顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた暴力系女子と疎遠になって六年──。俺は陰キャになり果て、彼女は清楚可憐なS級美少女に変貌を遂げていた。……うん。見つからないように、影を潜めて生きていこう。   作:おひるねzz

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第18話 埼玉県の嘘つきさん

「ふぅー……」

 

 胸の奥で、小さく息を整える。

 電源を切ったスマホを、ゆっくりとポケットにしまう。

 こうしてスマホを持ち歩くのは、いつぶりだろうか。

 

 ……あのあと、常夏からの通知が鳴りやまなかった。

 どうやら、既読がついてしまったらしい。

 

「……ごめんな」

 

 今はまだ、だめなんだ。

 

 飛ぶ以外の選択肢なんてあるはずもないのに、それでも連絡できないのは、恐さや怖れからじゃない。

 

 ――もうお前に、嘘は吐きたくないんだ。

 

 今日まで俺は、嘘で自分を塗り固めてきた。

 見栄も、強がりも、負け惜しみも。

 数えきれないほど、山ほど重ねてきた。

 

 初めてハンバーグをご馳走してくれた日でさえ、強がっていらない嘘を吐いていた。

 ……クリスマスも、年越しも、初詣も、バレンタインも、節分も、ホワイトデーも。

 

 そして――。

 プリンを賭けたじゃんけん大会のときでさえも――。

 

 でも、ひとつだけ。

 その日だけは――。嘘が、嘘のまま終わらなかった。

 

 俺さ、パーを出すつもりなんて、なかったんだよ。暴力大好きグーパン女って煽れば、絶対にグーだけは出さないと思ったから。

 

 ……でも、事故で出てしまった。

 

 思えばそれが、すべての始まりだった。

 

 もしかしたらあのとき、触れ合うはずのなかった何かが、ひとつ掛け違えたまま、奇跡みたいに噛み合ってしまったのかもしれない。

 

 気づいたときにはもう、取り返しがつかなくなっていた。

 

 俺はずっと――。お前と、肩を並べたかった。

 強くて、真っすぐで、格好良くて……ずっと、憧れてたんだ。

 

 ……それなのに。

 気づけば俺は、隣に立つためじゃなく、隣に立てない自分を隠すために、走ってた。

 

 それは、今も続いている。

 間違えたまま――。走り続けてる。

 

 だからもう、嘘は吐かない。

 ……吐きたくない。

 

 飛んで、お前の隣に立つそのときまで――。

 

「……すぐだから。待っててな。……花火」

 

 

 

 

 

 

 

 小窓を開け、玄関から持ってきた靴を履く。

 

 時刻は八時を少し過ぎている。

 婆ちゃんにいらない心配はかけたくないから、こっそり家を出る。

 

 どういうつもりか、剛場は九時に集合だと言った。

 

 

 家を出ると、街灯の下に長い影が一本、じっと伸びていた。

 背の高い影は、腕を組んだまま動かない。

 暗がりの中でも、あのノッポ特有の不機嫌そうな輪郭はすぐに分かった。

 

「どうせ止めても、行くんだろ」

「ああ」

 

「高さは十メートル以上、水は膝まであるかないか。今の時間じゃ底の様子なんか分からない。欄干は錆びてるし、板もところどころ抜けてる」

「ああ」

 

「……廃橋って知ってるか?」

「ああ」

 

「廃橋だぞ?! 足を踏み外せば終わりなんだ。隙間から落ちたら、二度と浮かんでこれないかもしれないんだぞ?!」

 

「それは困るな」

 ――あいつに、会えなくなっちまう。

 

「だったら考え直せ!」

 

 肩を掴まれ、グッと前に引きずり寄せられる。

 近くで見るノッポの顔は、街灯の下で影を刻んだまま、鬼みたいに歪んでいた。

 

「どけよ」

「退くと思ってるのか」

 

「……俺にお前を殴らせるな」

「俺はお前をさんざん殴った! 無抵抗のお前を殴り続けた! 三か月間、ずっと!!」

 

