マシュ・キリエライトしか分からない   作:ats376

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第16話 「赤き血潮の浪」

目を閉じるたびに黄金の宮殿が瞼の裏へ浮かぶ。

柱の光、磨き上げられた床、胸元へ滑り込んできた指先の感触。

どれも夢の中の出来事でしかないはずなのに、目を開けても肌から剥がれてくれない。

 

窓の外が白み始める頃、藤丸は寝台の上で上体を起こした。

眠気はあるけれど眠りたいとは思えない。

 

「……最悪だな」

 

呟いて、胸元に手を当てる。

傷はないし熱もない。服の下に何かが潜り込んでいるわけでもない。それでも気持ち悪い。

 

顔を洗っても、手首まで水に浸けても、皮膚の奥へ残ったざらつきは消えない。藤丸は濡れた指先を布で拭い、しばらく手の甲を見下ろしてから部屋を出ると廊下にはマシュが。

 

彼女は軽く会釈しかけて、途中で動きを止める。藤丸の顔色を見た瞬間、いつもの朝の挨拶は喉の奥へ引っ込んだらしい。

 

「先輩。……眠れなかったんですか?」

「うん。寝てた時間より起きてた時間の方が長いかも」

 

「悪夢、ですか」

 

藤丸は廊下の壁へ背を預ける。言葉にすればするほど、あれがただの夢ではなかったと認めることになる。

少し嫌だったが、黙って飲み込むには後味が悪すぎて吐き出してしまいたい気持ちが勝る。

 

「ネロの姿をした誰かが出てきたんだ。いや、姿だけじゃない。あれはもう、ほとんどネロだよ」

「陛下ご本人ではなく、ですか?」

 

「本人じゃない。途中で分かった。あれはネロの顔を使って、俺をどこかへ連れていこうとしてた。呼ぶとか誘うとか、そんな綺麗な感じじゃない。身体ごと向こうへ沈められるみたいな……うまく言えないけど」

 

マシュが思い悩んでいるとその背後で、空気が静かに動く。

いつからそこにいたのか、モルガンが廊下の奥からこちらを見ていたらしい。寝起きの気配など微塵もない。いつもの冷えた眼差しのまま、ただ藤丸の言葉の中に出てきた名へ反応している。

 

「あの皇帝の姿をしたもの、ですか」

「モルガン」

「昨夜の夢だけなら、あなたの精神表層に残った痕跡を検めれば済む話です。ですが、その顔を使われた相手が彼女なら、確認する価値はあります」

 

返事を待つより早く、モルガンは杖の石突きを床へ触れさせた。

硬い音が廊下に落ちる。そこから薄い魔力の膜が広がり、空中に縦長の鏡面を作った。

磨かれた銀の裏側に夜明けの光を閉じ込めたような、揺らぎを持つ遠見の術式。

 

 

「もう、術式を……?」

「この特異点で倒したサーヴァントたちを覚えていますね?」

 

「彼らの内側から、黒い魔力の塊が這い出ては消えていました。私は行き先を追いましたが、未だ特定には至っていません。マスターの話をお伺いし、少し思うところがあったのです」

 

 

鏡面が揺れ、像を結ぶ。

映ったのは、朝のローマの風景。宮殿へ続く石畳の一角、兵たちに囲まれたネロの姿。

 

 顔色が悪い。

 

遠見越しでも分かるほど唇から血の気が引き、呼吸のたびに肩が浅く上下している。胸元に添えた手は飾りではない。内側から押し上げてくる痛みを、どうにかそこへ押しとどめようとしているにも見える。

 

近くの兵が支えようとするがネロはそれを払った。払った瞬間、膝が揺れる。別の兵が慌てて腕を伸ばし、今度は振りほどく余裕もなく肩を借りる形になった。

 

「ネロさん……」

 

心配そうな声を出すマシュと並んで藤丸は遠見の中のネロから目を離せない。

昨夜の夢で見た顔と同じではあるけれど、あそこに映っているネロは、あの黄金の宮殿でこちらを絡め取ろうとしたものとは違う。

上手く言えないが、別物であるのは間違いない。

 

