顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた暴力系女子と疎遠になって六年──。俺は陰キャになり果て、彼女は清楚可憐なS級美少女に変貌を遂げていた。……うん。見つからないように、影を潜めて生きていこう。   作:おひるねzz

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第22話 君は、誰だい……?

 駅までの足取りは、笑えないくらいに重かった。

 歩道を行き交う人たちの笑い声も、遠くの車のクラクションも、すべてがどこか遠い世界の出来事みたいに聞こえる。

 

 冗談にしては質が悪すぎる。まるで悪い夢でも見ているようだった。

 

「……まみちゃんって、誰だよ」

 

 お前は、佳純だろ?!

 

 信号待ちの人波に紛れながら、頭の中を嫌な考えばかりが駆け巡る。

 あの笑顔も距離の近さも全て、本物だった。……見せつけられた、気がした。

 

 それもまた、あの男だ。

 常夏の隣にいるのも、佳純の彼氏だというのも……すべて五球瑠偉。

 

 佳純がなにをしに来たのかなんて、もうどうでもよかった。

 あの様子から察するに、おそらくは二郎で待ち合わせなのだろう。

 

「……知るか」

 

 なぜ、こんなにも胸が痛むのか。

 自分でも答えを出せないまま、改札を抜ける。構内のざわめき、ホームに吹き込む風、全てが自分をすり抜けていくようだった。

 

 電車が滑り込む音が響く。

 車輪のきしみも、人々のざわめきも、今の俺には何ひとつ届かない。

 

 

 そして――。

 

 ガシャンと響く閉扉の音に、現実に引き戻される。

 

「あっ――」

 

 気づけば車両は遠ざかっていた。

 

 俺はまた、置き去りにされてしまった。

 

 しかも二度目。

 

 何やってんだよ、俺――。

 

 結局、電車に乗れたのは、さらに二本を見送ったあとだった。

 

 

 だからこれはきっと、単なる腹いせだ。

 

 電車に揺られて数分。ドアを背もたれにする俺はふと、視線が吸い寄せられた。

 端の席に座る男。歳は同じくらいに見える。茶髪に、少し着崩した制服。今風の見た目に似合わず、神妙な面持ちでまわりを見渡していた。

 

 その正面には、四人組の今どき女子高生。二人が端に座り、二人が吊り革につかまりながら笑い合っている。電車が揺れるたび、短いスカートの裾がふわりと揺れ、あられもない太ももが露見する。

 

 ドアに寄りかかっているせいか、俺の位置は男から見てちょうど死角になっていた。

 だから――。その一瞬の動作を、俺だけが目にした。

 

 男が手にしているスマホは手帳型ケースに入っていた。

 ほんのわずかな手つきでカメラを起動すると、録画が始まった。カバーを閉じる所作は迷いがなく、あまりに自然だった。そのまま何事もなく膝に置かれたスマホは、真正面の女子高生たちを外すことなく捉えていた。

 

 ――盗撮か。

 

 

 俺の本分は目立たないこと。

 座右の銘は、一歩前に出ない勇気だ。

 

 だから盗撮なんて目に入ったとしても、過ぎ去る景色のひとつにすぎない。

 

 別に俺が特別なんじゃない。今の世の中、ほとんどの人間がそうだ。わざわざ声を上げる者は少なく、声を上げれば逆に注目され、第三者に撮影されて拡散されるかもしれない。

 

 生きづらい世の中になった。

 

 だからこれは、ただの腹いせだ。

 今日の俺は、虫の居所が悪い――。

 

 

 スマホを持つ男の手首をガシッと掴む。

 

「なっ、俺はやってなっ――」

 

 反射的な否定。それはもう認めているのと同じだった。

 

 だが、俺の顔を見た瞬間。

 焦り顔は、何事もなかったように剥がれ落ちた。

 

 そして――。

 

「おめえ! なにしやがんだよ?!」

 

 世の中は、存外に腐っている。

 

 だが、今日の俺はここで引き下がれるほど、お利口ではない。

 

「なにってお前!! とうさ――」

 

「あーあーあー! あーあーあー!」

 

 俺の声をかき消すように、突然の大声。甲高いその叫びに、車内の空気がビクリと揺れる。数人がスマホを下ろし、何事かと視線が集まった。

 

「盗撮魔! 盗撮魔がいまーす!」

 

「は?」

 

