顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた暴力系女子と疎遠になって六年──。俺は陰キャになり果て、彼女は清楚可憐なS級美少女に変貌を遂げていた。……うん。見つからないように、影を潜めて生きていこう。   作:おひるねzz

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第27話 四層構造

 ランニングから戻ると、そこにはもう佳純の姿はなかった。

 

 机の上に、一枚の書き置き。

 別れの言葉もなく、ただ、電話番号だけが記されていた。

 

 微かに残る彼女の香りが、胸をくすぐる。

 

「……だよな」

 

 期待していなかったと言えば、嘘になる。

 来週からは夏休み。もしかしたら、このまましばらく――。なんて。

 

 わかっていた。それがありえないことくらい。

 お前って、そういう奴だからな。

 

 ――俺たちは少し、矛盾していた。

 

 これから俺は、あいつと肩を並べるために努力して、努力して。それでも追い付けなくて、告白して、振られて、未練はなくなって。そうして『冬雪』は成仏して、俺を縛り付けるものはなくなって。

 

 晴れて『田中』として、佳純との歩みが始まる。

 

 ……もしかしたら。

 この結末に疑いを持っていなかったのは、俺だけだったのかもしれない。

 

 俺だけが――。胸の奥に矛盾を飼っていたのかもしれない。

 

 好きだよ、佳純。

 お前が、好きだ。

 

 この気持ちに嘘はない。

 嘘なんて、あるはずがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 朝食をシリアルで済ませれば、準備はOK。

 ただ、ランニングを終えた体には物足りなさが残る。

 

 義母さんに相談するか。

 それとも自分用の炊飯器を買うべきか。

 

 なんて、わかりきったことを考えながら玄関の段差に腰を下ろす。

 

「さしづめ今日は、登校二日目ってところか」

 

 思えばいつも、ただなんとなく靴を履いていた。

 記憶の片隅にすら残っていない。生きながらにして死んでいた俺にとって、朝という一日の始まりも玄関で靴を履くという行為も、等しく意味を持たなかった。

 

 だから気づかなかった。

 こんなにもローファーがボロボロになっていることにも。ソールがすり減っていることにも。

 

「運動靴は、あんなにも綺麗だったのにな」

 

 そう思うとなんだか笑えてきて。

 

 と、ここで玄関が開いた――。

 

「……気持ち悪ぃ。なにぶつくさ言ってんだよ。邪魔だから退け」

 

 見るからに朝帰りの健吾だった。

 あの後、遊びに行ったのかよ。義弟を取り巻く環境の悪さを察するには十分過ぎた。

 

 細身ながらも見るからに鍛えてる感じがする身体からは、人を殴り慣れてそうな、そんな雰囲気さえも漂わせていた。

 

 一年と三ヵ月。高校に入学して俺が腐っていた期間と、中学に上がってからの健吾との時間はあまりにもかけ離れていた。

 

「健吾、義母さんを泣かせるなよ」

 

 結局のところ、俺らは他人だ。

 義母さんだって、血のつながらない他人だ。

 特に繕う必要もない。ただ、健吾と義母さんは違う。俺と父ちゃんがそうであるように――。

 

「は?」

 

 真っすぐ、ただ見つめる。

 すると健吾はメンチを切るように覗き込んできた。

 

「女の前だから粋ってると思ったけど、そういうわけじゃねえんだな?」

 

 視線を外さず、ただ、目だけを見る。瞳の奥をずっと。

 

「……なんなんだよ。ったく。……今さら遅ぇよ」

 

 そう吐き捨てると健吾は俺の横をすり抜け、自室へと階段を上っていった。

 

「やれやれ」

 

 あまり多くは望めない。

 今の俺はもう、昔とは違う。現実が嫌ってほどに見えている。

 

 それでも欲しがってしまうところは、今も昔も変わらない。

 

 やれやれだな。本当に――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 玄関を後にして、駅へと向かう。

 なんてことはない、見慣れた景色。

 

 それが今日は数歩進むごとに、網膜を叩く情報が変わっていく。昨日まで色褪せていたはずの通学風景が、じわりと眩しいほどの色彩を帯び始めていた。

 

