黎明の女神   作:浮月 愁

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風見台1

レオールとの屈託のない時間のおかげで、エマの心には再び前向きな光が灯っていた。しかし、シリウスから負った傷はまだ疼く。手首の赤い痕は消えたが、皮膚の下に残る恐怖と屈辱は、そう簡単には剥がれない。

 

(シリウスを神にさせる)

 

エマの頭の中は、あの傲慢で冷酷な男を彼が一番望まぬ「神」という立場に叩き込むための、具体的な方法への思考で占められていた。

何か甘いものでも飲んでリラックスしながら考えようとキッチンの方へと歩いている最中、階段を登ろうとしている男がいた。遠目でもわかる、背筋の伸びた長身。ひとつの動作ごとにふわりと揺れる外套。

 

「セジュム!」

 

彼は、エマの澄んだ声にハッとしたように振り返ると同時に、わずかに目を伏せた。セジュムの部屋での一件以来、彼はエマと目が合うたびに、どこか気まずそうに微笑む。あれからしばらく経つのに、まだ自分を許せていないのだろう。その真面目すぎる性分が、エマには愛おしくすらあった。エマは駆け寄った。

 

「どこに行くの?」

 

塔の構造を思い描く。1階はエントランスと公共スペース、2階には神の子の部屋。3階はエマの部屋。4階は浴場と資料室。ここは3階だった。

 

「少し気分転換に。……宜しければエマもご一緒に行きませんか。私のお気に入りの場所です」

 

その言葉に興味が湧いたエマは、迷うことなくセジュムに付いていくことにした。立ち入ったことが無い5階を抜け、6階へと登る。6階の廊下を進むと、壁のほとんどを占める大きなガラスの扉の前に立つ。セジュムがドアを開くと、直径およそ3メートルくらいの円形。低い欄干が周りを囲んでいる「風見台」だった。

バファマの地を一望できる場所に、エマは息を飲んだ。

 

「さあ、エマ」

 

セジュムは手を差し出すが、エマは足がすくんだ。塔の6階は、想像以上に高い。欄干もエマの腰あたりまでしかなく、視覚的な開放感と、物理的な防御の薄さが、脳を混乱させる。一歩でもバランスを崩せば落下してしまうのではないか、という恐怖がエマの足を縫い止めた。

 

「……高いところはお嫌いですか」

 

セジュムは差し出した手をそっと下ろした。しかし、『お気に入りの場所』だと言ってせっかくセジュムが連れてきてくれたのだ。エマは勇気を振り絞り一歩踏み出した。

 

「全然平気」

 

二、三歩少し前に出ると、足がフワッと浮くような浮遊感に襲われ、思わずセジュムの身体にしがみつく。セジュムの背の固い筋肉のあたりに顔を埋め、恐らく見晴らしがとてもいいのだろうが、見上げる余裕は全く無い。

 

「全然平気じゃないじゃないですか」

「ごめんなさい……」

 

セジュムはくすりと優しく笑い、しがみつくエマの手をそっと取り、繋ぎ変える。

 

「無理しないでください」

 

そう言ってエマの腰にソッと手を添え、その場に座らせ、セジュムもその横に腰を下ろした。肩と肩とが触れ合い、セジュムの体温と優しさが伝わってくる。セジュムを見上げると、眼鏡の奥の優しい瞳がエマを見ており、エマの胸が静かに高鳴る。

 

「外を見てください」

 

視界いっぱいに広がる、揺蕩う光の層。霧なのか雲なのか、その境界が美しくぼやけた空。遠くに大きな湖があり、そこから幾筋もの川が流れている。その幻想的な景色は、胸の奥から湧き上がるような淡い穏やかさを感じさせた。

欄干越しであることがもどかしく、エマは四つん這いになり、その欄干の近くまで行き、冷たい金属を掴んだ。風がエマの頬を撫で、髪を揺らす。

 

「はぁ〜。キレ〜イ」

 

思わず声を上げる。背後から柔らかい笑い声が聞こえると、セジュムも立ち上がりエマの横まで来た。セジュムが普段通りに欄干のすぐ側に立ったので、エマは思わず反射的にセジュムの脚にしがみついた。

 

「落ちる!」

「落ちませんよ」

「死んじゃう!」

 

セジュムは「死にませんよ」とは言わなかった。何も言わないセジュムの表情が気になり、エマは顔を上げるが、その下から見上げる彼の表情は無であり、何を考えているのか読み取ることは出来ない。

 

「……セジュム?」

 

セジュムはハッとして、エマを見下ろすと口元だけ作られた笑顔でしゃがみ込み、安心させるようエマの頭を撫でた。

 

「そうでした」

 

風見台の欄干のそばに、二人は肩を寄せ合って座った。セジュムは膝の上に手を重ね、ふと顔を上げて静かに謝罪した。

 

「昔のことを、少し思い出しまして……」

 

セジュムは、一点の曇りもないガラスの瞳で、遠い地平線の境界を見つめた。

 

「バファマの塔は、時が止まった世界です。老衰も病も飢えもありません。しかし、怪我は負いますし、この高さから落下すれば死ぬ。長くこの地にいると、私たちは死という概念を薄れさせ、その存在を忘れてしまいます」

 

神の子も死ぬのかと思うと、エマは背筋に冷たいものが走るのを感じた。思わず身を竦め、セジュムに軽く体重を預ける。

 

「ですが、私は一度だけ、死を身近に感じたことがありました」

 

彼の声は、囁きのように静かだった。エマは息を詰めて耳を傾ける。

 

「昔、アイコという黎明の女神がいました。彼女は、私たち神の子を『人間』とは扱いませんでした。全員が、彼女の振る舞いに疲弊し、心を削られていきました。それでも神の子は、女神に全てを捧げる身。耐えて彼女に尽くしていたのですが……」

 

セジュムは言葉を区切り、重く息を吐いた。

 

「神の子の一人が、ついに壊れてしまったのです」

 

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