ないところだったからね」

「……それ、心臓がバクバク言ってるタイミングでは一番聞きたくなかったな……」

「いいや、絶対に今聞いておいた方がいい。今夜君へ仕掛けられた接触は――君のマスターとしての命が、一瞬で終わっていてもおかしくないくらい危ないものだったんだよ」

 

藤丸は震える身体を宥め、寝台の縁へ座り直す。

乾ききった喉を潤そうとサイドテーブルの水差しへ手を伸ばすが、指先が震え、水は縁からこぼれ落ちて寝具を濡らした。

残った水を強引に流し込んでも、胸の奥底で燻り続ける不快な熱は引く気配を見せない。

 

「……あれは、やっぱりネロじゃないんだよな?」

「うん、当然さ」

「でも……あの夢の中にいたあいつは、完璧にネロの顔をしてた。声だって、匂いだって、俺の手を掴んできた皮膚の温度だって……何から何まで、本物と全く同じだったんだよ」

 

「君の心の中に強く残っていた彼女に対する印象や記憶の残像を、向こう側に都合のいいゲートとして利用されちゃったんだよ。君の場合、つい数時間前に本物の彼女の切実な弱音や体温と真正面から向き合っちゃったばかりだろう? ――精神の防壁が一番柔らかくなっている瞬間なんだから、向こうからすればこれ以上ないくらい入り込みやすかったに決まっているさ」

 

薄赤く残った手首の掴み跡を親指で強く押し込めば、ズキリと鈍くリアルな痛みが神経を通って脳へ返ってくる。

 

「……本物のネロは、止まったんだ。俺が断ったら、どんなに寂しくたってちゃんと踏みとどまってくれたんだよ」

「だからこそ、君はあの夢の中で、あの子の正体を見分けることができた。それは本当に君の持つ何よりの強みだよ」

「あいつは……あの怪物は、絶対に止まらなかった。俺がどれだけ嫌だって叫んでも、拒絶しても……最初から、俺の選ぶ意思なんて一文字も聞く気がなかったんだ」

 

レディ・アヴァロンは窓辺からトスンと床へ降り立った。

古い床板が、現実の質量を持って小さくギチッと音を立てる。その物理音を聞いて、藤丸は現実の世界に戻ってきたことをようやく少し信じることができた。

 

「あの子の名前は――『ドラコー』。今の君は、ただその名前だけを頭の片隅に刻み込んでおけばそれでいい。あの子はネロの持つ人間らしい弱さを真似て君に縋り付いたわけじゃない。ただ単に、君にとって一番効き目のあるネロという最高の仮面を都合よく使って、君のすべてを奈落へと堕としに来ただけさ」

 

「俺を……堕とす……?」

「そう。力ずくで首を跳ねて殺すよりも、何百倍もエグくて面倒くさいやり方でね。君が積み上げてきた誠実さ、人理の使命、理不尽に対して嫌だと叫ぶ拒絶の力。……そういう気高い要素のすべてを、お色気たっぷりの過激な色仕掛けと甘い誘惑によってドロドロに溶かして、自分という巨大な存在の内側へ都合のいいパーツとして取り込もうとしたんだよ。まぁ、それは序の口だろうけどね。前科あるし」

 

 

藤丸はたまらなくなり、パジャマの布地を拳で強く握りしめる。酸素が足りなくなり、呼吸がどんどん浅く短くなっていく。

彼女は藤丸のすぐ近くまで歩み寄り、痛む胸元へ手元から白い花弁を一枚、優しく落とした。

冷たい清涼感が布地を透過して広がり、皮膚の奥で暴れ狂っていた熱の輪郭が少しだけぼやけて大人しくなる。

 

「……完全には、消えてくれないのか?」

「これを今この場所で無理やり引き剥がそうとしちゃうとね、その凄まじい衝撃が精神のパスを伝って、向こう側のドラコーに一瞬でバレちゃうんだよ。だから今はこれが限界。朝の光が昇るまでの間、この熱が暴れ出さないように上からフタをして塞げれば、ひとまずは合格点さ」

「朝まで……か」

「うん。その頃になれば君の仲間たちも目を覚ます。私からも、みんなに対して今回の件をきっちりお話ししてあげるよ。……まぁ、世界のすべてを話すわけにはいかないけれど、君たちがこれから戦うために必要な分の情報はね」

 

