魔物使い、はじめました。   作:YTとりあえずぶん投げてみる

105 / 108
影山終わりです。


幕間 終末、コソコソっとはじめました 其の三

 

 ――《「……『茜』」》

 

 その名前が呼ばれた瞬間、『地獄耳』越しに伝わる空気が変わった。

 

 

 ――《「深い赤。夕焼けの色」》

 

 ――《「その名前は……今の、私を……?」》

 

 ――《呼んでる。今、ここに立ってるお前を》

 

 

 聞こえるのは、望月の声。

 そして、最愛の推しの声。

 

(……あぁ、尊い)

 

 呪縛が解け、支配が崩壊する音。

 推しが自分を取り戻した、微かな、けれど確かな吐息。

 

(こんなの、エモエモのエモだろ……!)

 

 影山は聞いていた。

 望月が、絶望的な状況で「中から」推しに干渉するために発動したスキル――『魔物通話』での二人の会話を。

 

 駐車場の戦いで、絶望と共に竹原の横へ現れた推し。

 望月と松下がひっくり返された状況に困惑している中で、影山は自らの視界に推しが現れた瞬間に残り少ない魔力を振り絞り、脊髄反射で『地獄耳』を貼り付けておいたのだ。

 

(……やっぱり、推しの横に相応しいのは……)

 

 

 ☆

 

 思えば、最初から。

 この「望月友人」という人間は、自分の物差しではなにか測れない人だった。

 

  最初は、ただの「変態野郎」だと思っていた。

 全裸で椅子に縛り付けられて、スマホ一つで股間を隠しながら笑っていたあの姿。

 

 自分と同じ「陰キャ」の匂いがするくせに、レベルが高いと言うだけで松下さんに信頼され、たまたまタイミングが良かっただけで、最愛の推しである吸血鬼にまで懐かれている。

 

 そんなの、運が良かっただけだ!

 僕が同じ立場だったら……!

 コイツは竹原の言うとおりの口先だけの詐欺師に決まっている!

 

 ……と、どこかで彼を蔑んでいた。

 自分の中の劣等感を、そうやってなだめすかしていた。

 

 けれど、応接室でのあのやり取り。

 

 竹原の歪んだ正義。

 仲間たちの反論。

 張り詰めた空気。

 

 会議が竹原に完全に主導権を握られかけた時――

 

 

 ――『やーい、うんこマン! 悔しかったらトイレでしてみろよ〜!』

 

 

 唐突に竹原を「うんこマン」と呼び、子供の喧嘩のような語彙で煽り散らしながら、会議の場を奪い取った。

 

 そして、

 

 ――『なぁ、竹原。――ここで魅了されるのと、殺されるの。どっちがいい?』

 

 軽く、どこまでも軽く告げる最終通告。

 望月は、まるで虫でも潰すかのように、雑草を抜くかのように、簡単に「殺す」と言った。

 

 ――『ナイスだ影山!』

 

 覗き魔だと蔑まれてもおかしくない自分のスキルを、彼は「爆アドだ」と笑って認めた。

 その裏では自分や松下の特性を完璧に把握して、最善の盤面を作ろうとしていた。

 

 (……それだけじゃない)

 

 ――『……あいつ、泣いてたんだよ』

 

 置いてきた推しのために、一人で悔しそうに顔を歪めていたあの姿。

 自分のミスを認め、「俺のせいなんだ」と静かに吐き捨てたあの辛そうな横顔。

 

(……冷酷なフリをして、誰よりも「責任」を背負い込もうとしてるじゃないですか)

 

 ――『俺を切り捨てる役くらい、あんたが背負えよ』

 

 松下にそう言い放った時、影山は震えた。

 正義なんて言葉、僕らみたいな人間には眩しすぎて、重すぎて吐き気がする。

 

 でも、彼のやり方は違う。

 それは正義感なんて綺麗なものではない。

 もっとどす黒くて、強欲で、それでいてひどく真っ直ぐな、この男なりの「責任の取り方」だった。

 

