栄華を誇るはローマ帝国。
文化と文明、それを成り立たせるのは人の営み。
されどそれらが息絶えるときは近い。
白い列柱はへし折られ、床は赤黒い泥濘に抉られている。大理石も金細工も、すべてが獣の腹へ続く濁流に呑まれていく。
パラティーノの丘。かつて世界の秩序そのものだった場所が、血色の浪に蹂躙されている。
皇帝の居所であり、帝国の中心。ローマという文明の威容そのものであったはずの場所が、今や一匹の『獣』に踏み荒らされるだけの矮小な箱庭に成り下がっている。
崩れた欄干の残骸を踏みしめる両足は、すでに何度も限界のラインを反復横跳びしていた。
周囲でぶつかり合っているのは、『人類悪』と、人理外の手法で製造された獣たち。神話の激突にも等しいその余波だけで、大地は悲鳴を上げてひび割れ、足場は数秒前の形すら保てない。呼吸のたびに肺を焼く空気は、凄まじい熱と圧力を伴って喉を切り裂く。
ただの人間がその只中で立っていること自体が本来なら成立しないバグと言えよう。
忌々しげに向けた視線の先でドラコーが嗤う。
リチャードの放った無数の刃は間違いなく獣の霊基を裂いた。その証拠に脇腹には黒い傷跡が深く刻まれている。
それでもドラコーは倒れない。
足元から血のような魔力が溢れ、背後の魔獣赫が濁った息を吐く。獣としての圧は微塵も死んでいない。
「よい。実によいぞ。あの獅子、余へこうも爪を立てようとはな」
ドラコーの唇が吊り上がる。えぐれた傷跡が蠢き、赤い光を帯びた肉で強引に塞がれていく。
警戒を解かないマシュは盾を構え直して次の一手に備える。
「先輩、下がってください。ここから先は余波だけでも危険でしょう。…相手の力は依然未知数です」
「下がるわけにはいかないんだ」
それでも藤丸が倒れずにいられるのは、ORTの補助システムが判断力と知覚を無理やり底上げしているからに過ぎない。
だがそれは同時に生身の神経へ致死量ギリギリの負荷を流し込み続けていることも意味していた。
(いや、無理無理無理!――痛い、熱い、吐きそうだ……っ! 本当に死ぬ!)
視界の端を絶え間なく滝のように流れていく情報。
浪の流速、魔獣赫の脈動、敵巨体の重心変化、砲撃の着弾予測、地盤の崩壊順序、味方の行動可能範囲――。
どれもこの狂った戦場を繋ぎ合わせるために必要なピースではある。だが、必要だからといって人間の脳が平然と捌ききれるわけではない。情報が更新されるたびに頭の芯が焼け焦げるように熱を持ち、こめかみが爆発しそうに脈打ち、視界がぐらりと歪む。ORTのお節介が寿命を縮める。
それでも意識を手放すわけにはいかない。
ここで自分が判断を止めれば、押し流されるのはローマという街だけでは済まないのだから。
「藤丸君、さっきから君の身体の様子が変だ。これは根性でどうにかするものじゃないよ」
肩に触れたマーリンの手から、柔らかな魔力が流れ込む。焼けた血と泥の匂いの中、場違いな癒やしが身体へ拡がる。
「なんとかなるの?」
「できないね。君にその気が無いようだから…。だからせめて、君の負担を減らして彼らへ魔力が流れやすくしよう。これでも魔術には心得があるんだ。お任せあれ!」
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僅か6騎と少し甘く見ていたな。
贋作とは言えど獣は獣というわけか。
ならば。
この特異点で集めた英霊、形だけの聖杯。
その魔力はより有効に使わせて貰うとしよう。
七つ。七つの命を我が手の中にある聖杯へ注がせた。騎士も、将も、王も、怪物も、等しく全て我が糧に。
娯楽のついでにさらなる力を得られるかと試したが…。
余を満たすには、ささやかに過ぎる。ならば、別の使い道を選ぶとするか。
数をぶつけてくれようぞ。
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ズォン、と。宮殿跡の地盤が大きく沈み込む。
赤黒い泥の浪が呼応するように一段高く膨れ上がり、七つの魔獣赫が同時に不気味な脈動を打つ。浪の中から首をもたげるもの、巨体の周囲で牙を鳴らすもの、上空の艦隊すら喰らい尽くそうと跳躍するもの。
すべてが独立して動いているように見えて、実際には一体の獣が抱える『飢え』を、それぞれの形で前へ押し出しているに過ぎない。
『――人間よ。まだ立つか』
『異なる可能性の貴様も最後には余の前で無様に膝を折ったというのに。貴様は見苦しいほどしぶといな。だが、そうでなくては値打ちがない。余が踏み潰す相手としては、な』
(さっきから何言ってるんだ、別の俺? ……、殺されたのか……?)