「……六つ、いたんだ。夢の広間に、赤黒い巨大な怪物の影がさ」

「へぇ、そこまでちゃんと観察していたんだね」

「ああ。全然違う柱の陰とか天井から別々に出現したはずなのに……根っこの部分だけは全部同じに見えたんだ」

「うん、その見え方で100点満点、大正解さ。あれらは独立した個別の怪物というわけじゃなくてね。言ってしまえば、ドラコーという一つの巨大な存在から生えている、『手』のようなものさ。獲物を掴む手、囲い込む手、奈落へ引きずり込む手。……それぞれ役割こそ違えど、還っていく戻るべき先はぜんぶ同じ一つなんだよ」

 

「……あいつらがこのローマの地上にも出現してくるってことはあり得る?」

「大いにあり得るね。というか、今夜君に仕掛けられた最悪な夢の接触は――単なる嫌がらせなんかじゃなくて、これから始まる本番への明確な宣戦布告なんだから」

 

「……みんなを起こして、話してくる。今すぐ、全員をここに――」

「だーめ。今の君の真っ青に変色した顔のまま部屋を飛び出したら、夜間警備をしてくれているマシュが心配のあまりひっくり返っちゃうよ? まずは深呼吸をして、残ったお水をゆっくり飲むこと。……お話をするなら、ちゃんと夜が明けて、太陽の光が昇ってからにすればいいさ」

 

「でも……もし今からもう一回眠っちゃったら、またあの赤黒い広間に引きずり込まれるんじゃ……」

「可能性としては否定できないかな。だからさ、今夜はもう部屋の灯火は消さないでおくこと。もしどうしても怖くて目を閉じちゃうなら――隣の部屋から、大切な誰かの確かな息遣いや気配がちゃんと届く場所でね。それにこうして私が側に居るから」

 

藤丸は自室の頑丈な木製の扉へ視線を走らせた。

廊下の向こう側は静まり返っている。隣の部屋ではマシュが明日への戦いに備え、健やかな寝息を立てて休んでいるのだろう。

たしか、見張りはサーヴァントの誰かと交代の時間のハズだ。

 

 

「そんなに焦らなくて大丈夫だよ。君はちゃんと、あの地獄から生きてこっちの世界へと戻ってきたんだ。今は生きているっていう事実を、君自身の肉体へと時間をかけてゆっくり分からせてあげることの方が遥かに先決さ」

「……分かった。……助けてくれてありがとう。レディ・アヴァロン」

「うん。その可愛いお礼の言葉は今のうちに受け取っておくよ。もっとも、今夜の私のしたことなんて、ドラコーから君を助け出したというよりは、夢魔としてのプライドにかけて、泥棒から君を鮮やかに盗み返したっていう方が正しいんだけどね?」

「あはは……それでもさ。俺にとっては命を救われたことには変わりないよ」

 

彼女がクスリと笑うと身体の輪郭が急速に陽炎のように薄れていく。

窓の外の深い夜の闇と、部屋の中の濃厚な暗がりのちょうど境目へと、彼女の姿が溶け去るようにして遠ざかる。

 

「朝になって余力があれば、私は君たちの前にもう一度最初から正々堂々と登場してあげるよ。マシュちゃんたちにはね――ネロを模した得体の知れない怪物に夢の中で襲われたこととか、それを私が間一髪で引き剥がして救ったこと。……その点だけをありのままにお話しして。そこから先の面倒くさい名前の伏線回収は、私の方から上手いこと出してあげるからさ」

 

「分かった。頼むよ」

「それとね、藤丸君。――これから先、もしも現実の世界で、あの夢の中と同じ存在が君の前に現れたとしても……絶対に、昨日と同じ場所だけは見つめちゃダメだよ」

「同じ場所……? 一体どこのことを?」

「――君のその底切れない優しさのせいで、どうしても目を逸らすことができなくなっちゃう、あの子の決定的な傷口のことさ。怪物はいつだって、君のその一番綺麗な心の隙間を狙って、冷酷に手を突っ込んでくるんだからね」

 

言葉の真意を問い返そうと唇を開くよりも早く、レディ・アヴァロンの姿は夜風の残響とともに完全に世界の彼方へと消失した。

 

残された静かな部屋には、テーブルの上でパチパチと揺らめく頼りない灯火の光だけが残されていた。

藤丸はしばらくの間、自分の左手首に残された赤黒い掴み跡を見つめ続けていた。

時間の経過とともに、色はほんの少しずつ薄くなってきているようにも思える。……けれど、どれほど強く擦ってみても、完全に消え去ってくれることはない。

 

 

朝になったら真っ先にマシュのところへ行って、今夜の出来事のすべてを話そう。

心の中でそう強く、何かの誓いのように繰り返し決意しながら――藤丸は、朝を連れてきてくれるはずの小さな灯火の揺らめきをじっと見つめ続けるのだった。

 

 

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