 荒く吐き出された息が、夜の熱気を揺らす。

 歯を食いしばり、視線で俺を射抜く。

 

「……来いよ!」

 

 逃げ道を、一切許さない目だった。

 足元を一歩、地面ごと響かせるように踏み鳴らす。

 

「ここから先へ行きたいなら、掛かって来い!!」

 

 空気が爆ぜる。胸の奥が焼ける。

 

「……馬鹿野郎」

 

 小さく吐き捨て、そっと距離を取る。

 

「どうしたッ!? 来いって!!」

 

 その挑発が胸をえぐる。

 踵で地面を蹴りつけ、助走をつけて――。

 

「…………――ッ」

 

 一気に懐へ飛び込み、勢いのまま押し倒す。

 背中が地面に叩きつけられる音が、静けさを裂いた。

 

 跨がり、拳を握る。

 

「行かせない……行かせるものか!」

 

 両脚が俺の胴体をがっちり挟み込み、息が詰まる。

 

 それでも構わず、腹に、胸に、肩に、叩き込む――。

 

「ぐぁっはっ……もっと、もっとやれよぉぉおおお! 翔太ァッ!!」

 

 一瞬、耳の奥が熱くなった。

 それでも、振りかぶった拳は止まらない。

 

 喉を裂くほどの叫びが、その声が、

 拳よりも鋭く、胸の奥を貫いてくる。

 

「俺には誰も止められない。剛場くんも、お前も……。ただ、無抵抗なやつを殴ることしかできない……! だから……やれッ! もっとやれ――――ッ!」

 

 ……殴る手を、すっと降ろす。

 

「どうして……どうして!!??」

 

 その声は怒鳴り声というより、泣き声に近かった。

 

 ……お前ってやつは、本当に。

 

 短く息を吐く。胸の奥で、何かが静かに沈んでいく。

 

「俺はさ、あいつの隣を歩きたいんだ。それ以外に、なにもねえよ」

 

「あいつって……誰だよ?!」

 

 気づいたら、笑ってた。

 

「誰だよ?! お前をそんなになるまで苦しめてる奴なら、俺の前に連れてこい!  誰が喜ぶんだ。今のお前を見て、いったい誰が、誰がああああああ」

 

 どの口が言ってるんだよ。お前を苦しめてる奴なら、目の前に居るだろ。

 

 

 どこで間違えちまったんだろうな。

 …………ははっ。最初からだって、答えは出てただろ。

 

 お前が知ったら、きっと飛ぶなって言う。……それくらい、わかってる。

 お前が望まないことも、ちゃんとわかってる。

 

 でも、それじゃ……ダメなんだ。

 

 お前は俺には眩しすぎてさ。

 背伸びくらいじゃ、あっという間に置いていかれちまう。……嫌なんだよ。俺はお前の隣を歩きたいんだ。

 

 遠くから見ているだけじゃ、もう、満足できない。

 

 憧れるだけの毎日には、もう、戻りたくない。

 

 だから、本気で飛び上がらなきゃ、いけない。

 

 

 悪いな、ノッポ。

 

「――俺も、そう思ってる」

 

「だったら、どうして!!!!」

 

 ふっと笑って、ノッポに背を向ける。

 

「どうして、どうして……っ!」

 

 地面を殴る音と、嗚咽まじりの声が背中に突き刺さる。

 

 

 

 

 

 

「……好きだからに、決まってんだろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 +

 

 佳純ん家の前まで来て、足が止まる。

 部屋の電気がついていなかった。

 窓辺のカーテンは、夜風に揺れて静かに影を作っている。

 

 お前は、俺を止めるか?

 それとも、背中を押すか?

