パラティーノの丘を死地の沈黙が覆う。
何もかもが失われた世界。
皇帝宮殿の面影は黒い泥と焼け焦げた瓦礫の下に沈み込んでいた。丘そのものが巨獣に食い破られたような廃墟。
そこに立つ者たちだけが、この死闘を生き抜いた事実を示している。
藤丸は崩れた石材に手を突き、激しくむせた。
吸い込んだ空気がべったりと熱い。血潮の浪。濃密すぎる魔力。ビースト同士の衝突が掻き回した大気が、呼吸のたびに喉と肺を焼く。立っているだけで身体の芯が悲鳴を上げ、視界の端で補助情報の残滓がノイズのように明滅する。
内部にいる同居人の底上げが切れた途端、どっと反動が押し寄せてきた。数秒ごとに足場が消滅する極限環境で戦線を繋ぎ続けた代償が、今になって人間の器を容赦なく削り取っていく。
「マスター、動かないでください。貴方の身体はとうに限界を越えています!」
マシュの声が耳に届く。
彼女の盾には無数の削れ痕が走り、鎧は赤泥に汚れ、腕もかすかに震えていた。
それでも藤丸の前に立つ背中は真っ直ぐで、疲労を感じさせまいと振る舞っているのだろう。
そんな二人を眺めていたマーリンが口を開く。
「本当に無茶をするね。特に藤丸君は無茶しすぎだよ。普通にかなり危ないからね」
「やらないと、意識が飛びそうだったんだよ。おかげさまで生きてるじゃん」
「それを立ったまま言えるうちはいいんだけどね。そういう人ほど、本当に倒れる直前まで線を引けない。今は自分を疑ってほしいかな。ほら、君のバーサーカーが何か言いたげだよ」
「マーリンの言うとおりですね。…戦闘そのものは終了しています。ですが、本当の意味で終わったと断言するには、まだ一つ確認が必要ですね」
砲撃を終えた艦隊の残滓が空で薄れゆく中、ドレイク達もまた同意する。
「ええ。敵主力の霊基崩壊は確認できましたが、完全消失とは断定できません。特にあの聖杯周辺はまだ気配が濃い」
「……終わったって思いたいけどね。マスターの前で油断する方が嫌だからさ」
「悪くない戦だった。ここでまだ何か残ってるなら面白いが……まあ、マスターは歓迎せんだろうよ。体調も優れないようだしな」
藤丸は顔を上げた。
瓦礫の中心。ドラコーの獣体が崩れ落ちた場所に、輝く聖杯が落ちている。
不自然なほどそこだけが静かなように感じられる。
そして聖杯の周囲にだけ、もう馴染みすら感じるねっとりとした気配がわだかまっている。
「……います。気配の質は同じ。先輩、下がって!」
マシュが盾を構えた瞬間。
カラリ。
聖杯の傍で小石が崩れた。
極小の音。だが、全員の殺気が瓦礫から這い出す影へと、一斉に集中する。
ドラコー。
霊基は極限まで縮退し、血に塗れた幼い姿をさらしている。全身にひび割れが走り、呼吸すら浅い。だが、その瞳に宿る暴君の炎は消えていなかった。
見下すような高圧。絶対的な人類悪の気配。
「……往生際が悪いね。マスター、あたしがやるよ」
「排除すべきです。聖杯回収と同時に、霊基の残存を断ち切ります」
「危険資産として、ここでの処分が最善」
「斬るなら早い方がいいぞ」
「私は危険だと思います。ですが……決めるのは先輩です。私たちはその判断に従います」
「ここで切るのが正解だよ。特にあれの危険性をよく知る私はオススメだよ、藤丸君。けど、君がそうしないかもしれないというのも、残念ながらよく分かる」
「あなたは黙っていなさい。処分対象を増やすつもりですか。あなたから始末しますよ」
モルガンが冷酷に言い放つと、彼女はおどけたように両手を上げた。流石に本気の殺意を向けられるのはごめんらしい。
ローマを押し流し、ネロを呑み込んだ人類悪。止めを刺す理由は無数にある。
「……俺が行く」
「駄目! 近づく役は別にして!」
「却下です。選ぶべきは殺処分です」
そんな言葉がサーヴァント達から立て続けに湧き上がるが、藤丸は力なく首を振って拒否を示す。
「それでも。倒したあとを他人任せにしたくない。終わらせるにしろ、そうでないにしろ、自分で考えたいんだ」
「……ほんと、厄介なマスター」
奥歯を噛むブーディカに同調するようにしてモルガンが一つ息をつく。
「ならば最低条件を。危険と捉えられた瞬間、私たちが介入します。つまり、殺すということです。これは譲れませんのでご容赦を」
「……分かった」
崩れた足場を踏み越え前へ。
