顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた暴力系女子と疎遠になって六年──。俺は陰キャになり果て、彼女は清楚可憐なS級美少女に変貌を遂げていた。……うん。見つからないように、影を潜めて生きていこう。   作:おひるねzz

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第30話 三塁コーチャーが見えるとき

「いいな? 常夏に余計なことを言ったら、貴様を殺す」

「わかってるって~。佳純ちゃんにも言われてるんだからぁ」

 

 まさかシェダルが根回ししているとはな。

 わざわざ分厚い電話帳を引っ張り出して、固定電話を調べる必要はなかった。

 

「ていうか、花火ちゃんって本当に今もまだ翔太くんのこと好きなのぉ? 転校したきり一度も会ってないんでしょぉ?」

 

「黙れ小僧! そんなの当たり前に決まってるだろ!」

「ほんとかなぁ~? でもさぁ、今わたしぃ翔太くんとケッコーイイ感じだと思うよぉ? 覚えててくれたしぃ! ぎゅってしてくれたんだよぉ? ぎゅって♡ きゃー♡」

「それはお前の勘違いに過ぎない。夢を見るのは自由だが、他人に妄想を垂れ流すのは止めろ。それから語尾を伸ばすな語尾を!」

 

「え~。あー! そういえば友達にさぁ、五球くん紹介してって言われてたんだった! 連絡先しらないからごめーんって言ったんだけどぉ、連絡先わかっちゃったぁ!」

 

「……翔太くんに余計な茶々を入れないと約束するのなら、その友達とやらと茶の一杯くらい付き合ってやってもいいぞ」

 

 不思議なことに翔太くんへのアプローチはシェダル公認だというのだから解せない。この程度の輩、一目散に排除されそうなものだが……。あの女が実力を行使すれば二秒と持つまい。

 

 野放しにしてメリットがあるとも到底思えない。現に僕も交換条件を持ち出さざるを得ないほどには警戒を強いられている。

 

 まあ、僕の存在を翔太くんに伏せておくよう指示はされているみたいだが……。

 

「それは無理ぃ~! ってことで、友達にイッツーの電話番号教えちゃったから! よ・ろ・し・く~」

 

 なぜこうも、脈絡のないことを平然と口にできるのか。急なあだ名呼びに恐怖を覚える。

 

「消えろ! 二度と僕の前に現れるな!」

 

 ブチッ――。

 吐き捨てるのと同時に通話を切断する。

 

 朝から相手するには、あまりにコレステロール値の高すぎる女だった。

 

 恋愛脳とでも言うのだろうか。

 おまいう案件ではあるが、話していて頭が痛くなる。なにより明らかに語彙力が下がっていくのを感じた。こういうのは伝染するんだよ。

 

 ある意味ではシェダルよりも恐ろしい女だ。外野自由席だと思って完全に油断していた。

 

 綾瀬雫――。三塁側内野指定席A、又はビジターパフォーマンス席に格上げが必要だな。 

 

 そして確信した。シェダルのコントロール外にいるとみて間違いないだろう。

 僕らとは種類が違う。理性ではなく感性で動くタイプに呪術は効かない。

 

 それにしても、常夏に噛みつくか。身の程知らずのビジターめが。

 

 うかうかしている時間はなさそうだ。

 

 オペレーション『イクリプス・エンド(終焉の夜明け)』を実行するしかあるまい。

 

 すべては算盤の意思が赴くままに――。

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 普段より一時間早く家を出て、学校に着くなり生徒名簿を洗った。

 

 指先が止まる。

 二年七組、田中翔太。

 補欠合格。出身は南中。住所は…………一軒家か。

 

 父親の再婚を機に埼玉へ戻っていたのか。ならば常夏に連絡を取ることも、会いに行くことも造作なかったはずだ。だが、君はあえてそれをしなかった。

 

 ……この場合。できなかった、とするのが正しいか。

 