「モルガン、なにかこう、分析というかフィルターとかそういうのってかけれる?」

「もちろん」

 

鏡面の色が一段暗くなる。モルガンが指を動かすと、遠見はネロの輪郭を透かすように魔力の流れだけを浮かび上がらせた。

ネロの身体の奥に、本人の魔力とは違う赤黒い脈がある。心臓の鼓動とは合っていない。呼吸とも違う。腹の底から胸へ、胸から喉へ、何かが這い上がるたび、黒い塊が内側で形を変えていた。

 

「……見失っていたあれらと同じものに見えますね。なるほど、なんとも上手く隠されている」

「ネロの中に?」

「断言するには――」

 

言葉の途中で鏡面が歪む。

ネロが大きく身体を折る様が映し出されている。兵たちが何か叫んでいる。その慌ただしい声はこちらに届かない。

 

ただ、皇帝が苦痛に耐えきれず片膝をつきかけた瞬間、遠見の奥で石畳の隙間が赤く濡れていく様子が見えた。

 

最初は一筋。

次に、噴水の縁から赤い水があふれた。通りの溝を満たし、敷石の継ぎ目へ入り込み、地下から打つ鼓動に合わせて波紋を広げる。ローマの朝に残っていた祝祭の気配が、音もなく濁っていく。

 

藤丸達のいる邸宅の外からも悲鳴が上がった。

マシュが振り返る。

廊下の窓の向こう、庭の噴水にも同じ赤が満ちていた。澄んだ水ではない。血とも言い切れない。水路の底から都市そのものが脈を打ち始めたように、赤いものが石のあいだを伝って広がっていく。

 

藤丸は確認しようと一歩踏み出しかけたが、その足元でモルガンの魔力が淡く輪を描く。

 

「動かないでください」

 

その言葉に振り返ると鏡面が目に入る。

そこにはまだ倒れまいとしているネロの姿。

 

 

そして鏡面の奥で赤黒い脈動が一度、大きく跳ねた。

庭の噴水からも赤い水がこぼれる。

 

その光景を目にしたマシュが盾を呼び出した。

金属が空気を裂く音と同時に、彼女は藤丸の半歩前へ出る。視線は窓の外へ向けたまま、肩だけで藤丸の位置を測っていた。

 

「先輩、下がってください。私たちの中央へ」

「外は?」

 

「確認しますので、今は窓際に寄らないでください」

 

 

 

通りの奥、庭の向こう、さらに邸宅の外壁を越えた先。別々の場所から上がった声が赤い水の広がりに合わせて輪を描くように増えていく。祝祭の名残で早くから動き出していた街のざわめきが、たちまち別のものへ変わっていく。

 

モルガンは遠見の鏡面から目を離さない。指先がわずかに動き、鏡面の中の像が引いた。ネロの周囲だけでなく、宮殿へ続く広場、水路、柱廊、通りの端に置かれていた露店まで映り込む。

 

あらゆる箇所へ赤い筋が増えていく。

 

石畳の継ぎ目を伝い、排水溝から逆流し、噴水の口から溢れている。水を引くために作られたはずのものがまるで剥き出しの血管のように。

兵士たちが市民を下がらせようと腕を広げるが、人々はどこへ逃げればいいのか分からない。

通りを戻っても、広場へ出ても、建物の陰へ逃げ込もうとしても足元の石が赤く濡れているのだ。

 

「水と絡む場所が同時に反応しているようです。宮殿周辺だけではありませんね。ローマの各地が同じように影響を受けているとみて間違いありません。これは地下を使われているようですね。ローマの内側を巡る流れへと、まとめて魔力を通している。水そのものではなく、都市構造を伝って広がっていると見るべきです」

 

「止めることは?」

 

「私ひとりで都市全域を押さえるには遅すぎます。局所的に塞ぐことはできますが、塞いだ分だけ別の場所から溢れるでしょう」

 