赤い双眸が、歩み寄る藤丸を射抜く。
血にまみれた体。だが、底知れぬ獣の圧はそのままに。
「……ほう。まだ来るか、人間。最後の嘲りでも投げに来たか?」
「どっちでもない。最後は自分の目で見て決めたかったんだ」
「妙なことを。今にも膝を折りそうな面をして、他者の後始末まで背負うか」
「そうかもしれない」
「余は人類悪。お前達が倒すべき獣だぞ」
「知ってる。というかなんとなく理解した」
「ローマを呑み、お前の顔見知りすら惨たらしく潰した。ここで余を断つのが正しい結末であろう。カルデアという組織の役目を果たすならばそうすべき、違うか?」
「……そうかもしれない」
「でも、それで終わらせるのは違うと思うんだ」
「甘いな」
「そうかもな」
「愚かだ」
「たぶん間違ってない」
「余は勝った」
熱の残る空気に、かすれた声が響く。
「勝って、すべてを失った。ならば今度こそ、敗北によって終わるのだと。終わりが来ると思っていた」
「…………」
「だが貴様は、余を終わらせないと言う」
「貴様は歪な獣どもを従え、人間としてそこに立つ。無様に傷つきながら。……余には、それが可能性に見える」
「可能性?」
「獣の、悪意に呑まれぬ別の道だ」
にやりと笑うドラコーの様子にモルガンの魔力が膨れ上がり、ブーディカの剣が鳴る。リチャードの指が柄に触れた。
だが、ドラコーは一瞥するばかりで意に介さない。
「藤丸立香。貴様は余に次を見せた。殺さぬのならば、余を終わらせなかった責を取れ、……ここまでの道にもうんざりしていたところだったしな」
「まだあんたのことを呑み込めたわけじゃない。すぐに信頼は出来ないかも知れない」
「構わぬ。こっちはある程度顔見知りみたいなものだしな」
「絶対的な脅威だって思ってる」
「当然だ。余は獣であるぞ? 貴様の手元の贋作共とは格が違う」
「それでも、来るのか」
「こちらも楽しみたいのだ。貴様がどこまで人間でいられるのかを。どのみち戦力は必用なんだろう? 損はさせないと約束しよう」
「俺は_______」
『――聞こえるかい!? マシュ、藤丸くん、応答してくれ!』
特異点突入以来、途絶えていたカルデアからの音声がマシュの通信装置から響く。
「ドクター! こちらマシュ、先輩も無事です!」
『よかった……! ずっと遮断されてて、やっと繋がったと思ったらバイタル値が滅茶苦茶で……』
『ちょっと待って!? 何この地形データ!? 異常だらけだぞロマン!』
『魔力濃度が異常値を振り切ってる! しかも何だいこの残留反応! 別の……ビースト反応!? いや観測の誤りか? まさか君たち、新しいビーストでも召喚したのかい!?』
藤丸は痛む身体を押し込めて、かろうじて声を張る。
「……説明は帰ってからで。戦闘は終わりました。聖杯も確認済み。けど、少しややこしい」
『終わったって……君、そのバイタルでよく喋れてるね!? 即時帰還、いや医療班総出案件なんだけど!?』
『しかも特異点中枢の崩壊が想定を超えている。まさかとは思うが、ビーストと戦って倒したのか? ありえないだろそんなこと』
藤丸はドラコーを見下ろした。
瓦礫に座り込む獣は、愉快そうに口元を歪める。
「……ふん。貴様らの巣も随分と騒がしいものだな」
『……今、誰の声だい?』
底冷えのするダ・ヴィンチの声。藤丸は苦笑する。
「……倒した相手。今は弱体化してるらしいけど」
『待ってくれ藤丸君!? 今、“本物のビーストがそこにいて喋ってる”って言ったのか!?』
『ロマニ落ち着きたまえ! いや私も全然落ち着けないけどね!』
通信機の向こうで上がる悲鳴。
その大騒ぎの中ドラコーの赤い瞳だけが、静かに藤丸を射抜き続けていた。
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ブーディカが剣を握り直す。
「気に入らないね。獲物を見つけた獣の目だ」
「獲物? 違うな。もはや貴様を喰らおうとは思わぬ。今の余はそういう気分ではない。そんな体力も無い」
「気分で言ってんじゃないよ」
低い声。剣の切っ先にはまだ熱が燻っている。
「余はこの人間に可能性を見た。貴様らのような存在を従え、なお人間であろうとする者。余を討ち、終わらせず、次を見せた者。ならば、その行く末を見届ける権利はあっていいだろう」
嗤うドラコーの言葉をモルガンが即座に斬り捨てる。
