同じ夜のこと。
地上ではいまだ勝利の狂熱が冷めやらない。
だが人々の喧噪も、夜を彩る月明かりも灯らない地下はそうした熱狂とは無縁である。
松明の灯火は心許なく、油を含んだ布、壁に打ち付けられた鉄具の上で細々と燻ぶっている。
その頼りない橙色の光だけが這うようにして石床を舐め、床の継ぎ目には黒ずんだ湿り気が不浄の色彩で紋様を描く。
アグリッピナはその陰惨な地下通路をひた歩く。
高貴な衣の裾は乱れず、その姿からは今だ自信は失われていない。しかし失ったものはあまりにも多い。
軍勢も、盤面も、手駒も、己が頑なに信じていた未来さえもが大きく崩れ去った。
――それでも。最後にこの手で掴み取るべき結末はまだ残されている。そう信じる限り、彼女の足が止まることはないのだから。
「随分と奥まで連れてくるのね。ここまで来なければ切れない札だというのなら、相応の価値があるのでしょう。いいわ。表の愚者たちが勝ったつもりで酒に溺れている間に、この盤面を完全にひっくり返せるというのなら安いものよ」
彼女の背後、一歩遅れて歩むのはヘリオガバルス。
どことなく落ち着きのない様子を見せて、その不安は視線にも表れている。松明が揺らす不気味な影を見るたびに、怯えたように背後の階段を振り返る。もはや戻れる距離ではないと自覚するたび、その華奢な肩がわずかに強張っていく。
「ねえ、ロクスタ。念のために聞くんだけどさ――ここって本当に僕が来る必要ある場所?」
先頭を行くロクスタが、ふっと振り返る。
彼女の顔には笑みが浮かんでいる。不気味な地下にあっても表情に曇りはない。
「もちろんですとも。ここまで来ていただかないと困ります。――最後の舞台には、相応の役者が必要でしょう?」
「役者、ね」
「その言い方、あんまり好きじゃないな。僕は飾りで呼ばれたわけじゃないんだ。……皇帝として立つために、ここに召喚されたんだ」
「ええ。そう信じていただく必要がありました」
ロクスタは歩みを止めない。が、その言葉のトゲにアグリッピナの声が一段と低くなる。
「……今、何と言ったの」
「信じていただく必要があった、と」
ロクスタは肩越しに二人を見返した。愛想の良い笑みは崩さない。しかし、その目はまるで別の部屋から硝子越しにこちらを眺めているかのように冷たく遠い。
「アグリッピナ様にも、あなたにも。そうでなければここまで綺麗に事は運びませんでしたから」
「……あなた、自分が誰の前に立ち、どんな立場で物をも言っているのか分かっているの?」
「分かっていますよ。私はあなたの部下だったんですよ? よ~く理解してますよ」
ヘリオガバルスが、戦慄いて一歩下がる。
その背にぬらりとした影が触れかけた。灯火の届かない不気味な壁際で、黒い湿り気がわずかに鎌首をもたげるように盛り上がっているのかと幻視してしまったのか、今度は悲鳴を噛み殺して慌てて前へと飛び退いた。
「じょ、冗談なら今のうちに言っておいた方がいいよ。僕、こういう暗い場所で悪趣味な種明かしを聞かされるの、本当に嫌いなんだよ…」
「冗談なら、どれほどよかったでしょうかね?」
不意に通路の先が広く開けて巨大な地下室へと辿り着く。
天井は異様に高く、朽ちかけた古い柱が何本も立ち並び、壁の棚や割れた壺の影が闇の中に不気味に整列している。
その中に歪みようにねじれるようにうねる魔力の塊が一つ。
「これがあなたの言う最後の駒なのね? 少し予定は狂ったけれどそれでも最後の札はまだ残っているなら巻き返しは利くはずよ、私はそう考えているわ」
「ええ、形にはなりますよ。もっとも、その形がアグリッピナ様の望んだものとぴたりと一致するかはちょっと怪しいところですけどね、世の中そんなに綺麗に回らないので」
「回るわ。ここまで回してきたのは私だもの。今さら誰かの都合で話が終わるなんて許さないし、その程度で止まるなら最初からこんなところまで来ていない」
