穏やかな風が風見台に吹き付け、温かな光が2人を照らす。しかし、セジュムの話はまるで寒々しいトンネルの中にいるような絶望に包まれていた。
「神の子の一人が、ついに壊れてしまったのです。彼の消耗しつくし、朦朧とした姿を見て、私は初めて、このバファマの地で人が死ぬのではないかと、底知れぬ恐怖を感じました」
エマは黎明の女神から裏切られて不信感を抱いていたレオールを一瞬思い出した。しかし、女神の名はヒメカ。アイコではない。もうここにはいない神の子の可能性もあるが、もしこの時のトラウマで、同じように黎明の女神に対して強い不信感を抱き、その反動が強い支配欲となって動いているのだとしたら……。
エマはその「壊れた」神の子が誰であるかを悟りかけていた。
「エマ、あなたみたいな人が黎明の女神として招かれてくれて私は嬉しいんです。貴女しかいないと思っています。ですので、どうか私と……」
セジュムの真剣な瞳は陽だまりを掬いとったような静かな輝きを湛えている。
(告白だ)
エマはセジュムが相手となってくれる事に、一切の抵抗は無かった。最初から好意的であってくれたし、自我を失うほど激しく嫉妬し、エマを見てくれた。その愛になんの疑いは無い。
だが、頭の中に浮かんだのはシリウスの嫌らしい笑み。シリウスに蹂躙されてしまったことをセジュムが知ったらどう思うのだろうか。
セジュムはエマの瞳から輝きが失った瞬間を見た。
「……すみません」
「あ、セジュム。違う。そうじゃないんだけど……」
「いえ、エマの中に誰か決めた人がいるのなら……もうそろそろ帰りましょう」
エマは否定しようとしたが、否定するとセジュムの気持ちをすぐに受け入れない理由を問われてしまう。そう思うとエマは俯いた。その姿にセジュムは、寂しげな光を瞳に宿し、ただ優しく微笑むだけだった。
二人は静かに立ち上がり、6階の廊下を降りて自室へと戻ろうとした。4階の階段を降り、3階の踊り場に差し掛かったその時、廊下の奥から一人の男が顔を覗かせた。白衣姿のシリウスだ。
彼の部屋自体は2階だが、ほとんど4階の研究室へと入り浸っているため、3階の廊下で彼が顔を出すのは珍しい。セジュムはいつもの笑みで、穏やかに話しかける。
「シリウス。珍しいですね。どちらへ?」
セジュムはほんの少しだけ服が引っ張られるような気がして下を向くと、エマがセジュムの外套を摘んでいた。顔を見るとエマの様子がおかしい。怯えているという訳ではないが、全身に極度の緊張が走り、顔も不自然に力が入り、硬直している。まるで、一瞬にして周囲の空気が氷点下になったかのようだ。
シリウスは、セジュムの存在を無視し、その陰鬱な瞳をエマに据えたまま、口角を意地悪く引き上げた。
「エマ、話がある。僕の研究室に来て」
彼はエマの返事を待つこともなく、ゆっくりとエマへ近寄ると強い手つきでエマの腕を掴もうとした。
「お待ちください、シリウス」
セジュムは咄嗟に、エマを背中へと隠し、シリウスの間に一歩踏み出した。驚いたのはシリウスだった。すぐに不愉快そうに顔を歪め、背の高いセジュムを睨みあげる。セジュムは穏やかながらも強い意志を込めた声で遮った。
「残念ながら、エマは今から私のものです。これから私の部屋で『二人きりの時間』を過ごす予定でして」
「……はぁ?」
「その時間を邪魔されるのは、非常に不本意です。ね、エマ」
その言葉はセジュムの理知的な口からは想像もつかないほどの色気を滲ませていた。エマは想定外のセジュムの言葉に顔を赤くする。
シリウスはエマの反応を見て、あながち嘘でもなさそうだと判断し、眉を顰め、セジュムを冷酷な目で見上げた。
「いつからそんな関係になった?」
「シリウスには内緒です」
セジュムは指先を口元に当てると小首を傾げ微笑む。シリウスは鼻で笑い、エマを真っ直ぐ見据えて挑発するように言った。
「あっそ。じゃあ、すぐに返すから先にエマを貸してよ」
「エマは物ではありません」
セジュムは声を荒げず、しかしはっきりとシリウスに言い返す。
「エマに決めてもらいましょう」
セジュムは自身の勘違いでエマの行動に制限を掛けてしまうことを避け、最後にエマに判断を委ねる。二人の視線がエマを刺す。エマの心臓は激しく波打った。葛藤が身体の内で渦を巻く。
(シリウスの方へ行けば、またチャンスが訪れるかもしれない。でも、もし失敗すれば、また酷い目に遭うかもしれない。どうしよう……)
負けたくないという反骨心と、二度と行きたくないという根源的な恐怖が交差する。
エマは、何度か深呼吸するとセジュムの外套の裾を、そっと、しかし確かな力で掴んだ。
「……セジュム」
エマは絞り出すような声でシリウスに返した。自分から選ぶように仕向けた癖に、セジュムは選ばれる確信は無かったようで一瞬驚いてエマを見下ろす。シリウスは、一瞬、顔から笑みを消したが、すぐに意地の悪い笑みを復活させた。
「ヒヒ……本当にいいの? 僕の方へ来た方がいいと思うけど?」
エマは揺さぶられる。彼の言葉は、自分の選択を愚かだと嘲笑っている。その瞬間、セジュムは優しくエマの手に触れ、その指を絡ませた。
「行きましょう、エマ」
セジュムは、シリウスに向けて一瞬警戒にも似た視線を送るが、エマの手を口元に近づけそっと口付ける。そして、シリウスに聞こえるように、深く甘い声で囁いた。
「たくさん愛してあげるよ」
いつもの丁寧な口調から、距離の近い口調に変わり、さらに腰が抜けるような甘い言葉。エマはその場で恥ずかしさで身体が熱くなるのを感じた。赤くなった顔を隠すようにセジュムの外套に顔を埋めると小さく頷いた。セジュムは優しげに微笑むと、エマの手を引き、シリウスに背を向けて、その場を去るのだった。廊下には、シリウスの静かで冷たい舌打ちの音だけが、虚しく響いていた。