 望月が一人、影山のスキルの守りから外れて駐車場へと踏み出していく時。

 

 目の前には、竹原に魅了された数十人の市民と警察官。

 一歩出れば、袋叩きにされて殺されるかもしれない。

 

 それなのに、あの人は。

 

 ――『オッパッピーだ、クズ野郎』

 

 なんて、この世で一番緊張感のない言葉を吐いて笑った。

 

(……あの人は、僕らみたいな『モブ』じゃない。……自分の人生の、本当の意味での主人公なんだ)

 

 望月は、自分のせいで泣いた吸血鬼のために、死地に赴こうとしている。

 「三割は俺のせい」なんて軽口を叩きながら、残りの七割を叩き潰すために。

 

 影山は、震える手で自分の顔を覆った。

 嫉妬していたのが馬鹿らしい。

 見下していたのが恐れ多い。

 

 この男は、自分が見捨ててきたもの、諦めてきた「勇気」を、ハリセン一本で体現したのだ。

 

 

 そして、絶望が形を成して現れたあの時。

 

 吸血鬼。

 影山にとっての「推し」が、虚ろな目で竹原の隣に立つ。

 盤面は最悪。

 手負いの二人が、夜の王者に勝てる道理はない。

 

 だが、望月は笑っていた。

 すべてを見越したような、あるいはすべてを投げ出したような、不敵な笑み。

 

 ――『やれ! 影山っ!!』

 

 影山は、血を吐くような思いで魔力を練り上げた。

 限界なんてとっくに超えている。

 認識阻害のスキルを維持するだけで、脳が焼けるような熱気を感じる。

 

 けれど、あの背中が「やれ」と命じるのなら。

 

 自分は世界から存在を消してでも、その期待に応えたいと思ってしまった。

 

(……分かりましたよ、もう。認めますよ。推しの隣には、あなたが……)

 

 ☆

 

 ――《『――殺せ』》

 

 ――《ずぶっ》

 

 ――《「……は?」》

 ――《「……え?」》

 

(…………ん?)

 

 

 望月に想いを馳せていた影山を引き戻すように、『地獄耳』が異音を拾う。

 

(なんだ……? 今の音……)

 

 ――《「だめ、離れて……!」》

 ――《『望月を、殺せ』》

 

 聞こえてくるのは推しの悲痛な叫びと、竹原の卑劣な『保険』。

 肉を貫く生々しい衝撃音と望月の荒い吐息が、影山をパニックにさせる。

 

(嘘だろ……! せっかく、せっかく望月さんがあんな素晴らしい名前を送って、推しの心が戻ったのに……っ!)

 

 このままでは望月が死んでしまう。

 しかも、推しの手によって。

 

(こんなの、違うだろ! 新しい名前で、『茜』という素敵な名前のとおりにこれから新しい人生を歩んでいくはずなのに! その隣には望月さんがいて、それを僕が後ろで見守ってて……!)

 

 影山は動かない自分の手足に力を込める。

 だが、魔力を出し尽くし、文字通り精も根も尽き果たした影山の身体は一ミリも動かない。

 

(くっ……! 動けよ、動いてくれよっ! どうして僕は、いつもこうなんだ……! 大事な時に何もできない……! 力があったって結局見てるだけ聞いてるだけで……! 誰か、誰でもいい……! 二人を、僕の()()()()を、誰か……!)

 

 

 泥を噛み、冷たいコンクリートに倒れながら。

 影山が叫ぶ。

 

 そのとき。

 

 ――《「……おい、茜。……解除方法、覚えてるか」》

 

 何かを覚悟したような望月の声が、聞こえた。

 

(望月さん……!?)

 

 逃げてと泣く茜《推し》と、逃げずに間合いを詰めていく望月《推し》。

 

(望月さん、何を――)

 

 ――《「――セクハラで訴えんなよ」》

 

(は?)

 

 

 

 

 次の瞬間。

 地獄耳で拾った「音」に、影山の思考は完全に吹き飛ばされた。

 

 

 ――《「んむっ!? ……じゅるり」》

 

 

 

(………………………………は?)

