「……退かない、ってことだね」
アリスティアはそう言って、軽くため息をつく。
聞き分けのない子供を見る、親がするような顔で。
やれやれ、しょうがないなぁ――って、そんな雰囲気。
「――退くのは」
突然、視界から茜の姿が消える。
身体が霧のように夜に溶けて、その場から文字通りに消失する。
「あんたの方よッ……!」
声だけが遅れて聞こえる。
消えたはずの茜が、アリスティアのすぐ横へ現れた。
紅い血が弾けて、瞬時に手元に形成された血の刃。
「おい、茜!? やめろ!」
茜のいきなりの行動に、俺は声を上げる。
なに勝手に動いてんだよコイツ!
俺の声を無視して、茜は血の刃を振るう。
紅い軌跡が一直線に勇者の喉元を薙いだ。
「馬鹿! いきなり殺しに行く奴があるか! ――って、あれ?」
――キンッ。
金属音。
夜に響いた、乾いた一音。
「な……っ!」
そこには剣があった。
アリスティアの剣が、いつの間にかそこに。
いつ抜いたのかも分からない。
動いた瞬間を見ていない。
ずっと視界に入ってたはずなのに。
「君、相変わらず速いね」
アリスティアが口元に軽い笑みを浮かべながら、
「凄いな、前よりも速くなってる」
感想を言うみたいに。
「……彼の血を吸ったからかな?」
俺に一瞬だけ視線を向けてから、転がってる血の刃を剣の先で軽く弾く。
「あの時はしばらく血を吸ってないって言ってたけど……魔力の相性が良かったんだね」
マジかよこいつ、雑談始めてんだけど……。
「……っ、まだ……!」
茜は歯を食いしばり再び踏み込む。
今度は血を霧状に散らし、視界ごと勇者を覆いにかかる。
一気に視界が紅く染まる。
「だから茜! ちょっと待てって!」
血の粒子が辺り一面を満たし、その中から無数の血の刃が生成される。
勇者を中心に、四方八方を囲むように。
「――っ、おい!」
思わず叫ぶ。
「ここにはまだ倒れてる奴がいるんだぞ!」
膝をつく松下さん、倒れた影山に拘束された竹原。
そして駐車場のいたるところに気を失った避難民たち。
「そんな無差別みたいな技――!」
「そんなヘマしないわよ!」
血霧の中から茜の声。
「さっきとは違うんだから、ちゃんと狙えば――」
だが。
その言葉が終わる前に。
「危ないよ」
穏やかな声。
――ブワッ!
血霧が、裂けた。
何かが放たれた――いや、振られたという感覚だけはあった。
辛うじて感じられた、程度だが。
勇者を囲んでいた霧が晴れる。
同時に、血の刃たちが消失する。
砕けたとか防がれたとか、そういったものではなく。
ただ、無くなった。
「……っ!」
霧が晴れたそこに。
アリスティアは無傷で立っていた。
衣服すら乱れていない。
本当に、何事もなかったかのように。
茜が息を呑む。
それでも。
彼女は止まらない。
霧化して接近。
血刃に血槍。
鎖みたいに伸びる血、破裂する血の爆弾。
あらゆる方法で。
どれも本気。全力だ。
殺意も、感情も、一切の手加減無しの全部乗せ。
血を吸って元気いっぱいの夜の眷属の吸血鬼が、全力で殺しにいっている。
なのに。
「はは……マジかよ」
アリスティアは、一歩も動かない。
剣を振るうことすら、ほとんど見えない分からない。
いや、振ってるのか?
防いでるのか?
そもそも何してんの?
分からない。
気づけば防がれている。
気づけば、攻撃が消えている。
外から見ている俺ですら何をやっているのか全っ然、分からない。
ただ一つ分かるのは。
――あ、これ、レベルが違いすぎるわ。
ってこと。
明らかに格上だ。
格上も格上っぽい。
まるで歯が立たない。
子供と大人、蟻ん子と象、スライムと大魔王。
そのくらいの差がありそう。
まったく勝てるビジョンが浮かばない。
茜が必死になればなるほど、勇者がやべぇ存在だってのがハッキリしていく。
そんな勇者は、剣を下ろしたまま困ったように首を傾げた。
「やっぱり、話を聞く気はないみたいだね」
「……っ、聞いてないのは……」
茜が息を荒げながら吐き捨てる。
「あんたでしょ……!」
「そうかな」
本気で不思議そうな顔。
「君の言いたいことは分かってるつもりだけど」
「なんで……!」
茜の声が戦闘の合間に響く。
「なんであの時、助けたのよ!」
血の刃が弾かれる。
「信じてたのに……!」
霧が散る。
「ずっと守るって……言ったじゃない……!」
アリスティアは困ったように首を傾げた。
「守ったよ?」
「……は?」
「だから今、生きてるでしょ」
ニッコリ。
いや、ニッコリじゃないが。
なに笑ってんだよ。
「私を、売って……!」
「裁いただけだよ」
淡々と。
「悪だったから」
「……っ!」
……ズレてんなぁ。
致命的にズレてる。
で、そんなやり取りを横で見る俺はというと、
「つーかコイツラなんの話ししてんだよ……」
内心で頭を抱えていた。
いやね、まずさ……
なにいきなり突っ込んでんのあいつ?
殺意マシマシ、マジモード過ぎるだろ。
操られてた時とは違って、動きが半端ないし。
血をたんまり吸って元気なのは分かる。
百年ぶり……って言ってたか?
そりゃテンションも上がるだろ、分かるよ。
でもさ、
「だからって勝手に動くなよ……」
自然と口からこぼれる。
ボヤキたくもなる。
まさか、
また、上司の命令聞かない系部下なのか?
お前はゴブリンか? 脳みそゴブ太郎なのか?
また独断専行で突っ走ってやらかすんか?
「……勝手に動くな。勝手に判断するな。まず上司に聞けよ――何かする前に!」
俺が指示するまで動くな。
自分の判断でやらかして、そのあとのケツを拭くの誰だと思ってんだ。
俺だ。
俺だぞ? 分かってんのか?
もううちの正社員になったんだから弁えろよ、調子乗んなよマジで。
次。
勇者。
こいつもこいつで何なんだよ。
正義、正義、正義、正義っ!
今日だけでいったい何回聞いたよ?
う・る・せぇ・よ!
正義って言っときゃ全部通ると思ってんのか!
意識高い系か?
正義系インフルエンサーか?
普通の人間はな、正義とか悪とか考えて生きてねぇの。んなめんどくさいこと。
仕事して、飯食って、寝て、面倒なことはなるべく避けて生きてんだよ。
巻き込むんじゃねぇよ、頭イカれてんのか、こいつら。