理屈としては飲み込めても、感情が追いつかない。
底知れぬ絶望感が足元から這い上がってくる。
だが、藤丸は血の滲むほど唇を噛み締め、無理やり思考のブレーキを蹴り飛ばす。
「……倒したから、何だって言うんだ」
『ほう?』
「詳しくは分からないけど…今の俺たちも同じところで終わるって、そう思ってるんなら――ちょっと、楽観的過ぎるんじゃないか?」
『良い。やはり貴様は捨てぬな。知っても折れず、見ても退かぬ。余には理解できぬ在り方だが、だからこそ気に入らぬし――だからこそ、極上の餌だ』
「ふふっ、会話で心を揺さぶるのは上手いね。だけど、今のブラフで足が止まるような相手なら、ここまで来てないと思うよ。少なくとも、『私』のマスターはそういうタイプじゃないからね」
え!?と言う顔で高速で振り返るマシュをよそにドラコーは鼻で笑う。
『夢魔が随分と肩入れするものだ。だが構わぬ。貴様がどう支えようと、余が喰らう順番が少し変わるだけのこと』
「その順番を狂わせるために私はここにいるんだけどね。君とは違うってアピールしないとさ」
「面白い、格の違いを見せてやろう!」
次の瞬間、ドラコーの周囲で赤泥が不気味に盛り上がる。
泥が人の形を取っていく。
剣を持つ者、槍を構える者、法衣をまとった者、王冠めいた輪郭を持つ者。
完全な英霊ではない。輪郭は不安定にノイズが走り、声も歪み、泥と霊基の境界が曖昧なまま立ち上がっている。
かつてドラコーが別世界のカルデアを滅ぼした際に屠った英霊たちの残滓。それを、シャドウサーヴァントとしてこの戦場へ再展開したのだ。
『余が喰らったものだ。記録として残しておくのも悪くあるまい。少なくとも、貴様らの目を奪う程度の価値はあるであろう?』
「これが、私たちの知らないカルデアで倒されたサーヴァントたち……!? 形はあっても本来の霊基とは程遠いですが、それでも数で盤面を制圧するには十分すぎます!」
藤丸はギリッと歯を食いしばる。
単純な殺意ではない。純粋に数を揃えるという極めて悪辣で、理にかなった一手。
だが、それを迎え撃つビーストサーヴァントたちにとってはどうでもいいこと。数だけの粗悪品など敵ではない。
「おお、そう来るか!」
最初に動いたのはリチャード。
笑っている。最高のおもちゃを与えられた子供のように。彼はそのままシャドウサーヴァントの大群へ正面から突撃し、暴風のような剣撃で次々と影を両断していく。呆れたようにドレイクは支援に回っている。
「いいじゃないか! 数で戦場を膨らませるなら、こちらも受けて立つ! 戦争ってのはな、広がった方が面白いんだ!」
「なるほど、記録の残骸というわけですか。戦力としては無視できませんが、主力とは見なしません。でしたら処理優先度を一段落としましょう。問題ありません、利益率はまだ十分に黒字です」
そして一方の藤丸の目線。
マーリンによる補助を受けながら視線を戦場へ向ければ、相変わらず激闘が繰り広げられている。
リチャードが泥濘を駆ける。剣の光が魔獣赫を切り飛ばし、名もなき不死兵たちが即座に隊列を組み直す。
上空ではドレイクの亡霊艦隊が展開し、帆船が赤い雲を滑り、砲火が波頭を粉砕している。
戦場を埋め尽くす兵力という点ではこちらが勝っている。
モルガンは藤丸の側で防壁を展開し、さらにマシュが迫り来る影達_______ドラコーが呼びだしたシャドウサーヴァント達をなぎ倒し続けている。
「はぁぁぁぁぁぁっ!!!」
マシュは迫るセイバーを拳で貫き、膝蹴りでアサシンの胴を粉砕する。先ほどはキャスターが盾を投げつけられて身体が真っ二つになり、ランサーに至っては突き出した槍を手の平で砕かれて、そのまま肘打ちで首から上が消滅した。