 

 ……ま、止めないか。

 そもそも橋にさえ来ないだろうな。

 

 あの日。お前の手を取らなかった日から、二か月。一言も交わしていない。

 

 いつ見てもお前は剛場の隣でつまらなそうにしていた。俺と目が合えば、冷えた視線を一瞬、向けるだけ。

 

 今日が終われば、チャラになるのかな。

 ――きっと、ならないだろうな。

 

 お前とは、もう。

 そういう関係じゃなくなってしまったような気がする。

 

 だから電気が消えていることが……少し、不安だった。

 

 ほんの、少したけ。

 

 ……ただ、それだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 +

 

 おそらく橋だと思われる場所に着いたときには、もう輪はできあがっていた。ただ、橋の真ん中には誰一人として居なかった。

 

 錆びた欄干が、夜風に軋んでいる。

 板はところどころ抜け落ち、黒い川面がその隙間から覗いていた。

 遠くの街灯が、波に砕けて揺れている。

 

 立入禁止の看板は色あせて、ぶら下がったまま、ゆらゆら揺れていた。

 誰も直す気はないらしい。

 足を踏み入れる前から、ここが生きた橋じゃないことがわかった。

 

 ――なるほどな。これが、廃橋か。

 ノッポがやたらと引き止めたがったわけだ。

 

 俺の姿を見つけた剛場が、待ちわびていた獲物でも見るように口角を吊り上げ、声を張り上げた。

 

「おお! やっと来やがったな、男の中の男! チーターの登場だあ! オラみんな! 拍手で出迎えてやれ! 選手入場を盛大にぶち上げてやんぞ!」

 

 その叫びに、周囲が一斉にざわめき立つ。

 安全圏から見物している取り巻きたちが、好き勝手に声を飛ばしてくる。

 

「飛んですべてを終わらせちまえ! お前ならできる!」

「今日のお前、翼が生えてるぜ! どこまでも飛べる!」

「飛ーべ。飛ーべ。飛ーべ。飛ーべ。飛ーべ!」

「控えめに言って飛べ! 飛んじゃえ!」

「脚が折れたら踏みごたえあるからなぁ……飛べ! 飛べぇっ! ペグシャバアアア!」

 

 意外にも、それは冗談でも皮肉でもなかった。本気で「飛べ」と言っている、そんな声だった。

 

 俺が飛べば剛場の独裁が終わるとでも思ってるのだろうか。つくづく甘い連中だ。

 

 剛場は、この異様な盛り上がりをニヤリと見据えて、けらけらと笑っている。

 

 ざわめきが耳にまとわりつく。声のひとつひとつが、背中を押す手のように、橋の上に広がっていく――。

 

 俺は今、この場にいる連中の視線を一身に浴びている。――飛べ、と。

 

 きっと狙い通りなのだろう。

 

 でもな、剛場。お前はひとつ誤解している。

 

 飛ぶんだよ。

 

 俺は今日、飛ぶんだ。

 

 これはもう確定事項で、揺るぎようのない事実なんだよ。

 

 

 確かな思いを胸に、橋の真ん中へと足を進める。

 でも、取り巻きの奥のほうに、思わず目を奪う影があった。

 

 ……椎名先生?

 

 うつむき、なにかを祈るように動かない

 

 ……そっか。招かれちまったのか。

 

 先頭に陣取る剛場を、ひと睨みする。

 取り巻きの隙間を縫うように、ゆっくりと先生のほうへ歩み寄った。

 

「……悪いな、先生」

「……田中」

「俺は今日、飛ぶんだよ。ここにいたら、先生はただじゃ済まない。帰ったほうがいい」 

 

 先生の眉がピクリと跳ねた。

 その瞬間、剛場が不気味な笑みを浮かべた。

 

「ど、どうした急に……。きょ、今日は肝試しか、なにかを……す、するのかな。先生、怖いのは……に、苦手だからな……ははっ」

 

 今にも泣きだしそうな顔に、胸が熱くなる。

 

「剛場、これがお前のやり方か?」

「おいおい? 言いがかりはよしてくれよな? 俺はただ、見て見ぬフリを決め込んでいる腑抜けに声を掛けてやっただけだぜ? なぁ、誰が悪い? 俺か? お前か? それとも腑抜けか?」

 

 わかりきったことを聞く剛場に、ただ一言。

 

