その後、なんとかジェルドにセジュムとの間に無理強いはなかったことを理解させたが、セジュムがエマを抱こうとしていた事実は覆せない。ジェルドは再びセジュムに露骨な敵意の表情を向けていた。その敵意に対し、セジュムは呆れたように腕を組み、ソファに座るジェルドを見下ろした。
「君はシリウスに騙されて私たちの邪魔をしました。まずはそちらを詫びるべきでは?」
ソファの上でワナワナと身体を震わせているジェルドは見ていられないほど痛々しかった。
「俺は騙されていない。実際セジュムはエマを自室に連れ込み……あぁ!」
ジェルドは顔を両手で覆い俯いた。
「邪魔できて良かった。俺は、シリウスに感謝したい」
「そうですか」
セジュムの額に血管が浮いたことにエマが気が付いた。慌ててこの場の空気を収めるために、一度距離を取るしかないとエマが提案した。
「とりあえず今日は私の部屋に戻ろうかな」
セジュムはショックを受けたのか、一瞬表情を固まらせたが、すぐにいつもの柔和な微笑みを取り戻す。
「外は危険です。どうか私の側にいてください」
「何を言っている。エマ、外に危険は無い。一緒に部屋に戻ろう」
ジェルドは輝くような微笑みでエマに手を差し伸べる。エマは何度か瞬きを繰り返し、ジェルドとセジュムを交互に見る。『外は危険』 セジュムのそれはシリウスのことを指しているということは容易に理解できたが、エマにとって『外は危険』であることはジェルドは知らない。ここで変に反応すると怪しまれる。
「セジュム、ありがとう。でも、今日は戻るね」
「では……エマ、部屋まで私がお送りしましょう」
しつこく迫ることはできない。エマが自室へと戻ることに深い不満を抱えているセジュムは、口角だけを無理やり引き上げたような笑みをエマに向け、手を差し伸べる。その手を、ジェルドが容赦なく払いのけた。
「破廉恥だ。セジュムが何をしようとしているか、手に取るようにわかる。俺が送る」
「何をしようとしているかわかるのですか? それは賢いですね」
セジュムは眼鏡のフレームを指で持ち上げながら、その奥で冷たい光を瞬かせ、ジェルドを見据える。ジェルドは彫りの深い顔に深い皺を寄せ、セジュムを真正面から睨み返した。
その光景を見て、エマは思っていた。
男性が自分を取り合うなんて今まで経験をしたことがない。ましてや、彫刻のようなイケメンが、火花を散らして牽制し合うなんてドラマや映画の中だけの話だと思っていた。実際目の当たりにすると……
(正直、かなり面倒くさい)
そして、こんな争いを引き起こす自分にも、言いようのない罪悪感が湧き上がってきた。
「私は大丈夫。一人で部屋に戻る」
エマがそう言うと、二人の殺伐とした動きはピタリと停止する。ジェルドも、特にセジュムは全身でエマを一人で部屋に戻らせることに拒否反応を示したが、これ以上成人男性の小さな争いは見てられなかった。エマは強引に一人で部屋に帰ることに決めた。
2階への階段を上り、廊下を曲がる。
エマの自室の扉の横に、まるで部屋の影が濃くなったかのような人影があった。それが何か分かった瞬間、血液が逆流するような錯覚に陥る。
シリウスだ。
引き返し、もう一度セジュムの部屋へ戻ろうとしたが、焦りのあまり木張りの床に靴音を響かせてしまう。その音で、シリウスは獲物を見つけたかのようにゆっくりと顔をあげ、研究対象を査定するような、冷酷な目とエマの視線が絡んだ。
「随分遅かったね。セジュムと相当楽しんだ?」
嫌らしい笑みを浮かべ、獲物を追い詰めるように近づいてくるシリウスに、エマの体は一瞬にして硬直する。全身の毛穴が開き、皮膚の下を冷たい水が駆け巡るような感覚。全身の緊張を自覚し、エマは目を瞑って大きく深呼吸する。
「シリウスの部屋に行ってもいいけど、今度は何もしないって約束して」
シリウスが白衣のポケットに手を入れ、ゆっくりとエマの方へを1歩進める。エマがビクリと身体を震わせるのを見て、満足そうに鼻を鳴らして笑う。
「ビビり過ぎ」
「全然ビビってない。早く行こう」
「ヒヒ、何もしないとは約束できないけどいいの?」
ゾッと背筋に冷たいものが走り、足が震え始める。過去の屈辱的な感触が皮膚の奥で疼き、エマの体は鉛のように重くなる。
「わた、私に用事って何?」
「実験に決まってるだろ。それ以外何があるの」
強気だった気持ちが一気に沈む。冷たい黒い影が心臓を包んでいくような感覚に襲われ、息苦しさに目の前が暗くなる。足の感覚が無くなり崩れ落ちそうになったところをシリウスが支えた。
「迷走神経反射。実験、そんなに嫌だ?」
耳元で嬉しそうなシリウスの声が響く。
「僕は他の神の子より非力なんだ。君を支えて研究室まで行く体力は無いんだけど。引きずって行く?ねぇ、自力で立ってよ」
グラグラとエマを揺らすが、気絶寸前のエマはその声に反応できない。頭上から面倒そうな気だるいため息が聞こえる。シリウスは何の感情も込めずに、ただの荷物のようにエマを抱き上げた。
「……ダル」
そう言って重たい足取りで歩き始めたシリウスの背後から、急ぎ足の靴音が細かな粒になって近づいてくる。乾いた床を叩く音は、焦りを隠しきれない心拍のようにリズムを乱している。
「……エマ!」
エマの耳の遠く遠くでセジュムの声を聞いた。エマはその声に安心して意識を遠のかせた。