湯口から流れ出るお湯が水面を揺らす。波紋の先は鏡のように静かで、時折、雫が小さな音を立てる。そのかすかな湯の音が、胸に緊迫した余白を広げる。
「私はシリウスのためにシリウスを支配しないって言ったんだけど、それが嫌だったんだよね。なんかよくわからないけどごめん」
シリウスはそれを聞いて鼻で笑う。
「『よくわからない』か。君には少し期待していたけど、残念だよ」
シリウスは重たい瞳でジッとエマを見据えると、手招きをした。もっと近くに寄れという意味らしい。エマは少々躊躇いつつも、シリウスの言葉の意味が気になり近くに寄る。
過去の黎明の女神は大抵こう言っていた。
『バファマは美しい場所』『まるで天国』
しかし、エマは――。
「君は言っていた。『バファマは変な場所』だと。僕も全くの同感だ」
大昔は一人の神の子が居て、黎明の女神が一人招かれる。当たり前に2人は結ばれていた。しかし、ある時、黎明の女神は双子を産んだ。そこからバファマは狂い始める。複数の神の子が存在するのが当たり前になってしまい、黎明の女神を奪い合うようになった。
「それでも、黎明の女神は一人なのが絶対。黎明の女神は不可侵で絶対的すべての中心なんだ。君が言った、僕を支配しない、なんて言葉も絶対になる」
シリウスは低く脅すような声で言い切る。
「『支配しない』なんて言葉で僕を支配するな」
シリウスが上半身を近づけ、エマの上に覆い被さるようにして、片手をエマの頭の側の石壁につけた。シリウスの顔がすぐそこだ。息がかかるような距離。黒い瞳がまっすぐにエマを捉えて、離さない。緊張にエマの喉が鳴る。八重歯を見せてシリウスは笑う。
「君はね、黙って僕の言うことだけ聞いていればいいんだ。もっと恐怖を植え付けようか? 反抗したくなくなるくらい……」
シリウスの手がエマの肩に触れる。……が、その手をエマがはたき落とす。
「触らないで!」
エマは眉間に皺を寄せ、シリウスを睨みつけた。肩に残る感触が、じわりと不快感を呼び起こす。
「やっぱりそうだ」
言葉にする前に、胸の中で何かが噛み合った。
シリウスの視線は、エマ個人ではなく、その奥にある「役割」を見ている。怒りでも憎しみでもない、もっと乾いた拒絶。
「シリウスは、私のことが嫌いなんじゃない。黎明の女神っていう仕組みそのものが嫌いなんだ」
声に出してみると、不思議なほど腑に落ちた。
「私を憎んでるんじゃない。いたぶりたいわけでもない。……ただ、壊したいだけ」
「……ふぅん?」
シリウスは満足そうに微笑んだ。ようやくシリウスは少しエマから身体を離すと、濡れた髪を振って湯船に深く腰を下ろす。
「エマ、君、黎明の女神辞めてみる? 手伝うよ」
黎明の女神を辞める。つまり、役割の放棄。以前シリウスの研究室で聞いたこと。バファマで死ぬことだ。
「……怖いこと言わないで」
「なんだ、つまらないな」
シリウスは呆れたように鼻で笑った。
エマの脳裏にセジュムの「こんなに簡単なのに」という低い声が蘇る。今すぐにでも黎明の女神を辞められる。つまり今すぐ首を絞めて殺し、黎明の女神を辞めさせることができる。セジュムの行動の意味がパズルのように組み合わさり、エマの胸に黒い影を落とす。セジュムはエマを殺そうとしていたのだろうか。
急にエマが黙ってしまったので、シリウスは手持ち無沙汰になり、ソッとエマの前髪に触れる。その優しげな手つきにエマは違和感を覚える。
「……な、何?」
「いや。……ところで、その湯の中、裸?」
「まさか。湯浴み着着てるよ……」
へぇ、とシリウスは口の中で呟くと、エマの背中に手を回し湯浴み着に指をかけ、そのまま湯の中で引きずり下ろす。乳白の湯のおかげではっきりとした輪郭はシリウスには見えていない。見えていないが、突然胸元の防御を無くした感覚にエマは慌てて両手で隠す。
「ちょ……!」
「さっき僕のこと丸腰って言ったよね? 本当に丸腰かどうか確かめてみる?」
余裕のある微笑みでシリウスがエマの顔を覗き込む。いつも見る冷徹な笑みとは異なり、どこか人を茶化しているような顔だ。
「……まさか、お風呂に入るときも注射器持ち歩いてるの……?」
エマの真剣な表情に、シリウスは一瞬面食らうと、呆れた顔でエマの額にデコピンを食らわせる。
「持ってるわけないだろ、バカ」
「いった」
エマが自分の額をさすっていると、シリウスは湯の表面を揺らして立ち上がろうとした。
「もう上がる。ついでだし、この後、実験に付き合って」
エマは慌てて後ろを振り返り目を伏せる。
「ヤダよ。もう私を使った実験辞めて。大体、なんの実験しているのか先に説明してよ」
少しの沈黙のあと、シリウスの楽しそうな声が頭の上から落ちてくる。
「……ヒヒ。すべてを壊すための実験だよ」
『すべてを壊す』
その言葉に殺気のようなものを感じ、エマは身を固くした。
「先に上がってるから後から来なよ。待ってるから」
水気を帯びたシリウスの足音が遠ざかる。エマはセジュムの言葉とシリウスの言葉を繋ぎ合わせ、彼らの目的としていることが恐ろしい計画なのではないかという結論に達した。
黎明の女神という存在を憎むシリウス。
エマの首に手を掛けたセジュム。
すべてを壊す。
黎明の女神という存在を消す。
エマは小さく頭を振った。こんな考え否定しなくてはいけない。否定しなくてはいけないと思いつつ、不穏な影が心を支配していく。