「全員だよ」 

  

「わかってんじゃねえかよ。だったら早く行け。魅せてくれよ、チーター!」

 

 剛場は廃橋の中央を指さした。

 

 俺が転校してきたばかりに、椎名先生にはとんだハズレくじを引かせちまった。

 

 もし――。

 たとえば、もし――。

 この町によっちゃん先生が居たのなら、剛場もきっと――。

 

 そんなふうに考えてしまう俺は甘いのかもしれない。

 

 元気にしてっかな。先生――。

 

 

 遠い日の先生の笑顔が、ふっと脳裏をよぎる。

 その残響を振り払い、指さされた先へ、ゆっくりと歩き出す。

 誰もついては来ない。がやがやと声援だけが背中に降ってくる。

 

「今日のお前、輝いてるぜ!」

「お前以外に飛べる奴はいねぇっ!」

「飛ーべ。飛ーべ! 飛ーべ! 飛ーべえええ――っ! Yeahぁぁ!!」

「控えめに言って、飛べーッ! さっさと飛べーッッ!」

「大丈夫。病院まで足、踏みに行ってあげるからぁ! 安心してねぇっ! ビャギャリャアアア!」

 

 橋の真ん中に到着し、まずは確認する。

 

 ノッポの言ったとおり十メートルはある。……いや、それ以上かもしれない。

 梅雨明けのせいか、水面は妙に薄く張りついて見える。夜気に溶けて、その輪郭はぼやけていた。

 

 ここから飛び降りれば、ただじゃ済まない。

 

 すると剛場が、橋の際から声を張り上げた。

 

「よっ、男の中の男! チーター! お前なら飛べるって信じてるぜ~!」

 

 その口ぶりは、俺が飛べないと確信しているやつのそれだった。

 

「おら! お前らも、もっと盛り上げてやれって! おらおら!」

 

 呼応するように――。

 

「良かったな! これが終わればお前は二枚看板! 新たなボスの誕生だあ!」

「ボスぅ~、しびれちゃいま~す!」

「しびれるだけじゃない。なるんだよ、お前は! 憧れの存在に!」

「控えめに言って、お前がボース! ボスボスボース!」

「飛んでも飛ばなくても踏んであげるからね。安心してねぇーッ! ギャギュギョギァァ!」

 

 さらに一歩前に踏み出し、覗き込む。

 

 ……まぁ足は、確実に折れるだろうな。しばらくは瞬足の翔太は名乗れないな。

 

 …………ははっ。もうずっと、止まったままだったろ。

 

 なにも変わらない。

 

 この場所で失うものなんて、今の俺にはなにもない。

 

「すぅー……」

 

 ――なんでだろう。不思議だ。

 

 本当に大丈夫だと、心の底から思えてしまう。

 シャレにならない高さだってのに……怖くもなんともない。

 

 ……お前との約束が、あるからかな。

 

 こんなところで終わっちまったらさ、俺たちの一年間の死闘が丸ごとぜんぶ嘘だったことになっちまうもんな。

 

 あの時間は、本物だった。

 ほかのなにが嘘でも、あの時間だけは本物だった。

 

 だから俺たちは再会する。そんで必ず、再戦する。

 

 だから――。死ねないんだよ。絶対に。

 

 ――いや、違うな。

 死なないんだ。死ねないんじゃなく、死なない。

 

 俺は、死なない――。

 

 こんなにも穏やかな気持ちになれたのは、いつぶりだろう。

 

 ゆるやかな風が頬を撫でていき、心地いい。

 

「今、行くからな」

 

 勢いづくわけでもなく、息を吸うように。

 ただ、自然と、一歩、前へ――。

 

 そうか。

 

 これは――。

 飛ぶんじゃない。

 

 落ちるんだ。

 

「待たせて、ごめんな」

 

 と――。

 

 

 

「ねぇ~!」

 

 

 

 張り詰めた空気を、軽い声が真っ二つに裂いた。

 聞き覚えのある声に、思わず振り返る――。

 

「大宮ってさ、東京じゃないじゃん。嘘つき」

 

 ……嘘つき。

 

 耳慣れたその言葉が、頭の奥で何度も跳ね返った。

 

「ねぇ~、嘘つきぃー! 聞っこえってるぅー?」

 

「……うそ……つ……き?」

 

 俺は常夏に嘘を吐いている。

 だから飛べば、嘘は、嘘じゃなくなる。

 

 嘘つきじゃ、なくなる。

 

 そう、シンプルで簡単な話だった。はず――。

 

 嘘……嘘……嘘って、なんだ?