 覚えている。この感じは入学式以来のもの。

 あの日の俺は夢希望未来に溢れていた。なんだってできると信じていた。

 

 でも。今の俺にはもう、あの頃のような無垢な夢は語れない。

 空白の一年三ヶ月が、現実の残酷さを教えている。

 それでも。景色には確かに色が宿っている。ようやく、ここへ帰ってきたんだ。

 

 その、代償か――。

 

 駅に着いて早速、苦笑いがこぼれる。

 

 毎朝当たり前のように出していたはずの定期入れの場所がわからない。

 おまけに電車の時間もわからない。

 いつもどこで電車を待っていたのかも覚えていない。

 

 一年と三ヵ月。

 拾い集めた記憶のどれにも、中身がまるごと抜け落ちていた。

 

 でも。ただ、なんとなく――。

 目の前を電車が通り過ぎる瞬間だけは覚えていた。この瞬間だけ、確かに生きていた。そんな、不確かな記憶――。

 

『――二番線、ドアが閉まります』

 

 不意に鳴り響いたアナウンスと発車のベルが、俺を現実へと引き戻す。

 目の前にはいつの間にか、銀色の車両が口を開けて待っていた。

 

 開いたドアの先へと、吸い込まれるように足を踏み出す。

 急行の止まらない田舎の駅。閑散とした車内。学校までは乗り換えなしで三十分ほど。

 

 俺はなんの迷いもなく、空いているシートに腰を下ろした。

 深く背中を預け、ふと車両の隅を見る。

 ドアの横。手すりの影。誰の邪魔にもならないデッドスペース。

 

 ――そこに。いるはずのない人影が見えた。

 

 背を丸め、気配を殺し、ただ嵐が過ぎ去るのを待っている。

 

 そうか、俺は――。

 ずっと、あそこに立っていたのか。

 

 プシューと気の抜けた音を立ててドアが閉まる。

 再び視線を向けたとき、そこにはもう誰もいなかった。

 

 

「……バカ野郎」

 

  

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 揺られること三十分。

 電車を降り、同じ制服を着た群衆に沿って歩き出す。 

 

 改札を出て少し歩けば、並木道へと入る。

 見慣れたはずの景色は、まるで知らない街に迷い込んだかのように眩しかった。

 

 パン屋の香りが、ふわりと鼻先をくすぐる。

 周囲からは他愛のない笑い声が聞こえてくる。

 

 聴きたくもない音楽で耳を塞ぎ、視界を閉ざしていた昨日までとはなにもかもが違っていた。

 

 ただ、前を向いて歩く。そんな簡単なことさえ放棄していた。

 

 そのまま吸い寄せられるように校門をくぐり、昇降口へと向かう。だが、ここでまた――。問題が起こる。

 

 自分の下駄箱の場所がわからない。

 端から順に名前を目で追い、ようやく見つけた四文字に自然と笑みがこぼれる。

 

 『田中翔太』

 

 それはなんだか、初めて田中の下駄箱を見つけた日と重なった。

 鹿児島で、ボスになることを諦めた新たな門出の日と――。

 

「……ただいま」

 

 小さく呟いて、上履きに履き替える。

 

 捨てきれなかった、あの日の弱さが招いた結果なのかもしれない。

 

 ――今度こそ。ちゃんと、成仏しような。冬雪。

 

 確かな意思を足音に乗せ、歩き出す。

 

 教室の前に立っても、立ち止まることはしない。

 迷いなく、目の前の引き戸を開ける。

 

 中に入っても、誰かが俺に反応するわけでもない。

 挨拶が飛んでくることも、もちろんない。

 

 期待通りの無関心をすり抜けて、自分の席に腰を下ろす。

 

 きっとこれが、俺が積み上げてきたものなのだろう。

 歯向かわず、他の機嫌を損ねずに、基本は空気に徹する。

 

 その結果が美化委員や人よりサイクルの早い掃除当番。日直といった役回りなのだろう。

 