鏡面の奥で、通りの一角が破裂した。

赤い柱の中から黒ずんだ肉の筋が持ち上がり、ほどけるように割れて巨大な顎を作った。

蛇にも竜にも似た異形がその巨体を顕わし、近くの柱廊へ食らいつく。

 

石が砕け、柱の根元から亀裂が入り、屋根を支えていた梁が傾く。逃げ遅れた人々の叫びが崩れる瓦礫の音に呑まれた。

マシュの指が盾の縁を強く握る。

 

「あれは……!?」

 

 

そう言葉にした途端、鏡面の別の場所でも赤い水が盛り上がっていく。

 

水路の交差する広場で、橋の下で、神殿へ続く階段の脇で、赤い水面が次々に膨らむ。そこから伸びる首は形も大きさも揃っていない。太いもの、長いもの、顎ばかりが発達したもの。いずれもが生き物と言うにはあまりにも異形の存在達。

街を濡らす赤い水流を踏みつけながら恐怖に包まれた市民達が逃げ惑う。

 

「マスター、あなたは廊下の奥へ」

 

ドレイクの声が背後から飛んだ。いつの間にか彼女は曲がり角に立ち、窓と藤丸の間へ身体を入れている。隣にはブーディカ。

 

「外に出るなら出るで順番があるわ。今のまま飛び出したりしたら、助ける前にこっちが呑まれちゃうよ?」

「正面門は使えませんね。噴水の水がそちらへ流れています。裏手から回れば高い通りへ出られますが、赤い流れが地下から来ているなら安全とは言い切れません」

 

「安全な道なんてもう残ってなさそうだけどな」

 

リチャードはなんだか楽しそうにテラスから都市の様子を眺めている。

遠くで立ち上がった魔獣赫の首が建物の壁をこすりながら身をよじる。石粉が白く舞い、赤い水へ落ちてすぐ見えなくなった。

 

「ならば、道は作るしかないな。だがマスターが先に走るのはナシだ。俺たちの後ろにいてくれよ?」

 

 

藤丸は返事をしない。

鏡面の中で、ネロがまだ映っている。兵たちは彼女を支えながら下がらせようとしていた。

ネロはそれを拒んでいる。彼らの声は届かないが、彼女が自分の足で立とうとしていることだけは分かる。

 

しかし、その足元にも赤い水が近づいていた。

 

「モルガン、ネロのところへ繋げないか。転移とか、せめて声だけでも」

「無理ですね」

 

「都市全体が内側から塗り替えられています。下手に線を繋げば、こちらの位置を相手へ知らせることになりかねません。今あなたを彼女のもとへ送ることはできません」

 

「でも」

「できません。諦めて見捨ててください」

 

その言葉は普段と比べて明らかに警戒の色が強い。

分かっている。モルガンが間違っているとは思わない。今のローマは明らかな異常事態が起きている。

 

「先輩。私もネロさんのところへ行きたいです。ですが、今ここであなたに何かがあることだけは許されないのです……」

 

 

鏡面の奥で、魔獣赫の一体が大きく身をしならせた。柱廊の屋根を薙ぎ、瓦と木片が通りへ落ちる。兵たちが市民を押し出すように逃がし、別の路地では赤い水が既に膝下まで上がっている。人の波が行き場を失い、誰かが転び、別の誰かが引き起こす。そのあいだにも水は増えていく。

 

庭の方でも石が割れる音がした。

ブーディカが即座に振り返り、窓際へ踏み込んできた赤い水を剣で払う。刃が水面に触れた瞬間、じゅっと焦げるような音がして、赤が一歩分だけ退いた。

 

 

「ただの色つきの水じゃないね、これは。触らない方がいいかな?」

「魔力の密度が高すぎます。防御越しでも長く浴びるものではありません」

 

モルガンが言いながら藤丸の周囲にもう一枚、薄い結界を重ねた。廊下の窓へ赤い飛沫がかかる。硝子の表面を伝ったそれは、下へ流れ落ちる途中で細い筋になり、まるで血管のように枝分かれしていく。

 