「ありません。あなたにあるのはここで処分される権利のみ。マスターの情けで生かされていただけと理解しなさい」
「ふん。ならば殺してみるがよい。できるものならな」
モルガンの放つ魔力がさらに一段冷たさを増す。
険悪を越えた極寒の空気のせいだろうか。息を吸おうとした藤丸の喉の奥に熱が張り付き激しく咳き込む。
視界が明滅する。膝の力が抜けた瞬間、身体が横から強く支えられる。
「先輩!」
「……大丈夫」
「大丈夫ではありません! 意識の維持すら危険域です。ドクター、先輩の状態が――」
『こっちも見えてる! 見えてるけど数字が全然信じたくないものだらけだ!』
『藤丸くん、会話も最低限にしてくれ! レイシフト帰還を急ぐ。マシュ、彼を支えて。ダ・ヴィンチ、座標固定を!』
『やってるけど、現地座標が歪みすぎだ! 聖杯の反応は取れてるが、特異点中枢の崩壊で帰還経路にノイズが多い!』
片腕をがっちりと掴まれる。戦場で舵を取る時のようなドレイクの強引な支え。
「マスター、こちらへ。膝を折って構いません。倒れ方を選ぶ余裕があるうちに」
「悪い……」
「謝罪は不要です。戦果に対する当然の支払い。ただしこれ以上の追加請求は許可いたしかねますのでご自愛を」
額に冷たい指先が触れる。
「意識も危ないね。完全に落ちる前に繋ぎ直そうか。少し気持ち悪いだろうけど、我慢して」
「あなた」
「余計な干渉を入れればその場で首を落としますよ、マーリン」
「今言う? いや、君なら言うか。大丈夫、本当に彼を起こしておくためだけだよ。君もそのほうがいい…どうかな、ちがう?」
「今は、ですね」
「うん。君、絶対に私も処分候補に入れてるよね」
「愚門」
そんなこんなのやりとり。
特異点からの帰還の準備。ですが、物語は望んだようにはいかないもの。
苦難に満ちた人生は常に己のすぐそばに。
『座標固定開始! 全員その場を動かないでくれ!』
『聖杯反応を基準に引き戻す! 多少揺れるが帰還優先だ。ビーストについては帰ってから隔離と解析を――』
光がねじれる。
引き戻すはずの線が横から見えざる巨大な手に攫われるように歪む。カルデアへの道が細く千切れるようにして、別の漆黒の裂け目が口を開く。
『待って、まずい! 経路が流されてる!』
『ダ・ヴィンチ!?』
『固定できない! 特異点の崩壊余波とビースト…の残滓が絡…る。カル…標じゃない、別の歪み…かれて――』
通信が途切れる。直後、身体の奥底で冷たい歯車が回る。
「……っ」
身体を支えていた何本もの糸が乱暴に引き抜かれるような激しい喪失感。思わず胸を掴む。
「我々との霊基接続が整理されているようですね。マスターへの負荷を減らすため、役割を終えた者をカルデア側へ退避させている」
「誰の判断ですか……! こんな時に!」
「まぁ、我々に命令権限がある存在は二つ。マスターと星食いの怪物。マスターはご自身で動けない様子。ならば答えは明白でしょう」
マシュが一人怒りをたぎらせていると、リチャードの足元から光が立ち上る。
「俺を下げるか。なるほど、正しい采配だ。宝具を撃ち尽くした俺を抱えたまま未知の歪みに突っ込めば、マスターが保たんだろうよ」
「リチャード!」
「慌てるな、マスター。戦場から退くのは敗北じゃない。次に剣を振るうための間合いだ。だが忘れるな。あれはまだ敵だ。拾うと言うならその責任は剣より重いぞ。ほら、あれだ。拾った動物はしっかり最後まで面倒を見てやらんとな」
「誰が捨て犬だ」
「犬よりライオンのほうがかっこいいだろう。つまりお前が格下だ。海老みたいな尻尾してるし」
光がリチャードの輪郭を飲み込みカルデア側へ押し戻されるようにその姿が消滅する。
「嫌だよッ! 何で私が!」
ブーディカが足元の光を踏み潰すように剣を地面に突き立てる。
「まだ終わってない! あれを残してマスターを置いていけるわけないだろ!」
が、光は止まらない。霊基が強引にカルデア側へ引かれていく。
「……ほんと、最悪」
「マシュ」
「はい」
「あのトカゲがへんなことしたら、盾で殴ってでも止めて。殺しても良いから」
「……はい。必ず、先輩を守ります」
「ドレイク。そいつが少しでも変な真似をしたら迷わず撃って」
「承知いたしました。その判断には強く同意いたします」
