邸宅の裏門を蹴り開けると、むせ返るような鉄と甘い香りが混ざり合った異臭が鼻腔を突く。
ローマの市街は既に彼らが知る姿を失いかけていた。
石畳を這い回るように広がる赤い液体が、建物の壁を、街路樹の根を、まるで意思を持つ巨大な生物のように侵食している。その光景は、都市というキャンバスの上に無秩序にぶち撒けられた血のようでもあった。
藤丸は息を呑み、足元へ迫るその赤い水溜まりから無意識に距離を取ろうと半歩退く。バランスを崩し、その手が高熱を帯びたように脈打つレンガの壁へ触れそうになる。
「触れないでください」
冷たく、しかし確かな警告と共に、モルガンの細い手が藤丸の腕を掴んで引き止めた。
「皮膚に少しでも触れれば、ただ洗い流すだけでは済まないと思いなさい。あれは物理的な液体というより、呪いと魔力の群体です。触れればたちまち霊基を、人間の肉体ならば神経の底まで侵食されます」
「……ありがとう、モルガン」
「マスター、こちらへ。足場が狭くなっています、私の背後から離れないでください」
マシュが巨大な盾を構え、藤丸の進路を確保するように前へ出る。彼女の瞳は周囲の異変を油断なく警戒しながらも、背後の藤丸を常に視界の端に収めてくれている。
前方を切り開くのはリチャードとブーディカ。赤い水溜まりから生じようとする歪な泥の異形たちを、獅子心王の剣閃が豪快な笑い声と共に吹き飛ばし、ブーディカの刃が的確に急所を穿ち両断していく。
しかし、倒しても倒しても、赤い水がある限り異形は際限なく湧き上がり続ける。
逃げ惑う市民たちの悲鳴が、あちこちから聞こえてくる。
荷車が倒れ、炎が上がり、かつて栄華を極めた帝都が文字通り血の海に沈んでいく。
ブーディカは迫り来る異形を盾で強引に弾き飛ばし、その反動を利用した鋭い斬撃で二体を同時に斬り伏せた。彼女の剣を纏う炎が、怒りに呼応するように赤熱の度合いを増している。
「……ほんと、最低だね。こんな目に遭わせておいて、ただで済むと思わないでよ」
静かに、地を這うような低い声。普段の彼女が持つ母性や柔らかさは微塵もなく、ただ冷徹な戦士としての殺意がそこにある。
「同感です。私の船に乗せるには、少々悪趣味が過ぎる海ですね」
背中合わせに立つドレイクが、両手のフリントロック銃を回しながら周囲を睥睨する。丁寧な言葉遣いとは裏腹に、彼女の銃口は一切の容赦なく異形の頭部を粉砕しており、慈悲は欠片もない。
藤丸は戦況を見渡し、違和感に気づいた。
「おかしい……水が、下流に流れてない」
通常、液体は低い場所へと流れる。しかし、ローマ市街を埋め尽くそうとするこの赤い水は坂を下るのではなく、まるで何かに引き寄せられるように重力に逆らって斜面を這い上がり、パラティーノの丘の方角へと集束しようとしていた。
異変は、その直後に。
パラティーノの丘へと集まっていた膨大な量の赤い水が、まるで巨大な竜巻の中心に吸い込まれるように、一箇所へと集束していく。
重い地鳴りが響き渡り、ローマの街全体が揺れた。
次の瞬間、集束した水が轟音と共に巨大な水柱となって上空へ噴き上がり、天を衝くほどの高みに達したそれは、やがて先端部分から球状に膨れ上がり、空中に巨大な水球を形成し始める。
周囲の空気が重く沈む。呼吸をすることすら困難なほどの高密度の魔力がその水球を中心に渦を巻いている。
赤かった水球の色が、見る間に濁っていく。血のような赤から、凝固した暗赤へ。光を吸い込むような黒赤を経て、ついには一切の色彩を拒絶する漆黒へと染まり色彩が失われる。
一瞬の、真の静寂。
