吸血鬼の指がゆっくりと上がる。
――血の霧が、爆発的に広がった。
応接室の空気が一瞬で重くなる。
床も壁も天井も、紅く染まったような錯覚。
「おいおいおい……これ、ガチのやつじゃん」
――ズラァァァッ!!
無数の血の刃が、俺たちに向かって殺到した。
「……っ! 嘘だろ!?」
「望月さん、下がって!」
松下さんが前に出る。
鉄腕が閃き、パァン! パァン! パァン!
破裂音とともに血の刃が次々に粉砕される。
「やっぱ松下さんスゲェ! でも数が多すぎる!」
俺はナイフを握り、受けた傷を庇いながらなんとか弾く。
ガキン、ガキンと刃がぶつかるたびに、受けた腕が痺れる。
「くそ! 攻撃が重くなってる……!?」
見た目は同じなのに、さっきより明らかに重い。
まるでクソ重いダンベルを投げつけられてるみたいな感覚だ。
数回受けただけで手が震えて、ナイフを落としそうになる。
その一瞬の隙を、血の矢が逃さなかった。
――ズブッ!
右足の甲を貫かれ、熱さと痛みが同時に襲った。
「っ、くそっ、痛ぇぇぇ……! おいゴラ、吸血鬼! ちょっとは加減しろよ! マジで痛ぇえぇぇぇ!!」
だが、声は届かない。
虚ろな紅い瞳が、ただこちらを捉えるだけ。
ダメだ、アイツ完全に魅了されてる。
さっきの自我ありも辛かったけど、今の自我なしはそれ以上にきつい。
竹原の命令通り、俺たちを本気で殺しに来ている。
吸血鬼がまた手を上げる。
今度は床からでかい血の槍が突き出してくる。
「マジかよ……!」
俺は後ろに跳び、松下さんも横へ飛んだ。
机がガシャァン! と真っ二つに割れて吹き飛んでいく。
「吸血鬼! おい、聞こえてるだろ! 目を覚ませ! 部下からのパワハラで訴えるぞ!」
叫ぶが、返事はない。
何度呼びかけても、虚ろな瞳が俺たちを見据えるだけ。
「望月さん、すでに彼女の意識はありません!
「くそっ、殴るしかねぇってのか……!」
松下さんが隙を突いて近づこうとするが、血の壁が行く手を阻む。
鉄腕で突破を試みるが、その壁から一瞬で血の刃が生えて妨害してくる。
「『血液魔法』、思った以上に厄介ですね……!」
パァンという音が鳴り響くたび、松下さんの拳から血しぶきが散った。
だが、明らかにペースは落ちている。
――マズい、このままじゃジリ貧だ。
竹原がくつくつと笑う。
「ハハッ、いいぞ化け物! その調子で痛めつけろ! ハハッ、テメェらが死ぬのも時間の問題だなぁ、おい!」
「竹原ァ! お前マジで許さんからな! つーか、人任せにしないでお前がかかってこいよ! このビビり野郎!」
「はっ、テメェに言われたかぁねぇよ魔物使い! まっ、せいぜい頑張ってくれや。吸血鬼……今度こそキッチリ殺せよ?」
笑いながら竹原は応接室を出ていく。
「おい、待て! どこ行く気だ!」
叫ぶが完全無視。
扉が開き、そのまま外へ消えた。
――外から声が聞こえる。
「大きな音がしたけど……」
「あ、お前なんで……!」
「なっ、体が……!」
やばい。本当にやばい。
竹原がまた避難民を魅了している。
「松下さん、外が……!」
「マズいですね……」
松下さんの声が低く沈む。
目の前の吸血鬼だけでも厄介なのに、避難所にいる人間全て魅了されたら……。
「急がなければ、また悲劇が起きてしまいます」
「そんなこと言ったって、どうすりゃっ……!」
「ええ――こうします」
松下さんがガードを固め、被弾覚悟で吸血鬼へ迫る。
革靴が床をキュッと鳴らし、血の刃を掻い潜る。
「うぉ! スゲェ! まさかデンプシーロール!?」
思わず「まっく◯うち! まっく◯うち!」と叫びそうになる。
松下さんはまるで漫画のボクサーだ。
致命傷だけを避け、それ以外は受け流し、一直線に吸血鬼へ肉薄する。
「女性を殴るのは、多少気が引けますが」
血の槍が頬をかすめる。
紙一重で躱し、カウンターの拳を叩き込む。
だが――
ガギィンッ!!
「……ふむ、硬いですね」
松下さんの拳は止められた。
吸血鬼の顔の横に、分厚い血の障壁が形成されていた。
「止められた!? マジか!」
松下さんの鉄腕でも壊せねぇとか、どんだけ!
世界を狙える拳だぞ!?
「ならば、壊れるまでやればいいだけです」
松下さんの拳がブレる。
ドガガガガッ!
まるで金属同士がぶつかり合う音。
血の障壁にヒビが入る。
「……待って、どっちもありえないんだけど」
吸血鬼の血も、松下さんの腕も、常識外だ。
俺の全力ナイフでも弾くのがやっとの血の刃を、風船みたいに割る鉄腕。
その鉄腕を受け止める血の障壁。
そして、それを殴りまくってヒビを入れる松下さん。
「さすがの吸血鬼さんも、防御に集中せざるを得ないみたいですね。攻撃の手が止まってますよ」
後ろから見ると実にシュールだ。
虚ろな銀髪美人VS定年間近のおっさん。
拳は見えないし、工事現場みたいな音鳴ってるし。
ピキ……ピキピキッ……!
しょうもないこと考えてる間に、障壁の割れ目が増える。
「少々手こずりましたが、これで――」
松下さんが腕を振り抜いた。
パキィィン!!
障壁が割れる音。
続いて――
ボゥッ!!
「やったかっ!?」
思わず叫んでしまう。
「望月さん、それはフラグ――っ!?」
松下さんが息を呑む。
冷静な彼らしくない驚愕の声。
振り抜かれた拳の先にあるはずのものが――ない。
「マジか! 吸血鬼の首が……」
無い。
吸血鬼の首から上が、吹き飛んだかのように――跡形もなく消えていた。
「ま、松下さん!?」
「これは……」
まさか殺っちゃった!?
あの威力だ、いくら吸血鬼でも……。
「手応えがありません。まるで……」
「……え?」
「水、いえ、霧の塊を殴ったような……」
……霧?
吸血鬼を見る。
黒コートの身体はそこにある。首から上は――消えている。
いや、違う。
――消えたんじゃない。
血の霧が渦を巻き、吸血鬼の身体が一瞬で
「そうだっ、血液魔法は……!」
避難所突入前、吸血鬼は言っていた。
――『血を硬化させて矢のように飛ばしたり、盾にしたり』
――『
「松下さん! 後ろ――!」
血の霧が再び凝縮し、俺たちの背後に吸血鬼が立っていた。
「っ……!」
完全に背後を取られた。
虚ろな瞳がこちらを見据える。
そして――
紅い雨が降りそそいだ。