顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた暴力系女子と疎遠になって六年──。俺は陰キャになり果て、彼女は清楚可憐なS級美少女に変貌を遂げていた。……うん。見つからないように、影を潜めて生きていこう。 作:おひるねzz
かつての宿敵と、海辺の石段に肩を並べて座っていた。
潮の匂いと、絶え間なく寄せては返す波の音。乾いた石に体を預けると、ここで過ごした日々が胸の奥からよみがえってくる。
「なぁ、おい。本当に今日、行っちまうのかよ……」
「親父のこと、放っとけねぇって何度も言ってんだろ」
……あの人の時計は止まったままだ。
三年前。俺をこの町に連れてきた、あの日から。
「んだよ。俺のことは一人にさせてもいいってのかよ?」
「お前は一人なんかじゃねえだろ。なにより寂しがるようなタマでもねえだろうが」
軽口を叩いてはみたけれど、気づけば俺は目を逸らしてた。
「あぁもう喉乾いた! チーター喉乾いた! 水水水!」
「ったく。デブは燃費悪いんだから、水筒くらい持ち歩けよな」
そう言って、水筒からコップに水を注ぐ。
大きな体が、やけに小さく見えた。
「……寂しくなるな。こうやって、お前から水を分けてもらうこともなくなっちまうんだもんな」
「馬鹿言えよ。ただの水道水だ。飲みたきゃそのへんで蛇口ひねってこい」
茶化したはずが、どこか遠くを見ていた。
「……俺さ、こうやってお前と並んで水飲む時間、好きだったんだよな」
一瞬、胸の奥がざわつく。
「……なに感傷に浸ってんだよ。らしくねえって」
「俺は……あの日、間違えた。本当はお前にジュースをご馳走してやりたかっただけなのに、間違えちまったんだ……」
「やめろ。その話はもういい。俺だってガキだった。それで終わったろ」
言葉が途切れ、俯いたまま声を落とした。
「終わっちゃいねぇ……」
震える声が、次の瞬間には怒鳴り声へと変わる。
「終わっちゃ、いねえよっ!」
その熱をさらに燃やすように立ち上がると、荒れる波に向かって叫んだ。
「何が飲みたいか、言えーッ!」
ったく。
「いらねえよ」
「今日で最後なんだ。わがままだと思って聞いてくれ。頼むから……!」
最後って言ってもよ。
あのときと今じゃ、状況がぜんぜん違うだろ。
「頼む……! このままサヨナラなんて、俺はしたくねぇっ!」
「…………」
「チーター…………翔太!」
胸をつかまれたみたいに、言葉が勝手に漏れた。
「……コーラ」
その一言だけで十分だったようで、弾けるような笑みを浮かべて走り出して行ってしまった。
「……ったくよ」
案外、受け入れてみればなんてことはなかった。
こいつは気のいいやつで、それこそピンク色の魔人みたいに無邪気で、気づけば当たり前の存在になっていた。
ただ、やっぱりリーダーはこいつだった。こうして一緒にいると、嫌でも実感させられる。
――剛場 司。剛場建設の跡取り息子にして、町議会議員のドンの孫。
生まれながらにしてリーダーのやつと、空席にたまたま収まっただけの似非リーダー。その違いは火を見るより明らかだった。
とはいえ、今の俺には勉強がある。
それさえ頑張っていれば、いつかまたあいつと会ったとき、胸を張れる自分でいられる。
……そんなことを考えていると、背後からドタドタと足音が近づいてきた。
思ったよりも早く剛場が息を切らしながら駆け戻ってきた。
手には、キンと冷えてそうなコーラの缶。
「……はぁはぁ……ぐびっといってくれ! ……ぐびっと! はぁはぁ」
満面の笑みで差し出されたそれを、俺は受け取る。
「さんきゅ」
缶の冷たさが手にしみた。……俺の分だけ、か。
あの日以来、剛場は小遣いなしの刑に処されている。
ジュース一本だって、手に入れるのは楽じゃない。自販機の下を覗いたり、返却口を何度も叩いたり、道端や側溝まで目を光らせたり……。
その姿が脳裏にちらついて、缶を開ける指先が動かなくなった
