黎明の女神   作:浮月 愁

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柔情2

セジュムの部屋は、一瞬にして空気が凍りついたかのような、静かで重苦しい雰囲気に包まれた。

エマは全てを話し終えた後、深く後悔した。目の前のセジュムは、もはや彼女が知る穏やかな彼ではなかった。纏っているのは、まるで実体を持つかのような、深く濃い黒いオーラ。心配になり、口を開きかけようとしたが、眼鏡の奥から放たれる殺し屋のような鋭い視線と目が合い、エマは言葉を飲み込んだ。

エマは空中を仰ぎ見つめながら、独り言のように呟く。

 

「そういうことだから……もし、そのアイコさんとの間であったことがシリウスの行動の理由だったのだとしたら、詳しく聞きたいなって、そう思ったんだけど……」

 

セジュムは信じられないほどの低い、地の底から響くような声で呟いた。

 

「で……復讐のため、シリウスを神にするって……」

「うん、そう、かな。そうかも」

 

エマの言葉を聞き終えると、セジュムを覆う黒いオーラがさらに深く濃くなったような錯覚を起こす。眼鏡の奥がギラリと光り、エマのことをするどく、射抜くように見抜いた。

 

「エマ、そんなクズの相手はしなくていい」

 

エマは低いその声にビクリと身体を震わせた。

 

「私にすればいい。私を選べばいい。私が君を正しく愛す。私はエマを怯えさせたり、泣かせたりしない」

 

ブツブツと、ほとんど呪文のように呟くセジュムを見て、エマはまさに今、彼に怯え、泣きそうになっていた。セジュムの完璧な理性という名の蓋が、嫉妬と怒りによって外れかけ、彼の内なる激しさが噴出しているのを感じた。

 

「あ……風見台でセジュムが私しかいないって言ってくれて嬉しかった。でも、シリウスのことがあったから、素直に受けられなかった。無理して私を愛そうなんて思わなくていい。今の私の話を聞いたら普通は引くし……」

 

消え入るようなエマの声を、セジュムは一言も漏らさず聞き届けた。彼は短く吐息を漏らすと、抗いがたい力でエマの手を引き、自身の懐へと強引に抱き寄せた。

 

「エマ……」

 

切望に震える、熱い吐息が耳を打つ。背後から折れんばかりの力で抱きしめられ、エマは身動きもできずに身体を強張らせた。顔が見えないからこそ、彼の抱く激情の深さが肌を通して伝わり、心臓が痛いほどに跳ねる。

だが、セジュムはハッとすると弾かれたようにその手を離した。

 

「……すみません、つい」

 

彼はエマから少し距離を置いて座り直すと、震える指先で眼鏡を鼻筋へと押し上げ、視線を泳がせた。

 

「もし……男性に対して恐怖心があるのであれば、これ以上、不必要には近づきません」

 

(……何を今更)

 

あまりに愚直で不器用な彼の気遣いが、不意に可愛らしく思えてしまい、エマは思わず「ふふっ」と吹き出す。自らセジュムとの距離を詰め、顔を覗き込んだ。

 

「セジュムは、平気だよ。だって、風見台の時から今までずっと……こうして、くっついてたし」

 

深い意味はなかった。ただ、気遣いは不要だと言いたかっただけなのに。口に出した瞬間、エマの顔は火が出るほど赤くなった。まるで自分から「もっと触れて」と誘っているようなものではないか。

その反応にセジュムは何かを悟り、息を呑んでエマの瞳を見つめた。

 

「エマ……?」

 

セジュムの表情から微かな余裕が消え、熱を帯びた声が鼓膜をくすぐる。一瞬にして親密な、逃げ場のない空気へと変貌し、エマの心拍数は臨界点を超えた。

セジュムの長く細い指先が、エマの顎を優しく上向かせた。

 

「……キスを、してもいいですか」

「えっ、ええっ!?」

「嫌なら、そう言ってください」

 

エマは一瞬躊躇った。だが、その瞳に宿る光は、すべてを聞いた上でなお彼女を希求する、セジュムの偽りない本心だった。シリウスとの悍ましい記憶を知ってもなお、変わらぬ献身で応えてくれる彼の誠実さが、エマの心の氷を溶かした。

 

「……嫌じゃ、ない」

 

セジュムの端整な顔が歓喜に満ち、エマを見つめる瞳が揺れる。

息が触れ合うような距離で、二人は数秒、ただ互いの存在を確かめ合うように見つめ合った。

静寂に耐えかねたエマが、祈るようにまぶたを閉じる。それを合図に、セジュムは吸い寄せられるように顔を寄せた。

セジュムはエマの唇に自分の唇の輪郭をそっと重ねた。上下の唇が互いに押し合い、擦れ合いながら、少しずつ角度を変えていく。

ふっと唇が離れそうになった瞬間、エマは無意識にその感触を追いかけ、縋るように顎を上げた。

 

(あ……)

 

自ら乞うてしまったことに気づき、身体中がカッと燃えるような羞恥に支配される。気まずさに目を泳がせ、逃げるように顎を引こうとした。

だが、セジュムは惑うエマを愛おしむように見つめ、喉奥から吐息に近い笑い声を漏らす。

 

「……それは、ズルいですよ」

 

セジュムの手がエマの後頭部に回り、髪の根元を掴んで固定するように引き寄せた。

唇と唇が、何度も角度を変え、形を変え、擦れ合い、離れてはまた重なる。濡れた音が耳に落ちる。

ようやく唇が離されると、セジュムはエマの少し濡れた唇を指先で優しく拭った。

 

「……これ以上は、理性が保てません」

 

そう言って彼はエマの頭を慈しむように撫でた。

 

(ズルいのはそっちだよ……)

 

深いキスではなかった。

だからこそ、そのキスに純然なる愛情を感じた。唇を重ねる度にその愛情が流れ込んでくるような気がして、温かで柔らかいセジュムの唇をまだ求めている自分がいた。

まるで傷口に薬を塗られているようだ。大切に扱われているその実感が静かにエマの心を満たしていた。

このまま甘えてしまいたい衝動に揺さぶられるが、エマはそれを必死で理性で押さえつける。

 

エマはソッとセジュムを盗み見た。一瞬視線が絡むと、セジュムは優しげに微笑み、静かにエマの頭を支え、自身へと凭れ掛けさせた。

そして、少し目を伏せ、自らに言い聞かせるように呟いた。

 

「……ですが」

 

セジュムは自らの拳をぎゅっと握りしめた。その瞳には、遠い過去を追想するような、切なく、深い憂いが宿っている。

 

「そうか……。シリウスは、何十年もあの時の傷が癒えていなかったのですね」

 

そして、セジュムは静かに語り始めた。

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