脱衣所の前に立った瞬間、エマは足を止めた。
浴場から続く湿った空気が、石壁に冷たく貼りついている。もうシリウスはいないはずと、そう思って一歩踏み出した、その刹那。
視線が、刺さった。
白衣に袖を通したシリウス。
そして、その隣に立つセジュム。
二人の視線が、同時にエマへと落ちていた。
エマは反射的に身を屈めた。床に近い冷気が、膝に伝わる。湯浴み着は着ているが、濡れた布は容赦なく身体の線をなぞり、肌に張り付いていた。自分の姿がどう見えているかを想像して、心臓が跳ねる。
空気が、凍りつく。セジュムが先に動いた。足音は静かだが、確実に距離を詰めてくる。感情を削ぎ落としたような表情のまま、タオルを手に取り、エマの肩へと掛けた。
そのまま、彼はエマのすぐ横にしゃがみ込む。距離が、近い。息が触れそうなほど。
「……どういうことですか? なぜ、エマとシリウスが……混浴を?」
低い声。抑えられているが、怒りは確かにそこにあった。理性で押さえ込まなければ、今にも噴き出しそうなそれが、圧となってエマを包む。
「さっきも言ったけど、僕は関係ないよ。エマのほうから来た。勝手に。だから僕を責めるのは筋違いだ」
乾いた声でシリウスが言う。まるで事実を並べているだけのようで、その無責任さがエマの胸をざらつかせる。
「後はエマに聞いて。僕は忙しい」
シリウスは白衣の前を整え、踵を返す。
その背中に、抑えきれなかったセジュムの荒げた声が叩きつけられた。
「関係ないわけがない! シリウス! エマはアイコとは違う! もう……諦めてくれ!」
脱衣所に反響する叫び。感情を顕にするセジュムにエマは息を呑んだ。諦めるとはどういう意味なのか。理解が追いつかない。
シリウスは足を止め、ゆっくりと振り返った。セジュムを見るその目には、敵意はなかった。むしろ穏やかで、どこか憐れむようですらある。
「エマは、きっと僕に賛同してくれる」
それだけ言うと、今度こそ振り返らずに去っていった。扉が閉まり、足音が完全に消える。
残された空間に、重たい沈黙が落ちる。エマはタオルを胸元で押さえたまま、視線を床に落とした。
「……どうして、ここにいるの?」
「エマと、話がしたくて……」
その言葉に、胸の奥で何かがぬらりと動いた。優しい声音が、今はどこか粘ついて聞こえる。すでに彼に対し拒絶反応が現れている。
「着替えたいから、外に出てくれる?」
一瞬の間。その背後から、抑えた声が落ちてくる。
「……しつこくして、本当にすみません」
セジュムの声は、僅かに震えていた。
「ですが……エマは私を受け入れてくれた。そう思っていました。急に避けられて……納得できません」
必死に言葉を選びながら、それでも感情が滲む。
「理由を教えてください。不誠実です」
その一言が、胸に刺さった。
「……確かに、不誠実だったかも」
エマはゆっくりと息を整えた。一緒に添い寝した日。先に目を覚ましていたこと。セジュムが、首に手を掛け、低く囁いた言葉。
「……『こんなに簡単だ』って、言った」
思い出すだけで、背筋が冷える。
「知らないセジュムを見た気がして……怖くなった」
言葉を吐き出した瞬間、肩の力が抜けた。セジュムの肩が小さく揺れる。
「……怖い思いをさせて、申し訳ありませんでした」
深く、低く。
「『不誠実』なのは、私の方です」
言葉が落ちる。彼は背を向けた。
「エマ」
扉に向かいながら、足を止める。
「その格好だと……私も、落ち着いて話せません。着替えて、髪を乾かしたら、資料室まで来ていただけませんか? すべて、話します」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。残されたエマは、しばらく動けなかった。タオル越しに伝わる自分の鼓動が、やけに大きく、脱衣所に響いている気がした。