藤丸は遠見の中のネロを見続ける。

ネロは兵に何かを命じていた。おそらく、市民を下がらせろ、近づくな、そういう類の指示だろうか。自分の身体を支えるので精一杯のはずなのに、周囲の者たちだけは逃がそうとしている。

 

 

 

だが無情にもネロの内部の赤黒い脈動がまた跳ねる。

そして、宮殿前の水路から他のどれよりも濃い赤が溢れ始めた。

 

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 

 

 

 

 

赤く淀んだ水がネロの足元へ集まっていく。

敷石の隙間を埋め、兵たちを退かせ、皇帝を中心に円を描くように広がっていく。

 

本人は兵士達を遠ざけて、一人もがくように苦しみ続けている。

己の上体を強く抱きしめ続け、目を見開かせたまま、叫び声を上げまいと血が流れるほどに唇を強くかみしめている。

 

 

兵士の一人が見かねて皇帝に近づこうとした。その時。

 

ネロの身体が跳ねた。否、人間の身体がしていいはずのない角度へ、背が無理やり反らされていく。

痛みが胸から腹へ走り、次の瞬間、逆に腹の底から喉元へ押し上がる。押し込められていた何かが、肉と骨の隙間を探して身をよじっている。ネロは布ごと胸元を掴み、石畳へ膝をついた。

 

痛みを耐えてもう一度息を吸い、今度は吐くことすら苦しそうに肩を震わせる。

 

「っ……、これは……何だ。まるで中から、何かが……!」

 

 

「――ぁ、が……ッ!!」

「や、め……ッ、やめろ……! 余の……身体、の……中から……ッ!」

 

 

「あ、ああああああああああああああああっ!」

 

 

身体が内側から裂け、胸元から赤黒い液体が流れ出し、足下を満たす水と一体化していく。

 

現実離れした光景に兵のひとりが槍を取り落とし、硬い音が鳴る。

広場にいる兵士達は、皆一様に自分達の皇帝の変容を眺めているしかない。

 

肝心のネロは石畳に手をつき、肩で息をしている。叫びすぎた喉からは掠れた音しか出ない。赤い水が膝を濡らし、裂けた衣から流れた血がその中へ混ざっていく。なお彼女は、兵たちの方へ手を伸ばした。

 

 逃げろ。逃げて欲しい。

 

しかしその思いが声にはなることはない。

 

 

皇帝の願望は叶わず、胸元の裂け目が腹まで開かれ、黒い塊________最後の魔獣赫がネロの全てを奪い尽くしながら這い出す。

巨体が兵士達を踏み潰し、周囲の建造物が轟音と共に砕けていく。

広場のあちこちで水面が泡立ち、その下を黒い肉の筋が走る。

 

目は見開かれたまま、赤く濡れた石畳を映し、そこに意志が戻る気配はない。先ほどまで兵を遠ざけようとしていた手も今は力なく垂れ、指先が水面に触れるたび小さな波紋を作るだけになっている。

 

「陛下!」

 

誰かが叫び数人の兵が駆け出そうとする。しかし、そのすぐ脇を魔獣赫が通り過ぎていく。牙の並んだ顎が柱廊の残骸を噛み砕き、飛び散った石片が彼らの前へ降り注ぎ、行く手を阻む。

盾を掲げた者の腕に白い粉塵がかかり、すぐさま赤い水が白に朱を混ぜていく。

 

それでも一人が進もうとした。

槍を捨て、腰まで濡れるのも構わずネロへ向かう。

あと十歩。そう見えた距離で足元の水が盛り上がった。低い波が兵の膝を打ち、体勢を崩したところへ瓦礫が流れ込む。仲間が手を伸ばし、すんでのところで助けるが、彼らは浪に攫われて数多くの市民と運命を共にした。

 

生き残りの兵たちの声が重なる。

皇帝を呼ぶ声、下がれと怒鳴る声、誰かの名を叫ぶ声。どれも波音に削られて、届く前に散っていく。

宮殿前の水路から押し寄せた赤は、石段の高さを越え、瓦礫を巻き込みながらネロへ迫る。

 

