顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた暴力系女子と疎遠になって六年──。俺は陰キャになり果て、彼女は清楚可憐なS級美少女に変貌を遂げていた。……うん。見つからないように、影を潜めて生きていこう。 作:おひるねzz
「ど? それ、わたしのおすすめなの」
あまりの甘さに虫歯不可避だか、口がとろけるほどに美味しい。だが六五〇円という金額を前にすると、舌が震える――。
「お、お、美味しい……この世のものとは、まるで……お、思えない」
「ふふ。そんなに感動するほどなの? じゃあこっちも飲んでみる? きっと気に入るよ?」
「……え」
同じのを注文したはず。
「なーんてね!」
変わらない。なにひとつ、変わらない。でもそれは、二人だけのもので――。
店内の空気が、ある一点を中心に熱を帯びていた。
「おい、見ろよあの子……」
「うわっ、レベル高っ。モデルか何かか?」
「いや、清楚系アナウンサーって感じだろ。育ち良さそう……」
「てか、向かいの男。あれ彼氏か?」
「いやいや、ないだろ。どう見ても不釣り合いだって」
「だよな。鞄持ちとかお付の爺やの孫とか、そんなんだろ」
「にしてはお門違いっていうか。どうみてもただの陰キャだろ」
「前世でどんな徳を積んだらあんな美人と座れるんだよ……」
突き刺さるような視線と、ヒソヒソ話という名の公然たる称賛。
「あの子ってもしかしてミス一律女子の水原さんじゃない?」
「え。隣にいるのは……彼氏? なわけないよね」
「慈善活動とか……じゃない?」
「わかるー! そういうのやってそー!」
ちょ、慈善活動ってなんだよ……笑。
ていうかミス? ミスってなんだよ……。
居心地の悪さに身を小さくしていると、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「やっぱ田中くんなら気づいちゃうかぁ〜。ていうか、田中くんしか気づける人いないかなぁ?」
胸ポケットのシャーペンを指先で弾く。
「もしかしてこれが決め手? 大切な御守りだよ?」
それは中学の頃、合格祝いに俺があげたものだった。
見た目は変わったけど、話した感じは変わらない。
ガリ勉メガネ女子と思いきや、口数が多くて明るい子。
中学時代、俺らは見た目が似ていることからガリ勉夫婦の愛称でバカにされていた。
俺が見掛け倒しのガリ勉だったことが主な原因で、委員長には迷惑をたくさん掛けたと思う。
俺とは違って学年一位の本物だったからな。
「委員長はさ、相変わらず一番なのか?」
「むりむり! 今の高校で一番になろうと思ったら、国立最難関よりさらに上を目指すような化け物たちと戦わなきゃなんだから」
「雲の上の話し過ぎてやっべぇ……」
「まっ、取ったことはありますけどね! 一年生のときですけど!」
「す、すげぇ……!」
彼女はストローで氷を回しながら、少しだけ目を伏せた。
「でも、それだけじゃないかなって。勉強だけがんばっても、わたしの欲しい物は手に入らないって気づいちゃったから」
「ああ。……今のほうがいいよ」
そもそも委員長が勉強嫌いなことを俺は知っている。
「……即答って。田中くんは変わらないね。そういうデリカシーのないところ!」
「え……?!」
「ふふっ。で、あいつとはどうなったの?」
唐突な問いに、言葉が詰まる。
あいつ。それは中学時代、俺が口癖にしていた三文字。
「……ぜんぜん届かねえ。ずっと先にいる」
「そっか。でもその目、まだ追い掛けてるんだよね?」
「……今はもう、昔みたいには追い掛けてないかな。……諦めちまったからさ」
すると突然に立ち上がり――。
テーブルに両手を突いて、俺の視界を塞ぐように身を乗り出してきた。
「なんで?! いつから?!」
詰め寄ってきた委員長の顔が、視界を覆うほどに近い。