「おいおいおい! 変な想像すんなって! 悪さしたわけじゃねぇよ。爺ちゃんに頼んだらさ、庭の草むしりしたら今回だけ特別に許してやるって言われたんだ。ジュース一本分!」
そこに剛場の分を含めないのが、あの爺さんらしいというか、なんというか。
つーか、草むしりって……。
「……それ、どんだけかかったんだよ……」
剛場ん家の庭の広さを思うと、想像するだけで気が遠くなるってのに――。
「へへっ。俺はよ、お前にジュースを渡せればなんだっていいんだよ。はぁ、よかった。よかった。ほんとによかった」
剛場の目には、どうしようもなく優しい色が浮かんでいた。
バカ野郎。
「つーか、一緒に飲もうぜ! なっ!」
「そ、それは……お前にあげたものだからいらねえ!」
お小遣いどころか、贅沢禁止令まで出されてる。
ジュースなんてもってのほかで、水ばっかの生活だ。
……俺は平気でも、こいつにはきっと地獄だ。
あの日からの三年を、近くで見てきたから、わかる。
「俺の門出を祝うっつーんなら、乾杯しないとだろ」
「じゃあ、チーター水くれ水!」
「本日の営業は終了しましたー」
「はぁ?! てめえ……!」
「飲もうぜ!」
「し、仕方ねえな……ゴクリ」
まるであの日をやり直すように、俺たちは缶を回し飲みした。
甘ったるい炭酸の泡が喉を刺す。
もし、あの日こんなスタートを切っていたのなら――。
今頃、どうなっていたのだろうか。
……きっと、剛場とはここまで打ち解けていなかった。
そして、嘘つき野郎の冬雪翔太はまだ、生きていたのかもしれない。
そう考えると少し、ゾッとする。
潮の匂いと、寄せては返す波の音ばかりが耳に残った。
ふと横を見ると、剛場は黙って海を眺めていた。
その横顔は、いつの間にか真剣な色を帯びていて、やがて静かに口を開いた。
「……なあ、いつでも帰って来いよ。ここはお前にとって帰るべき場所だ」
「なんだよ、改まって」
「茶化すなよ。いくつになってもいいんだ。それこそじじいになったっていい。結婚して子供ができたら、そのときは家族で遊びに来たっていい。今日が別れじゃないってことだけは、約束しろ」
「なんだよ柄にもねえな。まあ爺ちゃんに会いに来ることもあるだろうし、ちょいちょい来るだろ」
「ならいいんだよ。ただ、お前はよ、ときどき諦めたような面をするときがあるからよ。目の届かない遠くに行かせちまうのが、どうにも心配なんだよ」
「なんだそれ。保護者かよ」
「この減らず口が! まあ、いつでも戻ってこい。さっきも言ったが、ここはお前が帰るべき場所だ。忘れんじゃねえぞ」
「……おう。そうだな」
胸の奥に、どうしようもなく本物と偽物の違いを刻み込まれる。
……思えば、この差を最初に見せつけられたのは、俺がサシで挑んで相手にされなかったときだった。
お前はまじで強かった。
普通ならあそこで敗北を認める場面なのに、冬雪翔太は抗い続けちまったんだよな。
バカだよな。
止まることを知らず、進むしかなかった哀れな男の行き着く先。
――きっと、なにを言っても止まらなかった。
だから彼女が、背中を押して救ってくれたんだ。
冬雪翔太は、あの日に、死んだんだ。
+
「たけちゃんすまねぇ。この通りだ」
「おいおい、よしとくれや。マー坊。俺らの間で、そりゃなしだろて?」
「いんや。こんの愚孫が悪さしよってからに。もう二度と頭さ上げらんねぇ。このまま玄関の肥やしになる覚悟で今日は来た」
「ははっ。頑固なところは変わらんのうマー坊は。本当に怒っとらんのよ。なっ、翔太?」
玄関の冷たいタイルに額を押しつけるのは、町議会を牛耳る「ドン」――剛場の爺ちゃん。
あの剛場家の頂点が、俺の家の汚れた玄関で土下座している。信じられない光景だった。
そしてそれを「マー坊」呼ばわりしながら笑うのは、俺の爺ちゃん――「たけちゃん」。
並んだ姿はどう見てもただの同級生同士で……権力とか威光とか、そんなものはどこにも見えなかった。
