エマは公園のベンチの冷たさに腰を預け、缶チューハイの最後の一口を喉に流し込んだ。
「……もう一本買ってこようかな〜」
アルコールが血管を這い、頭の芯をゆるゆると溶かしていく。21時を過ぎていた。
古内エマ 24歳は、煮えくり返るような怒りを押し殺していた。
彼女は事務の仕事をしているのだが、中途採用で入社してきた男が、エマに好意をもたれてると勘違いし、自ら馬鹿げた噂を流しているのだ。
エマの静かな忍耐は、限界を迎えようとしていた。
日頃積み重なったストレスは「まあ、いっか」となるまで一人で酒を飲むに限る。
「ったく……んなわけないじゃん。鏡見てから言えよ」
風が頬を撫でる。
ふと、視界の端に小さな灯りが揺れた。蛍とも違う、火の玉とも呼べない、ただの光の欠片だった。淡い青みがかった白で、まるで誰かが息を吹きかけたようにふわりと浮いては沈み、また浮かぶ。
「わあ、なにあれ〜」
酔いのせいか、あるいは単なる気まぐれか。エマは立ち上がり、足は自然とその光を追いかけた。
光はゆっくりと、まるで誘うように進む。
トイレの裏手。何も無い死んだような空間だった。そこに、輪があった。地面から30センチほど浮いた、完全な円。直径は2メートルほど。色は黒というより、光を呑み込む深淵に近い。輪の内側は鏡のように滑らかで、しかし何も映さない。ただ、かすかに波打つ水面のような揺らぎがあるだけだ。
光の欠片が輪に吸い込まれていく。音もなく、跡形もなく消えた。エマは立ち止まった。
「なにこれ」
一歩。輪が目の前に来た。音もしない。
そして、踏み出した。瞬間、世界が裏返った。
足の下にあったのは、コンクリートではなかった。白い石の道。両脇には見たこともない花が咲き乱れ、夜なのに昼のように明るい。空にあるのは果てしない淡い金色の光の層で、雲というより羽毛のようにふわりと重なり合い、ゆっくりと流れる。
やや遠くに、巨大な、しかし輪郭の曖昧な建築物が見える。柱か、塔か。
風が吹いた。エマの髪が靡く。
「……あれ?」
ここはどこだ。風がまた吹いた。
一度瞬きをして目を開けると、目の前に小さな光の欠片がまた浮かんでいた。さっき公園で追いかけた、あの光と同じ。けれど今度は逃げない。ただ、静かにそこにいて、エマを見つめている。顔も、もちろん目もない。だが、見つめている。
その光を触ろうと手を差し伸べると光はエマに近寄り胸の中に吸い込まれていった。
「えー?」
まだ、酒に酔っているのか。元来た道に戻ろうと後ろを振り返ると、限りなく広がる光の層しか無かった。気づけば持っていたコンビニ袋も鞄もポケットの中のスマホも家の鍵も無い。
また、風が吹き、エマの背中をソッと押した。
***
どれほど歩いただろう。
エマはとりあえず目の前の塔を目指すことにした。
花の香りが甘く、酒の匂いさえも浄化してしまう。
(キレイな夢……)
いや、夢なのか……? 夢にしてはやけに感覚がリアルだ。
塔の前まで来るとそれはほとんどが白い石で出来ており、ところどころ窓が見える。あまりに幻想的すぎてエマはため息をついた。
エマがその前に立ち尽くしていると、背後から声が降ってきた。
「おい」
振り向いた瞬間、エマの息が止まった。そこに立っていたのは、男性だった。しかし、少なくとも、彼女がこれまで見てきたどんな男性とも違う。
所々金細工の装飾が施された高級感のある白い布が肩から腰へとゆるやかに巻かれ、胸元から腹筋のラインまでが露わになっている。肌は大理石のように滑らかで、光を受けてほのかに透けるようだ。襟首にかかる程度の短髪の銀髪が風になびき、睫毛の影が頬に落ちる。その瞳は、夜空を溶かしたような深い青だった。
「……すっごくキレイ」
思わず声が漏れた。
まるで、神話のページから抜け出してきたような美しさ。エマが見惚れていると、銀髪の男性は、ふ、と小さく笑った。
「君は?」
唇の端が上がるだけで、空気が甘く歪む気がする。エマは頬が熱くなるのを感じながら答えた。
「エマ……です」
「ここはバファマ。俺はジェルドだ」
「……バファ、マ?」
耳慣れない響きに、酔いが一瞬醒める。エマは目を瞬かせる。
「ちょっと待ってください。あれ、え? ここどこですか? 私、公園のトイレの裏から……」
「バファマだよ」
ジェルドはもう一度、ゆっくりと繰り返し、それから、目を細め微笑んだ。どこか嬉しそうな高揚感の混ざる声。
「ずっと……待ってた」
低い声が耳に落ちる。エマの背筋に、ぞくりと甘い電流が走った。
「中に入ろう」
拒否する隙も与えられず、ジェルドの手が背中に回される。エマはされるがままに塔へと導かれた。扉を抜けると内部は別世界だった。
高い天井、螺旋を描く階段、そして、誘導された部屋は家具の一つ一つが白大理石と貴金属でできており、神殿のような豪奢な空間だった。天蓋付きの巨大なベッドに金糸刺繍のダマスク織柄のソファ。薄いカーテンが光を柔らかく漉し、部屋全体を淡い金色に染めている。
「綺麗な部屋ー」
思わずエマが口にするとジェルドが柔らかく微笑んだ。エマが立ち尽くしていると、ジェルドはエマの手を引き、ソファへと座らせた。ジェルドが膝を付きエマの顔を覗き込むと静かに告げた。
「君は黎明の女神。今日からここがエマの部屋だ」
一瞬の静寂。エマは目を丸くした。
「は!?」