きっぱり言い切るアグリッピナに対し、ロクスタは否定も肯定もしない。ただ、わずかに笑みを深めたその様子がヘリオガバルスの背中へ冷たいものを走らせる。
「…ねえ、これってさ。本当に僕が必要で呼ばれたんだよね、そういう話だったよね。少なくとも今までは」
「ええ、もちろんよ。あなたは最後に残るべき器であり、私が皇帝として立たせるための存在でもある。ここまで来た以上、その役目は明白でしょう」
「それがですねえ、違うんですよ。違うというより、最初からそういうふうに見せられてただけで。本当の意味では、いてもいなくてもあまり変わらなかったんじゃないかなあって」
「……なにを言っているんだ、ロクスタ? いまさらそんな冗談なんて」
「冗談ならよかったんですけどね。けど、もう足りてるんですよ、あの方に必要な数も、力も、何もかも。だからあなたは最後の鍵ですらない。役目が終わった後に残った余りものなんです。なんなら最初からいなくてもよかったんですよ」
「あなたは皇帝になりたかった。己の意志で立ちたかった。誰かに担がれるだけの操り人形で終わるのではなく、今度こそ自分で成功したかった。……その歪んだ願いだけは本物だったと思います。だからこそ舞台の上では、せめてそれらしく」
「やめろ……」
「けれど、もうあなたのための席はありません。もういいでしょう?」
「やめろおぉっ!」
引き裂かれたような叫びが地下室の壁に跳ね返る。
ヘリオガバルスの顔からは完全に血の気が引いていた。それでも拳を血が滲むほどに握りしめ、震える身体を無理やり前へと押し出す。
「僕は、ただの器で終わりたかったわけじゃない! そう言ってるだろ! あの時代で笑いものにされて、玩具みたいに扱われて、それで終わったから……! だから今度こそ、皇帝として、自分の足で立ちたかったんだ……っ!」
「ええ。だからこそ、可哀想だとは思います」
「待ちなさい。さっきからいうあの方って? あなたは何を言っているの、誰を見てそんな話をしているのか、今ここで明確にしなさい」
「決まってるじゃないですか。私は最初からネロ様を見てましたよ、あの方がもうこれ以上、苦しみ続けなくて済むなら、それでいいって思ってここまで動いてきたんです。嘘も甘い話も全部そのためでした、アグリッピナ様に夢を見せたのも同じです」
「……私を、利用していたというの?」
「利用というと少し聞こえが悪いですね。私は必要な場所へ必要なものを置いただけです。その結果、ご自分の望む未来を信じてくれたならば手間が省けて助かったというだけですよ」
――その瞬間、室内を満たすように魔力が爆発的に跳ねる。
闇の底から、おぞましい影が文字通り立ち上がる。
その数、六つ。
赤黒い肉の筋から、にょきりと首が伸びる。竜の頭に似た異形、獣の顎に似たもの、棘をまとった長い胴体、あるい_____。どれもが床を這い、柱へと巻き付き、濡れた石の上をしならせながら、同一の深淵へと呼吸を繰り返す。
――魔獣赫。
それは地下室の全空気を物理的に押し潰すようなプレッシャーを放ちつつ、一斉に首をもたげた。
ヘリオガバルスは本能的に逃げようとしたが、既に逃げ場などどこにもない。
彼らは一斉にヘリオガバルスへ群がり、その身体と霊基へ噛みつき、引き裂き、喰らい、奪っていく。
「待って。違う、僕はまだ――あ、がぁっ!?」
もう片方の腕へ、別の首が蛇のように噛みつく。
指先に魔力を集めようとするが、その光が形を成すよりも早く、手首から先が獣の顎の奥へと呑み込まれた。胴体へと肉の筋が容赦なく絡みつき、まるで衣服を剥ぎ取るかのように霊基の輪郭そのものを外側へと引きずり出していく。
「いやだ……! 僕は、まだ何も……何も成してない――!」
その声は途中で無残に裂ける。