あまりの熱量に、息が詰まる。
「……ごめんなさい。いや、だって。田中くんに限ってそれはないと思ってたから。あいつあいつって、耳にタコができるくらいうるさかったから」
「……あんなに勉強みてもらったのにな。入学式の日にさ、あいつが代表挨拶してるの見ちまって。目の前、真っ白になっちまったんだよ。ほら、俺、補欠合格だっただろ」
するとまたしても、食い気味に――。
「にゅ、入学式?! それっていつ?!」
「いつって、それは……」
「あ、ごめんなさい。そうだよね。入学式の日なんてどこも一緒。一年三カ月と六日……そんな、前に……」
彼女の声が沈む。空白の期間の重さが、二人の間に横たわる。
あんなに勉強をみてもらって、やっとの思いで掴み取った入学だったのに初日で諦めてるってんじゃ……。
久々の再会を喜ぶにしては、あまりにも隔たりが大き過ぎた。
「だよな。委員長には合わす顔がないよ。……でもさ、俺。もう一度追いかけようかなって」
「……うん」
「もう、絶対に届くことはないんだけどさ。それでも前向いて追いかけるって決めたんだ。これは手に入れるためじゃない。もう一度、あの頃の俺を取り戻すための清算なんだ」
「……うん」
委員長には俺の言葉が届いていないようだった。
それでも俺は続ける。どれほど情けない過去があっても、今は前を向いている。だから知って欲しい。今の俺を、委員長に――。
そして、俺が見上げている壁がどれほど強大なのかも――。
「届かないのはさ、なにも勉強だけじゃないんだよ。あいつは色んなものを持っていて、そのすべてが俺の手の届かない場所にある。……今の委員長がそうであるようにさ。あいつにとって勉強ができるなんてのは、ただのおまけみたいなもんなんだ」
委員長の瞳に少し、色が戻った。
「なに? わたし? え?」
だからありのままを言葉にする。
「ああ。すっげぇ可愛いじゃん、今の委員長!」
「な、何言ってるの? く、口説いてるの?!?!」
顔を真っ赤にする彼女を見て、俺は素直に笑った。
「嬉しいんだよ。んで、悔しい! 腐ってた時間が、すっげぇ悔しい。委員長、本当に可愛くなったよな」
かつて、抱いていた夢。
クラスで平均点が取れるようになったら、お洒落なメガネを買って美容院でサッパリ髪の毛を切る。
――ガリ勉からの卒業。
一歩、前に出ない勇気――。
委員長は手に入れた。……違う。委員長は地味偽装をしていた。そのことに俺はとっくに気づいていた。
偽物は、俺だけだった。
「ふ、ふーん。口説いてるってことで、いいのかな?」
「あはは。委員長からタンスの匂いがしないなんて、不思議で仕方ないよ」
「た、タンス?! なにそれ?!」
「婆ちゃん家の匂いっていうか。ヒノキの香り? すげえ落ち着くいい匂いでさ!」
「ふ、ふーん。そうなんだ。……なんか複雑……」
不満げに膨らんだその頬も以前とはあきらかに違う。垢抜けた、という言葉では足りない。
あの頃の委員長を知っているからこそ、心の底から嬉しい。
そっか。もう、自分を隠す必要なんて、ないんだな。
するとふいに、何かに気づいたように動きを止める。
「……でも新入生代表挨拶ってさ、入試成績一位だよね。北高の一番ってことは……。……北高。…………まさか、常夏花火?」
委員長の口からその名前が出て、脈が跳ねる――。
「は……ははは。笑うだろ? あいつって、常夏花火のことだったんだよ……」
「……え」
委員長の唇が、音もなく動く。
「そんな顔で見るなよ。知らなかったんだよ。俺の知ってるあいつは掛け算すらまともにできない、すっげーおバカだったんだから。おまけに暴力大好きで男勝りでさ。……雲の上の存在になってるなんて、思いもしなかったんだ」
そう。まさか、にも。
「……そんなことないよ」
委員長は首を振る。勝てると言いたげな、それでも言葉は紡がない。