戦場を飛び交っていた悲鳴も、炎の爆ぜる音も、すべてがその黒い水球に吸い込まれたかのような無音が世界を支配した。
そして――殻が破れるような、悍ましい音が響き渡る。
漆黒の水球が内側から膨張し、引き裂かれる。爆発ではない。中から『何か』が物理的な障壁を食い破るかのように。
破裂した水風船がぶちまけられるように、水球を形成していた超質量の液体が、制御を失ってローマの街へと叩きつけられた。
それは大津波どころの騒ぎではなく、物理的な破壊力と高濃度の呪いを持った液体の質量爆撃。立ち並ぶ石造りの神殿や家屋が、まるで砂上の楼閣のように容易く押し流され、粉砕されていく。
その破滅的な光景の中心、赤い飛沫が舞う上空にそれは顕現した。
背後に七つの魔獣赫を従え、都市災害そのもののような威圧感を放つ影。空は赤く染まり上がり、眼下の水面だけでなく、遥か遠くの海面までもが不吉な赤に染まり切っている。
藤丸は歯を食いしばった。ネロの面影を残しながらも、決定的に異なる存在。
特異点そのものを自らの饗宴として完成させた悪意の化身。
「今一度だな、カルデアのマスター……」
頭蓋の奥に直接響くような、威厳と嘲笑に満ちた声が降り注いでくる。
「余の誂えた特異点は愉しかったか? 余は満たされたぞ! ハッハハハ!!!」
本物のビースト。圧倒的な絶望感と、息もできないほどのプレッシャーが戦場を圧迫する。
藤丸がその重圧に耐え、反撃の指示を出そうと息を吸い込んだ、まさにその時。
「約束通り会いに来たよ、嬉しいね?」
背後から、ふわりと甘い花の香りがしたかと思うと、藤丸の背中に柔らかな感触と体重がのしかかってくる。
首筋に回された腕。耳元で囁かれる、この場に全くそぐわない軽薄な声。押し付けられる何か柔らかい感触。
「マーリ――」
藤丸が振り返るよりも早く、乾いた破裂音が響いた。
「痛っ!?」
「戦場で私達のマスターへ何をしているのです。離れなさい」
モルガンが無表情のまま、手に持った杖の石突でマーリンの頭を容赦なく叩き据えていた。氷のように冷たい視線が、背後から抱きついていた花の魔術師を射抜く。
「いやあ、感動の再会だと思ったんだけどな。相変わらずモルガンは手厳しい」
頭をさすりながら、マーリンが藤丸の背中から剥がれる。
「来てくれたのか、マーリン……!」
「もちろん。約束しただろう? それに、こんな大変な状況で私だけ安全な場所でお留守番なんて退屈すぎるからね」
マーリンはいつも通りの、どこか気の抜けた笑顔でウインクを飛ばす。しかし、その手には既に杖が握られ、足元には幾重もの魔術陣が密やかに展開され始めていた。
ゆっくりと再会を噛み締めている暇はない。上空のドラコーが、無防備に言葉を交わす人間たちを不快そうに見下ろしている。
『余の眼前で随分と余裕だな。その傲慢ごと、塵に還るがいい』
七つの魔獣赫がうごめき、照準が藤丸たちへと定められる。
轟音。
魔獣赫から放たれた極太の魔力光線が、藤丸たちが立っていた場所を消し飛ばす。
しかし、そこには既に誰の姿もなかった。
「さあ、祭りの時間だ! 遅れをとるなよ!」
リチャードの声が戦場に響き渡る。彼は崩れゆく瓦礫を蹴り飛び、巨大な魔獣赫の側面へと肉薄していた。風を纏った聖剣が閃き、分厚い魔力の鱗を叩き割る。強敵との戦争を心底楽しんでいるかのような、昂揚に満ちた笑みがその口元に宿る。
ブーディカは別の一角で、魔獣赫が振り下ろした巨大な爪を真正面から盾で受け止めていた。ただ耐えるだけではない。受けた衝撃と魔力を即座に自身の炎へと変換し、そのまま盾を滑らせるようにして相手の懐へ入り込むと、熱を帯びた剣を側面へ深々と突き立てる。