 いくら補欠合格とはいえ、この赤点の羅列はあまりに不自然だ。

 身を隠すような地味な風貌に反して、この成績表だけが悪目立ちしている。

 

 ……涙なしでは、語れないな。

 

 シェダルに関しては昨晩、ネットの海を洗って概ね特定済みだ。あれほどの容姿とセンスなら情報が出るのは必然。だが意外だったのは彼女が鹿児島本土の進学校に籍を置いているという事実だ。

 

 ――今時ギャルでありながら、青春を勉学に捧げる優等生。

 

 意外性で言うならば翔太くんも負けてはいない。

 酷な言い方になるが、決して勉強が得意な質ではなかった。赤点の山が事実を裏付けている。中学時代によほどの無理を重ねなければ、この学校の門は潜れなかったはずだ。

 

 僕や常夏は家から一番近い進学校かつ学費免除という合理的理由でここにいる。

 

 だが、翔太くんは違う。君の入学動機は予測できる範囲で二十四通り。そしてそのどれもが、涙なしでは語れない代物だ。……奨学金を背負ってまで、当校に身を投じている。

 

 ……なぜ僕は、今までその存在に気づけなかったのか。

 

 僕は後悔という非生産的な言葉が嫌いだ。過ぎ去った過去は、いかなる計算を用いても覆せないからだ。

 

 だが。

 

 今だけは――。君にだけは、後悔せずにはいられないよ。

 

 

「……翔太くぅぅぅん」

 

 

 ――――カタッ。

 

 静寂を裂くように、椅子の脚が床を鳴らした。

 

「あ、雨宮?!」

「……は、はう?!」

 

 いったいいつから、そこにいた?

 

 生徒には閲覧を許されていない資料の数々。

 禁忌を犯す僕の醜態を、すべて見られたのか……!?

 

 ど、どうする……?

 昨日に続き、今日もこんなPONを?! 僕ともあろう者が?!

 

 違う。この女の隠密性が異常なのだ――。

 

「よ、良かったらこれから……こ、この五球瑠偉と茶でも、ど、どうかな? モーニングティーと洒落こもうでは、ない……か」

 

 くそっ。まさか僕ともあろう者が異性を茶に誘い出すとは……。

 

 しかしこの小動物を敵にまわすのは危険だ。

 懐柔せねば、取り返しのつかない事態に成りかねない。

 

「あ、あふたぬーんてぃーでしたら!」

 

 くッ。この五球瑠偉と茶を飲む権利だけでは飽き足らず、さらなる要求をするか?!

 

 金の掛かる小娘が……。

 

 洒落おってからに……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ++

 

 ――昼休み。

 売店に並ぶ僕の手にはポテイトチップス。

 

 目的はもちろん、オペレーション『イクリプス・エンド(終焉の夜明け)』発動のためだ。

 

「やだ♡ 瑠偉様がポテイトチップスを購入してますわ」

「マイフェイバリッドフードですわね。それもUSUSIO☆だなんて! 瑠偉様を象徴している味付けですわ!」

「頬張る姿を想像するだけで白米五杯いけますわね!」

 

 思えば、常夏がポテチ好きだという噂は一切聞かないな。

 相変わらず外面だけは非の打ち所がないな。だが皮肉にも、無意味な取り繕いであると気づけないことこそが、壊れてしまった今のお前を如実に物語っている。

 

 そんなことをしても、あの日々は帰ってこないというのに――。

 

「そんな儚げにポテイトチップスを握りしめて、どこへ行くというの……」

「生命を尊んでおられるのですわ。男爵でもメークインでもない。品種改良されたポテイトチップス専用じゃがいもに、食物連鎖という名の抗えぬ運命を説いておられるのですわ……」

「……これほどまでにポテイトチップスにジェラシーを感じる日が来るなんて……白米が、白米が進むくんですわ!」

 

 悪いがここから先は、

 

 うすしおしか、認めない――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 +++

 

