研究室の冷たい空気の中に、二つの靴音が床を擦る音、そして薬品棚のガラスが微かに震える金属音が響く。エマはシーツの下で、目隠しされているにも等しい状況下、全ての聴覚を研ぎ澄まし、わずかな音から二人のやり取りを想像する。
「……ん。足りなくなったらまた来て」
「ありがとうございます」
セジュムの声は、あまりにも穏やかで、エマを助けに来たという切迫感は微塵も感じられない。その完璧な演技に、エマは一瞬、彼が本当にただの用事を済ませに来ただけなのかと不安になるが、一縷の希望を胸に、ひたすらに息を潜めた。
「……何? まだなんかあるの?」
やや不審めいた声でシリウスが言う。丸椅子が引かれ、床をギッと軋ませる。
「先程はエマを独占してすみませんでした」
「別に」
「おかげでいい時間を過ごせました。コレで少しでもエマを満足させてあげたくて」
セジュムは心の底から楽しんでいるような、穏やかな声で笑う。一体、何の話題で親睦を深めているのか。エマは耳を澄ませながらも、混乱する。
「……セジュムの部屋にジェルドは来なかった?」
「ジェルド? ノックは聞こえましたが、夢中で」
「へぇー。何度もしたくなるくらい良かった?」
シリウスの声が、警戒を解いたかのように僅かに無邪気さを滲ませて弾む。
「まあ。レオのように、とまで言わなくてもそれに近いくらい出来れば」
「ヒヒ、あいつはほとんど化け物だろ」
まるで気の置けない友人同士のようなリラックスしたムードで笑い合う声が、シーツの外で聞こえる。エマは少し考えて、これは男同士の会話だと気が付き顔を赤らめる。セジュムは紳士的と思っていたが男同士だとそうでも無いのかもしれない。聞かない方が良さそうな話だが、手錠のせいで耳を塞ぐことができない。
(……違う)
エマは会話の内容をなぞり、セジュムが嘘をついていることに気がついた。彼があえてエマと一線を越えたかのように装い、シリウスの警戒心を解こうとしているのだ。
やはり、セジュムはエマのためにシリウスの研究室に来たのだ。その事実に熱い涙が目頭に込み上げる。
「そうだ。避妊薬もいただけませんか」
「いいよ」
「あと……アレありませんでしたっけ……貸してくれませんか」
椅子の軋む音、そして靴の音がエマのいるベッドの方に勢いよく近づいてくる。エマは一瞬「アレ」とは、なんだろうと考えたが、そうではない。
チャンスだ。
エマはそのタイミングを逃さず、拘束された両手首をガチャガチャと音を立てて鳴らした。
靴の音がピタリと止まり、エマに近づく。シーツが勢いよく捲られる。
「セジュム……」
安心と心細さからセジュムの名を呼んだ瞬間、エマの拘束された姿を見たセジュムの顔は、安堵や怒りよりも、まず強い驚愕と当惑に支配されていた。手錠という予想外の事態が、彼の計画を一瞬で崩したことが見て取れる。
「……はい、避妊薬。もう用事ないなら帰ってくれる?」
うんざりとした声でシリウスが近づいてくる。セジュムは深く息を吐き出すと、エマを背に隠すように、シリウスへと向き合った。その背筋には、今や固い決意の緊張が走っている。
「シリウス、エマが拘束されている理由は?」
「……実験に付き合ってもらうため。悪い?」
「すぐに手錠を外してください。エマは私が連れて帰ります」
シリウスの陰鬱な瞳は、セジュムの問いに対して一切の動揺を見せず、余裕すら感じさせる。その自信に満ちた態度に、エマの心臓は不吉に脈打った。ゆっくりとシリウスが、静かに、しかし圧を込めて口にする。
「セジュム、アイコの話をエマにしたのはなんで」
その一言で、研究室の空気が刃のように鋭く張り詰めた。セジュムの背中から、極度の緊張感が伝わる。
「僕がアイコに傷つけられた。セジュムはあの時のことをそう思ってる?」
「……違うのですか?」
「僕を舐めるなよ。僕はアイコに抱かれたことは一度もない。抱いてやってたんだ。彼女の愛に応えてやっていたのは僕だ!」
シリウスは、その忌々しい事実を吐き出すように眉間に深くシワを寄せ、一気に言い切った。それは、真実をねじ曲げた、必死の自己防衛だった。
愕然としてセジュムが呟いた。
「シリウス……」
彼のその言葉は、彼自身が現実から目を逸らし、過去の深い傷を否定している証拠だった。その痛々しいほどの拒絶に、エマは強く胸を締め付けられる。エマは恐怖で声が震え、喉の奥が張り付くのを感じる。
「……シリウスは長い間、自分の意思を無視して支配され続けてきたんだね」
「……だから、違うって言ってるだろ。何を聞いてたの」
シリウスはイラついて舌打ちをした。セジュムがエマに振り返る。
「最初にシリウス言ってた。神の子は黎明の女神に全てを捧げるって。それが嫌だったんでしょ?」
「はぁ?」
エマは、全身全霊の力を込め、彼に訴えかける。
「何も捧げなくていい。何も求めないから。私はシリウスを支配しようとしない。絶対に!」
シリウスは、エマの顔を睨みつけ、苦虫を噛み潰したような表情を見せる。エマの言葉は彼の心の最も弱い部分に突き刺さっているはずだった。……だが。
「気持ちわる……だから嫌いなんだ。その言葉の暴力性に気づかない? なにが黎明の女神だよ……」
シリウスは憎々しげに吐き捨て、白衣のポケットから手錠の鍵を取り出すと、カシャリと音を立ててセジュムに投げつけた。
「それ外してサッサとこの部屋から出ていって。萎えた」
そう言って白衣を翻し、シリウスは背を向け、研究室の奥にある大きなチェアにドサリと身体を預けた。まるで、糸が切れた人形のように。彼の背中には、深い虚無感だけが残されていた。