 頭の中が真っ白になる。掴んでいた手から自然と力が抜けていった。

 男はその一瞬を逃さず、身をねじって俺の腕を振り払った。

 立ち上がると、今度は指を突きつけて叫んだ。

 

「こいつこいつ! 盗撮魔! 盗撮魔!」

 

 俺を指さしながら一歩、二歩、三歩と下がる。人々の視線が一斉に俺へ突き刺さる。次の瞬間、男は隣の車両へと駆け出していた。

 

 残された俺のまわりで、車内がざわめき始める。好奇と嫌悪の視線が重なり、逃げ場はどこにもない。

 

 群衆の圧に背中を押されるように、大柄な男の手が伸び、俺の腕を掴んだ。

 

 ――私刑執行人。

 

「おい、兄ちゃん、スマホ出しな」

 

 その言葉を聞いて、絶望が胸を突いた。

 なんてことはない。盗撮していないのだから、スマホを出せば済む話。

 

 でも、俺にはそれができない。

 

 ――持っていないからだ。

 

 どうせ。どこに隠しただの、捨てただのと始まって、そのうちに撮影されて、ネットにアップされて、拡散されて――。

 

 俺の無実が警察署で晴れた頃には、すべてが手遅れで――。

 

 そう、思えるだけの根拠がざわざわと耳に入ってきて――。

 

 「なんか怪しかったもんな」

 「あれは確実に撮ってたよな」

 「つーかいかにもな見た目じゃん」

 「青春、盗撮で終わらすとかバカだね~」

 「どう見たって青春送ってないって面な!」

 「性欲モンスターかよ、引くわ~。猿高生かって」

 「見るからに童貞で草」

 

 もう一度、言う。

 

 世の中は、存外に腐っている。

 

 

 ……いや。やめよう。本分を忘れた罰が当たったんだ。

 

 一歩前に出ない勇気。

 

 大人になるってそういうことだって、教えてもらったのに⋯⋯。

 

 本当に学ばないな、俺は――。

 

 

 

 

 すると突然――。

 

「――――――――ッ?!」

 

 前髪をばっとかきあげられ、同時に眼鏡も取られてしまった。

 

 相手は盗撮されてしまったであろう、四人組女子高生のひとりだった。

 

 そして、俺の顔を見るや否や、

 

「やっぱり思ったとおりっ!」

 

 その言葉が激しく胸をえぐる。

 まるで俺の顔が盗撮魔だと言っているようで、言葉にすらならない。

 

「わあ! よく見たら北高だし!」

 

 はは。もう、どうにでもなれよ……。

 

 思えば俺の毎日は、薄っぺらい皮一枚でギリギリぶら下がっているようなものだった。

 

 遠くからただ――。

 常夏を眺めるためだけに、どんな理不尽をも受け入れてきた。

 

 そんな日常が手のひらから零れ落ちていく瞬間になって、ようやく気づいてしまった。

 

 無価値だったことに――。

 

 守りたいものなんて、とっくに失くしていたんだ。……俺には、なにもない。

 

 腐っていたのは世の中じゃなくて、俺のほうだった。

 

 

 答えを見つけたところで、耳障りな声が届いた。

 

「北央高の坊ちゃんが盗撮かよ! やっちまったなあ?! ああ?!」

 

 これみよがしに、私刑気取りの言葉が畳みかけてくる。

 

 進学校のエリート様が転げ落ちるさまは、見ていて愉快ってか?

 残念ながら俺は落ちこぼれだ。お前が喜ぶようなことには一切ならねえよ。……バーカ。

 

「……ははっ」

 

 じゃあ、俺の勝ちかな。なんて思った、そのとき――。

 

 ふいに両手で頬をパチンと挟まれた。

 

「ねえっ! 撮ってないんだからスマホ見せちゃいなよ? こういうときはね、変な意地張らないでぱっぱと終わらせるのが正解!」

 

 言いながら眼鏡を俺の顔に戻してくる。

 

 その声には皮肉も敵意もなく、まるで救いの手を差し伸べるようだった。

 本来なら責められる立場の俺を、なぜか守ろうとしてくれている気さえした。

 

 だからなのか――。

 

「……持ってなくて」

「ん? なんて?」

 

「スマホ、持ってないんです……」

「んんんん????」

 

 すると彼女は、両手で俺の耳を包み込むようにして、こそこそと囁いてきた。

 

「(誰にも言わないから言ってみ? アルバムに見られたら困る写真でもあるの? お、男の子は仕方ないって聞くし、それよりもこのままじゃまずいよ! ねっ? わかるよね?)」