足を食われ、胴を割られ、首をもたげた魔獣赫が、残された悲鳴ごと彼を噛み砕く。血が石床を濡らすよりも早く、赤い肉の筋がそれを貪欲に舐め取った。皇帝になりたいと願った少年の最後の熱量までがばらばらに千切られ、赤黒い闇の奥へと沈んでいく。
チリン、と石の上に小さな飾りの音が落ちた。
ヘリオガバルスの衣に付いていた金具。ころりと転がったそれを魔獣赫の長い首が容赦なくかすめれば金具はあっけなく圧潰し、彼のいた痕跡は魔力の塵と成って霧散した。
このような光景を見てもアグリッピナは微動だにしない。
目の前で自身の皇帝候補であったはずの少年が文字通り消滅したのに。彼女は理解を拒んでいる。
人間は追い込まれると、都合良く物事を解釈してしまう。
「……ふん、失敗作を処分しただけね」
「そうよ。あれは所詮、私の願いを満たすことは出来なかった。最後に残るべき本物は別にある。私が本当に望んだものは――」
不意に地下室より濃密な気配が近づいてくる。
六つの魔獣赫が畏れて左右へと退く。這う首が床へと伏せられ、魔力の浪が大気を震わせる。
「ネロ……?」
その名が唇からこぼれ落ちた瞬間、彼女の顔からあらゆる恐怖が綺麗に抜け落ちた。
代わりに差したのは盲目的な安堵。
執着と、歓喜と、――そして「母であること」を人生最後の支えにする女の、あまりにも甘い誤認。
「そうでしょう、やっぱりあなたなのね! やはり、最後には私のところへ来てくれたのね……!」
ロクスタは何も言わずにただ黙殺していた。
アグリッピナは陶酔したように一歩を進める。怪物達は襲ってこない。眼前の巨大な影も彼女を拒絶しない。
だからこそ彼女はそれを至高の許しだと受け取ったのだ。
「私はあなたの母よ! あなたを正当なる皇帝にするために、どれほど多くを整えたと思っているの。あの愚かな者達が道を誤ったというのなら、私が正しい形へ戻してあげればよかったのよ。そうでしょう? あなたは私のネロ。私が玉座へ導いた、私の――」
巨大な両手がゆっくりと降りてくる。
アグリッピナは逃げようともしない。むしろ愛おしげに両手を広げて迎える。幼子を抱き返す聖母のように、その巨大な手へと自らの身体を委ねる。
「ええ……分かってくれるのね」
手は彼女を包み込む。まるで優しく掬い上げるかのように。
アグリッピナの足が、冷たい石床からふわりと離れる。彼女は歓喜に息を震わせて巨大な影を見上げた。その頬には至福の笑みが差している。
救われたのだと、そう確信したのだろう。
母として認められたのだと、最後の最後の局面で、狂信したのだろう。
――そして、指が閉じていく。
「……え?」
ミシリ、と肋骨が圧迫され、背骨が不自然に曲がる。彼女の眉が不審げに動いた。それでもまだ、アグリッピナは最悪の状況を認めようとはしない。両手で巨大な指に必死に縋りつき、唇を震わせる。
「待ちなさい……!! 私は、あなたのために――」
さらに圧倒的な圧搾が増していく。
グシャリと胸郭が潰れ、肩の骨が内側へと容赦なく折れ、首の角度が生物としてあり得ない方向へ傾いた。豪奢な衣の金具が砕け散り、ちぎれた宝石の飾りが肉へと深く食い込んでいく。喉から漏れ出た声は、途中から言葉をなさず、ただの空気の漏れる音へと変わる。
アグリッピナの両腕は体側へと無残に押し込まれ、指は奇妙な方向へとへし折れた。顔だけはまだ目の前の怪物を捉え続け、片目だけが恐怖に大きく見開かれ、その口は言葉を紡ごうとした形のまま凍り付いている。
「私は……はは、よ……っ」
最後の一音は満足に語られることもなく。
万力のような指が、完全に閉じられる。そして少し間を置いて巨大な両手がゆっくりと開かれる。
――その中からボトリと落ちたものは、もはや「アグリッピナ」と呼ぶには、あまりにも歪に破壊され尽くした肉塊。
石床へと鈍い質量が激突する音が響く。