「これで……終わりじゃないよ!」
反撃の炎が爆ぜ、魔獣赫の一体がバランスを崩して後退した。
「見事ですね。では、こちらは上を取らせていただきましょう」
ドレイクが後方の高所へ陣取り、召喚した狙撃銃で確実に魔獣赫を打ち抜いていく。
放たれる弾丸はただ撃ち抜くのではなく、あるものは内部で爆ぜ、またあるものは大穴を空けて確実にその巨体へ傷を刻み込んでいく。
藤丸の周囲ではモルガンが静かに、だが絶え間なく魔術を行使していた。
「愚鈍な。その程度の魔力で私を灼けるとでも?」
彼女は降り注ぐ熱線を何層もの魔力結界で受け流すと同時に、防いだ敵の魔力を自らの陣へ取り込み、何倍にも圧縮した氷の槍へ変換してドラコー本体へと撃ち返す。防御と高出力の狙撃を同時にこなす、まさに妖妃の神業。
マシュは藤丸の最接近護衛として、盾を霊基へ収納しては高速で立ち位置を変え、再展開によってモルガンの結界をすり抜けてくる物理的な破片や余波をすべて撃ち落としている。
だが、人工の獣たちと最高峰の魔術師たちが連携し、戦闘を行っているとは言え、状況は芳しくない。
相手は本物のビーストである。出力の桁が違う。魔獣赫の咆哮一つで空間が歪み、ドラコーが指を動かすだけで、戦場全体を押し潰すような重力が襲いかかってくる。
戦局が傾きかけた、その一瞬。
リチャードとブーディカの連携を嫌ったドラコーが、前線の一掃を狙って魔獣赫より力を放つ。極太の光線が地を薙ぎ払う。
前衛の二人は間一髪で回避したが、乱戦の中で光線の軌道が歪み、逸れた一条が後方にいる藤丸たちの直上へと降り注ぐ。
回避は間に合わない。
「させませんッ!」
マシュが藤丸の前に飛び出し、巨大な盾を天へ向けて展開した。霊基の出力を最大まで引き上げ、光線の激流を真っ向から受け止める。
凄まじい衝撃波が周囲の瓦礫を吹き飛ばす。マシュの盾自体は決して破られない。だが、ドラコーの放つ魔力の総量が彼女の踏ん張りを上回っていた。
「ぐっ……!」
マシュの足元の石畳が砕け、ブーツがじりじりと後方へ滑り始める。このままでは押し切られ、背後の藤丸ごと飲み込まれる。
その時、マシュの真横にふわりとマーリンが立ち塞がった。
「そのまま、そのまま! 押し返さなくていい、まず止めよう。こっちは私が支えるから!」
マーリンの杖が地に突き立てられると同時に、マシュの盾の表面から光線の力が水流のように左右へと綺麗に逸らされていく。彼が横から魔力的なバイパスを構築し、マシュにかかる負荷を物理的・魔術的に分散させたのだ。
砕けかけていた足場が安定し、マシュの姿勢が再び強固なものとなる。
「ありがとうございます、マーリンさん……! これなら――!」
気合いと共にマシュが盾を押し返し、ついに光線の残滓を天空へと弾き飛ばした。
防ぎ切った。安堵の息を吐こうとしたマーリンだったが、ふと視線を落とした先で、藤丸の異変に気がついた。
藤丸の顔から血の気が失せ、尋常ではない量の冷や汗が額を伝っている。呼吸は浅く不規則で、その焦点は目の前の戦場ではなく、どこか遠くの空間を彷徨っているようだった。
藤丸の脳内は、異常な情報量で飽和しかけていた。
視覚や聴覚といった人間の五感に加えて、ORTからもたらされる戦況の処理データが直接神経系に叩き込まれているのだ。
敵の魔力波形、各サーヴァントの霊基状態、数秒後の弾道予測。それらがノイズと化して藤丸の自我を擦り減らす。四騎の獣冠英霊は自前の魔力炉心で動いているため魔力供給の負荷はないが、彼らと接続し、この複雑極まる戦場を俯瞰し、令呪による干渉のタイミングを計るための「指揮系統の要」としての負荷が、ただの人間の許容量を遥かに超えようとしていた。
