その日もエマは、吸い寄せられるように風見台へと向かっていた。セジュムが「お気に入りの場所」と口にしていたその理由が、今なら痛いほど理解できる。
黄金の光が揺蕩うあの場所は、バファマという世界のなかにありながら、どこか異質な、境界線上の静寂に包まれている。非現実的なまでの美しさに満ちたこの塔での暮らしも、長く居れば感覚は麻痺し、日常に埋没していく。けれど風見台だけは、いつまでも夢のなかに立ち止まっているような、心地よい浮遊感を与えてくれるのだ。今のエマには必要な場所だった。
「エマ」
階段へ足をかけようとした背後から、優雅で、それでいて芯の通った声が届く。振り返ると、ジェルドが穏やかな微笑をたたえてそこに立っていた。
そのまま彼に誘われるまま、エマは初めて5階の「遊戯室」に足を踏み入れた。
重厚な扉の先に広がっていたのは、外界の光を遮った、落ち着きのある大人の社交場だった。整然と並ぶダーツボード、滑らかなラシャが美しいビリヤード台、精緻な作りのテーブルサッカー。壁際のカウンターには、琥珀色の液体を湛えたワインボトルが静かに並んでいる。
他の公共スペースと比べても一段と照度が落とされたその空間は、まるで隠れ家のような親密な空気を纏っていた。
「こんなところがあったんだ!」
「……やったことはあるか?」
「少しはね。なんだ、もっと早く教えてよ」
エマは好奇心に目を輝かせ、ダーツを一本手に取ると、的に向かって投げる予行演習をして見せた。その無邪気な姿を慈しむように眺めていたジェルドだったが、ふと、その眉間に真剣な陰が落ちる。
「エマ。君の痛みは、できるなら風景の外にあってほしい。それでも心が揺れて、安らぎが遠のくなら……俺の腕で抱き、温度で語り、静けさが戻るまで側にいよう」
唐突なジェルドの言葉にエマは驚いてダーツを指先から滑り落とした。床に落ちた金属音が、静かな室内でやけに高く響く。
「な、何……?」
問いかけるエマに、ジェルドは迷いのない足取りで一歩詰め寄った。反射的に彼を見上げると、鼻腔をくすぐる甘く洗練された香に脳が揺れる。人間離れした造形美を誇る彼の顔に、星を溶かしたような眩い微笑が浮かんだ。
「俺の気持ちだ」
「うん……ありがとう」
エマが気圧されて礼を述べると、ジェルドはその透き通った青い瞳で、エマの視線を逃さぬようじっと射抜いた。あまりの熱量に耐えきれず、エマはどぎまぎしながら肩を窄めて視線を泳がせる。
「な、何……?」
「……『何』、ではないだろう。エマの気持ちを聞かせてくれ」
エマの小さな手を包み込むジェルドの掌に、ぐっと力がこもる。その瞳に灯った輝きが、切実な期待によるものだと気づき、エマの思考は一気に加速した。
もしかすると。先程のジェルドポエムは告白なのでは……。しかし、なぜここで……。
エマが固まっていると、ジェルドは抗う隙も与えずエマを引き寄せ、その広い胸の中へと力強く抱き込んだ。エマの心臓が、耳のすぐ傍で騒がしく跳ねる。
「んっ……」
「……『ありがとう』が、その返事だと思っていいんだな?」
ジェルドの熱を孕んだ声が、艶やかに耳元へ滑り込む。唇が触れそうなほどの距離感。背筋を駆け抜ける未知の電流に、エマは半ばパニックになりながら必死に抵抗を試みた。
「待って、待って!」
「……ん?」
ジェルドが怪訝そうに腕を緩めると、エマは二、三度深く息を吐き出し、あろうことか彼の鍛え上げられた腹筋のあたりを両手でくすぐった。指先に伝わるのは、相変わらず整った、硬くしなやかな筋肉の質感だ。想定外の攻撃に、ジェルドは声にならない悲鳴を上げてエマの手を掴んだ。
「……ッ、エマ!」
「どうしたの、急に」
エマが本気で困惑した顔で見上げると、今度はジェルドの方が目を丸くして固まった。
「……急では、ないはずだが」
「急だよ……」
顔を赤らめて俯くエマを見て、ジェルドは観念したように小さく溜息をついた。
「……急か。そうか」
彼は苦笑いを浮かべながらエマの手を優しく引き、深紅のベルベットが張られた大きなソファへと彼女を促した。自分もその隣に腰を下ろすと、少しの間を置いてから静かに語り始めた。
「……実はレオとセジュムの三人で酒を飲んだ」
ジェルドが語ったのは、あの冷静沈着なセジュムが見る影もなく酔い潰れ、エマとの関係に絶望して見苦しいほどに醜態を晒していたという日のことだった。その光景を想像し、エマの胸がちりりと痛む。
「意識を失う寸前、セジュムがレオに囁いたんだ」
『エマを……守ってあげてください』と。
セジュムを寝かせた後、レオールは複雑な面持ちでその言葉をジェルドに明かした。レオール自身、かつて最愛の女神・ヒメカを別の神の子に奪われたという消えない傷を負っている。奪われる痛みを知る彼だからこそ、友であるセジュムが愛した女を、横から奪い去ることなど到底できなかった。だからこそ、レオールはジェルドにその役目を託したのだという。
「……俺ではなくレオールに託すだなんて。以前、二人の時間を邪魔したことをまだ根に持っているんだろうな、セジュムは。まったく、セジュムらしい」
ジェルドがどこか呆れたように、けれど懐かしげに笑う。しかし、ふと隣に視線を戻した彼は、言葉を失った。エマが、堰を切ったように大粒の涙を流していたからだ。
「エマ!」
ジェルドが狼狽えながら、その温かな指先で溢れる雫を拭う。
「……ごめ……ごめん……」
「謝らなくていい。一体、どうしたんだ」
エマは自分の涙を乱暴に拭い、しゃくり上げながら、胸に溜まっていた本音をジェルドにぶつけた。
「ジェルドも、レオールも、ほんと好き。すごい好き。大好き」
「うん」
「でも、私、セジュムがいい……」
『裏切りだ』
冷たく言い放たれたあの言葉が、呪いのようにエマの心を縛り続けていた。恐怖と嫌悪に呑み込まれた自分に対し、それでもセジュムは何度も対話を求め、手を差し伸べてくれていたのだ。彼の献身を軽んじ、あろうことか天敵であるシリウスの元へ独断で向かってしまった自分を、エマは激しく悔いていた。もう二度と、あの優しい微笑みを向けてもらえることはない。そう絶望していた。
だというのに、彼は泥酔してなお、自分の安否を案じていた。
「……そうか」
ジェルドの声は、凪いだ海のようだった。彼は静かに立ち上がる。
「ショックではあるが、どこかでこうなる予感もしていた。先ほど君が向かおうとしていた風見台……あそこは、セジュムの居場所だ。君の心がどこに繋ぎ止められているか、本当は気づいていた」
彼はエマの頭を優しく、慈しむように撫でると、音もなく扉へと歩き出した。エマも慌ててその背を追おうとしたが、ジェルドはそれを掌で制した。
「エマ。ここで、少しの間だけ待っていてくれ」
清冽な微笑みを残し、ジェルドは一人、遊戯室を後にした。