バファマの塔の1階にある談話室は、落ち着きのある静寂と温もりに満ちていた。
高い天井には星座を模したようなシャンデリアが浮き、使い込まれた深紅の革張りソファや、厚手のペルシャ絨毯が室内に重厚な趣を与えていた。
琥珀色の灯りが落ちる円卓を挟んで、レオールとシリウスがチェスボードを囲んで対峙していた。
「待て、待て……おい、怖いって!」
「キング、守る気あるの?」
宣告も、慈悲もなかった。シリウスの細い指先が、象牙色の駒を冷徹に滑らせた瞬間、レオールは短い悲鳴を上げてソファに沈み込み、天井を仰いだ。鮮やかなチェックメイトだった。
セジュムがその扉を潜り、二人の視界に入ったのはその直後だった。
彼は無言のまま、使い古された木製のスツールへ腰を下ろす。レオールとシリウスも彼の存在に気づいたが、いつもその傍らに寄り添っているはずのエマの姿がない。
「おぉ。エマはどうした?」
「……私の部屋で休んでいます」
シリウスがちっと舌打ちをし、頬杖をついてセジュムを睨みつけた。
「セジュムのせいで、僕の実験がちっとも進まない。おかげでこの『盤面音痴』に付き合わされる羽目になった。どうしてくれるの?」
「あぁん!? まだ本気出してねえだけだよ!」
レオールの吠え声を無視し、セジュムの眼光がシリウスを射抜いた。
「……言ったはずです。実験はもう諦めてくださいと」
「エマが暇を持て余してるなら、僕に貸してよ」
会話の通じない相手に、セジュムは深く溜息をつき、指先で眉間を押さえた。レオールはセジュムの顔色があまりに優れないことに気づき、ソファに深く座り直して表情を改める。
「元気ねえな。……なんかあったんだろ?」
待っていた問いかけに、セジュムは縋るように身体をレオールの方へ向け、事の詳細を話した。
エマに「役割を終えた黎明の女神は元の世界に戻る」という話をしてから彼女の様子が明らかにおかしく、心がどこか遠い場所へ行ってしまったようだと。
「心ここにあらずで……何を考えているのか、読み取れないのです」
「……まあ、ショックなのはわかるけど、それがバファマだしな」
レオールはソファの上で胡座をかくと、唸るように言葉を漏らした。
「私たちにとっては抗えぬ常識であり、覚悟もとうに出来ていたのですが……」
「エマのいた世界は、夫婦で何十年も添い遂げるんだろ? そっちの方がオレには想像もつかねえよ」
突如、カチャリと音が鳴り、談話室に新たな来訪者が現れた。ジェルドが重厚な木扉から顔を覗かせた。男たちが盤を囲んで沈み込んでいるのを見て、彼はぱっと顔を輝かせる。
「チェスをしているのか。混ぜてくれ」
「それどころじゃねえんだよ。ジェルド、お前はどう思う?」
いそいそとスツールを運ぶジェルドに、レオールがざっくばらんに事情を説明した。事の次第を聞いたジェルドは、エマの元気がないということのみ理解したようだ。ジェルドは優雅にセジュムの肩に手を置き、自身の胸に手を添える。
「セジュム、俺に任せろ。エマが今、暗闇の中で孤独に震えているのなら、この俺がその心に光を灯す」
一点の曇りもない、純粋な瞳。優雅に部屋を出ようとするジェルドを、セジュムは噛みつきそうな勢いで立ち上がり、烈火の如き口調で制した。
「……待ちなさい! 貴方で解決できるなら、とっくに私がやっている!」
良かれと思った行動を制され、ジェルドは身を竦める。一触即発の空気が流れる中、シリウスが小さく笑って腰を上げた。
「仕方ないな。僕が行ってあげよう」
まさかの名乗り。レオールは口をあんぐりと開け、「やめとけ、やめとけ」と力なく手を振る。だがシリウスは意に介さず、セジュムとジェルドの間に割って入った。すぐさま、セジュムの掌がシリウスの細い手首を強く掴む。
「シリウス。貴方をエマと二人きりにさせるわけがないでしょう」
「セジュム。君が本当にエマのことを考えているのなら、この手を離した方がいいと思うけど?」
射抜くような言葉に、セジュムは鋭く目を細める。
「……どういう意味ですか」
シリウスは嘲笑を消し、一歩踏み込んでセジュムを下から見上げた。
「ヒヒ。……1時間だ。1時間僕に預ければ、エマの機嫌を直して、君たちが過ごしていた『今までの時間』を返してあげるよ。どうする?」
『今までの時間』――その甘美な誘惑に、セジュムの心が激しく揺さぶられた。今の彼が喉から手が出るほど求めている、かけがえのない安らぎ。
セジュムはシリウスという男の性質を熟知していた。冷酷で皮肉屋だが、その知性は確かであり、相談すれば時として芯を食った助言をくれる。エマを巡っては不倶戴天の敵ではあるが、神の子としては極めて賢く、信頼の置ける男でもあったのだ。
だが同時に、彼は目的のためなら平然と裏切る男でもある。エマの身に、自身の理解を超えた危険が及ぶことだけは死んでも避けたい。
「……私も、同席します」
「盲目だね。君が居たら、彼女は本当の心の内なんて話さない。……そこまで疑うなら止めとくよ。僕だって君たちの痴話喧嘩の仲裁なんて、本来はどうでもいいんだ」
シリウスがその手を冷たく払い、白衣の襟を整えた。掴みかけた藁が指先から滑り落ちていく。目の端では、ジェルドが次は自分の出番だと微笑を浮かべ、レオールが渋い顔で成り行きを見守っている。
このままでは、何も解決しない。泥沼に沈んでいく自分たちの関係を、これ以上見てはいられなかった。
セジュムは、己のプライドをかなぐり捨てる決断を下すと、背を向けかけたシリウスの手を、もう一度強く掴み直した。