アーチャー達の掃射はかすり傷をつけるばかりで、パラディーンの猛攻の前に次々と魔力の塵と化し、バーサーカー達の暴虐は盾に阻まれ、強烈なカウンターによって肉体が四散することとなった。
辺りを満たす赤黒い英霊達。彼らは本来のサーヴァントには及ばないといえども、英霊であるのは変わらないはず。
しかし、既に三桁近い数がマシュによって完膚なきまでに打ち砕かれ、魔力の残骸となって消滅している。
「…いやぁ、藤丸君。私も怪物染みた騎士達は知ってるけど、あの子はなんというか、恐ろしいね。君をつまみ食いするのは後が怖くなるよ…」
「こんな時に何を言っているのですか、マーリン。ぶっ殺しますよ」
ブリテンの魔女達がなんか言い争っている。こんな時に何をしているのか。
――その時。
ドラコーが魔力を昂ぶらせ、光を塗りつぶす黒い太陽が如く世界を染め上げ、黒い浪がそれまでとは比較にならない異常な規模でうねり始める。
宮殿中枢を中心に泥が集まり、天を突くほどに盛り上がり、まるで都市そのものを器にして深淵を掬い上げるように巨大な顎の形を取っていく。
その凄まじい質量と圧力は、ただ見上げているだけで重力感覚を狂わせる。世界の底が抜け落ちるような、根源的な恐怖。
『見せてやろう。これが余の在り方だ。血潮よ溢れよ、すべては余の糧となる――』
『――
赤黒い泥濘の大浪が、パラティーノの高台からローマ全域へ向け、大津波となって押し広がる。宮殿跡は根こそぎ砕け、石畳の広場はめくれ上がり、階段も壁も塔も、ありとあらゆる文明のすべてが泥の濁流へ呑み込まれていく。
ただの波ではない。押し、削り、砕き、喰らい、通り道にあるすべての形を失わせていく。
マシュが宝具で濁流を防いで時間を稼ぎ、大慌てで戻ってきたリチャード達が一行を抱えて飛んでドレイクの船へと乗せて退避させる。
地中海沿岸に限らず、ローマ帝国を形作る全てが厄災によって海へと還る。
ドレイクの亡霊船団が幾隻も転覆し、リチャードの兵士達も押し流されていく。
第二特異点、その舞台。歴史に名を残すローマ。
その全ては真なる獣によって歴史の残骸と成り果てていく。
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栄華を極めた七つの丘も、大理石で飾られたフォロ・ロマーノも、先帝クラウディウスが遺したばかりの堅牢な水道橋も、すべては名状しがたい赤黒い濁流の底へと沈んでいた。オスティア港から帝都周辺のカンパーニャ平野に至るまで、人類が何世紀もかけて築き上げた「世界の中心」は、たった数刻で水底の墓標と成り果てた。
風は内陸へと向かって狂ったように駆け抜け、オリーブの木々や葡萄畑を根こそぎに薙ぎ倒していく。それは背後から迫る絶対的な破滅の先触れ。世界の終わりを知らせる笛のように鳴り響く。
ローマを象徴する地中海。そこには天を衝くほどの高さを誇る、数百メートルの黒い絶壁が大地へ向かって進撃を始める。
血と泥、そして底知れぬ冥府の闇を煮詰めたような赤黒い波濤が、大地を削り取りながら内陸部へと。その姿は波というより、動き続ける巨大な山脈。波頭は雲に届き、崩れ落ちる水の咆哮は、大地そのものが悲鳴を上げているかのように腹の底を震わせるばかり。
内陸の都市へと続くアッピア街道では、逃げ惑う人々の群れが絶望的な列を作っていた。誇り高きローマの重装歩兵たちも、盾と槍を投げ捨て、ただの矮小な肉の塊として逃げ惑うしかない。若き皇帝ネロの治世下、パクス・ロマーナを謳歌していたはずの文明の自負は圧倒的な自然の——あるいは神々の怒りの前に、紙屑のように踏みにじられていく。