これまで、幾度となく戦いは経験した。しかし、それはビーストサーヴァントの高スペックで蹂躙できる戦いであって、互角に近い戦いとは訳が違う。
「マスター……?」
マシュが心配そうに振り返る。藤丸は首を振り、無理に意識を前へ向けた。情報が多すぎる。だが、それが見えるからこそ、戦線の崩壊を防ぐ指示が出せる。
「ドレイク、右弦から来る! 迎撃を!」
藤丸の指示が飛ぶと同時、ドレイクの死角から迫っていた魔獣の奇襲を、彼女の銃弾が間一髪で粉砕した。
「助かりましたよ、マスター」
ドレイクが余裕の笑みを浮かべるが、藤丸の視界は明滅を繰り返している。指先の感覚がなく、自分の体温すら分からない。
「はい、吸ってー。吐いてー。今君に倒れられると、みんなすごく困るからね」
背後からマーリンの手が藤丸の肩に置かれた。温かな魔力が流れ込み、焼き切れそうだった神経を強制的に冷却し、保護する。
「マーリン……」
「無理をしているのは分かっているけど、少しだけ私の魔術に身を委ねて。視界の端のノイズは無視していい。君は今、ここにあるものだけを見ればいいんだ」
マーリンの魔術による鎮静の中、藤丸の脳裏にふと、ノイズに紛れて一つの映像がフラッシュバックした。
――燃え盛るカルデア。倒れ伏すマシュ。そして、血を流して倒れる、どこか親近感を感じる『同じ令呪を手に刻んだマスター』の姿。
「!」
だが、そのビジョンは即座に花びらが散るように掻き消された。マーリンが強制的に認識を遮断したのだ。
「今のは見なくていい、こっちの君が知らなくていいものだよ。君の敵はあの巨大な過去の亡霊であって、ありもしない幻じゃない。……簡単じゃないから、わざと軽く言ってるんだよ」
その言葉に、藤丸は小さく息を吐き、足に力を込めた。そうだ、立ち止まっている暇はない。理解できないことに意識をさく必要は無い。
上空のドラコーが、苦しげな藤丸の様子を見て楽しげに目を細めた。
『どうした。己の矮小さに絶望したか? かつて余が蹂躙した世界のマスターも、最後にはそうして地に這いつくばったものだ。貴様も同じ結末を辿るがいい』
「……悪いけど」
藤丸は顔を上げ、ドラコーの嘲笑を真っ向から睨み返した。
「俺たちは、ここで終わるつもりはない!」
長期戦は不可能だ。藤丸自身の体がもたない。ならば、やるべきことは一つ。
「ドレイク! リチャード! 道をこじ開けるぞ!」
藤丸は右手の甲を掲げた。赤く輝く三画の令呪。その一つに、魔力を込める。
「第一画、令呪をもって命ずる! ――リチャード、その暴威を以て穿て!!」
莫大な魔力リソースがリチャードへと注ぎ込まれる。同時に、ドレイクが艦長の帽子を深く被り直し、不敵に笑った。
「ええ、最高の舞台ですね。全艦、砲門を開きなさい!」
彼女の宝具が展開される。ローマの空を覆い尽くすかのように、巨大な幽霊艦隊が顕現した。無数の砲門が一斉に火を吹き、空を埋める魔獣赫の群れとドラコーの防壁へ雨霰と砲弾を撃ち込む。
ドレイクの砲撃が戦場を切り裂き、巨大な炎の道を作り出した。
そして、その道の中央を進み出るのは獅子心王リチャード。
「最高の命令だぞ、マスター!」
リチャードは聖剣を高々と掲げた。彼の背後から光の粒子となって無数の騎士たちが、死者の軍勢が立ち現れる。
『死者の群れか。人はいつも、とうに終わった過去に縋るのだな』
「違うな。俺が呼べば来るんだよ。王ってのは、そういうもんだろうが! お前にはそういうやついないのかよ!」