 

 

 粘膜が密着し、空気が遮断される音。

 そして、喉を鳴らして血を飲み込む、あまりにも生々しい吸い音。

 

 ――《「ん……ちゅ……はぁ……ん……」》

 

 かつて地獄耳で聴いてしまった、あの『吸血の音』の記憶がフラッシュバックする。

 

(ね、寝、寝、寝取られ再びィィィィィィ!!!!)

 

 影山の脳内にあの吸血シーンが再び蘇った。

 

 ――《うぇーい、影山くん見てるー? 今からー君の推しの初めてをもらっちゃいまーす! ウェーイ!(妄想)》

 

(あば、あばばばばばばばばばっっ……!!)

 

 確かに、望月を認めた。

 吸血鬼――茜さんを助けられるのは、彼女の横にふさわしいのは望月しかいないと、そう思った。

 

 それは本心だ。

 だが、命懸けでサポートした結果、特等席で聴かされるのがこれというのは、あまりにもあんまりではないか。

 

(尊い……尊いですよ! でもね、こんなのってないだろ……! そういう意味じゃない、違うんだよ! なのにこの音、あぁ……脳が、脳が溶ける……ッ!! 耳が孕むぅぅぅぅ!!)

 

 影山の精神が狂喜と発狂の果てに真っ白な灰になろうとした、その時。

 

 カン、カァン、カァァァァン!!

 

 地獄耳を貫くように、松下の「リング」の終焉を告げるゴングが鳴り響いた。

 

(……あぁ、終わったんだ……。()()……)

 

 その清々しい音を合図に、影山の意識は深い底へと落ちていく。

 重なり合う二人の熱い吐息と、正義の鉄拳が下された余韻を、その「耳」に焼き付けたまま。

 

(……でも、まあ。……推しが幸せなら……オーケー、です……)

 

 影山光人、二十五歳、童貞。

 彼は、泥の中でこれ以上ないくらい満足げな微笑みを浮かべ、完全に沈没したのだった。

 

 

「影山くん、起きなさい」

 

 松下の穏やかな、けれど有無を言わさない圧のある声。

 その響きが、キャパオーバーで強制シャットダウンしていた影山の意識を、泥底からゆっくりと引きずり戻す。

 

 駐車場のアスファルトは硬く冷ややかで、体の節々が痛みで悲鳴を上げている。

 

「うぅ……ま、松下さん、終わった、んですか……」

 

「ええ。ひとまずは、ですが」

 

 促されるまま、影山は生まれたての小鹿のような力ない足取りで、松下の傍らに座り込む。

 

(終わった……。僕のなかの何かも終わった気がする……。いや、でも推し同士が仲睦まじいなら、それは公式からの「供給」であり……いやいや……)

 

 だが、身体の痛み以上に影山の脳を焼き切ろうとしているものがあった。

 

 気絶する直前、『地獄耳』で拾い上げたモノの残響である。

 気絶しても、いまだに脳みそにこびりついて離れない「あの音」。

 

 影山が頭を抱えて悶絶していると、避難所の建物から二人の影が現れた。

 

 血だらけだが、どこか満足げな足取りの望月。

 そして、その斜め後ろ――顔を自らの瞳と同じ色に染めて、俯き加減で歩く推し、茜。

 

(……あ、あばばばば。あ、茜さぁぁん!! なんすか! なんすかその「事後」みたいな、服の乱れを気にするような素振りは!! こ、この野郎! 応急処置(意味深)とか言って何やってやがったぁぁぁ!)