 生徒会室のソファーに寝転がるだらしない女に、売店で買ったポテチを差し出す。

 

「調子はどうだ?」

 

 うすしおのパッケージを見るや否や興味なさそうに首を振った。

 既にポテチの空いた袋がふたつ。共にBIGサイズ。相変わらず壊れていた。

 

 どう論理的に計算しても、そのカロリー摂取量で今の人間離れしたプロポーションを維持できるはずがない。

 

 お前を見てきたからこそ、わかる。

 

 寿命を削って、今を生きている。

 未来など見ず、過去の未練をくべて、その身を焼き続けている。

 

 僕にお前を責める資格はない。

 だが、常夏。お前のそれは駄目だ。到底、看過できるものではない。

 

 幾万の策を練っても、お前を止める結論には至れなかった。

 嗜好品を取り上げたところで、その先に道はない。壊れながらも立ち、間違った方向へ、それでも前を向いている姿は少なくとも常夏花火だった。

 

 その歩みを止めたら――。そこにいるのはもうお前ではない気がして、止めることができなかった。

 

 だが。昨日までとは違う。道は明けた。

 

 お前をこの地獄から救う策は既に、算盤の意思として許諾済みだ。

 

 オペレーション『イクリプス・エンド』

 

 さぁ、終焉の夜明けを始めよう。

 すべては算盤の意思が赴くままに――。

 

 

「てかさぁ夏のうちはいいけど、秋になるとこの部屋の優位性も削がれるよねえ。副会長になった意味なかったかな。もう辞めようかなぁ。辞めるなら夏休み前がいいよね」

 

 こ、このくそ?!?!

 

 ……落ち着け。職務怠慢など、今に始まったことではない。

 

「冬はストーブを独占すればいいじゃないか。温かいぞ?」

「灯油切れたら誰が入れに行くの? 無理なんだけど」

 

 おまいう。

 

「それなら電気毛布という選択肢もあるぞ? コンセントを独占してもここなら誰の迷惑にもならないからな」

「ああね。じゃあ用意しといて~」

 

 死ねええええええええええ!

 

 ……ふぅ。

 

 そんな僕の殺意に気づくはずもなく、バリリッと無造作に袋を引きちぎった。

 

 ……うすしおの実食が始まる。

 即ち――。オペレーション開始の合図。

 

「ていうか、言ってるよね? うすしおは好きじゃないって」

 

 言いながら頬張る姿に、再び殺意が沸くも己の無力さにただ、拳を握りしめる。

 

 うすしおだからと言って無限に食べていい道理はない。

 だがせめて塩分だけでも控えてほしいと願うのは、今日までのお前を見てきたら当然のことだ。

 

 そしてこれこそが――。

 オペレーションイクリプスエンド。

 

 お前からポテチを取り上げられない僕が出した、精いっぱいの答えだ。

 

「これからは、うすしお一筋にしたらどうだ?」

「頭でも打った? 元から少しおかしいのは知ってるけど」

 

 ……ひぃ、ひぃ、ふぅ。

 

「会わせたい人がいるんだよ、お前に」

「は? わたしが会いたい人はひとりしかいないって知ってるよね? 喧嘩売ってる?」

「当然、わかった上で言っている。お前がこれから一か月間、うすしおしか食べないと約束するのなら会わせてやる」

 

 直後だった――。

 表情がすっと抜け落ち、食べかけのポテチが床にこぼれる。

 ゆらりと上体を起こした彼女の瞳はすでに、無機質に僕を捉えていた。

 

 そこにはもう、さきほどまでのふざけた彼女の姿はどこにもない。

 

「……ついていい嘘と、そうじゃない嘘ってあるよね?」

「もちろん」

 

 迷いなく返し、冷えた視線を受け止める。

 

「ふぅん? どこにいるの?」

 

 ソファーから弾かれたように立ち上がると、一歩で僕の目前へと詰め寄った。

 

「だからそれは、うすしおを一か月――――」

 