 

 言い終えると、今度は自分の耳に手をあてながら、俺の口元へ顔を寄せてきた。まるで次は俺の番だと言わんばかりに。

 

「(本当に持ってないんです。全身くまなく探してもらっても構いません)」

 

 彼女は目をまん丸にして、ぽかんと俺を見た。

 

 ちょうどそのとき、電車のドアが開いた。

 

 すると私刑気取りが、一歩前に出て肩をいからせた。

 

「そいつ駅員に突き出してやるからよ。文句ねえな?」

 

「ちょっと待っててください」

「待つって、なんでだよ?」

 

「撮られたのはわたしなんですよ? そのわたしが待つって言ったら、待つの!」

 

 私刑は「は?」と目を白黒させるが、彼女はさらに畳みかける。

 

「わかったら返事!」

 

「お、おうよ……」

 

 独特の雰囲気をまとっている。中学の頃、クラスメイトに似たような雰囲気の子がいた。

 どこの学校にもいるのだろう。いわゆるカースト上位、一軍女子ってやつだ。

 しかもこの子はきっと、学年カーストにおいても上位に君臨する、ワールドクラスの一軍女子だ。

 

 整った身なりが女子力の高さを際立たせている。爪先は綺麗に塗られたネイルで飾られ、耳にはきらりと光るピアス。そして、柔軟剤とは違う甘美な香りが鼻をくすぐった。

 俺が通う進学校ではまず見かけない種類の子だった。

 

 彼女は少し黙り込み、なにか考える素振りを見せる。

 俺は思わず固唾をのんだ。

 

 すると友達のひとりが駆け寄ってきて、

 

「どしたん話聞こか~? なーんつって」

 

「みーちゃんは黙ってて!」

 

「あ、はい……」

 

 いったい、なにが始まるのかと思った次の瞬間――。

 

 ドアが閉まるのと同時に、彼女は俺の手を引いてホームへ飛び出してしまった?!

 

 取り残された私刑が、車内からガラス越しに手をドンドンと荒々しく叩きつけている。

 

「ぷっ……あははっ!」

「笑ったらまずいって! バレたらやばいですよ!」

 

 そう言いながらも俺も肩が震えて、結局ふたりして吹き出した。

 

 互いの肩が小さく揺れて、笑い声が重なる。

 ほんの数秒のことなのに、長い長い解放感に包まれた。

 

 ひとしきり笑い終わると――。

 ふっと静けさが戻り、残るのは心臓の早鐘と、まだつながったままの手の感触だった。

 

 ハッとして手を放そうとすると、

 

「ていうかさぁ、今どきスマホ持ってないとかそれ、事実だとしても通用しないからあ! もぉ笑っちゃうよ~!」

 

「今のご時世、スマホ持ってない奴なんていないですからね!」

 

「それなぁ! って、ん……? あれ……? そういえば、なんで敬語なの?」

 

「え?」 

 

 それは……初対面だし、もしかしたら年上かもしれないし、彼女は被害者で俺は加害者になりかけた側。おまけに助けてもらったし、敬語を使うのは当然のこと――。

 

 本当にそうか?

 

 違う。答えはもっとシンプルだ。

 俺がオタク君で、彼女が一軍女子だから。

 

 なんて返答に困っているうちに、彼女のスマホが鳴り出してしまった――。

 

「あ、ごめんね! ちょっと出てくるから待っててっ!」

 

 そう言って小走りに駆け出す。けれどなぜか、俺の手は握ったまま。

 

 そのまま元いた位置から十メートルほど離れた階段脇で立ち止まると、

 

「もしもーし! おまたおまた〜!」

 

 さも当たり前のように電話に出てしまった?! 俺の手はまだしっかり握られたまま――。

 

 ……嘘、だよな? え、これ気づいてないのか? いや違う、わざとだろ。これ、絶対ツッコミ待ちだ。

 でも何を言えばいい? 迷っているうちに――。

 

「え~、だからほら翔太くんだよぉ!」

 

 脈が跳ねた。

 

 彼女の口から出た言葉。

 

 翔太。

 

 …………くん?!

 

「わかんないって、なんでよ?! 翔太くんだよ?!」

 

 その親しげな響きとは裏腹に、記憶はまったく呼び起こされない。

 耳慣れたはずの名前なのに、まるで他人のもののように響いた。

 

 ……君は、誰だ?

 

「だから初恋の人だってば!」

 

 ……は?

