頬に触れている石が冷たい。最初に戻ったのはその感覚。
息を吸おうとして、喉がひゅう、と細い音を立てた。
肺の奥まで空気が入らない。胸のどこかが軋み、肋骨の内側に熱いものが貼りついている。
口の中には血と砂の味が混ざっていて、舌を動かすだけで吐き気が込み上げてくる。
目は開いているのか、閉じているのか。
分からないまま、彼女____藤丸立香は瓦礫に背中を預けていた。
耳鳴りが続いている。
高い音。低い音。割れた硝子を擦るような、遠くで鐘が沈んでいくようないくつもの音が重なっている。そこへ時折、瓦礫の崩れる乾いた音が混じる。何かが燃えている匂いもした。焦げた布、焼けた石、魔力の残滓。鼻の奥にこびりつく甘い腐臭。
意識が戻っていく。
戻らなくていいものまで、戻ってくる。
赤い空。黒い都市。果実のように裂けた城壁。背徳果実都市リリムハーロット。どこまでも悪意に満ちた美しさで飾られた収束特異点は、今や飾りつけの大半を失っていた。黄金の意匠は割れ、絢爛たる床には亀裂が走り、花弁のように散っていたはずの光は煤をかぶっている。
その中に自分はいた。
何をしていたのか。
戦っていた?
誰と?
答えを思い出すより早く身体が震えた。
命を握り潰される寸前に置かれた生き物が理屈より先に敵を思い出す。
ドラコー。
その名が頭の中に浮かんだ瞬間、視界の霞が少しだけ薄くなった。
左腕は動くが右腕は肩から先が自分のものではないみたいに重い。
身体が鉛のように重く、痛みは鈍痛のように響いてくる。
「……マ、シュ? そうだ…、マシュは?」
隣に誰かがいる。
紫がかった髪の少女は立香の少し前でうつ伏せになって倒れ伏している。
____________マシュ・キリエライトは既に事切れていた。
盾を手にしたまま手をこちらに伸ばし、生気の無い瞳で見つめてきている。
吐血したのか口の周りは赤く染まり、赤くなった地面と白く染まった肌が残酷に死を告げている。
立香はもう一度名前を呼ぼうとしたが滲む視界に言葉が出ない。
喉がひくつき、胸の奥が熱くなる。
マシュが動かない。マシュが答えることはない。もう、二度と。
その隣で自分だけがまだ息をしている。
なんとか連絡をするべく通信機を探すと、腰にあったはずの端末はひしゃげた金属片になってノイズだけが不調を訴えている。
カルデアからとの通信は絶望的。
ダ・ヴィンチの声も、管制室の音も、戦況を知らせる誰かの叫びも届かない。
英霊たちの気配も消えていた。
少し離れた場所に折れた剣が突き立っている。誰のものか、すぐには思い出せない。焦げた布が瓦礫に引っかかり、霊基の光が粒になって空へほどけていた。
召喚された者たちは戦い、倒れ、退去した。そこに残ったのは持ち主を失った残骸だけ。
立香は唇を噛んだ。血の味が濃くなる。
それでも目を上げれば、その先に変わらず立ちはだかるは人類悪。
ドラコー。
赤い竜。獣の皇帝。ソドムズビースト。
無傷ではないらしく、魔力の揺らぎにも乱れが混じっているし、身につけるものにもいくつも傷がついている。
それでも立っている。崩壊した都市の中心でただ一人、勝者としてこちらを見下ろしている。
負けたんだ、私たちは。
その言葉はあまりにも簡単に胸へ落ちていく。
マシュも、英霊たちも、カルデアも及ばなかった。あれだけ走って、あれだけ叫んで、あれだけ手を伸ばして、それでも届かなかった。
なんなら自分が意識を失っている間に決着はついていたのだろう。
悔しさに身体を震わせているとドラコーの視線がこちらへ向く。
赤い瞳に驚きはない。喜びもない。退屈を邪魔されたようなわずかな煩わしさだけが浮かんでいる。
「まだ息があったか」
立香は返事をしない。というより、もうできなかった。
喉は焼けたように痛み、胸は骨が折れたのか呼吸するのも辛い。背中を支える瓦礫が少しでも動けば、そのまま崩れ落ちそうなほどに。
それでも手を伸ばす。
マシュの盾へ。
指先が盾の縁に触れた。冷たい。重い。戦いの熱を浴び、傷だらけになってなお、その盾はそこにある。マシュが最後まで手放さなかったもの。何度も前へ立ち、何度も自分の前で受け止めてくれたもの。
「……借りるね、マシュ」
腕に力を込める。盾はびくともしない。片膝を立てようとして脚が滑った。瓦礫で膝を打つ。痛みが遅れて走り、視界が白く弾けた。
倒れそうになる身体を盾の縁にしがみついて支える。
重い。
こんなに重いものを、マシュはずっと持っていたのか。
戦いのたびに、笑って、頷いて、自分の前に立っていたのか。
立香は歯を食いしばった。血で濡れた手が盾の表面を滑る。もう一度握り直し、体重をかける。盾は床を擦り、耳障りな音を立てて少し動いた。
「その身で何をするつもりだ?」
言葉を考える余裕はない。勝てるとは思っていない。届くとも思えない。何かを変えられる確信など、どこにも残っていない。
ただ、ここで何もしないまま終わることだけはどうしても嫌だったのだ。
盾を引きずりながら立ちあがるが足元はふらつき、視界は揺れ、ドラコーの輪郭が二重にぶれる。
