鈍い、そして僅かな淡い苦味をまとった消毒液の匂いが鼻腔を刺し、エマは重い瞼を持ち上げた。
視界に入ってきたのは、白い天井と、薬品棚のガラスに反射する冷たい光。ここは――シリウスの研究室の中だ。
全身に張り詰めた緊張が走る。慌てて身体を起こそうとするが、両手首に冷たい金属の感触が食い込んだ。ガチャリと鳴る音。再び手錠でベッドの鉄枠に拘束されていることを悟り、背中に悪寒が走る。
「なんで……」
掠れた声が乾いた喉から漏れる。
「なんで、じゃないだろ。すごく重かったんだけど」
頭の上の方から、シリウスの不機嫌そうな声が降ってきた。視線を上へ向けると、彼は腕を組み、いつもの陰鬱な瞳でエマを見下ろしている。その冷たい視線に、皮膚の内側から恐怖が這い上がってくる。
「セ、セジュムは……」
エマは藁にもすがる思いで、廊下で意識を失う直前に聞いた、あの切迫した足音と声を尋ねた。
「はぁ? 夢でも見てた?」
シリウスは見下すようにため息ともつかない息を吐いた。その言葉に、エマの心は深い絶望に沈む。あの安心感を与えてくれた足音は、脳が見せた幻聴だったのだ。
恐怖は瞬時にパニックへと変わり、エマはがむしゃらに拘束された手を動かした。ガシャガシャと、金属が鉄枠を叩く無力な音が、静かな研究室に虚しく響き渡る。
「ヤダ! 離して!」
「えー。僕がどれだけ頑張ってここまで運んだと思ってる?」
頭上で薬品瓶がぶつかり合うチンという音が響き、エマの身体は再び硬直した。彼女の経験に基づいた、最も忌まわしい音。
「ヒヒ、何その反応。そんなに僕が怖い? 僕を神にする話はもう無くなった?」
シリウスの嘲笑めいた声が、追い打ちをかける。エマは大きく息を吐き、震える喉の奥で勇気を絞り出した。
「シリウス……どうして私にこんな酷いことをするの?」
「酷いことなんて何もしていない。これは実験だ」
「女性を陵辱することは実験とは言わない。女性をいたぶる事で、シリウスの気持ちが落ち着くの?」
エマはそこで、逃れられない運命と対峙するように、深く息を吸い込んだ。
「アイコさんのせい?」
言葉を発した瞬間、研究室の空気が凍りついた。
沈黙が訪れる。シリウスは頭上にいるため、その表情は窺えない。しかし、この沈黙こそが、彼が動揺している確かな証拠だとエマは悟った。一瞬でも彼を気圧しているという事実に、微かな希望を抱く。
「前の黎明の女神からされた酷いことを、今の黎明の女神にすることで、心の傷を誤魔化しているんでしょう?」
頭上でガタっと音がし、シリウスは丸椅子をベッドの横へ引き寄せて座った。注射器を片手に、彼はエマの腕を見据える。その漆黒の瞳には、一切の感情が読み取れない。
「……それ、セジュムから聞いたな」
シリウスは注射器の先端を指で弾く。
「アイコは関係ない。僕はアイコに愛されていた。君はセジュムに騙されてる」
淡々とした、抑揚のない無感情な口調。その言葉は、エマが抱いたシリウスへの同情を一瞬で否定した。
「……え」
「セジュムが君の気を引こうとして虚言を吐いたんだろ」
シリウスがそう言い切ると、注射針をエマの腕に当てようとした――その時、ドアからノックよりもっと激しい音が、連続して叩きつけられた。
シリウスは一瞬ドアを見やったが、すぐにエマの腕に目線を戻す。
エマは、この一瞬の隙に助けを求めようと大きく口を開いたが、彼女の口をシリウスの冷たい手が力強く塞いだ。
「声を出すな。出したら……わかるな」
注射器をベッド脇に置き、シリウスは素早くエマの上にシーツを被せ、立ち上がった。
ドアの蝶番が軋む音とともに開くと、廊下からセジュムの声が響いた。ノックの激しさとは裏腹な、穏やかで紳士的な声。
「シリウス、お願いがあってきました。ここでは言いにくいので中に入れてくれませんか?」
エマは、セジュムの声に安心感を抱きつつ、シーツの下で全身を硬直させた。この瞬間、彼女の心の底には、極度の恐怖と、微かな安堵が混ざり合って渦巻いていた。
「お願い? ……なんの?」
シリウスがつっけんどんな態度を取るが、セジュムからの返答は聞こえず、しばし沈黙のような静けさが続く。エマはシーツの下で息を潜め、耳を澄ます。
やがて、シリウスの面倒くさそうなため息が聞こえた。
「……仕方ないな。入って」
ドンッという音を立ててドアが閉まる。
エマは闇の中に閉じ込められたように、鼓動だけを頼りに、その場に息を潜めるしかなかった。隔てられた薬品棚の向こうで、何が話されるのか。そして、自分がこの拘束から逃れられるのか。すべては、セジュムの手に委ねられていた。