 鹿児島に居たときのように暴力で支配されるような状況になっていたら、どうしていたのだろう。そうならないように努力はしてきたのだから、考えること自体が意味をなさないが、きっと――。

 

 受け入れていたに違いない。

 

 そう考えると悍ましくなる。

 

 こうして今も立っていられるのは、帰る場所があったからなのかもしれない。

 

 あの日のあいつの言葉が、

 無意識の底で、心の支えになっていたのかもしれない。

 

 

 俺はずっと、ひとりなんかじゃなかった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 それは無慈悲に始まった。

 二時間目。数学の授業開始とともに、 教壇に置かれた厚みのある束。

 

 返却される小テスト。

 数学は特別苦手だった。そのせいか、この教科担当の男だけは俺に対して一切の容赦をしない。

 

「田中、二十三点。……はぁ」

 

 答案用紙が、まるで汚物でも触るかのように指先だけで返される。

 

「何度も言わせるなよ。私はお前の専属家庭教師じゃないんだ。赤ん坊の子守りじゃないんだから、もう少し頭を使ってくれ」

 

 点数は読み上げられ、点呼という名の公開処刑が行われる。

 それを合図に、教室の空気が嘲笑で濁り始めた。

 

 「あいつまたやらかしてるのかよ」

 「学ばないアホがどうしてここにいるのかね~」

 「猿でももうちょいまともな点数だせるだろw」 

 

 胸がちくりとした。

 だが、その久々の痛みにドクンと胸が高鳴る。

 

 昨日までの俺は、心さえも死んでいた。

 赤点を取っても補習に呼ばれても嘲笑されても、どこか他人事。

 

 留年の二文字がチラつき、あいつを遠くから眺めることが脅かされて初めて、重い腰を上げる。

 

 悪いのは俺だ。すべては俺の行いが招いた結果だ。

 だからいい。笑われようが、嫌味を言われようが構わない。

 

 ――大丈夫。現実は見えている。

 

 ようやく、俺の高校生活が始まるんだ。

 とはいえ一学期も残り僅か。現状を変える前に、夏休みに突入するのがオチだろう。

 

 多くは望まないし、急ぎもしない。

 一日二日でどうにかなるほど、俺を取り巻く環境は甘くない。

 

 留年ぎりぎりの成績で、赤点を量産する。

 そんな落ちこぼれが面倒事を押し付けられ、消費される。

 

 これはきっと、世の中の摂理だ。

 

 だからって、一生受け入れるつもりはない。

 今は静かに状況を飲み込む。笑いものにされたっていい。これは腐っていた頃の単なる借金でしかない。

 

 でも――。手始めに今日は、掃除当番をサボってみようと思う。

 掃除をするフリをして、クラスの全員が帰ったのを確認してから、俺も帰る。

 

 そしたら明日のホームルームで問題になる。

 

 汚れたままの黒板、掃かれていない床。溜まったままのゴミ箱。

 

 担任は見て見ぬふりを決め込む奴だが、他のクラスへの建前もある以上、汚い教室を放置はできない。教師として、表向きの処理は避けられない。

 

 騒ぎになれば、あいつに存在を知られる可能性もある。

 でも。そのときは、そのときだ。

 

 覚悟はもう、出来ている。

 

 前を向くって決めたからな。

 

 なぁ、佳純――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 翌日。朝のホームルーム。

 ガラリと戸を開けて入ってきた担任は、教卓に荷物を置くと黒板の前で足を止めた。

 眼鏡のブリッジを中指でクイと押し上げ、黒板に指先を滑らせる。

 白い粉が付いた指先に、わざとらしく「ふぅ」と息を吹きかけてから

出席を取るよりも先に口を開いた。

 

「誰だぁ~? 昨日の掃除当番は? 黒板消しも黒板も汚いままじゃないか」

 

 言われてみれば。

 クラスメイトたちの表情はその程度だった。

 

 俺が一人で何時間も掛けて掃除を行っても、どんなに教室を綺麗にしても、それは当たり前として消費されるだけ。自分の捧げた時間が、いかに無力で取るに足らないものかを思い知る。

 