十字軍の幻影がリチャードと共に戦場を駆ける。ブーディカが魔獣の側面を強打して体勢を崩し、モルガンが敵の魔力防御の結節点を精密狙撃で破壊する。マシュとマーリンが背後からの余波を完全に遮断し、リチャードの突撃を後押しした。
すべての連携が、一つの刃となって突き進む。
「おおおおおおっ!!」
リチャードの一撃が、ドレイクの砲撃で作られた道を通り抜け、ドラコーの本体へと深々と叩き込まれ、巨大な剣筋が描かれる。
光の奔流が巻き起こり、ドラコーの巨体が大きく仰け反る。漆黒の霊基に、初めて明確で巨大な亀裂が走った。
手応えはあった。しかし。
『……小賢しい真似を』
不機嫌な声と共に、ドラコーの傷口から黒い泥のような魔力が溢れ出し、瞬く間に傷を縫い合わせ、再生していく。
完全な修復。目の前のビーストの耐久力は、第一画の渾身の一撃すらも飲み込もうとしていた。
そして藤丸の身体には、令呪を使用したことによる反動と神経への過負荷が、確かな軋みとなって襲いかかってくる。
それは肉体の疲労というよりも、神経の奥底を直接焼かれるような激痛となって藤丸の全身を駆け巡った。
しかし、痛みに顔を歪めている余裕はない。目の前では、リチャードの渾身の一撃を受けたドラコーの傷口が、おぞましい速度で黒い泥に覆われ、元通りに修復されていく。本物の獣が持つ途方もない回復力。どれほど手痛い一撃を加えようとも、それを上回る速度で再生されてはジリ貧になるのは自明の理。
「休ませてはくれないらしいな! だが、それでこそ打ち倒す甲斐があるというもの!」
リチャードは一度後退しながらも、その瞳から戦意を微塵も失っていない。むしろ、より強大な敵を前にして、彼の口角は楽しげに吊り上がっていた。
ブーディカも盾を構え直し、荒い息を吐きながらも炎を絶やさない。モルガンも、ドレイクも傷を作りながら決して膝を屈してはいない。彼らは人工的に造られたビーストとしての規格外の力を持っているが、それでも単騎でドラコーを圧倒できるわけではない。それは藤丸自身がそう思っていることでもあるし、未熟な自分に出来る最大限の悲観でもある。四騎が総力を挙げ、そこにマシュとマーリンの補助が加わって、初めてこの絶望的な戦線が維持されているのだ。
ならば、やるべきことは戦線の維持ではない。限界の先への到達。
藤丸は自身の右手に残る、二画の赤い令呪を見つめた。
「全員、今だけでいい――出力を限界まで上げろ!!」
第二の令呪が光を放ち、膨大な魔力が前線で戦う彼らへと一斉に波及する。
それを合図とするように、戦場の速度が一段階跳ね上がった。
リチャードの背後に展開していた死者の軍勢が、さらにその数を増して戦場を埋め尽くす。彼らは王の剣となり、盾となり、魔獣赫の群れへと狂信的な突撃を繰り返した。
ブーディカは迫り来るドラコーの猛攻を回避することなく、あえてその身で受け止めていく。炎を纏った盾が赤熱化、彼女自身の霊基が軋みを上げても、受けたダメージのすべてを報復の魔力へと変換し、ドラコーの本体へと痛烈な斬撃を幾度も幾度も叩き込む。
上空では、ドレイクの指揮する幽霊艦隊が複数の群れへと分かれ、戦場全体を巨大なチェス盤のように操作し始めていた。ある艦隊は魔獣赫を牽制し、ある艦隊はリチャードの進路を確保し、またある艦隊はドラコーの死角から絶え間ない砲弾の雨を降らせる。
藤丸の傍らでは、モルガンが冷徹な視線で戦況を見据えながら、防いだ敵の魔力を極限まで圧縮し、通常ではあり得ない手数の高出力狙撃をドラコーの結界へと撃ち込んでいた。
だが、彼らが平常時を超える力を振るう代償は、指揮を執る藤丸の身体へと確実に跳ね返ってくる。