「見ろ……」
誰かが絶望に掠れた声を上げた瞬間、天を覆っていた暗雲を切り裂くように、赤黒い水の壁が彼らの頭上に覆いかぶさった。
数百メートルの高さから叩きつけられる数億トンの水塊は、山を砕き、森を呑み込み、強固な石造りの街並みを一瞬にして粉砕した。空を突くジュピターの神殿も、何万の観衆を熱狂させた都市も、水圧の前にまるで砂上の楼閣のごとく弾け飛び、赤黒い泡の中へと溶けていく。
逃げる人々の悲鳴すら轟音に掻き消され、誰の耳にも届くことはない。
水は内陸の盆地を埋め尽くし、アペニン山脈の山肌を駆け上がり、さらにその奥深くへと猛威を振るい続けた。かつてガリア、ギリシア、エジプトを屈服させた無敵の帝国は、ただひたすらに押し寄せる赤黒い絶望の前に、何一つ抵抗は叶わない。
後に残されたのは、瓦礫と泥が混ざり合う赤黒い海。東西南北。ローマの支配を受ける全ての文明、そしてそこに宿る人間は押し流された。
法も、芸術も、哲学も、血塗られた権力闘争も、すべてが平等に圧し潰され、地中海の果てから内陸の全土に至るまで、巨大な帝国の痕跡はただの一欠片も残されることなく洗い流されていった。
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文明を跡形もなく押し流した赤黒い絶望の波がやがてその猛威を終える。
あとに残されたのは、世界そのものが死に絶えたかのような穏やかな静寂。
ドレイクの宝具によって上空へと退避した亡霊戦艦の甲板。
その眼下に広がるのは、かつて大帝国と呼ばれたものの残骸すら溶け去った、果てのない赤黒い泥の海。
その中心で絶望の底から嗤う獣がいる。
『見たか、人間。これが文明の終着! お前たちがどれほど抗おうと、すべては等しく破滅へと還るのだ!!』
彼女は確信している。
この絶対的な破滅を前にして、いかなる英霊であろうとも心が折れ、希望が潰えるはずだと。
人間の矮小な精神など、この絶景の前では塵芥に等しいのだから。
マーリンの支援を受けながら、藤丸は甲板の柵を強く握りしめた。
限界を超えた脳は悲鳴を上げ、視界は赤く点滅している。
それでも、瞳の光は未だ死んでいない。
彼の前には、盾を構え、一切の迷いなく敵を見据えるマシュの背中があるのだから。
「……マスター。波は落ち着いたようです。いつでもいけます!」
その凛とした声に呼応するように甲板の上に立つ四騎の異形の英霊たちから、狂気じみた熱が立ち上り始めた。
絶望。諦観。
否。
彼らを満たしていたのは、常軌を逸した歓喜と殺意。
反撃の狼煙。
四つの
「ハッハッハッハッ! 素晴らしい! 実に素晴らしいぞ、あの獣は!」
最初に沈黙を破ったのはリチャード。
彼は眼下の地獄絵図を見下ろし、まるで極上の娯楽を与えられた子供のように無邪気な笑声を上げる。
彼にとって戦場とは極限環境ではなく、自らの霊基が最も活性化する居場所なのだから。
「障害物が消え、視界が開けた! これで我らがマスターの軍勢を思う存分に広げられるというもの! 極限の闘争の中でこそ魂は輝くのだ。さあ、最高の英雄譚の続きを始めようではないか!」
「ええ、そうね。本当に……分かりやすくて助かるわ」
続くブーディカの声は氷のように冷たく、地獄の業火のように熱がこもる。
彼女の視線は大水に沈んだローマではなく、ただ理不尽を撒き散らしたドラコーの一点に固定されている。
受けた理不尽は、それ以上の理不尽で。
その過剰報復の思想こそが、彼女の核だ。