 担任はそのまま教室をぐるりと回ると、溢れそうなゴミ箱に顔をしかめた。

 

「ゴミ出しもしてないじゃないか。床も掃かれてないのか」

 

 そのまま教室の後方へ歩み寄り、壁の黒板に殴り書きされた当番表を、苦々しく見つめる。

 

「どれどれ、昨日の掃除当番は……田中、斎藤、山田。おい、お前らなにしてる?」

 

 クラスの視線は、俺一人に非があるかのような冷たさを帯びていた。

 だが担任は、決して俺を名指しで責めない。知っているからだ。俺が放課後、幾日も一人で掃除をしている事実を――。もしここで俺が声を上げれば、これまでどおり無視できなくなる。

 

 万が一にも俺に助けを求められたら、非常に困るからな。

 

 だから、必要以上に俺を追求しない。個別に取り上げることもしない。

 自分がいじめの片棒を担ぐような真似もまさかにもしないし、面倒事を表立つような真似もしない。

 

 ただ、教師としての建前を汚さぬまま、この平穏な教室という『嘘』を維持したいだけなのだ。

 

 それにしても――。冷えた視線を一同に感じる。

 なにか用事があったのかもしれないし、たまたま忘れて帰ってしまったのかもしれない。そんな人間らしい可能性を一切考慮に入れない、凍てついた視線。

 

 自分が如何に消費物であるのかを改めて、突きつけられる。

 

 だからもう、遠慮はしない。

 なによりもう、前を向くって決めたから――。

 

「すみません。自分は一昨日、掃除当番だったので書き間違いじゃないですかね? 二日連続になってしまいます」

 

 高校に入学して初めて、自分の意見を口にした気がする。

 

 瞬間、クラスの温度が一気に上がるのと同時に――。

 

 担任の驚いた顔が飛び込んできた。

 

「……おっ、そうか。一昨日……そうだったな」

 

 動揺を隠しきれず、必死に平時を装い言葉を繋いでいた

 

 調べれば一目力然。正規の当番表に、俺の名前はない。

 黒板の文字が書き換えられているだけだ。

 

 それがわからない担任じゃない。だから焦り、言葉を失う。

 

「そ、そうだ。田中は……」

 

 予想通りの反応で助かるよ。

 そして俺が真っすぐ見つめると、視線を反らした。

 

「あー……、よ、よくわかった。いいか? 誰にだって間違いや勘違いはある。今回は特別に咎めたりはしないから、ホームルームが終わったら掃除しておきなさい。それからこういうことは今後は起こらないように各自、掃除当番の表を確認するように。はい、この話はここまで。以上――」

 

 まくしたてるように話を終わらせた。

 あくまで虐めには加担しないし、万が一にも明るみになれば知らなかったで通すつもりだろう。

 教師ガチャなるものがあるのなら、間違いなくハズレの類いだ。

 

 ただ同時に当たりでもある。俺は時折思い出す、あの日の椎名先生を――。

 

 だからこれでいい。

 

 とはいえ、あの頃とはまるで違う。

 今の俺が身を挺して守るに値しない人間だってこともわかる。

 

 みんなが将来に向かって走っている中、俺だけが立ち止まっている。

 

 結局のところ、教師だって人間だ。

 だから今の俺には担任を責める資格はない。

 

 ――少なくとも、今はまだ。

 

 さて。ここからが見ものだな。

 俺はただの一度も、正規の手順で掃除当番を任されてはいない。ただ勝手に黒板に名前が書かれていただけ。それに従ってきたまでの話。

 

 美化委員にしてもそうだ。日直にしてもそう。そこに名前が書かれているから、従ってきた。

 

 に、してもだ――。背中に刺さる冷えた視線が心地いい。

 誰一人として、声には出さない。

 

 温すぎる。なあ、剛場。温すぎるよな?