「うん!」
だからってわけじゃないが、俺は力強く返事をした。
爺ちゃんの言う通り、俺はまったく怒っていない。謝られる筋合いなんて、どこにもなかった。
「たけちゃんよ、それじゃ筋が立たん。怒ってないからいい。そんな簡単な話やなか。時代が違う。世の中も、もう変わっとる」
「時代がどうの筋がどうのと、そげな味気ないこと言うな。ワシらぁ、もっと不器用でええじゃろ、マー坊。なに、孫っ子はひとかけらも怒っとらんのだから、の?」
「うん!」
もう一度、さっきよりも大きな声で返事をした。
「まあ、マー坊が責任を感じるっつーんなら、ワシも同義だで。翔太のことは最初から見とった。歩き方をみりゃ、わかる。そうだな……学校に通い始めて三日目くらいかのう。よそもんの制裁を受けて、くたびれた様子で帰ってきたと思ったわ。だが弱音ひとつ吐かんと、次の日も、その次の日も学校に行きよった。目は死んどらんかった。ええ顔しておったで」
爺ちゃんの声は叱責でも同情でもないように聞こえた。ただ淡々とした実感がにじんでいた。俺を見てきた歳月を、そのまま口にしているような重みがある。
「そんで昨日だ。ええ目をしておった。覚悟が宿っていた。こいつぁいよいよやべえかとも思った。あの目をする人間は、ろくな末路を辿らん。……んだども止めなんだ。だから責任はワシにもある」
爺ちゃんの言葉は淡々としていたのに、俺の胸にはずしりと響いた。誰を責めるでもなく、ただ事実を告げるその声音に、逃げ場のない現実だけが浮かび上がる……。
しばしの沈黙が落ちた。ドンが重く息を吐き、その顔には悔いと安堵が入り混じった色がにじんでいた。
「……タケちゃんが水門を開けて回ってなかったらと思うと、冷や汗が止まらねぇだよ。あそこは普段なら岸辺は膝までの浅瀬だが……水が寄ると中央だけが深みになる。ちょうど落ちたのは、その真上だったんだ。……ほんの二、三十分の違いで、生きるか死ぬかが分かれたのかと思うと……そのことをえらく考えちまってな。……奇跡だで」
「マー坊は昔っから頭が堅ぇわい。水門を開けとらなんだら、そもそも橋になんざ行かせとらん。ワシが止めとる。消防団の若ぇのだって呼び出してスタンバっとらんでな」
言いながら爺ちゃんは肩をすくめて笑うと――。
「まっ、お礼言うんならスナック・シリウスの娘っ子に言うんだな。全部あの子の知恵だ。ありゃあ、ええ嫁になるわい」
そう言って、ひげを撫でながら満足げにうなずいた。
なにからなにまで佳純の手のひらの上で間違いはないのだが、表に出ている話と、実際のところはだいぶ異なっている。
――紐無しバンジーを剛場に持ちかけたのは、他でもない佳純だった。
もちろん剛場は、それを絶対に口外しない。
だから、真相を知ってるのは俺と剛場と佳純――。その三人だけ。
んで、埼玉県の嘘つき野郎は、最後にもうひとつだけ嘘をついた。
落とされたわけでもなく、飛んだわけでもなく、自ら脚を滑らせたことにしたんだ。
自分の無事がわかったとき、頭の中でなにかが繋がった。
それが正しいかどうかはわからない。けど、ひとつだけ確かなのは、あの瞬間。
冬雪翔太は死んだ。
彼女が、冬雪翔太を殺してくれた。
止まることを知らない哀れな亡霊の背中を『いってらっしゃい』と押してくれたんだ。
――だから、ここから先は田中翔太として歩いていく。
そして今、目の前でとんでもないことが起こっちまっている。
爺ちゃんがいい雰囲気で締めたのに――。
剛場の態度に、ドンがぶち切れてしまったんだ。
「こんの悪たれが! なにをお前は地べたから頭を離しちょる! はよ地べたにこすり付けんかァッ!」
剛場の頭をぐりぐりと踏みつける姿は、まさしくドンそのものだった。
「わ、わわわかったから、やめてくれよ爺ちゃん……!」
「だまらんか! 口答えすんな、悪たれ小僧がぁあ!」
今度は杖を振りかぶり、尻をスパコォーン!