陥没した胸。粉砕された装飾。ねじ切られた腕。へし折れた首。乱れた髪が血混じりの油で頬に貼り付く。肉体が完全に押し潰されたため、外へ流れる血は意外なほどに少ない。ただ、濃い赤黒いシミが衣の下からじわりと、静かに広がっていくだけだ。
遺体はゴミのように打ち捨てられた。
ただ石床に転がった無残な骸を、地下の頼りない火だけが冷たく照らし出している。
ロクスタはその凄惨な最期をじっと見届けていた。
逃げることも隠れることもしない。むしろ、肩の荷が下りたかのようにほんのわずかに安堵した息を吐き出す。
「……これで、一つ消えましたね。ネロ様」
「あなたを縛っていた不浄なものがこれで一つ。母という名の呪わしい毒も、玉座という名の狭苦しい檻も。全部、綺麗に片付きました」
その時、床の赤黒い筋がぬらりと動いた。
魔獣赫の首が今度はゆっくりとロクスタの方向へと向けられる。
「あれ?」
「……わ、私、も、ですか?」
答えは、ない。
巨大な影は、一言の慈悲も返さない。魔獣赫たちは無慈悲に床を這い、柱を伝い、濡れた肉の筋を引きずりながら、確実に彼女との距離を詰めていく。それは先ほどヘリオガバルスを屠った時と全く同じ、不要となったものを処分するかのような________。
「そうですか。そうですよね。……あなたはそういう方ですものね。余計な毒瓶を手元に置いておく趣味なんて、あなたには最初からなかった」
スリと袖の内側から、小さな瓶が滑り落ちる。
ロクスタはそれを壊れ物を扱うように大事そうに握りしめた。
「私は最初からあなただけを見ていました。アグリッピナ様ではなく、この時代を生きた本物の皇帝でもなく。……どれほど変わり果てても、どれほど苦しみ続けても、なお私の唯一の主であった、あなただけを」
「この時代の私は最初に自分で片付けました。毒を盛る相手が自分自身というのは不思議な気分でしたよ。……そこから先はアグリッピナ様に少しだけ特別製の毒を。そしてあれこれ嘘を吹きこんで。……全部、全部あなたの願いが正しい形になるように」
言葉の速度が次第に早くなっていく。
一人の人間としての祈りであり、言い訳であり、その胸の奥底に長く長く抱え続けていた「純粋な思い」の吐露。
「あなたが安らかに眠れるなら、私はそれでよかったんです。……もしも願いを叶えて、それでもなお苦しみ続けるというのなら、最後は私がその息の根を終わらせてあげればよかったと。私は毒使いですから。――ネロ様に差し上げる毒だけは、絶対に、間違えたりしません」
カチリ、と瓶の蓋が開け放たれる。刹那、地下室の空気が一変する。
ロクスタは、高々とその瓶を掲げる。細い腕は無様に震えてこそいるが――その所作は劇の終幕を飾るに相応しい美しさを携えて。
「
彼女の切り札たる宝具の一つが、いま、解放されようと_________。
その忌まわしき名が形を取りかけた、まさにその瞬間。
瓶を掲げていた彼女の右腕が肩口から抉るように食いちぎられる。
「あ、――っ!?」
硝子瓶が虚しく石床へと落下し、甲高い音を立てて砕け散った。中の毒が床一面に広がり、一滴たりとも届くことなく役目を終えていく。
ロクスタは、失った腕を押さえながら、なおも立っていた。
激痛に顔が歪む。死への恐怖もある。届かなかった悔しさもある。――それでも、その瞳は眼前の巨大な影から一瞬たりとも逸らさない。
「……届きませんか」
「ネロ様。せめて、ほんの少しでも静かに眠れますように。それだけは本気だったんですよ、私」
六つの魔獣赫が一斉に群がり、彼女の存在を文字通り食いちぎる。肉も、霊基も、すべてがばらばらに奪われ、哀れな毒使いの輪郭は赤い顎の奥底へと完全に沈んでいく。
そしてしばらくして。
地下の空洞はアグリッピナの遺体と、むせかえる血の匂いを抱える虚空だけが取り残された。
ロ、ロクスタァァァッ!!