 

 ……なくなる、ってなんだ?

 

 考えもしなかった現実が、一気に押し寄せる。

 

 

 俺は、いったい……なにを――。

 

 体からストンと力が抜け、膝が折れる。

 尻もちをついた拍子に、ポケットからスマホが滑り落ちた。

 

「あっ――」

 

 反射的に手を伸ばすも、次の瞬間――。バリンッ。

 耳に飛び込んできたのは、水面を打つ音ではない。

 乾いて、軽く、小さく弾ける破裂音だった。

 

 

 

 同時に、胸の奥の糸がふっとほどけていく。

 温かく、やわらかな何かが、隙間からゆっくり満ちていく。

 

 

 

 ……あ、れ?

 

 

 

 

 ……違う、だろ?

 

 ……違う。違う。違う。これは違う。これだけは違う!!!!

 

 なんでだよ?! なんで俺は――。安心しているんだ? どうして……?!

 

 

 砕けたスマホが、地面の上で光を反射していた。

 バラバラになった破片が、わずかな水たまりの縁でじっと沈黙している。

 

 ――もう、繋がらない。

 

 胸の奥が、ゆるく温もりに包まれる。

 息がすっと楽になる。……これで、もう。

 

 ――はあ?

 

 もうって、なんだよ?!

 

 もうって、なんなんだよ?!

 

 

 違う。違う。違う。嘘だ。嘘だ嘘だ!!!!

 

 だめだ。だめだ。だめだだめだだめだ。

 飛ばないと、飛ばないと。飛ばないと――。

 

 じゃないとお前に会えなくなる。

 もう二度と、会えなくなっちまう。

 話はシンプルで、そういうことだったろ!!!!

 

「あああああああああああああああああ」

 

 叫びで自分を奮い立たせ、膝に力を込める。

 立ち上がろうとした、その瞬間――。

 

「はい、捕まえた」

 

 佳純の指先が、俺の腕を確かに掴んでいる。

 

「はぁっ?!」

 

 ほんの軽い力なのに、なぜか振りほどけない。

 足に込めたはずの力が、どこかへ流れ落ちていく……。

 

「おいおいおい! 佳純ちゃん?! なにやってんだよ! あぶねえって! 戻れ戻れ戻れ!」

 

 剛場の声が、珍しく慌てていた。

 

「悪いんだけど、あとにしてもらっていいかな? わたし、怒ってるの。この嘘つきに騙されちゃったから。ねっ、埼玉県の嘘つきさん?」

 

 嘘つき。

 

 鼓動が、一拍で全身を締めつける。

 

「さ、埼玉?! はぁ?! いやっ、話はわかったから佳純ちゃん! そこは危ないから、な? 戻って来いって! な? おい!!」

 

「ふぅん。いうこと聞いてくれないなら、このまま嘘つきの手を引いて、わたしも一緒に飛ぶ」

 

 そう。俺は嘘つき。でも、ここから飛べば――。

 

 ……あれ?

 

「だ、だめだ! 佳純ちゃん! またそんな嘘みたいなこと言って、本気なんだろ! もう二度としないって、自分で言ってたじゃないか!」

 

 嘘。……嘘。……本気? 二度としない? ……は?

 

 なんだって?