 

 影山の耳にはまだ、望月の「ウェーイ! 見てる〜?」という寝取られ幻聴がリピート再生されている。

 

 推しが幸せならOKです。

 そうは言ったが、理屈では認めているが……。

 

 それはそれ、これはこれである。

 

 影山はどういう顔をしていいか分からず、引きつった笑いを浮かべるしかなかった。

 二人を見る目がどうしても泳ぎ、直視できない。

 

「……あ。望月さん……それに、あか……吸血鬼さん」

 

 やさぐれた精神状態の影山は、ついうっかり吸血鬼のことを「茜」と呼びそうになり、慌てて「吸血鬼さん」と濁した。

 望月は不思議そうな顔をしたが、松下との会話を始めたことで幸いにもスルーされた。

 

(あ、危ない……! 推しの真名を呼び捨てにするなど、僕みたいなクソモブには万死に値するっ……!)

 

 そして、そこからの展開はさらにまた影山にとって理解の範疇を超えていた。

 

 気絶した竹原をどうしようかと話していた矢先、駐車場に突如現れた例のアレ。

 

 さらさらの青い髪に琥珀色の瞳を持ち、白い肌に月光を反射させて現れた超絶美形。

 

 そう、ドチャクソイケメン――イカれ勇者アリスティアである。

 

 

 ――「正義《僕》の――邪魔、するの?」

 

(無理無理無理!! 圧が! 物理的な「格」の差がエグすぎて死ぬぅぅぅ!! ぐ、ぐへぇぇぇ!?)

 

 「悪を裁く」などと宣うその存在が放つ魔力のプレッシャーは、限界を超えていた影山の防壁を紙屑のように消し飛ばした。

 

 本日四度目。

 影山光人、五体投地(というかただの気絶)の姿勢で、再・気絶。

 

 ☆

 

 次に目が覚めた時、世界はさらに意味不明なフェーズに突入していた。

 

 倉庫の奥では、周囲の目から隠すように押し込まれた竹原がいた。

 精神が病んだのか「女神……女神……」などと虚空を仰ぎ、壊れたレコードのようにブツブツと呟き続けている。

 

 望月と茜は……影山の視点からすれば、もはや公然わいせつ一歩手前の距離感でイチャついている(ように見える)。

 

 そして、影山にとって何より()()()()な光景。

 

 それは、あの頭のイカれた圧倒的強者であるはずの勇者が、松下の指示のもと嬉々として雑用を熟しているのだ。

 

「では、アリスさん。トイレ掃除をお願いしてもいいですか」

 

「うん。衛生環境を整えるのは大事だ。すぐに取り掛かるよ」

 

「……おや、影山くん。丁度いいところに。君は、アリスさんに女子トイレの場所を教えてあげて下さい。ついでに君は、男子トイレの掃除を。……アリスさんをそちらに入れるのは、少々問題がありますから」

 

「は……はい?」

 

(なんで僕が? ていうか、問題って何?)

 

 唐突な命令に困惑していると、勇者に何かを手渡された。

 見ると、手の中にはプルプルと震える奇妙なスライムだった。

 

「そうだね。男子トイレは、君がやるべきだ」

 

 勇者の真っ直ぐすぎる瞳で、なにかを見定めるように見つめられた影山は、蛇に睨まれた蛙のごとく頷くしかなかった。

 

(さ、逆らえるわけがない……。でも、なんで? 僕だって戦って疲れてるんだけど。ポーションは「君の傷は浅いから不要だ」ってスルーされたし)

 

 釈然としないまま、勇者をトイレへ案内する。

 そこで勇者は、さらりと口にした。

 

「……やっぱり、僕が男子トイレに踏み入るのは、良くない。ハラスメントになり得る」

 

「よ、よくないって……ハラスメントってなんで……? あ」

 

 その瞬間、影山の「観察眼」が雷に打たれたような衝撃を受けた。

 

 ――立ち姿の重心。

 ――喉仏の不在。

 ――先ほど、スライムを渡す際に一瞬だけ漂った、戦場には似つかわしくない微かな香り。

 

 そして。

 

「私はここにいるよ」と控えめに、本当に控えめに、しかし確かに主張している――胸部の膨らみ。膨らみ?

 

 O・P・P・A・I。

 

 おっぱい。

 

 

(……この、全人類を黙らせるような青髪イケメン……お、お、お、女の人だっ!!)