「ぐはぁっ……!」
剛場の悲痛な声が玄関を震わせた。すかさず爺ちゃんが声をかける。
「ま、マー坊。さすがにそれは、ま、まずかろうが? 時代が違うとか、い、言うとらんかったか?」
「……タケちゃん。家族は別じゃ。ワシはこの悪たれをまだ諦めとらんのだ」
その顔はみるみる鬼の形相に変わっていく。
「聞け、悪たれ! お前は今後一切、小遣いなしだ! お年玉もやらん! 自分で稼げるようになるまで、一切の贅沢は許さんぞ!」
「じ、爺ちゃん、それは……そ、それだけは……!」
「こぉんの悪たれめがぁ! この期に及んで、まだそんな口がきけるか! 橋の下に捨ててきてやろうか!」
剛場は玄関を這いずりながら、必死にドンから距離を取ろうとする。
「やだよぉ爺ちゃん。そんなこと言わないでくれよぉ……」
「だまらんか小僧ォ! ワシの目ぇ黒いうちは、二度と布団で寝れると思うな! 畳ん上で転がって、自分の罪の深さ骨身に染み込ませぇ!」
こんなとき、田中翔太ならどうするだろうか。
時間がもったいない、なんて言いながら、自分の部屋に戻って算数ドリルでも開くのだろうか。――答えはNOだ。
田中だろうが、冬雪だろうが関係ない。俺は翔太だ。
それだけは変わらない。変わっちゃいけないんだ。
「剛場の爺ちゃん。俺は本当に怒ってないんだ。むしろ謝りたいくらいだ。つまらない意地を張っていた。とっくに決着はついていたのに、俺は負けを認められなかった。だからこの場を借りて謝りたい」
……そもそも度胸試しは、剛場に責任はないからな。
「だまらんか小僧ォ! 男なら人前で軽々しく頭を下げるもんじゃなか! この悪たれとは訳が違う! それになァ、これは剛場家の問題じゃ。口ぇ挟むでねぇッ!」
「ほぅ……マー坊よ。ワシの孫っこを説教するつもりか?」
「いくらタケちゃんとて、ここから先は立ち入り禁止だで」
「ほぉーう……」
「ほうほう……」
爺ちゃん二人の目が合い、玄関に火花が散る。……ばちばち。恐ろしすぎる……。
そのにらみ合いを横目に、剛場がぽつりと声を落とした。
「チーター……すまねぇな」
「やめろよ。負けたのは俺だ。お前にそんなしおらしくされたら、かえって惨めになる。それに――」
剛場は、俺の言葉を遮るように首を振った。
それ以上は言うな。言葉にするな。そう訴える無言の願いだった。
少なくとも、こいつにとっては「しつけ」で、虐めや暴力ではなかった。
けどそれは間違いだ。力でねじ伏せるのは「しつけ」とは言わない。そんなものはもう、ただの暴力であり、独裁だ。椎名先生や取り巻き連中の顔を見れば、一目でわかる。
……まあ、とはいえ残念ながら俺に止める力はなかった。
ただ、きっと――。冬雪翔太が死んだように、独裁者・剛場司もまた、あの瞬間に死んだのだろう。
結局、すべては彼女の手のひらの上、か――。
+
朝の空気は、どこか澄んでいて、遠くでカラスの鳴き声が響いていた。潮風がふわりと頬を撫で、眠気を残した体を少しずつ覚ましていく。
婆ちゃんに「いってらっしゃい」と背を押され、ランドセルを背負い直して門を出た、その瞬間。
そこに立っていた懐かしい姿に、心臓が一気に跳ねた。
「……いつぶりだよ」
込み上げてくるものを抑えきれず、思わず足が止まる。その背中を、ただじっと見つめてしまった。