 

 思わず佳純を見やる。

 彼女は知らないと言いたげに首をかしげた。

 

 次の瞬間、剛場を真っすぐ見据える。

 

「本気だよ」

 

 冷えた声色で、薄気味悪く笑った。

 

 その表情を見た瞬間、剛場の顔色が変わった。

 もはや声に、取り繕う余地など残っていなかった。

 

「わかった! わかったから! 撤収だ撤収! 走れ、早く! 早く!!」

 

 突然の剛場の一喝に、取り巻きたちは一瞬ぽかんと立ち尽くす。

 

「走れっつってんだろこの野郎ォォォ!!! 殺すぞてめえらぁぁぁあああ!!! 椎名、テメェもだ!」

 

 剛場が吠えた。その迫力は地面を揺らすようだった。

 怒鳴るところなんて、初めて見たかもしれない――。

 

 命令に押されるように、全員が慌てて駆け出す。

 

「チーター! お前、わかってんだろうな。佳純ちゃんに何かあったら……何かあったらな……ただじゃすまさねぇ……くそっ」

 

 その低い声は、怒鳴り声よりも鋭く胸に刺さった。

 冗談でも脅しでもない。――願いだ。

 

 

 気づけば、残されたのは俺と佳純だけだった。

 

 思えば俺は――彼女のことを、ほとんど知らない。

 

 ドキプリが好きで、四畳半の俺の部屋を嫌っていて、ブタメンとんこつ味が苦手で、

 笑顔の下にクールを貼りつけているように見えるけど、本気で笑うときはちゃんと笑える子で――。

 それなのに最近は、笑わなくなって。

 俺のために泣いてくれたのに。俺のせいで、笑わなくなって。……俺のせいで。……俺のせいで――。

 

 

 最後に話してから、二か月が経っている。

 手を取らなかった、あの日から――。

 

 

 いったい、なにがあった?

 

 

 

 

 もしかしてお前、飛ぶのか?

 

 

 佳純を見やると、薄気味悪く笑った。

 

「嘘つき」

 

 静かに、刃物のように。何かを見透かされたようで、背筋が冷えた。

 

 心臓がひとつ大きく跳ねる。その鼓動を測ったかのように、続けて――。

 

「嘘つき」

 

 知っている響きとは、少し違った。

 何度も聞いてきたからわかる。その音は俺の奥に沈んでくる。

 

「嘘つき」

 

 今度は、真っ直ぐ心臓を撃ち抜かれた。

 

 ……そうだ。

 

 どうして俺は――。飛べば、お前と肩を並べられると思っていたのだろう。

 あの日、剛場にサシで挑んで、相手にすらされなかった俺が、

 どうして、ここから飛べばお前に会えるなんて思ったんだろう。

 

 俺は偽物だった。

 ボスの器じゃなかった。

 

 答えなんて、とっくに出ていただろ。

 

 俺は、嘘つきだった――。

 最初から、お前には嘘ばかり吐いていた。

 

 ここから飛んでボスになれば、その嘘が消えるのか?

 

 今までついた嘘がなかったことになるのか?

 

 ……違うだろ。

 

 

「嘘つき」

 

 吐いた嘘は、消えない。

 吐いた嘘は、もう二度と元には戻らない。

 

「嘘つき」

 

 俺はずっと――。嘘を現実に変えようと、足掻いていた、だけだった。

 

 

 

 

 

 ……そう悟った、ほんの一瞬の静けさ。

 

 背中に冷たい息が触れる。

 

 まるで見透かすように。

 

「どうする? べつにいいよ、わたしは」 

 

 その声に、無意識に顔を上げていた。

 指先が絡み、引かれるままに一歩。

 足元の世界が、わずかに揺れる。

 

 もう、飛ぶ理由なんてないはずなのに――。

 ……それ以上に、断る理由も、ない。

 

 ……そっか。……もう――。

 

 

「…………」

 

 掴まれていた手が、静かに引かれる。

 次の瞬間、全身がやわらかな檻に閉じ込められた。

 

 両腕が背中に回り、逃げ道は消える。

 

 耳元で、甘く湿った囁きが滴り落ちた。

 

「……いいよ。君が望むなら」

 

