黎明の女神   作:浮月 愁

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勉強2

ジェルドは、静かに瞬きを繰り返した。

 

「俺が童貞だと、何かまずいのか……?」

「ま、まずくない、まずくない。でも、全部理解できた! ジェルドの独占欲の無さとか」

 

独占欲が薄いのではない。ただ単に、心をかき乱すような激しい感情を経験したことがないだけなのだ。誰の手にも触れさせたくない、自分だけの領域に繋ぎ止めておきたい。そんな強い独占欲を、彼はまだ知らない。

 

「独占欲……。俺には、その感覚がまだわからない。なぜ、そこまで執着するのか。独占欲があれば、嫉妬をするのか? 俺に教えてくれないか」

 

そのあまりに無垢で拙い問いかけに、エマは言葉を失った。目の前の彼は、人間が成長過程で自然と身につけるはずの必須科目を履修していない子供のようだった。

童貞だと分かった今、エマを見つめるジェルドの瞳は、捨て子犬のそれにしか見えない。

 

そもそも独占欲とは、幼少期から少しずつ、積み重なって覚えるものではないだろうか。

 

お気に入りのおもちゃを抱え込み、自分だけの宝物にしたいと願う。

大好物を欠片も分け合わず、夢中で平らげる。

親友が自分以外の誰かと笑い合っている姿に、胸の奥がチリチリと焼けるような苛立ちを覚える。

そして、いつか恋人に対して抱く情動……。

 

けれどそれは、実際に触れ、「体験」の積み重ねがあってこそ成立するものだ。

未体験の彼に言葉だけで伝えたところで、果たして理解できるものだろうか。

エマは、言葉ではなく行動で伝えることを選んだ。

 

エマは迷いを断ち切るように、ソファの上で遠慮がちに両手を広げた。

 

「ハグしてみる? 独占欲の勉強」

 

ジェルドは一瞬、戸惑ったように身じろぎしたが、すぐさまその眼差しに真剣な熱が宿る。

端正な容貌の男性が、今まさに自分を抱きしめようとしている。エマの全身を鋭い緊張が駆け抜け、後悔が忍び寄るが、もう引き返せなかった。

ジェルドの逞しい腕がエマの背に回され、静かに引き寄せられた。

掌と懐から、熱がじわりと伝わり、彼の纏う甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 

「エマは小さいな」

 

それは、壊れ物を扱うような、あまりに優しい抱擁だった。執着や独占といった感情は微塵も感じられない。そこにあるのは深い安心感。耳元に落ちるジェルドの声は、穏やかで落ち着いた低音を保っている。

すぐ側で囁かれる甘い声音は、エマの心臓を容赦なく急かし、体温を跳ね上げていく。だが、今はときめいている場合ではない。これでは独占欲の勉強にはならない。

 

「ジェルド。もっと、こう……こうかな」

 

エマは、自ら腕にわずかな力を込め、彼の広い背を包むように抱き寄せた。その瞬間、ジェルドの指先がぴくりと動き、彼の内側に生じた小さな動揺が、エマにも伝わってくる。

エマは震える声を抑え、ジェルドの耳元で静かに、囁いた。

 

「頭で考えない。こう……もっと本能で」

「……本能?」

「自分だけのものだ! って」

「こうか?」

 

問い返した直後、ジェルドの抱擁の質が変貌した。

慈しむような穏やかさは消え失せ、彼の腕に籠もった力が熱を帯びる。エマの体はジェルドの硬く厚い胸板へと無理やり縫い付けられ、逃げ場を完全に封じられた。

 

「うん……柔らかくて……温かい……」

 

重なり合う肌の境界が曖昧になるほど密着度が増していく。次第に彼の吐息は熱を増し、湿った熱気がエマの耳元を執拗にくすぐる。

ジェルドの喉の奥から、低く、理性を引き絞るような掠れた声が漏れた。

 

「これは心地いいな。このまま一つになりそうだ」

「えっ! は……!?」

 

その言葉とあまりに濃密な接触に、エマの羞恥心はとうに限界を超えていた。拘束から逃れようと微かに身をよじったが、それは皮肉にも、彼の体に自らをより深く擦り付ける形となってしまう。

ジェルドはそれを、拒絶ではなく、自分を求める仕草なのだと――その無垢ゆえの勘違いは、彼の思考を甘く蕩かせた。

 

「……可愛い」

 

ジェルドの柔らかな唇が、エマの耳のふちに沿ってなぞり、耳朶を甘噛みする。

 

「んっ……ううっ」

 

エマの心臓は激しく高鳴り、全身の血が熱を帯びる。くすぐったさと時たま漏れるジェルドの小さな喘ぎにエマは背中を震わせる。

 

「んっ……ジェルド! ジェルド!」

 

エマは、苦しさと、初めて感じる彼の官能的な熱に戸惑い、彼の胸元を押し返すように何度か叩く。ジェルドは熱に浮かされたように耳朶を甘噛みしながら囁く。

 

「ハァ……俺の体が、君を貪りたがっている……。理性で制御できないほどの強い衝動だ。なんだ、これ……」

 

エマはついに諦めて脱力した。

興奮で上下する胸。蕩けるような甘い声。強まるジェルドの腕。だが、ハグにより心地良さを感じているのはジェルドだけではない。独占欲の勉強だなどと言っておきながら、甘美で艶やかなこの時間をエマはまるで心地よい波の中にいるかのように味わっていた。

唇が耳朶を一瞬離れ、下の方へと移動する……が、ジェルドの唇が止まった。

 

「……ジェルド?」

 

少し顔を離して、ジェルドの顔を覗き込む。初めて見るジェルドの不快に歪んだ表情だった。その目線はエマの首筋。

 

「……このキスマーク……誰にされた?」

 

明らかなる嫉妬の表情だった。独占欲に瞳が揺らいでいる。まるで地を這うような低い声。

 

「誰とこんなことした?」

 

そう言ってジェルドはエマの首筋に唇を這わす。ゾクゾクとしたものが背筋を走り、思わず喘ぎそうになるのを喉の奥で堪える。

 

「ジェ、ジェルド。これ以上は、ダメ」

 

鎖骨に口付けしようとして、ジェルドはピタリと止まる。そしてそのままエマの肩に顔を埋める。

 

「ああ……そうか……なるほど。初めて覚えた……」

 

熱くなった頬をエマの首筋に付けながらジェルドは大きく息を吐く。

 

「……この愛しい衝動を、誰も君に向けて抱いて欲しくない。君が他の誰かに、この温もりを差し出すことを想像したら、胸が張り裂けそうだ……」

 

まだ息が荒く、ジェルドの背中が上下している。エマは自ら仕掛けたことへの反省の意を込めてジェルドの興奮が落ち着くまで肩を貸していた。

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