手足の感覚が、自分のものとズレ始めている。右腕を動かそうとしても、コンマ数秒遅れて筋肉が反応するような不気味な違和感。声を出して指示を飛ばしているはずなのに、自分の声がどこか遠くのスピーカーから遅れて聞こえてくるような感覚。
視界に映るローマの惨状と、ORTの残滓からもたらされる戦況情報の境界線が曖昧に溶け合い、ノイズと現実の区別がつかなくなっていく。息苦しさに胸を押さえて、藤丸は気づいた。呼吸という無意識の行動すら、今は意識しなければ忘れてしまいそうになるのだ。
「しっかり息をして、マスター君。君の身体はまだここにある」
マーリンの声が、霧のかかった藤丸の意識を引き戻した。杖から放たれる柔らかな光が藤丸を包み込み、バラバラになりかけた感覚を無理やり人間側へと繋ぎ止めている。マシュが巨大な盾で藤丸の周囲を絶対防衛圏として守り抜いている中、マーリンは汗を滲ませながら魔術の行使を続けていた。
「いやあ、それにしても居心地が悪いね。前ではマシュが『先輩にもしものことがあったら許しませんよ』って目で私を見てるし、後ろからはモルガンが『その程度の補助で手間取るな』って冷たい視線を刺してくるし。板挟みってこういうことを言うのかな」
わざとらしいほど軽い愚痴をこぼすマーリンの言葉に、藤丸はわずかに口元を緩めた。その軽薄さに救われる。自分がまだ人間として、仲間と共にこの戦場に立っているのだと実感できるからだ。
しかし、藤丸がどれだけ限界を突破してドラコーを押し返そうとも、極限まで高められた戦場の速度は一つの綻びを生む土壌でもあった。
全員が限界以上の精度で戦っている。誰も判断を誤っていない。誰一人として手を抜いてなどいない。
それでも、ほんの一瞬、瞬きをするよりも短い『一拍』。リチャードが踏み込み、ブーディカが退き、ドレイクの砲弾が着弾する、その完璧な連携の隙間に、針の穴を通すような空白が生まれた。
『もらったぞ、虫ケラども』
虚を突くドラコーの嘲笑と共に、七つの魔獣赫が一斉に動きを止め、本体の周囲へと恐るべき密度の魔力を集束させ始めた。藤丸の脳内に流れ込むORTの戦況情報が、けたたましいアラートとなって次の未来を告げる。
――次の一拍。そこで放たれる魔力の奔流は、展開している艦隊を薙ぎ払い、リチャードとブーディカを飲み込み、モルガンの結界ごと藤丸たちを消し炭にする。
戦線が、崩壊する。
藤丸は躊躇うことなく、残された最後の令呪を宿した右手を掲げた。
その意図に気づいたマシュが、血相を変えて振り返る。
「駄目です、マスター! 今の状態で最後の一画を使えば、マスターの神経系が完全に焼き切れてしまいます! これ以上は――」
「分かってても――」
「やるべき時があるんだろ!!」
マシュの悲痛な叫びを背に受けながら、藤丸は迷いなく最後の一画に魔力を通した。全戦力を強化するのではない。戦場に生じた致死の一拍を埋め、ただ一つの結果を引き寄せるための絶対命令。
「令呪をもって命ずる! 今この一拍だけでいい――リチャードに勝利を!!」
三画目の令呪が消滅し、その莫大な魔力と祈りが戦場全体へと行き渡る。
戦場のすべてが、リチャードの一撃を届かせるためだけに再構築された。
「面舵一杯! 道を開けなさい!」
ドレイクが舵輪を切り裂くように回すと、幽霊艦隊の砲火が魔獣赫を破壊するのではなく、その巨体を強制的に特定の座標へと追いやるように降り注いだ。足並みを乱された魔獣赫たちが、ドラコーの周囲で絡み合うように動きを止める。