気配に気づいたのか、ぱっと振り向き――。
朝日を背にしたその笑顔は、眩しいくらいに清らかで。
「あ、田中くん! おはよう!」
しかし、それは俺の知っている彼女とは掛け離れていて、思わず――。
「やめろよ、その呼び方……気持ちわりぃ」
反射的な言葉が口をついていた。
「は? 君から言い出したのに、その反応はどうなの?」
「あ……」
「完全に忘れてるって顔だよね。君ってもしかして、あれかな? 三歩歩いたら忘れちゃう体質?」
「ば、馬鹿にするなよ?!」
冬雪翔太は死んだ。あの日、佳純が殺してくれた。
今ここにいるのは、田中だ。
「いや……」
言葉の端から滲んだ変化を嗅ぎ取ったのか、彼女はすぐに笑って言った。
「じゃあ行こっか、田中くん!」
「やっぱ、やめてくんねえ? 明らかに言い方変えてるだろ?! 清楚っていうか、おしとやかっていうか! さわやかっていうか! 誰だお前?」
「もぅ、田中くんってば、早くしないと学校遅刻しちゃうよ?」
少し小馬鹿にしてくる感じは、きっと彼女なりの気遣い。
足が自然と弾んで、学校までの道のりがやけに短く感じた。
こんな気持ちで登校するのはいつぶりだろう。少なくとも、この町では初めてだった。
「ほぉら! 田中くん! 置いてっちゃうよぉ?」
「だからそれ、やめろって! 鳥肌が止まらねえんだよ?!」
今日から俺は、田中だ――。
田中翔太、行ってきます。
校門をくぐった瞬間、胸の奥が普段よりずっと軽いことに気づいた。
下駄箱の列に、刻まれる「田中」の二文字。
それを見つけたとたん、自然と口元がゆるむ。
今までただの文字だったはずなのに――。
今日はやけに特別に見えた。
そんな俺の様子に気づいたのか、ぽんと頭を叩かれた。
「ほら、行くよ? た・な・か!」
彼女は、まぶしいくらいに笑っていた。
「おーう! つーか、今度は呼び捨て?!」
その声は、まるで新しいスタートを告げる合図みたいに、胸の奥へ突き抜けていった。
教室に入ると、待っていたように剛場がぶっきらぼうに袋を差し出した。
「……これ」
袋を開けるとスマホが入っていて、俺が川に落としたものとまったく同じ機種だった。
バラバラになったうえに、沈んじまって修理とかの話じゃなかったからな。
でも、それ以上に――。
「……いらね」
もう必要ないものだ。
今の俺はあいつとは並んで歩けない。
だから剛場に袋ごと突き返してやると、意外にも。
「……え」
いや、なんでこいつ、そんな泣きそうな顔してんだ。柄にもないなんてレベルじゃねぇ……。
思えば、ドンにとんでもない仕置きを食らってた。そのあとで俺にスマホを渡してくる理由。……想像はつかねぇけど、どうせドンが絡んでるんだろうな。
けど、二十四万だぞ。落としたのは俺の責任だし。
なにより、必要ないからな……。
返答に困っていると――。
「じゃあ、わたしがもらってあーげる!」
ぴょこんと、俺と剛場の間に佳純が割り込んできた。
「か、佳純ちゃん……いくらなんでも、それは……」
剛場はスマホの袋を大事そうに胸に抱え込んでしまった。
きっと、こいつなりのケツの拭き方ってやつなのだろう。だったら――。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