 

「そーそー! 運命の再会っ。しかも盗撮から守ってくれたっていうねっ! だからたぶん、本当の盗撮魔は最初に騒いでたやーつ! でぃすてぃにーいただきましたぁー!」

 

 ……おかしい。

 

 下の名前で親しげに呼ぶくらいだから、中学時代の知り合いではなさそうだけど……。

 

「うんうん! ってことで、あとのことは頼んだ! 今度スイパラ奢るから~」

 

 ……三年二組。

 

「え?! お祝いに奢ってくれるの?! いやいや、それは気が早過ぎるよ~もぉ~! まあ、二人が再会しただけのお祝いってことなら、奢られてあげるけど~!」

 

 いや、ありえない。俺は女子から総好かんを食らってた。こんなふうに話しかけてくるやつなんて、一人もいなかった。

 

 考えを巡らせているうちに電話は終わり、彼女は何事もなかったかのように振り返った。

 

「近っ! なんで居るの?!」

 

 言ってすぐに視線は繋がれた手へと落ちる。

 

「あっ、ごめんっ……繋いだままだった……」

 

 ここまで状況が揃うと疑うしかない。

 

 この子は……。

 

 ひょっとしたら、もしかして⋯⋯。

 

 いや、もしかしなくても――。

 

 天然……なのかもしれない。

 

「俺の方こそ悪い。気づいてたのに言い出すタイミング逃しちゃって。だから気にしないでくれな」

 

「うんっ。ありがと。優しっ……。で、ね。あの、さ……ちなみになんだけど……電話の内容、聞こえちゃってたりする……?! 」

 

 ……え。この距離で聞こえてなかったら、ここまで会話できてないだろ……。でも、聞いてくるってことは――。

 聞こえてないって答えてほしいんだよな。

 

「いやっ、声は聞こえたけど、内容まではまったく!」

 

 彼女はなにかに気づいたように「あっ」と声を漏らし、視線を反らした。

 

 ……なんだよ、それ。完全にバレてんじゃねえか。

 嘘、下手になったな……。昔の俺なら、こんな場面くらい息を吸うように切り抜けられたのに。

 

 これは後退なのか、それとも前進なのか。わからねぇ。

 

 ……いや、違う。

 俺は人と、ほとんど話さずに生きてきてしまったんだ。

 そのツケがいま、まわってきてる。

 

 重たい沈黙が落ちる。どうしたらいいのか、わからずにいると――。

 

「あっ、暑いねーっ、な、夏だねー……夏、あ、あははぁ……」

 

 頬を染め、顔をあおぎながらごまかすように笑った。

 

 そしてすぐに――。

 

「ち、違うの! その……さっきのは、なしで!! なし! お願いっ。聞かなかったことにしてくれないかな……?」

 

 ……え?! 危うく吹き出すところだった。

 でも彼女の顔は真剣そのもので、とても笑いを許す空気じゃない。

 

 やっぱりこの子、ちょっと天然が入ってる……!

 

「お、おう……! ナニモ、オレハ、キイテナイ!」

 

 笑いをこらえたせいか、少し片言になってしまった。

 それでも彼女は気にする様子もなく、ぱっと花が開くみたいに笑顔を咲かせる。

 

「ありがとっ! やっぱり翔太くんって優しいよね~。こういうところ、昔から変わらないねっ! じゃあここから先は聞かなかったってことで、よーいドン!」

 

「なんだよ、それ!」

 

 気づけば敬語じゃなくなっていた。

 

 久しぶりに、こんなに人と話した気がする。

 間が持つことさえ新鮮で、まるで昔からこんな感じだったような錯覚に陥る。

 

 ――なのに、どうして思い出せないんだ。

 

 君は本当に、誰なんだ?

 

 

「あー! その顔はひょっとして、わたしのことを実は思い出せないって感じかなぁ~?」

 

 ば、バレた。……いや、顔に出てたのか。

 

 なんかさっきから、このパターン多いな。……ひょっとして俺、コミュ障ってやつなのか……?

 

「うんうん。仕方ないよ。だってあれから、七年? 八年? ……七年だ! 経ってるもん。お化粧だってしてるし、もしかしたらわたし、別人になってるかも! ってことで問題でーす! わたしは誰でしょーか!」

 

 三年二組の誰かであることは間違いない。

 だが女子から総好かんを食らっていた俺に、こんな態度を取る子がいたはずもない。

 

 矛盾が絡み合って、答えは見えないままだった。

 

「はーいぶっぶー! 時間切れでーす! 正解は、綾瀬でした! いえーい! 翔太くんっ、ひっさしっぶり〜!」

 

 嘘だろ……?