 

 所詮この世界は、失うものがある人間が弱い立場へと追いやられるようにできている。

 

 昨日までの俺がそうだったように――。

 今の俺にはもう、ここで失って困るものなんてなにもない。

 

 夏休みを目前に控えた高ニの七月。

 

 進学校という檻の中で、進学から目を背けている俺は限りなく無敵な立場なのかもしれない。

 

 いや。断言しよう。

 俺はこの場所で、無敵だ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 昼休みが終わり、五時間目の授業が始まる。

 筆箱に手を伸ばした瞬間、異変に気づいた。

 

 ――妙に、軽い。

 

 確かにあったはずの中身が、シャーペン一本を残してすべて消えていた。

 

「ふっ」

 

 思わず、笑みがこぼれてしまう。

 

 ……なるほどな。

 

 書くものがなければ教師に怪しまれる。

 あえて一本だけ残す、なんともちっぽけで小賢しい悪意だ。

 

 手段はどうであれ、一線を越えてきた。

 

 いじめが成立するには四種類の人間が必要だと言われている。

 

 ――加害者、被害者、観衆、傍観者。

 

 今までは俺が空気に徹し理不尽を無音で飲み込むことで、そこに明確な加害者は存在しなかった。ただ無言の圧力によって田中翔太という記号が消費されるだけの毎日だった。

 

 美化委員への選任。人よりサイクルの早い掃除当番、日直。

 そのすべてに無言で従うことで保たれていた、見えない均衡。

 

 だがそれを、俺が壊した。

 

 普通ならここで終わるべきことだ。

 ここから先はもう、単なる低俗な虐めでしかないのだから。

 

 それにしたって温すぎる。

 安全マージンを確保した中で行う虐めほど、情けないものはない。筆箱ひとつ満足に処分できない。そんな覚悟もない人間に今まで消費されていたと思うと、笑いが込み上げてくる。

 

「ふっ、ふふっ」

 

 教科書で顔を隠し、肩を震わせる。

 傍からみれば、泣いているように見えるかもしれない。

 

 なぁ、剛場。俺たちの間にはあったのは虐めでもなければ消費でもなかった。今にして思えば、あれは戦争だった。

 

 お前は戦友にして、最高の親友《トモ》だった。

 

 それは今更すぎる答え合わせ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 帰り際、今日も俺の名前が当番表に記されていた。

 朝のホームルームで取り沙汰されてもお構いなしだ。それどころか忠告のような圧を感じる。

 

 だから今日は掃除するフリもせずに教室を後にする。

 

 衝突するのは簡単だ。ただ、それがなんの意味も成さないことは鹿児島で嫌ってほどに経験した。それどころか、かえって状況を悪化させてしまう。

 

 なにより今の俺は非力な落ちこぼれだ。

 

 ここまでわかっているのに掃除せずに帰るのだから、面白い。

 

 失うものがある人間は弱い。守るべきものが足枷となり決定的な一線を越えられない。

 だが、皆が等しくその弱さを抱えているからこそ、この社会は成立している

 

 だから俺は帰る。

 それ以上も、それ以下でもない。

 

 答えは至って、シンプルだ――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 家までの帰路――。

 駅ビルにある少し大きな文具屋に立ち寄った。

 

 筆箱の中はシャーペン一本。家に予備があるかも怪しい。なくなれば補充する。勉強から目を背けた人間の文具事情など、その程度のものだった。

 

 だから今まで使っていた底値の安物ではなく、機能性の高そうな五百円のシャーペンをカゴに入れる。

 

 自分のためにこんなにも高級なシャーペンを買うのは初めてで、少し手が震える。

 

 普通、物がなくなれば悲しかったり怒りだったりを感じるものなのだと思う。  

 でも、思い入れもなければ盗まれたことに対して揺れる心も持ち合わせていなかった。

 

 それが俺は、少し寂しい。

 

 だからこれは、セーフティネット。

 

 さらに消しゴム、定規、替え芯に三色ボールペン。どれも今までより少しだけ良いものを選び、レジへと向かう。

 

 そして――。

 

「お会計、二○四五円になります」

 

 財布を開けて、愕然とした。

 そこにはお札が一枚も入っていなかった。

 

 お小遣いはもらっていたはずだ。

 使い道と言えばせいぜい、あいつが載っている雑誌を月に一度買うくらい。

 

 昨日のラブホの支払いは割り勘で一五○○円だけ。

 

 ……じゃあ財布の中身、どこいった?