「それからね、マスター。私は納得したわけじゃない。今だけ引かされるだけだよ。帰ってきたら説教だから。ドラコーにね」
「……え!? 今の流れで余なのか!?」
「拳はいくらでもご馳走してあげるよ、楽しみにしてな」
光が彼女を完全に包み込み消え去る。
それに合わせて胸の奥の重みが軽くなる。そして、強引に引き剥がされた冷たい空洞だけが残る。
ドラコーの足元にも光が伸びる。だが彼女はそれを鼻で嗤う。
「余まで荷物扱いするか。無礼な星の怪物め」
泥と血に汚れた小さな手が服をきつく掴んでくる。
「余は貴様の負荷ではない。貴様に残された可能性だ」
「ドラコー……え? どういう…?」
「何度も言わせるな。余は見たいのだ。貴様がどこまで行くのかを。途中で倒れるなど許さん。勝手に死ぬことも許さん」
一歩踏み出そうとしたモルガンが止まる。
足元から空間の歪みが広がり帰還経路と未知の裂け目が複雑に絡み合う。術式を解けば一瞬でどこへ吹き飛ばされるか分からない。
氷の如く冷たい視線がドラコーを睨み据える。
「命拾いしましたね、ドラコー。そしてあなたもです、レディ・アヴァロン」
「私も?」
「今この瞬間だけは処分よりマスターの保持を優先します。次があると思わないことです」
「うん、覚えておくよ。できれば次も穏便にいきたいところだけど」
「黙りなさい」
「ならばよく支えろ、バーサーカー。貴様の主は余の寄る辺なのだからな」
「次にその言葉を口にした時、今度こそ殺しますよ」
「怖い怖い。実に短気だな。獣ならばもっとどっしり構えろ。余のようにな」
モルガンは答えずただ莫大な魔力を流し込む。
腕を引くマシュの熱。肩を支えるドレイクの重み。意識を繋ぎ止める冷たい指先と、空間を縫い留める刺すような魔力。
それでも足元から引きずり込む強烈な引力は止まらない。
『藤丸くん! マシュ! 経路が――』
『駄目だ! 引き戻せない、そっちの座標が別の歪みに――』
通信が裂けるようなノイズに呑み込まれる。
胸元にしがみつく小さな獣を見下ろす。
「……勝手についてくるなよ」
「愚問だ。貴様は余の契約者にさせてもらう。置いていくことは許さん」
光が爆発的に膨れ上がる。
焼けた宮殿。赤黒い泥の臭い。聖杯の輝き。すべてが遠ざかる。
向かう先はカルデアではない。
名も知らぬ歪みの奥深くへそのまま引きずり込まれる。
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光の奔流が空を焼き尽くし、やがてローマの空は本来の色を取り戻していく。
赤き血潮の浪が引いた大地。砕けた宮殿、裂けた石畳、壊滅した地中海の幻影。
すべてが特異点修復という絶対的な力によって「あったはずの歴史」へと塗り直されていく。
だが、爪痕は残った。
後世の文献に記される『未曾有の大水害』。ティベリス川の氾濫か、天災か、神罰か。
真実は誰にも知られることなく、一つの歴史的災害として記録の底へ沈む。
――夜風の吹き抜ける宮殿の回廊に、皇帝ネロ・クラウディウスは立っていた。
眼下にはいつもと変わらぬ帝都の灯り達。
祝祭の喧騒。民の息遣い。悪夢など最初から存在しなかったかのような平穏。
彼女は欄干に冷たい指を這わせ帳の落ちた世界を眺める。
何も失われていない。それなのに、強烈な熱を伴う何かが、己のすぐ傍を通り過ぎた感触だけが胸の奥に張り付いて仕方ない。
「……不思議なものだな」
「陛下?」
不思議そうにする傍らの侍女に、ネロは短くかぶりを振った。
「いや、構わぬ。きっといつか見た夢の残滓のようなものだろう」
だが、妙に温かい。
名前も顔も、声も思い出せない。記憶の輪郭は濃い霧の向こう側。
ただ一つ、自分を真正面から見据えていた瞳の熱だけが残っているような。脆く、今にも折れそうで、それでも最後まで決して逸らされなかった、あの青い瞳。
ネロはふっと息を吐き、小さく笑う。
「変なものだな。余ともあろう者が、夢の相手を気にかけるとは」
夜風が金の髪を揺らす。
彼女の視線は眼下のローマ市街へと。
「もし本当にいたのだとしたら……礼くらいは言うべきだったやもしれぬ。いや、違うな。礼だけでは足りぬ。もっと、話すべきことが――きっと」
ネロはそれ以上何も言わず、欄干に身を預ける。
胸の奥で燻る微かな熱を抱いたまま、瞬き続けるローマの灯をただ静かに見下ろしていた。