 刹那。有無を言わさぬヘッドロックが飛んでくる。

 

「――ぐがっ」

 

「嘘つきは嫌いだよ」

「う、うぞじゃにゃい……」

 

「あのさ、わたしに交換条件出せる立場だと思ってんの?」

 

 首に回された腕には彼女なりの力がこもっている。

 

 だが、もう――。それは僕には届かない。その細い身体を引き剥がし、そのまま床へと叩き落とす。

 

「今のお前を!! 翔太くんには会わせられない!! 会わせられるわけがない!!」

 

 僕なんかにヘッドロックを簡単に解《ほど》かれてしまう、今のお前では――。

 

 荒い呼吸の音だけが室内に響く。さっきまで首筋に感じていた彼女の体温が、今はひどく遠い。床に這いつくばり、焦点の合わない瞳でただ一点を見つめていた。そして、力ない笑いで沈黙を壊した。

 

「ははは、あははは……」

 

 散らばったポテチを拾い集め、虚ろな足取りでソファーへ這い戻ると、そのまま横たわり天井を仰いだ。

 

「……嘘つき。虐待受けてたこと黙ってたくせに」

 

 何度目ともわからない言葉に、息が詰まる。

 

 自分だったら翔太くんを救えたと、本気で思っている。

 どんなにお前がすごい人間になろうと、過去はやり直せない。なにより、あの頃の僕たちは九歳の子供。なにもできやしない。

 

 お前という存在が、その笑顔がどれほど翔太くんの支えになっていたか、まるで分かっていない。

 

 あの日々を不幸だと決めつけているようでは――。

 

 運命の算盤は動き出さない。

 

「今のお前では、恥ずかしくて翔太くんには会わせられない」

 

 すると、ゆらりと。彼女は天井へ伸ばした指を閉じ、また開く。その指の隙間から溢れる白光が、焦点の定まらない瞳を交互に明滅させた。

 

 やがて――。

 

「……ねぇ、死ぬ覚悟はある? その言葉に命、賭けられる? わたしをうすしお漬けにしようって言うんだから、それ相応のものを差し出してくれないと割に合わない。ま、そのときは一緒に死んであげるけど」

 

 彷徨っていた指が、力なく落ちる。

 光を失った瞳だけが、僕を映していた。

 

 冗談でも笑えない。……だが、冗談に聞こえないところが、この女の狂気を体現している。

 

「……当然だ。僕を誰だと思っている?! 仮にも翔太くんのことで嘘などつかない! そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだ! 舐めるな!」

 

 わかっている。うすしお漬けにしたところで、根本的解決には至らない。

 

 だが――。

 あの日からお前を繋ぎ止めてきたものを一つでも断てるのなら、その時は僕が残りのすべてを容赦なく捨ててやる。

 

 奪えるものはすべて奪ってやる。

 

 ポテイトチップスも、モデルの仕事も、学年一位の座も。なにもかもだ!

 

 翔太くんを思う気持ちの前でなら、お前はかつての自分を取り戻せる。僕はそう信じている。あの日々に嘘はなかったから――。

 

 僕はまた見たいんだよ、あの日々の続きを。あの日の、続きを――。

 

 二人の歩みが、見たいんだ。

 

 その願いの、ほんのわずかな揺らぎさえ彼女に届くことはなく――。

 静かに漏れ出し、鼻先で弾けた柔らかな吐息には安堵の色が濃く滲んでいた。

 

「……そっか。もう、終わるんだ」

 

 常夏、それは違うよ。大きな間違いだ。

 

 

 

 さぁ始めようか。算盤交響曲第五番、第一楽章。

 

 運命の時間を――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、運命の算盤は動き出す――。

 

 八月、第二週。

 季節は極暑。逃げ場のない熱気がすべてを支配する、夏休みのさなか。

 

「ほらほらみーちゃん、照れてないで隣歩いて手握っちゃえ!」

「や、やめろよ~! あ、あの五球瑠偉だぞ……。半径2m以内で同じ空気吸わせてらえてるだけで恐れ多いっての!」

 