それでも、一歩ずつ地面を踏みしめる。膝が笑い、盾の重さに肩が抜けそうになる。
もう一歩。
マシュのそばから離れるのが怖かった。離れた瞬間、二度と戻れない気がしたけれど進まなければならない。そのためにここまで来たのだから。
ドラコーとの距離は果てしなく遠く感じる。
ほんの数十歩のはずなのに、終わりのない坂を登っているように感じられる。
壊れた床が足を取れば足首に鋭い痛みが走り、肺が空気を拒む。頬を伝うものが汗なのか血なのか、もう分からない。
ドラコーは動かない。
勝敗の決した相手が最後の悪あがきをする。彼女の目にはその程度にしか映っていないのだろう。立香にもそれは分かる。
分かっても、止まれない。
盾を構える。
と言っても、身体の前に押し出して倒れないように縋りついただけだ。両腕は震え、肩が悲鳴を上げる。膝が沈みそうになるたび、歯を食いしばって持ちこたえた。
「……ああ」
「最後まで、そうするのか」
立香は答えない。
答える代わりに踏み出した。
本人の中では走ったつもりだった。
マシュの盾を抱え、残った力を全部足へ叩き込み、ドラコーへ向かって駆け出したつもりだった。実際には、よろめいていただけでまともに動けてなどいない。盾の重さに引かれ、身体は斜めに崩れ、足が床を蹴るたびに姿勢が乱れる。
それでも前へ進んだ。
獣へ。
人理を喰らう皇帝へ。
何もかも奪ってなお、そこに立っている者へ。
盾の縁が床を離れる。ほんの一瞬だけ身体が軽くなった気がした。
マシュの声が聞こえたわけではない。カルデアの通信が復活したわけでもない。
ただ胸の奥で、行け、と誰かが背中を押してくれた気がした。
空間が赤く染まった。
正面から奔流が叩きつけられ、視界が回る。
彼女は何もできなかった。
盾で受け止めることも、踏みとどまることも、叫ぶことも。
身体が宙を舞う。
視界の中で、崩れた都市が回転した。赤い空。黒い瓦礫。遠ざかるドラコー。床に残されたマシュの姿。盾は腕から剥がれ、背中から叩きつけられた。
肺の中身を全部奪われ、激痛で身体が跳ね、瓦礫の上を転がる。止まった時にはどちらが上かも分からない。
何かが喉に詰まっているのだろうか? 血か、息か、声にならなかった言葉か。分からない。呼吸すらままならない自分に、涙が目からこぼれ落ちる。
何もできなかった。
マシュの盾を借りたのに。
みんながずっと繋いでくれたのに。
最後の最後で自分は敵に触れることさえできなかった。
悔しさで倒壊した建物の外壁を手でかきむしると爪が割れ、血が滲む。瓦礫の欠片が掌に刺さる。でも、そんなことはどうでもよかった。
勝ちたかった。未来を取り戻したかった。
「……ご、めん。マシュ……あたし、もう、ダメ、だ……」
視界が暗くなっていく。
赤い空も、黒い都市も、盾の輪郭も、少しずつ滲んでいく。意識が遠のく感覚に眠る時のような優しさはない。
ただ、身体の端から順番に消えていく。手も、足も、呼吸も、自分のものではなくなる。
そして____________とある世界。とある少女は己の生に幕を下ろした。
倒れ伏した少女を見下ろしても、そこに新しい感慨は湧かない。最後の突撃はあまりにも拙く、無謀で、見るべき技も策もなかった。
盾を持つ腕は震え、足取りは死にかけの獣より頼りなく、結果は最初から決まっていた。
抗う意味などない。
勝てぬと分かって、なお進む理由もない。
守るべきものは既に失われ、共に戦う者も消え、背負った願いは砕けている。ならばそこで終わればよかったのだ。
膝を折り、目を閉じ、敗者として静かに潰えればよかった。
それをしなかった。
なんと愚かなことか。
ドラコーは瓦礫を避けながら、立香のそばへ近づく。
そして物言わぬ骸となったカルデアのマスターの手を取った。
まだわずかに温もりが残っているその指先は血と灰に汚れ、令呪の刻まれた手の甲だけが崩壊した都市の薄闇の中で赤く浮かんで見える。
実に愚かな人間だった。
そう思いながら、獣は死体から令呪を奪う。
「これは遊びに使えそうだ。楽しみだ。これからが、実に! 余を満たす混沌の建材として有効活用してくれようぞ……」
「ただ使い潰すのは勿体ない。……そうさな、余は獣として勝利したのだ」
勝ってしまった。
「続きを手に入れたのだ」
終わることが出来なかった。
「本能のままにに望むことが数多くある!」
獣になった時点で、そんなものはもう失われたのに?
「……………………」
虚空。人類が超克すべき存在になり果てながら、この身は人類に敗北を刻まれることはなく、この世の終わりは確定した。
喝采は、ない。
この先の自分はどうなるのだろうか? 元の英霊に戻るのか? どこかの世界で再び謀略と戦いを繰り広げるのか?
それもいいだろう。しかし心と思考に余白が生まれ、心に灯火が灯っていく。
「そうだ。余は獣なのだ、獣となったのだ。……成り果てたのだ。ならばそれに相応しい存在とならねばならぬ。そのためには」
今一度、心残りと決別をしよう。
この手を離し、別れを告げるのだ。
さらば、愛しき我が日々よ。
さようなら、捨て行く我が黄金色の思い出よ。