 

 望月は気づいていない。

 松下は、さっきの片付けのやり取りで察している。

 

(至近距離で観察したから気づけたけど、ふふ、僕でなきゃ見逃しちゃうレベルだよ……)

 

 影山は戦慄した。

 

(この美貌で、カッコよさで女性。しかも勇者……この人、属性が渋滞してるんだけど)

 

 

 そう言いながら、勇者が女と分かると掌を返したようにドギマギする影山《童貞》であった。

 

 ☆

  

 渋々、いや、女性に頼まれたことで嬉々として影山はトイレ掃除を始めた。

 勇者に言われた通りスライムを放つと、そいつは分裂して四方に散り、汚れを消化し始めた。

 

 ……ただし、絶望的にスピードが遅い。

 

 ナメクジよりも遅いのではないかというこの速さでは、終わるのに何時間かかるのかわからない。

 

 無言でスライムの挙動を見つめる、虚無の時間。

 

 だが、静寂はすぐに破られた。

 

 影山の『地獄耳』が、またしても「余計なもの」を拾い上げたのだ。

 

 

 ――《「……ねぇ、望月。また……いいでしょ?」》

 

 ――《「はぁ? またかよ、さっきもしただろ」》

 

(…………っ!! くそがぁぁ! また始まったよコンチクショー!!)

 

 地獄耳越しに聞こえる、茜の甘えるような声。

 対する望月の呆れたような声。

 

 茜は、避難民の手当てや応急処置をダシに、追加のご褒美《血》を要求して交渉を続けている。

 だが、望月は手厳しい。

 茜の勇者相手に関するやらかしなどを挙げて、ご褒美《給料》は払えんと冷たく拒絶している。

 

(望月さん、ガード硬いな……。男としてどうなんだそれは。推しの要求だぞ! あ、でも……)

 

 ――《「……ふーん。じゃ、しょうがないわね」》

 

 ――《「ああ、分かったなら……って、おい。何して……ちょ、ボタン、外すな!」》

 

 ――《「もう仕事は終わりでしょ? 私はただ暑いからボタン外してるだけよ」》

 

(……は!? コートのボタン!? 何を!? まさか露出プレイ!? ここ、避難所だぞ!?)

 

 地獄耳から伝わってくるのは、茜がいつも着ている黒コートの衣擦れの音と望月の動揺した声。

 

 ――《「あー、暑いわねー、裸になっちゃおうかしらー(棒)」》

 

 ――《「おっふ。いやいやいや、おい! すぐそこに梅野さんがいるんだぞ! やめろっ……て今見えた!? 見えたよね!? あ、おい! そこで止めんなよ! いや違う違う! やめろっ!」》

 

 茜がコートのボタンに手をかけ、色仕掛けという強硬手段に出たらしい。

 

(何が!? 何が見えたの!? まさか、ち……。くそっ、推しが楽しそうにしてるのは尊い……尊いけど、もう少し加減をしてくれ! 耳が、耳が孕むぅぅぅ!!)

 

 まるでASMRの如き臨場感に、影山の豊かな想像力が爆発する。

 

(ふぅー、ふぅー、茜さん、コートを脱いで……あぁ、いけないこれ以上は……!)

 

 影山がトイレの個室の隅で、悶々としながら壁を叩く。

 

 そして、目を閉じ全身の神経を耳へと集中させた影山が、「あ、もう我慢できねぇっす」とズボンのベルトに手をかけ――

 

 

 

 「…………君は、そこで何を、やっているのかな?」

 

 背後から、凍てつくような声がした。

 

「ひぃっ!!」

 

 過剰に反応して跳ね上がった影山が、後ろを振り返ると。

 

 そこには、いつの間にか背後に立っていた、勇者アリスティアの姿。

 

 一気に全身の血の気がサーッと引いていく。

 

「あ、いや! これは、その! 違うんです! これは、男子トイレの、伝統的な清掃スタイル! というか掃除が捗るポーズでして!!」

 

 普段の蚊が鳴くようなか細い声量は何処へやら、影山は全力で誤魔化す。

 

 だって誤魔化さないと=死だし。

 

 だが、勇者の澄んだ瞳は、影山のペテンを一切受け付けていなかった。

 

「……君の、そのスキル」

 

「ひ、ひぃっ……!」

 

「『地獄耳』。それに、「透明人間」」

 

「なっ……!?」

 

(ば、ば、ババ、バレてるぅぅぅぅ!!)