「じゃあ将来はお家の和菓子屋さん継ぐのかな? ひょっとして御曹司? 今のうちに唾でもつけておこうかなぁ? ぺーろりーんちょ♡」

「お姉さんたちにあーんてしてくれる? それともされたい派? あんず飴の舐め合いっこしよっか?」

 

「ぁ、ぅ……(たじたじ)」

 

 綾瀬と彼女の友人三人、そして僕。さらに和泉を加えた計六人で、花火大会の賑わいの中にいた。

 

 驚くことにシェダルは鹿児島に帰ってしまっていた。

 そうなれば和泉の心に穴が空くのは必定。離れるほどに想いが募るのが、恋の厄介な性質だ。

 呪縛から解放されたというのに、和泉の様子はみるみるうちにおかしくなっていった。

 

 そんな折、綾瀬から誘いを受けた。

 

 結局のところ、和泉がご執心なのはギャルだ。シェダル級の逸材などそう拝めるものではないが、遠くの親類より近くの他人というのもまた、恋の性質だろう。

 

 いっそ和泉には、この夏の間に大人の階段を上ってもらいたいものだ。シェダルの魔の手がいつ再来しないとも限らない以上、ひと夏の卒業こそが最大の防御と成りうるからな。

 

「どうしたの? 僕の隣、空いてるよ?」

「おっ、お構いなく!!!!」

 

 とはいえ交換条件。

 綾瀬には可愛くて遊び慣れているうえに実は一途という、界隈屈指の一流ギャルを用意してもらった。

 

 だから僕は今宵。みーちゃんとやらを全力でもてなさないといけない。

 

「構うよ。同級生の大切な友人だ。ほら、手出して? 今夜は君を離さない」

 

「……ひぃっ!」

 

 

 

 

 

 花火開始を待つひととき。

 屋台を散策していると、すれ違いざまに興味深い会話を拾った。

 

「ていうか絶対カレシだよね~」

「イケメンってわけじゃないのに、爽やかな青少年っていうか、流石はミス一律女子の隣を歩けるだけの男って感じ~。お似合いだったよね~」

 

 ほう。ミス一律女子。つまりは水原志乃か。

 彼奴も所詮は人の子ということか。イケ好かない地味偽装女子《パーフェクトヒューマン》も高校に上がってすっかりJKに成り下がってしまった。挙句に彼氏とデートとは、世も末だな。

 

 常勝無敗の僕を破った女は後にも先にも二人だけ。常夏花火と水原志乃。

 

 …………思い出したら古傷が疼いてきたな。

 

 いっそ。彼氏の顔を間近で拝んで、鼻で笑ってやろうか。

 あの女にされた屈辱を思い返せば、それでも足らない。

 

 

「ていうかぁイッツーってさ、いつからそんなにキザになっちゃったのぉ? 中学のころはまだ手にソロバn――――」 

 

「おっと、忘れていた。貴様の口の中をわたあめで埋め尽くすのを」

「あわわわわわわ」

 

 しかし時すでに遅し。

 

「算盤?」

 

 首をかしげるみーちゃん。

 とはいえこの程度のこと、五球瑠偉を揺るがす事態にはならない。

 

「これはオフレコでお願いしたいんだけど、僕の家は算盤塾を営んでいてね」

 

 すると綾瀬が、

 

「そうそうそれでね、小学生の頃はソロバン君って呼ばれてたのぉ!」

 

 この女に空気を読むという言葉は存在しないらしい。

 

「え。ぜんぜん想像できない……。あの五球瑠偉が博士タイプと肩を並べるような名称で呼ばれてたのかよ……」

 

 まあいい。アフタヌーンティーの奴隷である今の僕にとっては過去の黒歴史など、もはや取るに足らない。

 