 サー……と、血が足先まで引いていく。

 立っているのに、どこにも立っていないようだった。

 

 ――俺にはもう、なにもない。

 最初から、お前の隣を歩く資格なんてなかった。

 

 だったら――。

 

「大丈夫だよ。すぐ終わるから」

 

 その一言は、鎌のように鋭かった。まるで死神。

 

 たぶん今、手を引かれたら抗えない。

 そのまま一緒に落ちるだけ。

 

 でもきっと、それは――。

 足からじゃ、ない――。

 

 

「……ありがとう」

 

 自分でも、なぜその言葉が口をついたのか分からない。

 喉の奥からこぼれ落ちたそれは、妙に軽くて、やけに遠かった。

 

 佳純の目が一瞬だけ揺れた気がした。

 

 それから――。

 死神は鎌をおろした。

 

 

「君のいた学校ではさ、きっと駆けっこの速い奴が偉かったんだよ」

 

 突然の言葉に、思わず顔を上げる。

 何を言い出すのかと思えば、佳純は淡々と続けた。

 

「でもこの町じゃ、剛場が一番偉い。勉強できる人よりも、駆けっこが速い君よりも、誰よりも可愛いわたしよりもね」

 

 声色は穏やかなのに、言葉の芯はやけに硬い。

 

「この町は特別。剛場が王様の世界。他とは違うんだよ」

 

 佳純は少しだけ視線を遠くへ投げた。

 

「でも君は、ここにずっとはいない。帰る場所がある。今は帰れないにしても、あの日のお父さんの目を見れば、わかる」

 

 胸の奥で、何かがちくりと刺さる。

 

「だから教えてあげる。中学生になるとさ、喧嘩の強い奴が偉くなるの。そういう意味じゃ、いっとき。この町も普通に戻るのかな? 剛場は強いからね」

 

 俺の反応を確かめるように一瞬だけ視線を寄越し、また前を見た。

 

「でも高校生になると、お洒落で格好良い人がちやほやされる。それは大学生になってもきっと変わらない」

 

 言葉の裏に揺らぎはなく、射抜くような目が俺を捉える。

 

「そして社会人になると、勉強ができて、気配りもできる人が出世するんだよ。今までは勉強ができても、脚が速い人、喧嘩が強い人、格好良い人には勝てなかったのに、大人になると立場が逆転するの」

 

 佳純は、ほんのわずかに口元をほころばせて、

 

「だからさ、君はまだ終わってないよ?」

 

「……まだって?」

 

「まだ」

 

 それはまるで、あいつとのことを思わせる響きだった。

 

「……でも俺、勉強なんて」

 

「君の気持ちはそんなもの? ならいいよ。ここで一緒に終わってあげる」

 

 終わる。

 

 終わる。

 

 どうして冗談に聞こえないのだろう。そんなこと、許されるはずがないのに。

 

 それにどうして、今はこんなにも耳障りが悪いのだろう――。

 

 

「どうする? 逃げる? 終わる? いいよ、どっちでも」

 

 どっちでもいい。それさえも冗談に聞こえない。

 

 

 ……そうか。

 

「だめだ」

「なにが? ちゃんと言って」

 

「……やるよ、俺。勉強。……だからお前、そんなこと言うなよ!」

 

「…………」

 

 佳純の瞳にふっと色が差し、ほんの一瞬だけ切なげに揺れた。

 

「言うなよ!!!!」

 

 二度目は、さらに強く全身でぶつけた。

 

 再度、瞳が揺れ、ふっと細められる。

 そのまま、小さな笑みがやわらかく咲き――。

 

「そっか。ざーんねん」

 

 そう言った彼女の顔は、いつぶりだかわからない。最高の笑顔に包まれていた――。

 

 

 ――よかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行ってらっしゃい」

 

 

 ストンッ。

 

 

 

「……え?」

 

 

 みるみる視界から遠ざかる彼女の顔は変わらず、ずっと――。

 

 最高の笑顔のまま、俺を見送っていた。

 

 

 

 

 

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