黎明の女神   作:浮月 愁

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黎明の女神 40話 チェックメイト1

バファマの塔の1階にある談話室は、落ち着きのある静寂と温もりに満ちていた。

高い天井には星座を模したようなシャンデリアが浮き、使い込まれた深紅の革張りソファや、厚手のペルシャ絨毯が室内に重厚な趣を与えていた。

琥珀色の灯りが落ちる円卓を挟んで、レオールとシリウスがチェスボードを囲んで対峙していた。

 

「待て、待て……おい、怖いって!」

「キング、守る気あるの?」

 

宣告も、慈悲もなかった。シリウスの細い指先が、象牙色の駒を冷徹に滑らせた瞬間、レオールは短い悲鳴を上げてソファに沈み込み、天井を仰いだ。鮮やかなチェックメイトだった。

 

セジュムがその扉を潜り、二人の視界に入ったのはその直後だった。

彼は無言のまま、使い古された木製のスツールへ腰を下ろす。レオールとシリウスも彼の存在に気づいたが、いつもその傍らに寄り添っているはずのエマの姿がない。

 

「おぉ。エマはどうした?」

「……私の部屋で休んでいます」

 

シリウスがちっと舌打ちをし、頬杖をついてセジュムを睨みつけた。

 

「セジュムのせいで、僕の実験がちっとも進まない。おかげでこの『盤面音痴』に付き合わされる羽目になった。どうしてくれるの?」

「あぁん!? まだ本気出してねえだけだよ!」

 

レオールの吠え声を無視し、セジュムの眼光がシリウスを射抜いた。

 

「……言ったはずです。実験はもう諦めてくださいと」

「エマが暇を持て余してるなら、僕に貸してよ」

 

会話の通じない相手に、セジュムは深く溜息をつき、指先で眉間を押さえた。レオールはセジュムの顔色があまりに優れないことに気づき、ソファに深く座り直して表情を改める。

 

「元気ねえな。……なんかあったんだろ?」

 

待っていた問いかけに、セジュムは縋るように身体をレオールの方へ向け、事の詳細を話した。

エマに「役割を終えた黎明の女神は元の世界に戻る」という話をしてから彼女の様子が明らかにおかしく、心がどこか遠い場所へ行ってしまったようだと。

 

「心ここにあらずで……何を考えているのか、読み取れないのです」

「……まあ、ショックなのはわかるけど、それがバファマだしな」

 

レオールはソファの上で胡座をかくと、唸るように言葉を漏らした。

 

「私たちにとっては抗えぬ常識であり、覚悟もとうに出来ていたのですが……」

「エマのいた世界は、夫婦で何十年も添い遂げるんだろ? そっちの方がオレには想像もつかねえよ」

 

突如、カチャリと音が鳴り、談話室に新たな来訪者が現れた。ジェルドが重厚な木扉から顔を覗かせた。男たちが盤を囲んで沈み込んでいるのを見て、彼はぱっと顔を輝かせる。

 

「チェスをしているのか。混ぜてくれ」

「それどころじゃねえんだよ。ジェルド、お前はどう思う?」

 

いそいそとスツールを運ぶジェルドに、レオールがざっくばらんに事情を説明した。事の次第を聞いたジェルドは、エマの元気がないということのみ理解したようだ。ジェルドは優雅にセジュムの肩に手を置き、自身の胸に手を添える。

 

「セジュム、俺に任せろ。エマが今、暗闇の中で孤独に震えているのなら、この俺がその心に光を灯す」

 

一点の曇りもない、純粋な瞳。優雅に部屋を出ようとするジェルドを、セジュムは噛みつきそうな勢いで立ち上がり、烈火の如き口調で制した。

 

「……待ちなさい! 貴方で解決できるなら、とっくに私がやっている!」

 

良かれと思った行動を制され、ジェルドは身を竦める。一触即発の空気が流れる中、シリウスが小さく笑って腰を上げた。

 

「仕方ないな。僕が行ってあげよう」

 

まさかの名乗り。レオールは口をあんぐりと開け、「やめとけ、やめとけ」と力なく手を振る。だがシリウスは意に介さず、セジュムとジェルドの間に割って入った。すぐさま、セジュムの掌がシリウスの細い手首を強く掴む。

 

「シリウス。貴方をエマと二人きりにさせるわけがないでしょう」

「セジュム。君が本当にエマのことを考えているのなら、この手を離した方がいいと思うけど?」

 

射抜くような言葉に、セジュムは鋭く目を細める。

 

「……どういう意味ですか」

 

シリウスは嘲笑を消し、一歩踏み込んでセジュムを下から見上げた。

 

「ヒヒ。……1時間だ。1時間僕に預ければ、エマの機嫌を直して、君たちが過ごしていた『今までの時間』を返してあげるよ。どうする?」

 

『今までの時間』――その甘美な誘惑に、セジュムの心が激しく揺さぶられた。今の彼が喉から手が出るほど求めている、かけがえのない安らぎ。

 

セジュムはシリウスという男の性質を熟知していた。冷酷で皮肉屋だが、その知性は確かであり、相談すれば時として芯を食った助言をくれる。エマを巡っては不倶戴天の敵ではあるが、神の子としては極めて賢く、信頼の置ける男でもあったのだ。

だが同時に、彼は目的のためなら平然と裏切る男でもある。エマの身に、自身の理解を超えた危険が及ぶことだけは死んでも避けたい。

 

「……私も、同席します」

「盲目だね。君が居たら、彼女は本当の心の内なんて話さない。……そこまで疑うなら止めとくよ。僕だって君たちの痴話喧嘩の仲裁なんて、本来はどうでもいいんだ」

 

シリウスがその手を冷たく払い、白衣の襟を整えた。掴みかけた藁が指先から滑り落ちていく。目の端では、ジェルドが次は自分の出番だと微笑を浮かべ、レオールが渋い顔で成り行きを見守っている。

このままでは、何も解決しない。泥沼に沈んでいく自分たちの関係を、これ以上見てはいられなかった。

セジュムは、己のプライドをかなぐり捨てる決断を下すと、背を向けかけたシリウスの手を、もう一度強く掴み直した。

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