「ホント、やりたい放題するね。しっぺ返しはこれからってことをまるで考えてないなんて、いい身分。…加減なんてもうないからね。モルガンもそうでしょ?」
「騒がしいですね、狂犬どもは。不要な旧世界の残骸が消え去っただけのこと。ここまで荒らされたのです。我々も加減の必要などないでしょう」
「皆様、方針は一致しましたね。旧態依然とした帝国が倒産したのなら、あとは私たちが残存資産をすべていただくだけのお話です。マスター、どうかご安心を。ゼロからの開拓、大いに結構。これより我が艦隊は、あの獣の命を全て、マスターの利益へと変換するとしましょうか!」
そして再びローマを、否。
第二特異点を揺らす戦いが再開される。
獣の力を宿したサーヴァント達は今一度死闘を演じるべく、魔力を昂ぶらせてそれぞれの一手を繰り出していく。
□□□□□□□□□□□□□
この地獄のような戦いが始まってから、一体どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
昼も夜もない、時間という概念すら死に絶えた空間。空は常に絶え間ない砲撃の閃光と魔力の残滓によって赤黒く曇り、あらゆる光は熱に焼かれて陽炎のように歪んでいる。足元の地面は一度として同じ形を保たず、うかつに踏み込んだ石畳が次の瞬間には泥の濁流に呑まれて崩落していくのは、もはや日常茶飯事となっていた。
狂気と死が渦巻くこの世界で「戦い続ける」という行為そのものが、とうに人間の正常な時間感覚を逸脱している。
「
獅子の王が泥濘を駆ける。剣を一閃するたびに影が斬り裂かれ、不死兵たちが間髪入れずに雪崩れ込む。
「前へ出ろ! 盾を上げろ! 槍は低く、剣は高く! 王冠持つ獣の喉元まで、道を開け!」
影の槍に貫かれ、波に足を奪われても、不死兵たちは倒れた端から起き上がる。敵味方の死すら利用して無限に増殖し続ける軍勢が、濁流を押し留める。
「届かぬぞ、獅子男」
ドラコーが指を鳴らせば泥濘から魔獣赫の顎が浮上し、リチャードへ迫る。
「届かせるのが戦争だとも」
リチャードの手に二本目の光の剣が顕現した。勝利と破壊だけを求める一撃が牙を根元から叩き割り、不死兵たちの槍がその隙を突く。
砲声が空から降り注ぐ。
赤い雲を押し分けて旋回する亡霊艦隊の舷側が開き、無数の火線が宮殿跡を蹂躙した。砲弾が瓦礫を吹き飛ばし、シャドウサーヴァントの密集陣形を抉り取る。
魔獣赫がまとめて焼かれ、赤い波頭が爆ぜて血色の霧に変わる。事象を強制上書きする一斉砲撃。
「正面圧力は獅子心王へ。こちらは上から掃除としましょう。問題のあるものだらけですが処分費はこちら持ち、ということで」
銃声が二つ。放たれた魔力弾が赤い泥濘で膨らむ影の塊を内側から爆散させる。
間髪入れず、降下した帆船の一隻が崩れた建物の残骸ごと魔獣赫を船腹で押し潰し、砲火で黒い灰へと変えた。
パラティーノの空に、あり得ない航路が拓かれていく。帆船の下に広がるのは獣の魔力と炎の泥。それでも亡霊艦隊は揺らがない。
「こう見えて文明人ですからね、契約者の敵となる方には相応しい報いを。あなた方には消えて頂きましょう」
艦隊の咆哮が赤い浪を押し返す。その隙を突き、リチャードの不死兵たちが雪崩れ込む。空からの砲撃と地上からの白兵戦。戦場は拡大し、獣の本能がせめぎ合う。
そしてそんな軍隊による猛攻撃を受けながらも、ドラコーは至近距離での戦闘を抱えている。
真正面から炎をまとったブーディカの剣が爪とぶつかり、空間に陽炎が走る。鈍く重い打撃音が響き、衝撃が瓦礫を縦に割る。噴き上がる泥濘を越え、巻き上がる水飛沫はその身に滾る業火に弾けていく。