 

 勇者アリスティアは影山のスキルに完全に気づいていた。なんなら最初から。

 

「君が、マツシタの部下で諜報の任務に就いているのは知っているよ。だから、見逃してあげていた。だけど」

 

 勇者の圧倒的な魔力の圧が、影山の全身を包み込む。

 

「必要もないのに、他人の人生を覗き見るのはΙ――『悪』だよ」

 

「ひぃぃぃっっ……!?」

 

 影山、万事休す。

 クソコミュ障のド陰キャからスキルを奪ったら、残されるのはただの……。

 

 もうダメか、と思われた時。

 

(怖い怖すぎるぅぅ! でも、でもダメだ! このまま竹原くんみたいにスキルを消されたら、僕の推し活はどうなるっ!)

 

 怯えていた影山の目に決死の覚悟の火が灯る。

 

(……推しを、推しの幸せを見守れなくなるなんて――――そんなのダメだ!)

 

 

 

 

『透明人間』、発動。

 

 

 

 

 影山が、世界の認識から――消えた。

 

 勇者はピクリと眉を上げる。

 一瞬前にはそこにいたのに、今はもう気配のけの字も感じられない。

 

 影山は勇者の横をタッシュですり抜け個室から這い出て、トイレの出口へと手を伸ばす。

 

(よし! いくら勇者でも『透明人間』にかかれば……! やった、僕の勝ちだ!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが。

 

 

 

 

「――それは」

 

 

 

 影山の首元に、絶対的な死の感触。

 

 

 

「良くない」

 

 

 

 勇者の剣が、いつの間にか、影山の首へと添えられて。

 

 

(あ……終わった……)

 

 

 そう。

 影山は知らなかった。

 

 

――勇者からは、逃げられない。

 

 

 世界をも騙す認知不可能と思われた影山の『透明人間』。

 だがしかし、スキルを弄くれる権能持ちの勇者《チート》には通じなかった。

 

 影山の安息の地は、もはやどこにも残されていなかったのだ。

 

 そして、耳に聞こえてくる推したちの「キャッキャウフフ」。

 

 ――《「ほぉら、も・ち・づ・き〜? 私、血が欲しいんだけどな〜?」》

 

 ――《「おっふ、Perfect Body! おっふ」》

 

 

(……推しが、推したちが幸せなら、オーケーです! だけど……だけど、僕は、ぼくはぁぁぁぁぁ……………)

 

 影山光人、本日何度目かの絶望。

 恐怖により失禁。

 そのまま白目を剥いて、再・気絶。

 

 

 

 ☆

 

 

 

 その後、床に転がった影山は「未消化のゴミ」としてスライムに飲み込まれかけるも、寸前で勇者に拾い上げられた。

 

 目を覚ました影山を待っていたのは、スライムに纏わりつかれながら正座して受ける、勇者直々の「日頃の行い」についての長時間説教。

 

 心身ともに磨り減った状態でトイレで夜を明かした影山だったが、翌日、望月からかけられた「ありがとう」「かっこよかった」の言葉に、死にかけていた心は奇跡の復活を遂げる。

 

 勇者の影に怯えながらも、推しの名に込められた深い意味を独白し、彼は再び決意を固める。

 

(勇者が怖くて推し活なんてやってられるか! 僕は、僕だけは、この尊い光景の観測者として、地獄の果てまでコソコソとついていってやる! ……でもやっぱり怖ぇぇぇぇぇ!)

 

 影山の悲痛な決意は、スライムが汚れを消化する「ぷしゅる」という情けない音の中に、静かに溶けていった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。