剛場からスマホが入った袋を受け取るなり、
「佳純! お前にやる!」
ぐいっと押しつけてやった。
佳純はふわりと笑って、
「はーい。もらってあげまーす! ま、これは借りってことにしといてあげる。可愛い可愛い佳純ちゃんに貸しをつくれるなんて、世界中の男を敵にまわしたかもね?」
「ははっ、そりゃこぇえわ!」
借りなんてとんでもねえ。そんなこと言ったら、俺はもう返し切れねえくらい借りてる。
しかも今だって、スマホを受け取ってもらったおかげで助けられてる。結局また、借りが増えちまってんだ。
すると剛場は、ピンク色の魔人がまるでヤカンを沸かすかのように震えだし――。
「ち、チーター……てめえ……!」
怒りがグラグラと音を立てて沸き上がる。
ここで怒ったら今までと同じだぞ、
なんて思うも、その予想は盛大に外れていた。
「よ、呼び捨て……か、佳純ちゃんを……お、お前呼ばわり……」
あー、そういえば、そんなこともあったな。
「じゃあ、佳純。大事に使えよな。佳純。ああ佳純。お前にあげて良かったよ、佳純」
「うんっ、ありがとう。田中くん!」
いや、だからそのノリなんなんだよ。なんてツッコむよりも前に――。
「チータぁあああああ! てめえぇっ!」
物凄い怒鳴り声と同時に飛びかかってきた。
するりと身をかわし、挑発するように笑う。
「来いよ。捕まえられるもんならな!」
――なぁ、常夏。
俺はもう、お前の隣を歩くことは諦めた。
だから、逃げてもいいよな。
「て、テメエ! 佳純ちゃんを呼び捨てにするのだけは絶対に許さねえっ!」
「そうかよ。ほら、こっちだ、うすのろ!」
「お、怒ったぞー! 怒っちゃったもんねー」
逃げて、逃げて、逃げて――。逃げまわる。
だってもう、ボスである必要は、ないから。
ただな、俺はお前を諦めたわけじゃない。
またいつか、どこかで、会ったときに――。恥ずかしくない自分でいられるように、これからは勉強をがんばろうと思っている。
「鬼さん、こちら」
「くっそぉぉてめええええ!」
勝手に決めて、ごめんな。
勝手に背を向けて、ごめんな。
「おいコラ逃げんな!」
嘘ばっかで、ごめんな。
素直になれなくて、ごめんな。
「……待てよ、はぁはぁ……」
弱いままで、ごめんな。
隣にいられなくて、ごめんな。
返事できなくて、ごめんな。
既読だけつけて、ごめんな。
「はぁ……はぁ……ぜぇ……」
さよならも言えなくて、ごめんな。
好きだって言えなくて、ごめんな。
「手の鳴るほーうへ」
「ま、待てぇ……こ、この野郎…………」
こんな自分勝手な俺だけど、
これからもずっと、変わらずに、お前のことが好きだ。
……ごめんな。
常夏花火のことが大好きな冬雪翔太は、死んだ。
もう前へは進めなかった。どんどん離れていくお前との距離を受け入れられずに、自分自身にも嘘をついていた。
だから、終わらせるしかなかった。
でもな、ようやく進むことができたんだ。
バトンは確かに受け取った。田中翔太も変わらないくらいに、お前のことが大好きだ。
待っててくれとは言わない。これは俺が勝手に決めたこと。
またいつか、会えたらいいな。……会いたいな。なんて。
そのときはきっと、胸を張ってお前の隣を歩ける男になっているはずだから――。
いつかの、そのときまで――。
――忘れない。