相手があまりにも、大きすぎる。
でも――。今の俺は前を向いている。この気持ちに嘘はないから――。
「……だから、勉強だけじゃねぇんだ。……でも、勉強も放り投げるのは違うなって」
「うん。わたしもそう思うよ。なにかひとつ、肩を並べられれば、それでいいんじゃない? それで田中くんの勝ち。異論は認めない。文句言う人がいるなら、わたしが全員、論破してあげる」
冗談ではなくて本気で言ってくれている。……変わらない。あの頃となにも、本当に変わらない。
「ははっ。委員長……ごめん。本当に。あんなに勉強見てもらったのに、俺……俺さ……」
「ううん。悔しいよ。田中くんが一番つらいときに側にいてあげられなかったことが……わたしはそれが悔しい。あんなにがんばったのにね? わたし、足りなかったなんて思わないよ。もし足りないのだとしたら、この世界がどうかしてる」
瞳の奥はどこまでも優しさに包まれていた。
その言葉に、瞳に――。
蓋をしていた感情が、一気にあふれ出す。
「ごめん、委員長……俺。……俺」
瞬間――。こつん、と。額に軽い衝撃が走る。
同時に溢れそうだった情けない言葉が、熱が――。身体の奥へと押し戻される。
「一歩前に出ない勇気」
それ以上、言葉はいらなかった。
真っすぐ、瞳だけを射抜いていた。
あの日、歩き出したはずだった。
その歩みは入学式で止まってしまった。
――能ある鷹は爪を隠す。
俺は、委員長のようにはなれなかった。
偽物だったから。
そんなの、わかきっていたはずなのに。
でも、確かにあの瞬間までは、
入学式、あいつを見つけるまでは、
俺は偽物ではなかった――。
「じゃあ、いつから始めよっか?」
それは、世界で一番優しい問いかけだった。
俺は静かに首を振る。進学するつもりがないのだから、委員長を付き合わせるわけにはいかない。
なによりこれは、冬雪を成仏させる儀式。
それは委員長の知っている、俺の喪失。
知ってるか、委員長。
今、目の前に居る男は田中って奴なんだよ……。
俺の沈黙をどう受け取ったのか。
強張る空気を解きほぐすように、小さく笑った。
「また難しいこと考えてる。田中くんの悪い癖だよ? 答えは至ってシンプル、でしょ?」
中学時代、自分でも気づかぬ内に俺は冬雪になっていた。
あいつを思う気持ちが、追いかける気持ちが、奴を目覚めさせた。
そうして奴は成し遂げた。進学校に入学を決めた。
でもそれは終わりの始まりに過ぎなかった。
成し遂げるのと同時に、終わってしまっていた。
「俺はもう……。委員長の知っている、あの頃の俺じゃないんだよ。だから――」
迷いのない声が、言葉を断つ。
「マイナスの絶対値は?」
「……プラス」
「プラスの絶対値は?」
「……プラス」
「はい、正解。中身がどうあれ、外に出てくる結果は同じ。だからもう、そういうのやめよっか? で、いつから始める? 明日? 来週? それとも、今? ここで始める?」
ああ、そうだった。
委員長ってこういう人だった。
ただ成仏を待つだけで冬眠していた冬雪を目覚めさせたのは、他でもない彼女だった。
――水原《みずはら》 志乃《しの》。
彼女が、嘘だった俺を真実に変えた。
何者にもなれない、出来損ないの男は魔法に掛けられた。
見かけ倒しのガリ勉眼鏡は、本物になれてしまった。
そしてまた――。
彼女は俺に、魔法を掛けようとしている。
燃えカスになるまで、最後の血の一滴まで抗って。
行き着いた、その先で――。佳純に灰を拾ってもらう。
目的が――。行動理念が。根底から覆される恐怖を感じる。
彼女の目に迷いはない。あの頃と寸分たがわず、答えだけを示している。
「そういえば文系? 理系? ま。全部やりますけど。……それとも、保健体育でもしてみる?」
ただ、あの頃と決定的に違うのは――。
委員長からはもう、