 記憶のどこにもない。……あるはずがなかった。

 

 金を使うという行為は、生きる意志そのものだ。

 だから俺の財布には、死んだ時間の分だけ澱んだ小銭しか入っていない。

 

 生きながらに死んでいたと片づけるには、あまりにもずさんで情けない結果だった。

 

「す、すみません、あの……」

 

 顔から火が出る思いで商品を戻そうとした、その時――。

 横からスッと、蛍光ペンと修正テープがトレーに置かれた。

 

「会計。一緒でお願いします」

 

 その声は、どこか懐かしさを孕んだ、真っすぐで迷いのない凛とした響きだった。

 

「……委員長?」

 

 無意識に名前が漏れる。

 だが、振り返った先にいたのは、俺の知る地味な彼女ではなかった。

 

 モデル顔負けのスタイルに、意志の強そうな瞳。

 きっちりと編み込まれた二つ結びもなければ、顔の半分を覆うような野暮ったい眼鏡もかけていない。

 

 なにより――。タンスの匂いがしなかった。

 委員長と言えば、いつだって防虫剤《ヒノキ》の香りを漂わせていた。今の彼女からは、そんな生活感は微塵も感じられない。

 

「す、すみません。け、結構です!」

「いいのいいの。ほら、後ろがつまってるから。ね?」

 

 悪戯っぽく笑うと、俺の背中を軽く押す。

 

 その目尻に。口元のほくろに。

 そして――。胸ポケットに差さった、見覚えのあるシャーペンに彼女の面影が重なる。

 

「……ごめん、委員長。必ず返すから」

 

「ん。じゃあ今度、ご飯奢って?」

 

 

 

 

 

 

 

 

++

 

 御飯という約束を取り付けられたものの、夕食にはまだ早い。なにより今日の俺の財布の中身は寂しい。

 ってことで久々の再会ということもあり、積もる話をするために近くのカフェとやらに入った。

 

 大丈夫。小銭はある。コーヒーの一杯くらいならと軽く考えていたが、メニュー表を見て言葉を失う。

 

 値段が想像していた世界のそれじゃなかった。

 

 言葉に詰まっているとくすっと笑い声が聞こえて、

 

「好きなの頼んでいいよ? たーなかくんっ」

 

 見た目がどれだけ変わっていても、

 背中を預けられるこの安心感だけは、なにも変わっていなかった。

 

「こ、これ。で!」

 

 一番安いものを指さす。それでも三百八十円。

 

 おこづかいはもらっている、はず。ただ財布の中身は寂しい。それを抜きにしてもコーヒーに三百八十円は胃をキリつかせた。

 

「ん? 田中くんって甘いのすきだったよね? 虫歯かなにか?」

 

 いーとして歯を見せて首を振ると、 

 俺の意見など聞かずに呪文を唱えた。

 

「じゃあ――。カカオホイップラテ。ホイップとチョコチップとチョコソース全部増し増しでお願いします。サイズはトールで、それから同じの二つお願いします」

 

「かしこまりました! チョコソースたっぷりの特製カカオホイップラテですね。トールサイズをお二つ、ご用意します!」

 

 そこにはもう、防虫剤の香りを漂わした委員長の姿はどこにもなかった。

 

『一歩前に出ない勇気』

 俺に座右の銘をくれた彼女の姿はもう、どこにもなかった。

 

 それがどうにも嬉しくて、気付けば笑っていた。

 

「委員長って本当に、詠唱とか呪文とかアニメっぽいの好きだよな!」

 

 垢ぬけた彼女の姿が、自分のことのように嬉しく思えた。

 

 ――散髪に行って少しお洒落な眼鏡を買う。

 かつての俺が描いていた未来予想図を、彼女が見事に体現してくれた。

 

「ん。馬鹿にしてるよね? それから私、委員長じゃないっていつも言ってるよね?! いいかげん覚えてくれる? ここ、テストでるからね!」

 

 それでもやっぱり、変わらない。

 

 変わらないものが、確かにここにはあった――。

 

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