 

 なぁ、冗談だって言ってくれよ……。

 

 は? あやせ……?

 

 

 ……あやせって言ったのか?

 

 

 はぁ……?!

 

 

 ――――――――誰だよ?!

 

 

「っ……す……」

 

 返事ができずに唖然としていると、鼻をすする音が聞こえてきた。……ちょっと待て。思い出せ、俺。

 

 出てこい、あの頃の記憶! 今すぐだ――!

 

「あ、あれ、なんか顔熱くなってきちゃったかも、風邪かな……こ、こ、困ったなぁー……」

 

 まずい。また顔に出てたのか。

 

 と、とりあえず――。

 

「あ、あやせさんね! もちろん覚えてるよ! 三年二組で一緒だったよね!」

 

 ……だめだ。苦し紛れすぎる。こんなんじゃ言わないほうがまだマシだろ……。

 

 なんでだよ。なんでこんなにも俺は、嘘が下手になっちまったんだ……。

 

 ……わかってる。原因はひとつ。

 俺は人と話すことから、逃げてきすぎたんだ……。

 

「いいよ……無理しないで。翔太くんって、花火ちゃんのことしか見てなかったもんね。わたしと話したことなんて覚えてないよね。……名前すら……覚えてくれてないよね……」

 

 声が震えていた。うつむいた頬を伝って、ぽたりと涙が落ちる。

 

 最低だ、俺は。

 

「ごめんね。なんか……気分悪くしちゃったよね、わたしだめなんだ。昔からすぐ泣いちゃって……」

 

 しゃくり上げるように鼻をすすり、必死に笑おうとしている。

 

 なんで君が謝るんだよ。悪いのは俺なのに。

 

「覚えてないってことはないはずなんだ。ただちょっと、俺。子供の頃の記憶が曖昧なことがあって……」

 

 なに言ってんだよ、俺。もう口を開くのなんて、やめちまえ。かえって彼女を傷つけるだけだろうが……。

 

「……う、うん。ごめん。ごめんね。こんなつもりじゃなかったのに……」

 

 涙声が震えて、言葉が途切れた。

 拭っても拭っても溢れる涙に、俺はただ立ち尽くすしかなかった。

 

 なんでそんなに泣くんだよ……。

 

 こんな陰キャで、盗撮魔に罪をなすり付けられるようなマヌケに、涙を流す価値なんてないだろ?!

 

 

「……これじゃあ、あの日と同じだね。せっかく翔太くんが格好良く決めているときに金太郎って言われて泣いちゃってさ……。冗談だってわかってたのに。もっと盛り上げて翔太くんの役に立ちたかったのに……。空気読めてなくてごめんね。いつもごめんね……こんなんで、わたし……」

 

 

 あっ……。

 

 そうだ、あのとき。一人だけ泣いている子がいた。

 

 でも俺は、教室を飛び出したんだ。謝りもせず、気にも留めず――。もう二度と会うこともないって――。

 

「あやせ、しずく……」

 

 ぽろぽろと涙をこぼしながら、まっすぐ俺を見つめてくる。

 

「出席番号2番。綾瀬雫……赤いポンチョ!」

 

 抑えていた感情が一気にあふれ出すように、飛びついてきた。

 

「わぁぁん……覚えててくれたぁ! あああああ」

 

「あっ、ちょ、ちょちょちょ?! あ、あやせっ?!」

 

 ……いや、いいか。

 

 こんな錆びついた胸でよければいくらでも貸すよ。

 

 なにが正しいのかはわからない。ただそれでも、今はなぜか、彼女の頭をさすらずにはいられなかった。

 

 もう拭えない、あの日の涙のを拭うように――。

 

 もう戻れない、あの日の過ちを償うように――。

 

 

 ……ごめんな、綾瀬。

 

 

 

 

 

 

 そして――。

 反対側のホームに、視界のどこを切り取っても消えない女の姿があった。

 

 

 ……いったい、いつからそこにいた?

 

 繋がる視線を前に、思い出さずにはいられなかった。

 

 それは、忘れもしない――。

 あのときと全く同じ、ぞっとするような薄気味の悪い笑顔を浮かべていた――。

 

 

 …………佳純?

 

 

 どうして……?

 

 

 

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