「そうだね。だから僕に気を遣う必要なんてないんだよ? 恥ずかしがり屋のラプンツェル」

「む、むりむり! だ、だってわたし庶民だし!」

「なら君は、0時まで僕だけのシンデレラだね?」

「も、もぉ許して……」

 

 この娘は良くできている。まさかにも自分がプレイヤーに名乗り出ようとは考えていない。

 

 こういう手合が相手なら、僕は五球瑠偉を全力でプレイできる。

 

 さぁ、もう1プレイ行こうか。

 

「許さないね。花火を見るか、僕を見つめるか。打ち上げ開始までに答えを出してもらおうか? 今宵、君の瞳は人質さ」

「ま、まじ五球瑠偉パないってぇ……し、雫ぅ助けてぇ……」

 

 

 

 

 そんな虚構の最中だった。

 閲覧スペースのある河川敷に着いた、まさにその瞬間。

 

「……嘘。こんなの絶対、嘘……」

 

 綾瀬が震える手で口を覆い、今にも消え入りそうな声でこぼした。

 

「……なんで。そんなの、聞いてない……」

 

 瞳が激しく揺れ、今にも崩れ落ちそうなほどに膝が震えている。

 尋常ではない彼女の様子に、僕もつられて視線の先を捉えた。

 

 瞬間、脳内に稲妻が落ちた。

 

 運命の算盤は――。

 初めて、間違いを刻んでしまう。

 

 

 そこには僕の太陽がいた。

 

 甚平に身を包み、あの頃を彷彿とさせる見る者を惹きつける鋭い眼光。

 自信を取り戻したヒーローの姿に、運命の算盤がフルスロットルで加速する。

 

 気づいたときには走り出していて、意識よりも早く、ずっと速く――。彼の前へと飛び出していた。

 

「――――――――」

 

 が――ッ!

 既のところで我に返り、駆け抜ける!

 

 見えるはずのない三塁コーチャーが腕をブン回す光景は、あの日の愚かな僕。

 迷いなく、三塁ベースという名の君の真横を通過して――。

 

 勢いのままに雑踏の影(ホームベース)へと身を押し込める。

 

 ――セッ、セーーーーフッ!

 

 のど元まで競り上がる鼓動は、消えない君の残響。

 

 喧噪に紛れ、届かぬ声で絞り出す。

 

「……おかえり、翔太くん」

 

 溢れ落ちるものには触れず、ただ遠くからその姿を焼き付ける。

 

「……おかえり。おかえり。おかえり」

 

 ……常夏。翔太くんは帰ってきたぞ。

 次は、お前の番だな。…………常夏。

 

 駆け寄って抱きしめたい。おかえりって言いたい。もう二度と、離さないと伝えたい。

 

 けれどそのどれもが、今の僕たちには届かない。

 

 こんなにも近くにいるのに。手を伸ばせば触れられるのに、空よりも遠い。……今は、まだ――。

 

 

 

 

 

 

 遠くで僕を探す声がする。

 綾瀬が翔太くんを問い詰めている。

 そのすぐ隣には何故か、水原志乃がいる。近い。――近すぎる……。

 

「……はぅ!」

 

 あまりに近過ぎる……。雨宮。いったいいつから、そこにいたのか。

 

 数にして八十四。今すぐ着手しなければならない事象で溢れかえっている。

 

 それでも、目を逸らすことなんてできるわけがない。

 

 だって、仕方ないじゃないか。

 あの頃の面影を残したまま成長し、さらに輝きを増した君がそこにいる。

 

 あとのことは、あとで考えよう。

 

 今はただ――。君を、記憶の影に潜んだまま眺めていたい。

 

 

 終焉の夜明けを瞳に宿して――。

 

 

 




予約投稿分はこれですべてです。
カクヨム先行で投稿しているため、もしかすると向こうでは少しだけ続きを読めるかもしれません。
また、ある程度書き溜めができましたらこちらにも投稿いたしますので、その際はお読みいただけると幸いです。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
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