蹂躙を加速装置とする彼女が戦場を荒らし回る。
「余を憎むか? かつての女王。ローマに縁があるのであろう」
「それを聞くんだ」
ブーディカの声は静かだ。だが、その底には理不尽に対する濃密な怒りが沈殿している。
「この街を沈めて、ネロを喰らって、あの子たちに全部背負わせて。まだ、自分が何を踏んだか分からない?」
「なんだそっちか。…ローマは余のもの。ネロも、民も、文明も、すべて余の腹へ還る。皇帝とはそういうものだ。お前が知らぬはずがあるまいて」
「違う!」
ブーディカの剣が下から跳ね上がる。ドラコーが爪で受けるが、刃にまとわりつく怒りの炎が爪を焼き斬り、ドラコーを後退させる。
「皇帝? 獣? 神様? そっちの細かい事情なんて最初から聞くつもりないのよこっちは」
「……何を言いたい?」
「痛みを貴方に」
短い答えと共に踏み込む。瓦礫を踏み砕き、背後から迫る魔獣赫の顎を盾で受け流す。そのまま剣を逆手に返し、一閃の元に切り落とす。
炎が奔る。切断面から噴き出す魔力が焦げ、魔獣赫が咆哮を上げた。
「よい。貴様の怒りは、実に人間らしい」
「褒めなくていいよ。そんなの欲しくないしね」
ブーディカが崩れた柱を蹴り飛ばす。宙を舞う柱をドラコーが払いのけた瞬間、死角からブーディカのシールドバッシュが突っ込んだ。猛烈な衝突で大気が揺れて、ドラコーの視界が揺れる。
少し離れた地点にいるマシュの盾にまでその余波は届き、白い火花が散った。
「先輩、意識をこちらに。魔力の流れが乱れています」
「ごめん……でも、まだいける」
「謝らないでください。咎めるために言っているのではありませんから」
「一緒に立つために言っているんですよ」
身体は痛む。胸の奥では強引に引き出した魔力が暴れている。それでもマシュの背中はいつも通り目の前にある。守られ、共に戦っている。
「……うん」
リチャードが軍勢で影を斬り伏せ、ドレイクが空から蹂躙し、ブーディカが猛火を散らす。
暴虐と暴虐の衝突が繰り広げられ続けるその戦況を冷徹に見極めていたモルガンが、静かに口を開く。
「マスター」
「モルガン?」
「解析が終わりました。遅れてしまい申し訳ありません」
「私も散々アレには頭を悩まさせられましたからね。そろそろ活躍するとしましょう。ずっと影で動かれてヤキモキしていましたから。聖杯もどこにあるのか見当もつきましたしね」
「前線に混ざりに行くのか?」
「はい。ただし、…この距離からでは射程が足りません。あの獣の霊基。そのすべてを十全に鏡へ映すには、近くまで踏み込む必要があります」
反射的に止めようとして息を呑む。彼女の横顔に迷いはない。
見据えているのは戦況ではなく、確実な勝利への道筋。
「藤丸君、止めても無駄だよ。モルガンはもう、自分が何をすればいいか決めている」
「マシュ、多少手荒でも構いません。私が離れる間、ここを維持してください…マーリンも分かっていますね?」
「はい。お任せください」
マシュが盾を両手で強く握り直した。
それを見届けるかのようにモルガンが空間から切り取られたように消え、その姿はドラコーの至近へ顕現した。
「ん? 今度は魔女か? 何やら策でもあるのか? 隙だらけだぞ、貴様のマスターは!」
赤い浪がうねる。モルガンが離れた死角を突き、無数の影と触腕が藤丸たちへ殺到する。砲撃を抜けた赤い波頭が牙へと変貌し、牙を剥いた。
「マシュ!」
「宝具、展開します!」
マシュが盾を地面へ突き立てる。
眩い白光が泥濘の上を走った。借り物の守護ではない。反復し続けた時間軸の経験、守れなかった痛み、それでも守りたいと選び取った彼女自身の意志が絶対の防衛圏を構築する。