同時にブーディカがドラコーから放たれようとしていた猛攻の余波をその身一つで引き受けた。皮膚が焼け焦げ、霊基が軋み上げても彼女は退かず、蓄積された怒りのすべてを乗せた報復の刃をドラコーの足元へと叩き込む。その衝撃が、ドラコーの姿勢をわずかに崩した。
「……目障りな魔力です」
モルガンがくみ上げた魔力の楔。それを射出し、全弾命中。ドラコーの本体を覆っていた魔力防御の結節点を見事に切断し、防御網に致命的な穴を穿つことに成功。
そして後方では、マシュとマーリンが藤丸の周囲に幾重もの防御を展開し、ドラコーの放つ絶望的な重圧と攻撃の余波を完全に遮断していた。
すべての障害が取り払われた。ドレイクが押さえ込み、ブーディカが崩し、モルガンが切り裂き、マシュとマーリンが背後を守る。
リチャードの背後に従う死者の軍勢が、その身を挺して瓦礫と魔力の暴風を退け、ドラコーの心臓へと続く一本の道を作り出した。
「行くぞオォォォッ!!」
獅子心王が、その一本道を疾風となって駆け抜ける。
王がそれが聖剣だと信じ、兵たちが自身を王の剣だと信じ、そして藤丸がすべての命運を託した一撃。ただ一つの勝利を信じる心が、リチャードの振るう剣閃に限界を超えた輝きを与えていた。
「穿てぇぇぇっ!!」
裂帛の気合いと共に放たれたリチャードの剣が、モルガンが切り抜いた防御の穴を通り抜け、姿勢を崩したドラコーの胸部へと深々と突き刺さる。
閃光が爆発し、ローマの夜空を真昼のように照らし出す。
ドラコーの苦悶の叫びが響き渡り、巨体が初めて明確に姿勢を崩した。
すかさずドレイクの艦砲射撃が傷口へと集中し、ブーディカとモルガンが追撃の魔力を容赦なく叩き込む。凄まじい衝撃に魔獣赫たちの動きが完全に停止し、ドラコーの本体が膝を折るようにして崩れ落ちていく。
赤い光が収束し、静寂が訪れた。
土煙の向こう側で、ドラコーの巨体は沈黙している。魔獣赫も動かない。
「……っ」
藤丸の視界が完全にブラックアウトし、足から力が抜けてしまう。崩れ落ちそうになる身体をマーリンが慌てて両腕で支え止める。
「マスター! しっかりしてください、マスター!」
マシュが盾を放り出し、藤丸の元へ駆け寄ってきた。藤丸は荒い息を繰り返し、指先一つ動かすこともできない状態だったが、マーリンの魔術によって辛うじて意識だけは保たれていた。
『……人間風情が……』
地鳴りのような、低く掠れた声が響く。
土煙が風に煽られて晴れていく。そこには、胸部に深い傷を負い、黒い泥を血のように流しながらも、再び身を起こそうとするドラコーの姿があった。
再生は遅い。先ほどのような瞬時の修復は行われず、傷口からはなおも魔力が漏れ出している。魔獣赫たちも鈍い動きでしか追従できていない。
藤丸がすべてを賭して切った三画の令呪は、四騎の人工ビーストたちの性能を引き出し、窮鼠の一噛みというには十分すぎる確かな深手を負わせるという成果を間違いなく残していた。
しかし、致命傷には届かなかったのだ。
『模倣の獣どもを束ね、余へここまで届くとはな。愚かで、無茶で、見るに堪えぬ。だが――悪くない』
ドラコーはゆっくりと立ち上がり、嘲笑の籠もった視線で、息も絶え絶えの藤丸を見下ろした。彼女の背後で、魔獣赫たちが再び不吉な赤い光を宿し始める。
『次はどうする、人間。手札はすべて使い切ったぞ』
その挑発に、返答することはない。
マーリンに支えられながら、霞む視界で戦場を見渡す。
四騎の英霊、そして涙を堪えながら自分を守ろうとするマシュ。
誰一人として、まだ心までは折れていない。手札がなくなったのなら、この命を懸けてでも抗うだけだと。
藤丸は前を見据え、ひび割れた唇を開いた。
「――次で、終わらせるしかない。」