指先が赤の中へ沈み、続いて裂けた衣の裾が消える。肩まで水がかかってもネロは瞬きひとつしない。身体を引こうとする反応もなく、開いた目に波の色だけが映り続ける。

 

ネロから這い出た最後の魔獣赫が嘶きを上げると共に、広場を満たす赤が一段高く跳ね上がる。波濤はネロの身体を横から包み、髪を広げ、虚な顔をしたままの彼女を瞬きほどの間に沈めていく。

 

 

ローマが赤き奔流によって命を奪われていく。

貧しき者も、豊かな者も。強き者も弱き者も。庶民も、皇帝も。

 

 

 

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宮殿前の石段も、崩れた柱廊も、兵たちの影も、ネロの沈んだ場所もすべて同じ色に塗り潰されていく。

かろうじて残っていた像の輪郭が水面の揺れに溶け、鏡面の端で魔術式が細く軋んだ。

 

藤丸は声を出せなかった。

さっきまで見えていた。苦しんでいるネロも、兵を逃がそうと伸ばした手も、赤い波に沈む白い顔も全て見てしまった。

見ていたのに、何も出来なかった。移る景色かいかに鮮明でも手が届くことはなかったのだから。

 

モルガンが藤丸の動きを止めるために展開した足元の結界が淡い光を保っている。

今、自分は5騎の英霊によって身の安全が保たれている。きっと、この特異点で一番安全なのは自分なのだろう。

だが、心を見せてくれた人間を救うことは叶わず、側に控えるビーストサーヴァント達に至っては、ネロのことはどうでもいいという認識すらあるらしい。

 

「……ネロ」

 

鏡面からの返事はない。

魔術の映像で流れるのは巨影が暴れ狂い、街並が砕かれていく光景と文明が洗い流されていく風景。自分の耳にも決して遠くない距離に激しい水流の音が聞こえる。

 

 

もう見るべきののはないとばかりにモルガンが遠見を切る。

鏡面が砕けるように消え、廊下には庭の噴水から溢れる赤い水音だけが残る。硝子を叩く飛沫が枝分かれし、赤い色彩が奔っていく。

 

「これ以上は観測を続ける意味がありません。我々も動くとしましょう」

「先輩――いえ、マスター。ここから移動しましょう。ここも安全とは言えません」

 

「……分かった」

 

短い返事にマシュの肩がわずかに緩む。けれど安堵する暇はない。庭の敷石が割れ、噴水の底から赤黒い肉の筋が一本、細く伸び上がった。

 

ブーディカがまたそれを切り払う。

刃に触れた筋が弾け、赤い飛沫が窓へ散った。ドレイクがすぐ横の壁を撃ち抜き、崩した石材で赤い水の流れを一瞬だけ変える。リチャードは扉の前へ立ち、廊下の奥に集まる使用人や兵たちを背に庇う位置を取った。

 

「長居はできないな。道を作るぞ」

「正面は捨てましょう。裏手から高所へ。マスターを中心に、盾と結界を重ねたまま動きます」

 

ドレイクの指示にモルガンが頷く。床の魔術式が形を変え、藤丸の足元から周囲へ薄い防護圏が広がった。赤い水が廊下の入口まで染み込んでくる。そこへ触れた石がじゅうと音を立て、白い煙を上げた。

 

遠くで七つの魔獣赫がローマを食い破る音がする。瓦礫、悲鳴、水音、石が割れる響き。朝の街を満たしていた祝祭の残り香は、赤い湿気に押し潰されて消えた。

 

胸の奥で、昨夜の夢に貼りついていた不快感が疼く。

あの黄金の宮殿で差し伸べられた手。ネロの顔で笑っていた存在。

今、その答えが赤い波の向こうにいる。まだ姿を見せていないだけで、ローマ全体を使ってこちらを見ている。

 

 

 

「行こう」

 

マシュが頷き、盾を前へ出す。

廊下の先で赤い水がまた脈打った。庭の向こう、崩れた街の奥から、魔獣赫の顎が朝の空へ向けて開く。次の水音が来る前に、藤丸たちは赤く濡れた邸宅を抜け出した。

 

 

 

 

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