「
赤い濁流が白亜の壁へ激突する。
激しい衝撃で音が消し飛び、世界が白と赤に真っ二つに割れた。光の壁に触れた影の剣が粉砕され、叩きつけられた魔獣赫の身体が軋みを上げて弾き返される。
「ここは通しません、決して…!」
□□□□□□□□□□□□□□
それからさらに数時間に及ぶ死闘。
四騎が一体の獣を包囲してなお、戦いは終わらない。
皇帝宮殿の豪奢な大回廊は赤黒い泥の浪に無残に削り取られ、砕け散った列柱は血潮のような泥濘に沈み込んでいる。帝国の威光を象徴したはずの高台を中心に、今や地獄の底へ続く巨大な陥没地帯へと変わり果てていた。
その絶望のすり鉢の中心でなお君臨するドラコーの巨体もまた、決して無傷ではない。その異形を形作る巨角や、身に纏う構造体には無数の痛々しい裂傷が走り、彼女を守護する魔獣赫の一部は既に再生が満足に追いつかない。大津波のように押し寄せていた赤泥の浪も、その規模と勢いを明らかに落としていた。
だが――それでもなお、獣は倒れない。
そのボロボロの巨体から放たれる圧倒的な存在感は、依然として世界を蹂躙する『人類悪』そのもの。
そんな張り詰めた死の空気の中、セイバーとアーチャーの猛攻で生まれた隙を突いてモルガンは距離を取る。
それまで彼女は魔術による戦闘を行いつつも一歩引いた立ち位置から、冷徹にその時を待っていたのだ。
魔獣赫の不規則な動き、赤泥の流速、ドラコー本体の霊基が発する微細な振動、そして傷の修復速度。そのすべてを自らの眼とスキルで執拗に探り、隙が生まれるその時を待っていたのである。自分が出した結論を確かなものにし、確実に刺すために。
「……ようやく、見えましたね」
魔杖の先端が赤黒い獣の巨体を真っ直ぐに指し示す。
「ここまでグロテスクに歪んだ霊基は初めて見ましたが……貴方もまたサーヴァントであるという想定は誤りではありませんでしたね。ここまで他の者たちを盾にして観察を続けた甲斐がありました」
『ほう。ようやく本気を出すかブリテンの毒婦よ。だが、余をその程度で止められると思うな』
「止める? まさか」
「――あなたという存在を、今ここで『解体』するのです」
次の瞬間、世界の色が反転した。
空間そのものが、巨大な水鏡へと変質していく。砲煙に曇る空も、ひび割れた大地も、流れ続ける赤黒い泥の浪も。あらゆる物理法則が一時的に一枚の巨大な鏡面へ映し出され――そして、ゆっくりと捻じ曲げられる。
鏡に映し出されたドラコーの姿だけが、現実の空間からわずかに“ズレ”た。
それはほんの僅かな干渉と嘘の流入。だが、在り方を霊基に縛られる存在にとってその毒は絶対的な致命傷を意味する。
「伝承は移ろい、名は混じり、真実は後世の筆に委ねられる。ならば――汝の英雄譚だけが、唯一である道理もない。鏡よ、理想を反転せよ。誉れも、加護も、その由来さえも、我が王に仇なす虚飾として棄却する。――『
『ッ――――ギャァアアアアアアアアアアアアッ!!』
それは激戦の中で初めて聞く、悲痛な叫び。
肉体を切り裂かれる物理的な痛みではない。霊基そのものが空間ごと捻り潰されるような、存在の根拠を無理やり引き剥がされる激痛。通常の英霊であれば、直撃した瞬間に霊核が砕け散って霧散してもおかしくないほどの概念的破壊が己の中枢へと直接叩き込まれる。
巨体を守る魔獣赫の一体が、耐えきれずにその場で風船のように爆ぜた。自身の胸部には深い赤い亀裂が走り、そこから命の奔流のような霊基の光が激しく噴き出す。
ついに、ドラコーが苦悶と共に膝をついた。
『やめろ……ッ、それ以上は……余の……!』
