エマは、白大理石の壁に囲まれた広々としたキッチンの前で、背伸びをしていた。カップボードの一番高い棚。使いの者が用意してくれたらしい、銀色の茶筒に手が届かない。かかとを上げ、指先で必死に茶筒の角を引っかけようとした、その時。
背後からスッと冷たい風が吹き、微かに薬品のような匂いがしたかと思うと、エマの頭上を覆うように手が伸びてきた。
「これ?」
低い囁きとともに、目的の茶筒が軽々と棚から引き出される。反射的に背中を引いたエマのすぐ横に立っていたのは、シリウスだった。
「わっ! シリウス……さん。ありがとう」
「どん臭くて見てられないから」
彼は茶筒をエマに渡さず、そのままカウンターに置くと、少し身をかがめてエマの顔を覗き込む。陰気な瞳が、エマの首筋のあたりを一瞬で捉えた。
「ちょっと首の色、おかしくない?」
エマは慌てて手で首元を隠そうとするが、シリウスの観察眼からは逃れられない。エマの手を払い、ツっとエマの首を指で触ると、指についた粉を擦る。
「ファンデーションとコンシーラーで隠してるね。誰に付けられたの、そのマーク」
シリウスは八重歯を見せてにたりと笑う。セジュムが残していった『嫉妬心の痕跡』が、シリウスという最も観察力の高い男に、一瞬で看破されてしまった。
「えーっと、これはその……」
「レオール? あいつは噛み跡を残しそう。ジェルドかな? 意外と力任せだよね」
淡々と、問答無用で核心に迫ってくるシリウスに、エマは動揺を隠せない。エマは茶筒の蓋に手を伸ばし、話題を変えることにした。
「紅茶、淹れるけど、シリウスさんもどう? 一緒に飲もうよ。このバファマに来てから、まだシリウスさんとは二人きりでゆっくり話してないし」
「は? ……いいよ。ヒヒ。何話す?」
二人は晩餐室の外。小さなテラスの椅子に腰を下ろした。エマは、温かい紅茶の蒸気に顔を近づけながら、正直な気持ちを打ち明けた。
「バファマって変な場所だよね」
エマは紅茶を一口飲む。
「私がいた世界では、男性と女性が大体半々なんだ。だからお互い、好みとか相性とかで相手を選ぶ。バファマで女は私だけだから、本当はタイプじゃなくても私を選ばざるを得ない。こんな魅力の無い私が黎明の女神になっちゃって、みんなには申し訳ないよ」
シリウスが紅茶に口をつけながら上目でエマを見る。その瞳から感情が見えない。
「あ、ソンナコトナイヨー待ちじゃないからね。事実そうだから」
神の子四人に対し、黎明の女神はたった一人を選ばなければならないというシステム。神の子の感情を無視したシステム。本来の気持ちを押し殺して、神になるという目的のために、必死になってエマを好きな振りをしなければならない。
「やっぱ私の独断で誰か一人を選べない。まだ、きっと期間にしたら数日だけど、このバファマで過ごして、できるだけ相手の感情にも寄り添いたいって思った。……違うのかな。どうすればいいのかわからない」
エマの言葉を聞き終えたシリウスは、持っていたカップを静かにソーサーに戻した。
「よく決断できたね」
彼は珍しく皮肉を交えず、静かに語り始めた。
「まず、君がこのバファマで黎明の女神としての役割を果たそうと心が動き始めている。前に進んでいる」
彼が顔を上げると、耳のフープピアスが揺れ、硬質な音を立てる。
「僕がこのバファマに産まれてから、数代の黎明の女神を見てきた。色んな女神がいた。君は誠実な方だ。……ここはバファマ。黎明の女神が絶対的中心。君だけが僕たちの全てを振り回すことが出来る」
シリウスはゆっくりと紅茶を飲んだ。
「君がいた世界とこのバファマは倫理が異なる。一人だけに抱かれてもいいし、全員に抱かれてもいい。エマが今誰を選べないと感じているなら、それでいい。誰かに選ばれたいのならそれでもいい。自分の気持ちに正直に、このバファマで過ごせばいい」
思いがけず心に寄り添ったアドバイスをされ、エマは胸のつかえが少し取れたような気がした。
「シリウスさんって、意外と優しいね」
「そう? 僕はそう思わないけど」
照れているのだろうか。エマは微笑み、改めてバファマに訪れた日のことをシリウスに尋ねた。
「そういえば、あの時、なんで私を自分の部屋に招いたの?」
シリウスは、長い前髪の隙間からじとっとした目を呆れたようにエマに向ける。
「まさか僕が君を誘惑しようとしてるとでも? 研究のためだ。君に初めて接近した時、君の髪を数本抜かせてもらった。君が食事に行っている間に、君がバファマに来た時に着ていた洋服も回収した。早く回収しないとバファマの地に順応してしまうからね」
「……研究」
「君の生きた世界。バファマとは異なる理屈がある。興奮するだろ?」
そう言ってカップの縁を指で撫でる。それぞれの指についたアクセサリーがカップに当たり時折冷たい音を響かせる。
「シリウスは神になることに興味が無いんじゃなくて、研究が好きだから、バファマにいたいように見える」
エマが呟くように言うと、シリウスはフッと鼻を鳴らして笑い、足を組み替えた。
「……確かに、あの研究室から離れなければいけないなんて、そんなの耐えられない。何に変えても僕はここに留まりたいね」
「あ……例えば、神になったら、その新しい地でも色々実験したり、研究したりできるんじゃ……」
「僕の研究は神になった後には意味を無くす。それとも……」
シリウスの瞳が据わり、ゆっくりと首を傾げエマを睨みつける。
「まさか僕に抱かれたくてそんなこと言ってんの」
ぞくりと背中に寒気が走り、明るいはずのテラスが一瞬暗くなったような錯覚を起こす。唾を飲み込み、エマは早口で返答する。
「違います。まさか。一番抱かれたくないです」
「そう。君に抱けって言われたら抱かなくちゃいけないからさ」
シリウスはそれを聞いて満足そうに紅茶を飲み干す。
「……さて、忙しい僕の時間を奪ったんだ。それなりの対価を貰うよ」
「えっ!」
「今度また僕の研究室へ来て。実験に付き合ってよ」
彼はニタリと笑い八重歯を覗かせ、立ち上がった。白衣の裾が椅子を撫でる。
「紅茶ご馳走様」
シリウスはそう言い捨て、エマの反応を待たずに、さっさと自室に戻るのだった。エマはシリウスの悪魔のようなオーラに当てられしばらく椅子に座ったまま、動けなかった。