「あなたのような極度に歪んだ存在に通じるか確証がなかったので、ここまで温存していました。ですが、もう十分です。――何度でもぶつけましょう。あなたが砕け散るまで」
モルガンの冷酷な宣告と共に、再び鏡面が煌めく。
水鏡に走ったひび割れが、現実のドラコーの肉体へとそのまま転写された。凄まじい破砕音と共に巨体の左腕が根元から弾け飛び、魔獣赫がさらに二体、悲鳴を上げながら同時に砕け散る。
それでもなお獣の執念は消えず、ドラコーは完全には倒れ伏さない。
だが、モルガンが作り出したその死に体こそが――次なる反撃の決定的な狼煙となる。
ブーディカが地を蹴って最前線へと飛び出す。
その双眸には限界まで圧縮され、蓄積され続けたすべての理不尽に対する報復の意志が宿る。
ローマという誇り高き街の崩壊。そして何より、愛するマスターへ向けられたおぞましい殺意。
ここまで積み上げられてきた絶望のすべてを、彼女は己の内で真っ赤な“怒りの炉心”へと変換し続けていたのだ。
「……返すよ」
ブーディカが構えた剣が、ごう、と猛烈な炎を纏う。
因果応報を具現化させた世界を焼き尽くす超高温の業火。
空気がチリチリと焼け焦げ、足元の石畳がドロドロに溶け出す。剣を中心に周囲数十メートルの空間が真っ白に白熱し、圧倒的な質量を誇っていた赤泥の浪すらも、触れる端からジュウジュウと音を立てて蒸発していく。
「ずっと我慢してたんだ。あんたがマスターにやったことも、この街に押し付けた理不尽も……ぜんぶ、ぜんぶまとめて叩き返してあげる!!」
ドラコーが霊基が引き裂かれる痛みを無理やり押し殺しながら、業火の主を見下ろす。
その刹那、ブーディカは爆発的な踏み込みと共に剣を振り払う。
「『
渾身の力で振り抜かれた斬撃はまさに炎の凶器。
物理的な破壊を伴う超高温の爆炎が一直線に戦場を両断する。進路上に存在した大地を洗う大浪も、瓦礫の山も、すべてが圧倒的な熱量によって瞬時に融解し、消し飛んでいく。
その爆炎の中心を真に走っていたのは一筋の斬撃。
ここまでドラコーが世界に与えたありとあらゆる全ての痛みが乗算され、数倍の威力となって本人へ還元される。
爆炎の津波が、巨体を完全に呑み込んでいく。
世界が白一色に染まる。鼓膜を破る轟音。そして一拍遅れて、暴風のような衝撃波が荒野同然のローマを駆け抜けた。
爆風にマシュの盾が悲鳴を上げて軋み、上空に展開していたドレイクの亡霊艦隊が激しく揺らぎ、無数の兵士を率いていたリチャードの軍勢すらも木の葉のように吹き飛ばされる。
それほどまでに規格外の熱量と破壊がもたらされ、巨大なキノコ雲が形成される。
やがて、荒れ狂う爆炎と砂煙がゆっくりと晴れていく。
そこに立っていたはずの巨体は――焼け焦げ、破砕され、崩壊の時を迎えていた。
胸部には深々と両断された巨大な焼断痕が走り、周囲を取り巻いていた魔獣赫はすべて消し炭となって消失。ローマ全土を飲み込もうとしていた赤黒い泥の浪も、完全にその活動を停止していた。
ドラコーの霊基がパラパラと光の粒子に変わって崩れ始める。
『……なるほど、な』
『ここまでしても……生きることを、捨てぬか、人間め。悍ましいこと…この上ない…』
藤丸は息も絶え絶えになりながら、光に包まれていく獣を見上げていた。
黄金の骨組みごと巨体が崩れ落ち、あたたかな光の渦となって空へ還っていく。
その光の中心から_______聖杯が光を放ちながら瓦礫へと転がり落ちる。
戦場の時が止まる。
長きにわたる果てしない死闘は今ここで、ようやく終わりを告げる。
もっとも、まだなすべきことが残されているが。